白い旋律、青き密約~ふたりだけの放課後レッスン~
演技がロボット以下と罵られたオーディション通過直後のヒロイン。冷酷なイケメン俳優が、密室で彼女に教える「恋」のレッスン。それは、愛を知らない少女が、恋を知り、女になっていく、危険な放課後の秘密。
スタジオ・ゼノンの冷たい廊下で、シラハマ・マシロはアオヤギ・レンと出会う。彼は事務所から「恋人役専属契約」を結ばされた、鎖付きの王子様。恋愛禁止の契約を抱えながら、彼女の演技に欠けた「感情」を教えるためにやってきた。
「逃げたら、お前の役は、俺が降ろす」
そう告げた冷たい瞳の奥に、彼は何を隠しているのか。母のスパルタ教育に縛られ、友達も恋も知らないまま育った少女が、初めて触れる「心」の熱。棒読みロボットだった彼女が、彼との二人だけのレッスンで、少しずつ変わっていく。
これは、完璧な体を持つ少女と、完璧な演技を持つ青年が、ふたりだけの放課後に紡ぐ、白い旋律と青き密約の物語。
白い旋律、青き密約~ふたりだけの放課後レッスン~ - 恋愛レッスン、始まります
スタジオ・ゼノンの廊下は、今日も冷えきっていた。
冷房が効きすぎているわけじゃない。空気そのものが、遠くの誰かの気配を吸い込んで、ただ静かに澄んでいる。
シラハマ・マシロは、昨日と同じ道を歩きながら、昨日とは違う震えを感じていた。
(怖い人——)
頭の中で、アオヤギ・レンの冷たい目がちらつく。
『逃げたら役を降ろす』
あの言葉が、体の中に小さな氷の粒となって残っているみたいだった。
(でも、行かなきゃ)
拳をぎゅっと握る。
お母さんに、なんて言えばいいんだろう。
監督にロボットって言われたなんて、口が裂けても言えない。
3200人のオーディションを勝ち抜いたのに、まだ何も始まっていないのに。
(負けたくない)
Bスタジオの前に着く前に、マシロは呼び止められた。
「シラハマ・マシロさん。ちょっと、よろしいですか」
振り返る。
そこに立っていたのは、後ろで一つにまとめた黒髪の、きっちりとしたスーツの女性だった。
眉の上で切り揃えられた前髪。切れ長の目。首にはストップウォッチ、耳にはインカム。
手には、色分けされたクリアファイルがぎっしり詰まったスケジュール帳。
几帳面、という言葉をそのまま人間にしたような人だ。
「……あ、はい」
コジマ・ナツキ——先週、事務所からマシロの担当マネージャーに任命された人だ。
まだちゃんと話したことはなかった。
「こちらへ」
コジマは、マシロを小さな控え室に連れて行った。
窓のない、四畳半ほどの部屋。壁には古い映画のポスターが貼ってある。
コジマはテーブルにスケジュール帳を置き、マシロに椅子を勧めた。
「単刀直入に言います。今日から、あなたには事務所の規則を徹底していただきます」
コジマの声は、教科書を読んでいるみたいに平坦だった。
でも、目だけが妙に真剣で、マシロは背筋を伸ばした。
「ステラプロモーションには、パーソナルコンダクト条項というものがあります。ご存じですね」
マシロは、小さくうなずいた。
聞いたことはある。所属タレントの行動を管理する、事務所のルールだ。
「異性との二人きりでの外出。二人きりでの食事。これらは全て、事前申告制です」
コジマは、ファイルから一枚の紙を取り出した。
細かい文字がびっしりと並んでいる。
「無断で行った場合、始末書。悪質な場合は、3ヶ月の活動自粛。そして——」
コジマの指が、紙の一番下をなぞる。
「契約解除、です」
マシロの喉が、ごくりと鳴った。
「……はい」
声が小さくなる。
(そんなに厳しいんだ)
コジマは、じっとマシロを見つめていた。
その目は、ただ冷たいだけじゃない。
もっと複雑な、濁った色がある。
「あなたは、まだ若い。そして、ものすごい才能がある」
コジマの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「だからこそ、つまらないスキャンダルで未来を潰してほしくないんです」
——違った。
これは冷たさじゃない。
コジマは、自分の手帳をぎゅっと握りしめていた。
指の関節が白くなっている。
(この人、怖がってるんだ)
何かを失うことを、すごく怖がっている。
「……今から5年前です」
コジマは、窓のない壁を見つめながら言った。
「私が初めて担当したのは、16歳の女優でした。あなたと同じ、特撮番組のヒロイン役に決まった子です。歌もダンスも、何でもできた。でも——」
コジマは、一度だけまばたきをした。
「撮影が終わる前に、週刊誌に撮られたんです。共演者との、ただの食事でした。でも記事は『禁断の密会』と書いた。その子は、すべての仕事を降ろされました。事務所を辞める時、私に言ったんです。『どうして守ってくれなかったんですか』って」
部屋が、しんと静まり返った。
マシロは、何も言えなかった。
自分の二の腕を、無意識にぎゅっと掴む。
「……すみません、変な話をしました」
コジマは、パチンとファイルを閉じた。
顔にはもう、さっきまでの影はない。
「ルールを守ってください。あなたのためです」
「……はい」
コジマは立ち上がり、ドアに向かう。
でも、出ていく直前に、一度だけ振り返った。
「……今日のレッスン、頑張って」
その声は、さっきよりずっと小さくて、そして——少しだけ、悲しそうだった。
沈黙が、マシロの胸に重くのしかかる。
ルール。スキャンダル。契約解除。
自分はまだ、何も始めていないのに。
もう、こんなにたくさんの鎖で縛られているみたいだ。
(でも、あの人もきっと)
コジマは、今でもまだ、5年前の少女を守れなかった自分のことを、許せていないんだろう。
だから、こんなに必死なんだ。
マシロは、ぎゅっと自分の腕を掴んだまま、小さく息を吐いた。
午後。
Bスタジオの空気は、朝よりもさらに重かった。
スタジオには、長机も椅子も、もうない。
代わりにあるのは、壁一面の鏡と、冷たい床だけ。
アオヤギ・レンは、部屋の真ん中に立っていた。
やや長めの黒髪を、今日はきっちりと後ろに流している。
白いシャツの袖をまくり、腕を組んで、マシロを待っていた。
「来たか」
マシロが部屋に入ると、レンは視線だけを動かした。
「……はい。よろしくお願いします」
「挨拶はいい。始めるぞ。台本、見るな」
「えっ」
「台本なんて読んでも、お前の演技は変わらん。今日は、感情の練習だけする。俺が言う言葉を、声に出して繰り返せ。いいな」
レンは、少しも笑わない。
冗談を言っている様子は、まったくない。
「まず、『嬉しい』。妹から、ずっと欲しかったプレゼントをもらった時の気持ちだ」
マシロは、頭の中で必死に想像した。
プレゼント。ほしいもの。
幼い頃、母が買ってくれたアクションシューズ——あれは、嬉しかったのだろうか。
「……嬉しい」
声が、フラットに響く。
鏡の中で、自分の顔が見えた。
無表情。
レンは、ため息もつかない。
「次。『悲しい』。大事にしていたものを、失った時だ」
(大事なもの——)
頭に浮かんだのは、家の部屋に溢れるぬいぐるみたちだった。
特に、白いウサギの「ゆきみ」。
彼女をもし、捨てなければいけなくなったら。
「……悲しい」
やっぱり、同じだった。
言葉は、ただ空気を震わせるだけで、どこにも届かない。
レンのこめかみが、ほんの少しだけ動いた。
「……『大好き』」
マシロは、口を開いた。
でも、声が出なかった。
——大好き。
言ったことがない。
お母さんにも。
ぬいぐるみにも。
誰にも、一度も。
「……だ、いすき」
絞り出した声は、枯れた葉っぱが地面を擦るみたいな、かさかさした音だった。
レンは、数秒間、じっとマシロを見下ろしていた。
「違うな」
低い声が、鏡に反射する。
「お前は今、感情を『再現』しようとしてる。頭の中で、『悲しい顔』『嬉しい声』を、必死に組み立ててる。違うか」
マシロの心臓が、ぎゅうっと縮む。
図星だった。
「感情は、頭で考えるものじゃない。体から出るものだ。お前の中には、何も入っていないのに、出るわけがない」
——何も、入っていない。
その言葉が、冷たいナイフみたいに、胸の奥にすっと入ってきた。
痛い、と思うより先に。
目の奥が、ぐらぐらと揺れ始めた。
「……考えないと、私、何も出てこないんです」
声が震えた。
自分でも、びっくりするくらい。
「友達と遊んだこともない。誰かと笑った記憶もない。お母さんのレッスンだけが、私の全部で——」
涙が、ぽたぽたと床に落ちる。
鏡に映る自分が、ぐしゃぐしゃに歪んで見えた。
(やめて、泣いちゃダメだ)
こんなところで泣いても、何にもならない。
ただ、迷惑なだけだ。
でも、涙は止まらなかった。
レンは、何も言わない。
マシロの嗚咽だけが、防音のスタジオに吸い込まれていく。
「……わかった。休憩だ」
レンは、それだけ言うと、さっと目を逸らした。
まるで、泣いているマシロを見るのが、少しだけ怖いみたいに。
スタジオを出て行く背中は、いつも通りまっすぐだった。
マシロは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
涙の跡が、冷房の風で冷たくなっていく。
(私、どうして泣いたんだろう)
悲しかったから?
悔しかったから?
——わからない。
自分の気持ちなのに、名前がつけられない。
それこそが、マシロの一番こわいところだった。
スタジオ・ゼノンの2階。自販機コーナーは、ひっそりと静まり返っていた。
蛍光灯の白い光が、磨きこまれたリノリウムの床を照らしている。
マシロは、缶コーヒーのボタンの前で立ち止まった。
(あったかいのが飲みたい)
小銭入れを取り出す。
チャリチャリ、という軽い音。
でも、120円がない。
10円玉が二枚と、1円玉が三枚——ぜんぜん足りない。
「……あ」
まごついていると、後ろから長い影が伸びてきた。
無言で、誰かの手が100円玉を投入口に入れる。
カチン、という小気味いい音。
「え——」
振り返ると、レンが壁にもたれて立っていた。
手には、もう一本の缶コーヒー。ブラック。
「……早く押せ」
「あ、ありがとうございます」
マシロは慌ててボタンを押した。
ガコン、と缶が落ちてくる。
手に取ると、じんわりと温かかった。
沈黙が、自販機の低い駆動音だけになる。
レンは壁にもたれたまま、缶コーヒーを一口飲んだ。
マシロも、缶を両手で包み込む。
その熱さが、心細さを少しだけ溶かしてくれる気がした。
「……お前は、今まで誰かを好きになったことがあるのか?」
レンが、壁を見つめたまま、静かに言った。
その声は、さっきの指導の時よりも、ずっと静かだった。
怒っているわけでも、あきれているわけでもない。
ただ、本当に知りたいだけみたいな、そんな響き。
マシロは、凍りついた。
——好きになったことがあるか。
手の中の缶が、ぐらりと揺れる。
「……私」
声がうまく出ない。
喉の奥で、言葉がぜんぶ引っかかっているみたいだ。
「……友達と、遊んだ記憶もないんです。お母さんのレッスンだけで。ずっと、そうで」
息を吸う。
でも、空気が肺に入っていかない。
「好きって、何かもわからないのに。どうやって、演技すればいいのか——」
まただ。
目の奥が熱くなってくる。
レンは、何も言わなかった。
ただ、缶コーヒーをもう一口飲んだだけ。
長い沈黙の後、レンは壁から背中を離した。
「わかった」
それだけ言うと、空き缶をゴミ箱に捨てて、スタジオに戻っていった。
マシロは、その場に残されたまま、缶を握りしめていた。
(今の質問は、なんだったんだろう)
わからない。
ただ、レンの声が、さっきよりも少しだけ近くに感じられた。
それが、なぜだか無性に、こわかった。
Bスタジオに戻ると、レンはすでに部屋の真ん中に立っていた。
その足元には、さっきまで机の上にあった台本が、無造作に置かれている。
「……あの、台本は」
「もう必要ない。明日から、場所を変える」
レンは、腕組みを解いて、マシロのほうに真っ直ぐ近づいてきた。
182センチの長身が見下ろしてくる。
マシロは、思わず一歩あとずさった。
「実践的なレッスンをする。これまでのような、頭で考える練習じゃない」
「……じつ、せんてき、ですか?」
マシロの声が、ひっくり返る。
レンは、じっとマシロの目を見つめた。
涼しげな一重の黒目が、スタジオの照明を反射して、小さく光る。
「俺が、お前の恋人役を演じる」
——え?
心臓が、ドッと大きな音を立てた。
「デートをして、手を繋いで、本物の恋人同士がすることを、全部やる。そうすれば——お前の体に、『好き』が染み込む」
マシロの顔が、一気に熱くなった。
耳の先まで、火がついたみたいに熱い。
「そ、そんなこと……!」
私にできるわけ——
そう言おうとした。
でも、レンの冷たい声が、それを許さなかった。
「できないなら、役を降りるんだな。お前の代わりは、いくらでもいる」
——まただ。
降りる。
その言葉が、マシロの体を串刺しにする。
3200人のオーディション。母の期待。
監督がくれた、たった一つのチャンス。
全部、消える。
唇を噛んだ。
歯が、皮膚を破って、ほんの少し血の味がした。
「……やります」
震える声で、マシロは言った。
「私、やりますから。絶対に、役を降りたくない」
レンは、一瞬だけ、口元を緩めた。
それは、笑顔と呼べるほど優しくはなかったけど。
さっきまでの冷たさとは、少しだけ違っていた。
「……なら、明日10時に、駅前の噴水広場に来い。遅刻は許さない」
レンはそれだけ言うと、床の台本を拾い上げて、スタジオを出ていった。
重い扉が、バタンと閉まる。
Bスタジオに、マシロが一人だけ残された。
(恋人役——)
レンがさっきまで立っていた場所を、マシロはただ見つめた。
心臓が、バクバクと激しく脈打っている。
怖い。
不安だ。
(でも——)
マシロは、自分の胸に手を当てた。
このドキドキは、恐怖だけじゃない。
緊張だけでもない。
今までに感じたことのない、名前のつけられない、熱いなにか。
(これが、もしかしたら——)
マシロは、はっとして首を振った。
まさか。
まだ、レッスンも始まっていないのに。
でも、胸の鼓動は、いつまでも治まらなかった。
窓の外で、夏の終わりの風が、残り少ない蝉の声を運んでいた。
スタジオ・ゼノンの屋上で、誰かの影が動く気配がしたけれど、マシロは気づかなかった。
この小さな鼓動が、いつか自分を丸ごと飲み込む嵐の始まりだってことは——まだ、知らなかった。Noveliaとは?
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