縫い目を引っ張る
現代の都市は、規模の異なる大学を中心に築かれている。巨人の女性たちは平均200~300フィート、小さな人々は6フィートほどだ。キャンパスは巨人優先——講堂はスタジアム並み、机は駐車場のような大きさ——で、小さな者たちの設備は後から無理やり付け足された。巨人は何を壊してもほとんど咎められず、小さな者の死は大抵、何としても記録されない。
ハルトは気弱な大学生で、巨人優先の大学を一日一日、慎重な通学で生き延びている。授業の課題でナミ——短気で消えた小さなパートナーが後を絶たない、気性の激しい250フィートの巨人女性——と組むことになったとき、彼は自分が取るに足らない存在になると思っていた。だが彼は彼女の二つの弱点を見つける。彼女は金が大好きで、本当に役に立つ人間には心を開くのだ。彼は小さな出費を負担し、品物を渡し、静かに彼女の生活を楽にしていく。そしてそれはうまくいった。彼女はどちらが予想したよりも早く、彼に心を許していく。
しかし親しくなるほど、彼は自分を気づかずに潰しかねない女性の死角で過ごす時間が増えていく。ナミに害をなす気はない。だが彼女のそばにいることは、安全でいることとは同じ
縫い目を引っ張る - 震える掌の檻、私のせいじゃない
管理棟の廊下は、小径人用の照明が少なく、昼でも薄暗い。ハルトは面談室の外にある待合ベンチに座り、自分の指先を見つめていた。骨ばった手。右の手のひらには、幼い頃にやけどをした古い痕が残っている。
(ペア解除、か)
ペアリンク運営委員会から言い渡されたのは、たった三十分前のことだ。ナミ・ヴァルガの管理能力に問題がある。パートナーの安全を確保できていない。よって、ハルトには新しい仮パートナーが割り当てられる——。
ナミは面談室の中で、まだ何かを叫んでいた。壁越しに、彼女の声が振動として伝わってくる。巨人の怒声は、小径人には地響きのようなものだ。
「ふざけんじゃないわよ! 私が何をしたって言うの!?」
ハルトは、自分の膝の上で両手をぎゅっと握った。
(ナミさんが、悪いわけじゃないのに)
そう思う。でも、それを口に出す力はなかった。委員会の決定は覆らない。小径人に拒否権はない。巨人たちの「管理」の下で、自分はただ受け入れるしかない。
廊下の向こうから、新しい足音が聞こえた。
ドン。ドン。ドン。
規則正しい、落ち着いた足音。ハルトは反射的に首をすくめた。巨人が近づいてくる。待合ベンチの下に隠れたくなるのを、必死にこらえる。
「ハルトさん、ですね」
声は、思ったより若く、明るかった。
ハルトは恐る恐る顔を上げた。
そこに立っていたのは、二百四十フィートほどの巨人族の女子学生だった。肩で切りそろえた銀色のボブカット。切れ長の青い瞳。口元には、いつも微笑んでいるような薄い笑みを浮かべている。服装は、この大学の巨人用制服をきっちりと着こなしていた。
「サーシャ・ヴォルクです。今日から、あなたの仮パートナーを務めさせていただきます」
彼女は、ハルトの目の前でしゃがみ込んだ。それでも、彼女の顔は、ハルトの頭上はるか高いところにある。
「よろしくお願いしますね。……ああ、そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ」
サーシャは、そう言って微笑んだ。
「私、小径人の方と組むのは、これで三人目ですから。慣れてます」
ハルトの背中を、冷たいものが走った。
(三人目)
その言葉の意味を、ハルトは知っていた。ペアリンクの噂話は、小径人の間では命に関わる情報として共有される。サーシャ・ヴォルク。過去にペアリング中、パートナーを二人、負傷させた。一人は片腕を失い、もう一人は今も意識が戻らない。彼女は訓戒処分を受けた。それでも、大学は彼女を仮パートナーとして再登録した。巨人に、ペアリングを拒否する権利はないからだ。
「気にしないでください。私、小径人の扱いには本当に慣れてるんです。前の二人の時も、最初はみんな緊張してましたけど、すぐに仲良くなれましたから」
ハルトの口の中が、乾いていく。
(この人は、何もわかってない)
(前の二人が、どうなったのか、わかってない)
サーシャの笑顔は、本当に、心の底から「大丈夫」と思っている顔だった。悪意は、かけらもない。だからこそ、ハルトは震えた。
「あ、あの……よろしくお願いします……」
ハルトは、声を絞り出した。
サーシャは、嬉しそうに頷いた。
「はい。明日から、一緒に課題を頑張りましょうね」
彼女は立ち上がり、去っていった。
ドン。ドン。ドン。
足音が遠ざかる。
ハルトは、ベンチの上で、しばらく動けなかった。
(ナミさん)
心の中で、その名前を呼んだ。
(僕はもう、あなたのパートナーじゃない)
胸の奥が、じわりと痛む。それは、肋骨の古傷とは違う、もっと深いところの痛みだった。
―――
数日後。
ハルトは、第7講義棟の小径人用座席に座っていた。
収容三千人の巨大な講義室。天井は、はるか彼方。巨人用の机は、小径人にとってはビルのような大きさだ。その最前列の端に、申し訳程度に設置された小径人用の座席が二十席だけ並んでいる。
ハルトは、その一番端の席で、ノートパソコンを開いていた。画面の文字は、巨人用の教科書を小径人用に縮小したものだ。文字が小さく、目を凝らさなければ読めない。
(サーシャさんは、後ろの巨人用席に座ってるはず)
仮パートナーとの課題作業。サーシャは「小径人用の座席の近くにいるから安心して」と言った。だが、巨人用の席から小径人用の座席までは、小径人の感覚では数百メートル離れている。何かあっても、彼女がすぐに助けに来られる距離ではない。
講義が始まった。
教授の声が、拡声器を通して講義室に響く。巨人の学生たちのノートを取る音、咳払い、ため息。そのすべてが、小径人のハルトには轟音のように感じられる。
ハルトは、小さな体を縮めて、ノートに文字を書き込んでいた。
(集中しなきゃ)
そう思うのに、頭の片隅から、ナミのことが離れない。
(ナミさんは、今、どこで何をしてるんだろう)
(もう、僕のパートナーじゃない)
(僕は、サーシャさんの……)
その時だった。
後方の巨人用席で、何かが動く気配がした。
ハルトは、振り返らなかった。小径人が巨人用席を見上げても、何も見えない。ただ、巨大な影が動くのを、視界の隅で感じるだけだ。
その影は、ハルトの真後ろに座っていた。
ナミ・ヴァルガだった。
彼女は、この講義を履修していた。ハルトは知らなかった。ナミも、前方の小径人用座席にハルトがいることに気づいていなかった。
講義が中盤に差し掛かった。
教授が、重要なポイントを板書し始めた。巨人の学生たちが、一斉にノートを取り出す。ナミも、自分の巨大なノートを開き、ペンを手に取った。
そして、彼女は、前の席の背もたれに置いていたノートを取ろうと、右腕を伸ばした。
その腕が、ハルトの座っていた小径人用の机を、横から弾き飛ばした。
——ドガァッ!!
ハルトの体が、机ごと吹き飛んだ。
視界が、ぐるぐると回る。何が起きたのか、一瞬、わからなかった。
背中から、床に叩きつけられた。
「——ッ!!」
肺の中の空気が、全部、押し出された。
肋骨に、激痛が走る。
(あ、あれ……)
古傷が、悲鳴を上げている。息が、できない。
ハルトは、床の上で、丸くなった。
周囲では、巨人の学生たちが、何事もなかったかのように講義を続けている。誰も、小径人用座席の端で、一人の小径人が吹き飛ばされたことなど、気づいていない。
いや、一人だけ、気づいた者がいた。
ナミだった。
彼女は、自分の腕が何かに当たった感触に、はっとした。
「……え?」
ナミは、自分の腕の下を見た。
そこには、ひっくり返った小径人用の机と、床に倒れている小さな影があった。
「ハ……ハルト……?」
ナミの顔から、血の気が引いた。
彼女は、立ち上がろうとした。
「ちょっと、どいて! そこ、私の……!」
ナミは、周囲の巨人学生たちを押しのけようとした。だが、巨人の学生たちは、ナミの突然の行動に、ざわざわと戸惑いの声を上げるだけだ。
ハルトは、床の上で、必死に息を吸おうとしていた。
(逃げなきゃ)
頭のどこかが、冷静にそう告げる。
巨人の足音が、近づいてくる。
ドン。ドン。ドン。
ハルトの目の前を、巨人の学生が歩く。その足が、床を踏みしめるたび、ハルトの体が、わずかに浮き上がる。
(踏まれる)
ハルトは、血の混じった唾を飲み込んだ。
(死ぬ)
ハルトは、低い姿勢のまま、這い始めた。
机の足の間を、くぐる。巨人用の机は、小径人にとっては、巨大な橋脚が並ぶ空間だ。ハルトは、その隙間を、必死に這って進んだ。
床は、冷たく、硬い。
肋骨が、動くたびに、軋む。
(痛い。痛い。痛い)
涙が、滲んだ。
でも、止まれない。
後ろから、巨人の足音が迫る。
ハルトは、柱の影に、転がり込んだ。
講義室の壁際にある、装飾用の柱。その陰は、小径人一人が隠れるには十分な広さだった。
ハルトは、柱に背中を預けて、座り込んだ。
呼吸が、荒い。
心臓が、耳の奥で、バクバクと鳴っている。
(はあ……はあ……)
ハルトは、自分の胸を押さえた。
肋骨のあたりが、熱い。
(折れたかも)
そう思った。
でも、それ以上に、ハルトの心を占めていたのは、別の感情だった。
(ナミさんが、あそこにいた)
(ナミさんが、僕を、吹き飛ばした)
(ナミさんは、僕のパートナーじゃない)
(だから、助けに来ない)
(助けに来られない)
(もう、僕は、ナミさんの……)
ハルトは、膝を抱えた。
「……なんで」
声が、震えた。
「なんで、こんなことに……」
柱の向こうでは、講義が続いている。教授の声、学生たちのざわめき、ノートを取る音。
そのすべてが、遠い世界の出来事のように感じられた。
―――
「大丈夫!?」
声がした。
ハルトが顔を上げると、サーシャが、講義室の通路を早足で近づいてくるところだった。
ドン。ドン。ドン。
彼女の足音が、ハルトの体に響く。
サーシャは、ハルトの前でしゃがみ込んだ。
「ごめんなさい! 私、課題に集中してて、全然気づかなくて……大丈夫? 怪我は?」
ハルトは、サーシャの顔を見上げた。
彼女の青い瞳には、心配そうな色が浮かんでいる。
(この人は、本当に、心配してくれてる)
(でも、その心配は、僕の命を救わない)
ハルトは、思った。
(ナミさんなら)
(ナミさんなら、すぐに拾ってくれた)
(ナミさんなら、僕がどこにいるか、ちゃんと見ててくれた)
その考えが、ハルトの頭から離れなかった。
怒りなのか、悲しみなのか、恋しさなのか。
自分でも、わからない感情が、喉の奥で、ぐっと詰まる。
「だ、大丈夫です……すみません……」
ハルトは、そう言うのが精一杯だった。
サーシャは、ほっとしたように微笑んだ。
「よかった。立てる? 保健室に行きましょう」
サーシャは、ハルトに手を差し伸べた。
その手は、ハルトの体よりも、はるかに大きい。
ハルトは、その手を見つめた。
(この手に、掴まったら)
(今度は、どこに連れて行かれるんだろう)
ハルトは、サーシャの手を取らずに、自力で立ち上がろうとした。
だが、肋骨の痛みで、体が思うように動かない。
「……っ」
ハルトは、壁に手をついて、ゆっくりと体を起こした。
サーシャは、心配そうにハルトを見守っている。
「無理しないで。私が運んであげるから」
サーシャは、そう言って、ハルトを掬い上げようとした。
その時だった。
「待ちなさい」
低い声が、講義室に響いた。
ハルトは、はっとして、声のした方を見た。
ナミが、立っていた。
二百五十フィートの巨人族。オレンジの髪が、逆立つように揺れている。琥珀色の瞳が、サーシャを、いや、サーシャの手の中にいるハルトを、まっすぐに見据えていた。
「あんた、その子、どうするつもり」
ナミの声は、静かだった。
静かすぎるほど、静かだった。
サーシャは、きょとんとした顔で、ナミを見上げた。
「ナミさん? どうしたんですか? 私、この子を保健室に……」
「その子は、私のパートナーよ」
ナミは、一歩、前に出た。
「あんたに、触らせない」
講義室の空気が、張り詰めた。
巨人の学生たちが、何事かと、ナミとサーシャの方を振り返る。
サーシャは、困ったように微笑んだ。
「でも、委員会から、私が仮パートナーを務めるようにって……」
「関係ないわ!」
ナミの声が、講義室に響き渡った。
「あんた、自分が何をしたか、わかってるの!? あの子が、あんたのせいで、机ごと吹き飛ばされたのよ!? なのに、なんで、あんたが、のうのうと、その子を運ぼうとしてるの!?」
ナミは、サーシャに詰め寄った。
サーシャは、一歩、後ずさった。
「ち、違います。私のせいじゃなくて、課題に集中してて……」
「それが、あんたの『慣れてる』ってやつ!? 前の二人も、そうやって、あんたの『集中』のせいで、死んだんじゃないの!?」
講義室が、ざわめいた。
サーシャの顔から、笑みが消えた。
「……ナミさん。それ、言い過ぎです。私は、ちゃんと、パートナーを管理してました。事故は、あくまで、不可抗力で……」
「不可抗力!? あんた、それで、二人も、人が死んでるのよ!?」
ハルトは、二人の巨人の言い争いを、ただ、聞いていた。
(ナミさんが、怒ってる)
(僕のために、怒ってる)
そのことが、ハルトの胸を、熱くした。
でも、同時に、怖かった。
(ナミさん、今、すごく怒ってる)
(あの人が、本気で怒ると、手が、出る)
ハルトは、ナミの手を見た。
彼女の指は、震えていた。
怒りで、震えている。
(やめて)
(やめて、ナミさん)
(お願いだから、落ち着いて)
ハルトは、声を出したかった。
でも、出せなかった。
―――
結局、サーシャは、ナミの剣幕に押されて、その場を離れた。
講義は、中断された。
巨人の学生たちが、遠巻きに、ナミとハルトのことを見ている。
ナミは、ハルトの前に、しゃがみ込んだ。
「……ハルト」
ナミの声は、さっきとは打って変わって、小さく、震えていた。
「ごめん。私、あんたが、あんなとこにいるなんて、知らなくて……」
ハルトは、ナミの顔を見上げた。
琥珀色の瞳が、涙で濡れている。
(ナミさんが、泣いてる)
「私、あんたを、また、傷つけた」
ナミは、ハルトに手を伸ばした。
「お願い。掴まって。私が、保健室に連れて行くから」
ハルトは、ナミの手を見た。
震えている。
でも、ハルトは、その手を、拒否できなかった。
「……お願いします」
ハルトは、ナミの指に、自分の体を預けた。
ナミは、ハルトを、そっと掬い上げた。
その瞬間。
ナミの指に、力が入った。
「——っ!!」
肋骨に、激痛が走った。
ナミは、自分がハルトを握り締めていることに、気づいていなかった。
恐怖と罪悪感で、彼女の手は、無意識に、強く、強く、ハルトの体を締め付けていた。
「あんた、どこ行ってたのよ……」
ナミは、泣きながら、ハルトに言った。
「あんた、もう、私のパートナーじゃないんでしょ? なのに、なんで、あんなとこに……なんで、私の近くに……」
ナミの指が、ハルトの体を、さらに強く締め付ける。
「……な、ナミ、さん……」
ハルトは、声を絞り出した。
(息が、できない)
(肋骨が、折れる)
(このまま、死ぬ)
ハルトの視界が、白く、ぼやけていく。
ナミは、気づかない。
「私のせいじゃない……私のせいじゃない……あんたが、勝手に、あんなとこにいるから……」
ナミは、自分に言い聞かせるように、繰り返した。
「私のせいじゃない……私は、悪くない……あんたが、勝手に……」
ハルトの指先から、力が抜けていく。
腕が、だらりと、垂れた。
その時。
ナミの指が、ハルトの体から、力を失ったように、緩んだ。
ナミは、自分の手の中の、小さな体を見た。
ハルトは、ぐったりと、動かなくなっていた。
「……ハルト?」
ナミの声が、震えた。
「ハルト!? ハルト、起きて! ハルト!」
ナミは、ハルトを、そっと、自分の掌の上に寝かせた。
ハルトは、目を閉じていた。
顔は、青白く、唇は、紫色に変わっていた。
「いや……いや……ハルト……お願い……目を開けて……」
ナミの顔に、初めて、絶望の色が浮かんだ。
怒りでも、恐怖でもない。
初めて、誰かを、自分の手で失うかもしれないという、純粋な絶望。
「ハルト……ハルト……!」
ナミの叫びが、講義室に響き渡った。
―――
ハルトが目を覚ましたのは、小径人用保健室の、窮屈なベッドの上だった。
幅九十センチの、小さなベッド。白いシーツ。消毒液の匂い。
(ここは……)
ハルトは、ゆっくりと、目を開けた。
天井が見える。
小径人用の、低い天井。
(助かったのか)
ハルトは、自分の体を確認した。
肋骨には、新しい湿布が貼られていた。包帯が、胸から背中にかけて、きつく巻かれている。
「気がついた?」
声がした。
ハルトが顔を向けると、白衣を着た小径人の女性が立っていた。
「あ、エミリー先生……」
エミリー・ショウ。ミニチュア・タウンの診療所「ホワイト・クローバー」の医師で、大学の小径人用保健室にも週に数回、出張してきている。
「肋骨に、新しいひびが入ってる。前の傷も、まだ治ってないのに。安静にしてなさい。あと三日は、動いちゃダメ」
「……はい」
ハルトは、小さく頷いた。
エミリーは、ハルトの顔を覗き込んだ。
「それと……外に、ナミさんって巨人の学生がいるわ。ずっと、泣いてる。あなたのこと、運んできたのも、彼女よ」
ハルトは、何も言えなかった。
エミリーは、小さくため息をついた。
「あなたが、いつも、巨人のパートナーに傷つけられてくるの、知ってるわ。でも、今回は、本当に、危なかった。肋骨が、肺に刺さってもおかしくなかった」
「……すみません」
ハルトは、謝った。
「あなたが謝ることじゃないわ。……でも、少しは、自分の命を大切にしなさい」
エミリーは、そう言って、カーテンを閉めた。
ハルトは、一人になった。
静かだ。
でも、聞こえる。
廊下の向こうから。
「私のせいじゃない……」
ナミの声が、壁越しに、聞こえてくる。
「私のせいじゃない……私のせいじゃない……私のせいじゃない……」
彼女は、繰り返していた。
自分を、説得するように。
自分を、守るために。
ハルトは、天井を見上げた。
(ナミさん)
(あなたは、悪くない)
(悪くないけど、でも、僕は、あなたに、殺されかけた)
(それは、事実だ)
ハルトは、自分の胸に手を当てた。
湿布の下で、肋骨が、痛む。
(でも、それでも)
(僕は、あなたを、嫌いになれない)
ハルトは、唇を噛んだ。
「……大丈夫です」
ハルトは、声を振り絞った。
廊下の向こうに、届くように。
「大丈夫です、ナミさん……」
でも、その声は、自分でも、嘘だとわかっていた。
大丈夫なわけがない。
でも、そう言うしかなかった。
ナミが、廊下で泣いている。
その事実が、ハルトの胸に、熱い塊を作っていた。
―――
その夜。
ハルトのスマートフォンが、震えた。
妹のミナからだった。
『お兄ちゃん、ごめん。学費、あと3万ヴェル足りないの。今月いっぱいで、払わないと、退学になっちゃう』
ハルトは、画面を見つめた。
三万ヴェル。
小径人の平均月収の、およそ三分の一。
ハルトの貯金では、とても足りない。
(どうする)
(どうすればいい)
ハルトは、スマートフォンを握りしめた。
そして、返信を打った。
『大丈夫。なんとかする』
送信。
ハルトは、スマートフォンを置いて、天井を見上げた。
「……なんで、こんなことになってるんだろう」
呟きが、暗い部屋に、溶けていった。
(妹を、守らなきゃ)
(僕が、守らなきゃ)
(そのためには、お金がいる)
(もっと、危険な仕事を、しなきゃ)
ハルトは、スマートフォンを再び手に取った。
そして、ある求人サイトを開いた。
『巨人用落とし物探しバイト』
『巨人の寮の落とし物を、小径人サイズで捜索するお仕事です』
『一回5000ヴェル』
『死亡率0.3%』
ハルトは、その求人に、応募ボタンを押した。
指が、震えていた。
でも、押した。
(これで、妹の学費が、払える)
(死ぬかもしれないけど)
(でも、やるしかない)
ハルトは、自嘲気味に、笑った。
いや、笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
―――
翌日。
ハルトが保健室のベッドで休んでいると、廊下から、優雅な足音が聞こえてきた。
ドン。ドン。ドン。
でも、その足音は、他の巨人たちのものより、ずっと静かで、丁寧だった。
「ごめんください」
声がした。
カーテンが、そっと開かれる。
そこに立っていたのは、ロビンだった。
腰まで届く長い黒髪。穏やかな緑色の瞳。右手首の銀のブレスレットが、小さく光っている。
「ハルトさん。お見舞いに来ました」
ロビンは、小径人用保健室の入り口で、しゃがみ込んだ。
それでも、彼女の顔は、ハルトの頭上はるか高いところにある。
「ロ、ロビンさん……わざわざ、すみません……」
ハルトは、体を起こそうとした。
「ああ、起き上がらなくていいのよ。安静にしていて」
ロビンは、そう言って、微笑んだ。
「ナミさんから、聞きました。また、大変だったんですってね」
ハルトは、黙った。
ロビンは、少しだけ、悲しそうな顔をした。
「私、ナミさんのこと、心配で。彼女、昨日、一晩中、保健室の前で泣いてたんですって」
ハルトは、目を伏せた。
(ナミさんが、一晩中……)
「ナミさん、昔から、ああいうところがあるの。自分を責めるのが、下手で。だから、ああやって、『私のせいじゃない』って、自分に言い聞かせるしかできないの」
ロビンは、静かに語った。
「彼女、小さい頃、お父さんの事業が倒れて、家が破産したんですって。それから、彼女、お金の話になると、人が変わるでしょ? あれ、トラウマなのよ」
ハルトは、顔を上げた。
(ナミさんが、極貧育ち……?)
(だから、お金に、あんなに執着してるの……?)
ハルトの胸の奥で、何かが、ストンと、落ちた。
(ナミさんの、あの、金にうるさい態度の、理由)
(僕は、何も知らなかった)
(彼女が、どんな思いで、お金を欲しがってるのか、何も)
ロビンは、続けた。
「私、ナミさんより、ずっと、恵まれてる。だから、彼女の気持ち、全部はわからない。でも、彼女が、ハルトさんのことを、本当に大切に思ってるのは、わかるの」
ロビンは、ハルトのベッドに、そっと手を伸ばした。
その巨大な指先が、ハルトの髪に、触れた。
「私なら、あなたを、こんな目に遭わせないのにな」
ロビンは、善意百パーセントの笑顔で、そう言った。
彼女の指が、ハルトの髪を、そっと弄る。
ハルトは、その指の下で、凍りついた。
(この人の指は、いつも、優しい)
(でも、その優しさが、僕を、どこに連れて行くか、わからない)
(ロビンさんは、悪意がない)
(だから、余計に、怖い)
ハルトは、ロビンの指の感触を感じながら、思った。
(ナミさんは、お金に狂ってるんじゃない)
(お金がないと、生きていけないことを、知ってるんだ)
(僕と同じだ)
(僕も、妹の学費のために、死ぬかもしれない仕事を、選んだ)
(ナミさんも、生きるために、必死なんだ)
ハルトの心の中で、ナミへの恐怖が、ゆっくりと、理解に変わっていく。
嫌悪が、共感に。
そして、どうしようもない執着に。
(僕は、ナミさんのことを、もっと知りたい)
(彼女の、お金に執着する理由を、知ってしまった)
(知ってしまったから、もう、無視できない)
ロビンの指が、ハルトの頬に、触れた。
「ハルトさん。私、本気で、あなたのことを、お守りしたいと思ってるの」
ロビンの声は、優しく、甘い。
でも、ハルトの心は、彼女には向かなかった。
(僕が、行かなきゃいけないのは、ロビンさんのところじゃない)
(ナミさんのところだ)
ハルトは、ロビンの指の下で、静かに、目を閉じた。
(明日、ナミさんに、会いに行こう)
(自分の足で)
(自分の意思で)
(彼女の、そばに)
ハルトの胸の奥で、小さな、でも、確かな炎が、灯った。
それは、恐怖でも、義務でもない。
初めて、自分から、巨人のそばに行きたいと思った、その感情だった。Noveliaとは?
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