縫い目を引っ張る
現代の都市は、規模の異なる大学を中心に築かれている。巨人の女性たちは平均200~300フィート、小さな人々は6フィートほどだ。キャンパスは巨人優先——講堂はスタジアム並み、机は駐車場のような大きさ——で、小さな者たちの設備は後から無理やり付け足された。巨人は何を壊してもほとんど咎められず、小さな者の死は大抵、何としても記録されない。
ハルトは気弱な大学生で、巨人優先の大学を一日一日、慎重な通学で生き延びている。授業の課題でナミ——短気で消えた小さなパートナーが後を絶たない、気性の激しい250フィートの巨人女性——と組むことになったとき、彼は自分が取るに足らない存在になると思っていた。だが彼は彼女の二つの弱点を見つける。彼女は金が大好きで、本当に役に立つ人間には心を開くのだ。彼は小さな出費を負担し、品物を渡し、静かに彼女の生活を楽にしていく。そしてそれはうまくいった。彼女はどちらが予想したよりも早く、彼に心を許していく。
しかし親しくなるほど、彼は自分を気づかずに潰しかねない女性の死角で過ごす時間が増えていく。ナミに害をなす気はない。だが彼女のそばにいることは、安全でいることとは同じ
縫い目を引っ張る - 震える掌の檻と、それでも離れない選択
管理棟の廊下に、小径人用の低いベンチが一つ、ぽつんと置かれていた。ハルトはその上で、膝の上に置いた両手をじっと見つめていた。右の手のひらに残る古い火傷の跡。指先が、かすかに震えている。
(ペア解除、か)
ペアリンク運営委員会から正式な通達が下されたのは、つい先ほどのことだ。ナミ・ヴァルガの管理能力は不適合。パートナーの安全を確保できない。よって、ハルトとのペアリングを解除する——。
面談室の向こうから、ナミの怒声が壁越しに響いてくる。巨人の声は、小径人の耳には地鳴りのように届く。
「ふざけんじゃないわよ! あんたたち、何も見てなかったくせに! あの子がどれだけ頑張ってるか、知りもしないで!」
ハルトは、唇を噛んだ。
(ナミさんが、悪いわけじゃない)
そう思う。でも、口に出せない。委員会の決定は覆らない。小径人に拒否権はない。巨人たちの「管理」の下で、自分はただ受け入れるしかないのだ。
ドン。ドン。ドン。
廊下の奥から、新しい足音が聞こえた。規則正しい、落ち着いた足音。ハルトは反射的に首をすくめた。巨人が近づいてくる。ベンチの下に隠れたくなるのを、必死にこらえる。
「ハルトさん」
声は、思ったより若く、明るかった。
ハルトが恐る恐る顔を上げると、そこには銀色のボブカットを揺らす巨人族の女子学生が立っていた。二百四十フィート。切れ長の青い瞳。口元には、いつも微笑んでいるような薄い笑み。巨人用の制服を、きっちりと着こなしている。
サーシャ・ヴォルク。仮パートナーとして、今日からハルトと組むことになった巨人だ。
「ごめんなさいね、こんな形になってしまって。でも、私、小径人の方と組むのは三人目だから、安心して」
サーシャは、ハルトの目の前でしゃがみ込んだ。それでも、彼女の顔はハルトの頭上はるか高いところにある。
(三人目)
その言葉の意味を、ハルトは知っていた。ペアリンクの噂話は、小径人の間では命に関わる情報として共有される。サーシャ・ヴォルク。過去にペアリング中、パートナーを二人、負傷させた。一人は片腕を失い、もう一人は今も意識が戻らない。
それでも、大学は彼女を仮パートナーとして再登録した。巨人に、ペアリングを拒否する権利はないからだ。
「大丈夫よ。私、本当に慣れてるから。前の二人の時も、最初はみんな緊張してたけど、すぐに仲良くなれたの」
ハルトの口の中が、乾いていく。
(この人は、何もわかってない)
(前の二人が、どうなったのか、わかってない)
サーシャの笑顔は、本当に、心の底から「大丈夫」と思っている顔だった。悪意は、かけらもない。だからこそ、ハルトは震えた。
「あ、あの……よろしくお願いします……」
声が、うまく出ない。
サーシャは、嬉しそうに頷いた。
「はい。明日から、一緒に課題を頑張りましょうね」
彼女は立ち上がり、去っていった。
ドン。ドン。ドン。
足音が遠ざかる。
ハルトは、ベンチの上で、しばらく動けなかった。
(ナミさん)
心の中で、その名前を呼んだ。
(僕はもう、あなたのパートナーじゃない)
胸の奥が、じわりと痛む。それは、肋骨の古傷とは違う、もっと深いところの痛みだった。
―――
数日後。
ハルトは、第7講義棟の小径人用座席に座っていた。
収容三千人の巨大な講義室。天井は、はるか彼方。巨人用の机は、小径人にとってはビルのような大きさだ。その最前列の端に、申し訳程度に設置された小径人用の座席が二十席だけ並んでいる。
ハルトは、その一番端の席で、ノートパソコンを開いていた。画面には、サーシャとの合同課題の資料が映っている。文字が小さく、目を凝らさなければ読めない。
(サーシャさんは、後ろの巨人用席に座ってるはず)
仮パートナーとの課題作業。サーシャは「小径人用の座席の近くにいるから安心して」と言った。だが、巨人用の席から小径人用の座席までは、小径人の感覚では数百メートル離れている。何かあっても、彼女がすぐに助けに来られる距離ではない。
ハルトは、小さく息を吐いた。
その時だった。
後方の巨人用席で、誰かが大きく腕を伸ばした。
ナミだった。
彼女は、ハルトに気づいていない。講義のノートを取ろうと、巨人用の机の上に置かれた巨大なノートに手を伸ばしたのだ。
その肘が——。
ガッ。
ハルトの机を、横から弾き飛ばした。
「え——」
体が、浮いた。
次の瞬間、背中から床に叩きつけられる。肋骨の古傷が、悲鳴を上げた。視界が、白く弾ける。
(いた、い……)
息が、できない。
ドン。ドン。ドン。
巨人学生たちの足音が、地響きとなって迫ってくる。誰も、ハルトに気づいていない。巨人たちの足は、小径人にとっては建物のように巨大だ。このままでは、踏み潰される。
ハルトは、必死に体を起こした。
痛みで、左腕がうまく動かない。それでも、机の足の間を這って、柱の影へと転がり込む。
「はっ、はっ……」
呼吸が、浅い。心臓が、耳の奥で激しく脈打っている。
(死ぬかと思った)
(また、死ぬかと思った)
柱の影で蹲りながら、ハルトは震えた。
「ハルト!?」
地響きとともに、ナミが駆け寄ってくる。彼女は、ハルトの姿を見つけると、慌ててしゃがみ込んだ。
「大丈夫!? ごめん、私、全然気づかなくて——」
ナミの巨大な手が、ハルトに伸びる。
ハルトは、反射的に身をすくめた。
(また、締め付けられる)
(また、指に力が入る)
恐怖で、体が動かない。
ナミの指が、ハルトの体を掬い上げる。
「ごめん、ごめん……私、また……」
ナミの指に、力が入る。恐怖と罪悪感で、彼女の手は震えていた。その震えが、ハルトの体を圧迫する。
「ナ、ナミさん……手、手が……」
ハルトの声は、ナミには届かない。
ナミの指が、ハルトの胸を締め付ける。肋骨が、軋む。
(あ、だめだ)
(息が、できない)
視界が、暗くなっていく。
「ハルト!? ハルト、しっかりして!」
ナミの声が、遠くに聞こえる。
意識が、薄れていく。
その時、別の声が聞こえた。
「ナミさん、手を離して。その持ち方じゃ、ハルトさんが死んじゃうわ」
ロビンだった。
彼女は、ナミの後ろに立っていた。長い黒髪が、講義室の照明を受けて艶やかに光っている。二百六十フィートの巨体。穏やかな緑色の瞳が、ハルトとナミを見下ろしていた。
「ロビン……あんた、なんでここに——」
「通りかかったの。それより、早く。ハルトさんの顔色が、真っ青よ」
ロビンの言葉に、ナミは慌てて指の力を緩めた。
ハルトの体から、圧迫が消える。
「がはっ……!」
ハルトは、激しく咳き込んだ。肺に、空気が流れ込む。
「ごめん……ごめんなさい……私、また……」
ナミの瞳に、涙が浮かぶ。
ハルトは、ナミの手のひらの上で、荒い呼吸を繰り返した。
「だ、大丈夫です……大丈夫、ですから……」
声が、震える。
(大丈夫なわけ、ない)
(でも、そう言うしかない)
(ナミさんが、泣くから)
ハルトは、痛む体を起こし、ナミの顔を見上げた。
「大丈夫です。僕、丈夫なんで」
ナミは、涙を拭いながら、ハルトを見つめた。
その時、サーシャが駆け寄ってきた。
「ハルトさん!? 大丈夫!?」
サーシャの声は、明るく、心配そうだった。
でも、ハルトの耳には、その言葉が、やけに遠く聞こえた。
(大丈夫?)
(今、僕は、死にかけたんだ)
(あなたのせいじゃないけど)
(でも、あなたの「大丈夫?」は、何も見えていない)
サーシャの善意が、空っぽに響く。
ハルトは、何も言えなかった。
―――
その一件で、委員会はナミの管理能力を正式に不適合と判定した。
ペア解除の通達は、すでに下りている。
でも、ナミは、ハルトを離さなかった。
「私が、守る」
ナミは、ハルトを自分のバッグに入れて、講義棟を移動し始めた。
巨人用のバッグは、小径人にとっては倉庫のような大きさだ。中には、巨人用の教科書やノート、ペンケースなどが無造作に詰め込まれている。
「ナ、ナミさん、これ、ちょっと……」
ハルトの声は、バッグの外には届かない。
ナミが歩くたびに、バッグが揺れる。中身が、ハルトに押し寄せる。
ガサッ。
巨人用の教科書が、ハルトの体に倒れかかってきた。
「ぐっ……!」
教科書は、小径人のハルトにとっては鉄の板のように重い。体が、教科書とノートの間に挟まれる。
(やばい、やばい、やばい)
(圧迫骨折する)
ハルトは、必死に体をよじった。
どうにか、教科書の下から抜け出す。
でも、次はナミが歩く振動で、バッグの中で転がり回る。
「うわっ……! ちょ、ちょっと、ナミさん! 止まって! 止まってください!」
声は、届かない。
ナミは、ハルトを「守る」ために、バッグに入れて運んでいる。
その行為が、ハルトを殺しかけていることに、彼女は気づいていない。
―――
次に、ナミはハルトを肩に乗せた。
「バッグは危ないから、肩に乗せなさい。ここなら、私の顔の近くで安全でしょ」
ハルトは、ナミの肩の上で、必死にバランスを取った。
ナミの肩は、小径人にとっては広場のような広さだ。でも、彼女が歩くたびに、体が大きく揺れる。
「ナミさん、もうちょっと、ゆっくり……」
「わかってるわよ。これでも気をつけてるんだから」
ナミは、そう言いながら、講義室の巨人用の席に座った。
講義が始まる。
ハルトは、ナミの肩の上で、講義の内容をノートに取ろうとした。
でも、ナミの肩は、呼吸のたびに上下する。
(落ち着かない……)
(でも、バッグよりはマシだ)
ハルトは、そう自分に言い聞かせた。
講義が、中盤に差し掛かった頃。
ナミが、こっくりと船を漕ぎ始めた。
「……ん」
彼女は、居眠りを始めたのだ。
ナミの体が、ゆっくりと傾いていく。
ハルトの体も、一緒に傾く。
「え、ちょ、ナミさん!? 起きて! 起きてください!」
ハルトの叫びも虚しく、ナミの体は、さらに傾いた。
ハルトの体が、ナミの肩から滑り落ちる。
「うわあああああああ!!」
落下。
地面が、迫る。
(死ぬ)
(今度こそ、死ぬ)
ハルトは、必死に手を伸ばした。
指先が、何かを掴んだ。
ナミの制服の裾だ。
ハルトは、その裾にしがみついた。
「はっ、はっ……」
体が、空中で揺れる。
下を見ると、巨人用の机の上に置かれた筆記用具が見えた。あの上に落ちていたら、串刺しになっていた。
(あ、危なかった……)
ハルトは、制服の裾を必死に登った。
どうにか、ナミの膝の上に辿り着く。
「ナミさん……! 起きて……!」
ハルトは、ナミの膝を叩いた。
でも、小径人の力では、巨人の体に何かを伝えることすら難しい。
「……んあ?」
ようやく、ナミが目を覚ました。
「ハルト!? なんで膝の上にいるの!? 肩に乗せてたはず——」
「落ちました! 肩から落ちました! 九死に一生です!」
ハルトは、声を張り上げた。
ナミは、一瞬きょとんとした後、顔を青ざめさせた。
「ご、ごめん……私、居眠りして……」
「居眠りしないでください! 僕、本当に死ぬところでした!」
ハルトは、初めてナミに怒った。
いや、怒ったというより、恐怖がそのまま声になった。
ナミは、しゅんと縮こまった。
「……ごめん」
その声が、あまりに小さくて。
ハルトは、それ以上、何も言えなくなった。
―――
最後に、ナミはハルトを机の上に置いた。
「ここが一番安全なはずよ。私の目の前だし、落ちることもないし」
巨人用の机の上。
ハルトは、そこに座らされた。
確かに、落ちることはない。でも、巨人用の机の上は、小径人にとっては広大な平原だ。
ナミは、ハルトの隣に、自分のコーヒーカップを置いた。
巨人用のコーヒーカップ。小径人のハルトにとっては、浴槽ほどの大きさがある。中には、湯気を立てる熱いコーヒーが満たされている。
「ここで大人しくしてなさい。私、ちょっとトイレ行ってくるから」
「え、ちょっと待ってください。このコーヒーカップ、倒れたら——」
「倒れないわよ。ちゃんと置いてるし」
ナミは、立ち上がった。
その振動で、机が揺れる。
コーヒーカップが、かたん、と音を立てた。
ハルトの心臓が、跳ねる。
(倒れる)
(あれ、倒れる)
(絶対に倒れる)
ハルトは、コーヒーカップから離れようと、机の上を走った。
でも、巨人用の机は、小径人にとっては何十メートルもの距離がある。
その時。
ナミが、振り返った。
「あ、そうだ。ハルト、砂糖入れる? 私のコーヒー、苦くて——」
彼女の手が、コーヒーカップに当たった。
ガシャン。
カップが、倒れた。
熱いコーヒーが、机の上に、滝のように広がる。
「うわあああああああ!!」
ハルトは、必死に走った。
熱い蒸気が、背中に迫る。
(熱い、熱い、熱い)
(やけどする)
(死ぬ)
ハルトは、机の縁に飛びついた。
コーヒーは、ハルトの足元すれすれで、止まった。
「はっ……はっ……!」
ハルトは、机の縁にしがみついたまま、荒い呼吸を繰り返した。
「ハルト!? 大丈夫!? ごめん! 私、手が当たって——」
ナミが、慌てて駆け寄ってくる。
彼女の手が、ハルトを掬い上げようと伸びる。
「待って! 待ってください! 手を、手を開いて! 優しく! 優しくしてください!」
ハルトは、叫んだ。
ナミの手が、ぴたりと止まる。
彼女は、ハルトの言葉に従って、ゆっくりと手を開いた。
「こう……?」
「そうです……そのまま、動かないで……」
ハルトは、ナミの手のひらの上に、自分から乗った。
ナミの手は、まだ震えていた。
でも、力は入っていない。
「ごめん……ごめんなさい……私、本当に、どうしてこんなに不器用なの……」
ナミは、ハルトを手のひらに乗せたまま、俯いた。
彼女の長いオレンジの髪が、顔を隠す。
「私、あんたを守りたいだけなのに……なんで、なんで、うまくできないの……」
ナミの声が、震える。
ハルトは、ナミの手のひらの上で、彼女の顔を見上げた。
(ナミさんは、本気で、僕を守ろうとしている)
(バッグに入れたのも、肩に乗せたのも、机に置いたのも)
(全部、僕のことを思ってのことだ)
(でも、その全部が、僕を殺しかけている)
ハルトは、ナミの震える指を見つめた。
(この人は、悪意がない)
(悪意がないから、余計に、どうしようもない)
ハルトの胸の奥で、恐怖と、それとは違う何かが、混ざり合っていく。
―――
ロビンが、二人の元を訪れたのは、その翌日のことだった。
「ハルトさん、お体の具合はいかがかしら」
ロビンは、ナミの部屋のドアをノックして、そう言った。
彼女は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。長い黒髪が、歩くたびに優雅になびく。右手首の銀のブレスレットが、照明を受けてきらりと光った。
「ロビン……あんた、何しに来たの」
ナミは、警戒したようにロビンを見上げた。
「手伝いに来たのよ。ナミさん、ハルトさんの扱いに苦労してるでしょ? 私、小径人の扱いには慣れてるから」
ロビンは、そう言って、ハルトに手を伸ばした。
「ほら、こうやって、両手で包むように持つといいのよ。小径人は、巨人の体温で温めてあげると、落ち着くの」
ロビンは、ハルトを両手で包み込んだ。
彼女の手のひらは、ナミよりずっと広い。
ハルトの体は、ロビンの指の間から、半分はみ出していた。
(あ、息が……)
ロビンの手が、ハルトの胸を圧迫する。
(苦しい……)
(ナミさんより、力は入ってないのに)
(でも、手のひらが広すぎて、体が沈み込む)
ハルトの顔が、ロビンの手のひらに埋もれていく。
「ロビンさん……ちょ、ちょっと……」
ハルトの声は、ロビンの手のひらに吸い込まれて、外に出ない。
「離して!」
ナミが、ロビンの手からハルトを奪い返した。
「あんたの持ち方、全然ダメよ! ハルトが窒息してるじゃない!」
ナミは、ハルトを自分の手のひらに乗せて、ロビンを睨みつけた。
ロビンは、きょとんとした顔で、自分の手のひらを見つめた。
「まあ、ごめんなさい。私ってば、不器用ね」
ロビンは、照れたように笑った。
その笑顔は、本当に、心の底から「失敗しちゃった」と思っている顔だった。
ハルトは、ナミの手のひらの上で、荒い呼吸を繰り返しながら思った。
(ロビンさんの善意は、ナミさん以上に無自覚だ)
(ナミさんは、失敗に気づく。でも、ロビンさんは、失敗にすら気づかない)
(そして、ナミさんの手のひらの方が、まだ安全だ)
ハルトは、ナミの手のひらの温かさを感じながら、そう思った。
「あなたたち、本当に可愛いわ。でもね、管理能力って、優しさだけじゃ足りないのよ」
ロビンは、去り際に、そう呟いた。
その言葉は、委員会の再審査に含みを持たせるものだった。
―――
その夜。
ハルトは、自室のベッドに横たわっていた。
スモール・ヘイヴンの一室。六平方メートルの狭い部屋。天井を見上げると、染みが一つ、二つ。
(もう、辞めたい)
ハルトは、心の中で呟いた。
肋骨は軋み、妹ミナの学費は足りず、巨人用落とし物探しバイトの危険性は増している。
(ナミさんのそばにいるのは、命がけだ)
(ロビンさんのそばにいるのは、もっと命がけだ)
(サーシャさんのそばにいるのも、同じだ)
(巨人のそばにいること自体が、命がけなんだ)
ハルトは、目を閉じた。
(もう、全部、辞めたい)
(妹の学費も、ペアリングも、大学も)
(ミニチュア・タウンに帰って、静かに暮らしたい)
でも。
ハルトの耳の奥で、あの声が蘇る。
『私のせいじゃない』
廊下で、ナミが繰り返し泣いていた声。
『私のせいじゃない』
彼女は、そう言いながら、泣いていた。
『あんたを、失いたくない』
ハルトのために、泣いていた。
(ナミさんは、初めて、誰かを失いたくないと涙を流した)
(その涙は、僕のためのものだ)
ハルトは、目を開けた。
(離れるんじゃない)
(教えればいい)
(僕が、ナミさんに、正しい持ち方を教えればいい)
ハルトは、ベッドから起き上がった。
痛む体を引きずって、机に向かう。
ノートを開き、ペンを取る。
(小径人の扱い方、安全な持ち方、注意すべきこと)
ハルトは、夜が明けるまで、ノートに書き続けた。
―――
翌朝。
ハルトは、ナミの寮を訪ねた。
巨人用の寮は、小径人にとっては山のように巨大だ。
ハルトは、ナミの部屋のドアの前で、深呼吸した。
(大丈夫)
(僕は、今日から、ナミさんに教えるんだ)
(怖くない)
(怖くない、怖くない、怖くない)
ハルトは、自分に言い聞かせた。
ドアを、ノックする。
小径人のノックは、巨人のドアには、ほとんど音がしない。
でも、ナミは、気づいた。
ドアが、開く。
「ハルト……!?」
ナミは、寝起きのままの格好で、ハルトを見下ろした。
オレンジの髪は、寝癖で跳ねている。琥珀色の瞳は、驚きで見開かれていた。
「おはようございます、ナミさん。今日から、練習します」
ハルトは、ナミの顔を見上げて、はっきりと言った。
「練習? 何を?」
「正しい持ち方です。僕を、ちゃんと持つ方法」
ナミは、目を見開いた。
それから、初めて、照れたように笑った。
「……何それ。あんた、私に、小径人の持ち方を教えるの?」
「はい。僕が、先生です」
ハルトは、胸を張った。
(本当は、怖い)
(足が、震えてる)
(でも、ここで逃げたら、終わりだ)
ナミは、ハルトをじっと見つめた。
それから、ゆっくりと、手を差し出した。
「……わかった。教えて、ハルト先生」
ハルトは、ナミの手のひらに、自分から乗った。
―――
練習の第一段階。
ハルトは、ナミの手のひらの上に立った。
ナミの手のひらは、小径人にとっては広場のような広さだ。
「まず、指を動かす前に、僕の存在を確認してください」
ハルトは、ナミの顔を見上げて言った。
「僕が、今、どこにいるか。どんな姿勢でいるか。ちゃんと、目で見て、確認してから、動くんです」
ナミは、ぎこちなく頷いた。
「わ、わかったわ。確認する。ハルトが、私の手のひらの、真ん中にいる。立ってる。私のことを、見上げてる」
ナミは、ハルトをじっと見た。
その視線が、ハルトに突き刺さる。
(ナミさんが、僕を見てる)
(ちゃんと、僕の存在を、確認してる)
ハルトの心臓が、ドキリと跳ねた。
「そ、それで、いいです。次は、指を動かす時は、ゆっくり、少しずつ。僕の体に、触れるか触れないかの、ぎりぎりのところで、止めてください」
「ゆっくり……少しずつ……」
ナミは、ハルトの指示に従って、指を動かした。
巨大な指が、ハルトに迫る。
(怖い)
(でも、ナミさんは、僕の言う通りに動いてる)
(大丈夫)
ナミの指が、ハルトの体のすぐ横で、止まった。
「こ、こう……?」
「そうです。上手です。そのまま、ゆっくり、指を離してください」
ナミは、言われた通りに、指を離した。
「できた……! 私、できたわ!」
ナミが、嬉しそうに笑った。
右頬に、えくぼができる。
ハルトは、その笑顔を見て、胸が温かくなった。
「次は、手のひらを、少し傾けてください。僕が、滑り落ちないか、確認します」
ハルトは、練習を続けた。
ナミは、ハルトの指示に、一つ一つ、丁寧に従った。
時々、失敗した。
指に力が入りそうになったり、手が震えたり。
でも、そのたびに、ハルトは「大丈夫です。もう一度」と言った。
「大事なものを持つとき、みんなそうするでしょ?」
ハルトは、ナミの手のひらの上で言った。
「……大事なもの?」
ナミが、聞き返す。
ハルトは、自分の言葉に、急に恥ずかしくなった。
「あ、いや、その……課題のパートナーですから! パートナーは、大事なものですから!」
ハルトは、顔を赤らめて言い訳した。
ナミは、ハルトを見つめた。
「……そ、そうね。パートナーは、大事なものね」
ナミも、不器用に返した。
二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
(ああ、もう、何言ってるんだ、僕は)
ハルトは、自分の失言を後悔した。
でも、ナミの手のひらは、さっきまでより、ずっと温かく感じた。
―――
その夜。
ハルトは、ナミの手のひらの上で、空を見上げていた。
練習は、順調に進んでいた。
ナミは、ハルトを、力の入っていない、温かい手で、包み込めるようになっていた。
「ちゃんと持てるようになったら、次は、歩く練習もしましょう」
ハルトは、ナミの指に、自分の小さな手を重ねた。
ナミの指は、ハルトの体よりも太い。
でも、その指から伝わる体温が、ハルトの心を、落ち着かせた。
「あんた、私に、何をさせる気?」
ナミが、笑う。
「歩きながら、僕を落とさない練習です。あと、しゃがむ練習と、立ち上がる練習と、物を取る練習と……」
「ちょっと、盛りすぎよ。どれだけ練習させる気?」
「全部、必要です。ナミさんは、僕を守りたいんですよね? だったら、全部、できるようになってください」
ハルトは、ナミの指を、ぎゅっと握った。
ナミは、ハルトの小さな手の感触を、指先で確かめた。
「……わかったわよ。やってやるわ。あんたが、そこまで言うなら」
ナミは、指をそっと丸めた。
ハルトの体を、包み込む。
力の入っていない、温かい包み方だった。
ハルトは、ナミの手のひらの中で、目を閉じた。
(初めてだ)
(巨人の手のひらが、怖くないと思ったのは)
ナミの体温が、ハルトの全身を包む。
ドキリ、と、心臓が跳ねた。
(これは、練習だ)
(ただの、持ち方の練習だ)
(なのに、どうして、こんなに、ドキドキするんだ)
ハルトは、ナミの手のひらの上で、小さく息を吐いた。
―――
練習を終えた帰り道。
ハルトの端末と、ナミの端末に、同時に通知が届いた。
ペアリンク運営委員会からだ。
ハルトは、小径人用の端末を開いた。
画面に、通知が表示される。
『次学期ペアリング継続には、申請書の提出と再審査が必要です。再審査では、パートナーの安全確保能力が評価されます』
ハルトは、通知を読み進めた。
書面の末尾に、ある一文を見つけた。
『再審査には、ロビン・ヴェイル先輩の推薦状が必要です』
「なんでよ! 私、ちゃんとやったじゃない! 練習だって、始めたばかりじゃない!」
ナミが、端末を見ながら叫んだ。
彼女は、通知を何度も読み返し、唇を噛んだ。
「しかも、ロビンの推薦が要るって……あいつ、私のこと、嫌ってるのに!」
ナミは、申請書を握り潰した。
巨人の力で、端末の画面が、ばきりと音を立てる。
「ナミさん、端末が……」
ハルトは、ナミの手元を見上げた。
ナミは、握り潰した端末を、テーブルに叩きつけた。
「もう、嫌……私、また、ダメなの……?」
ナミの瞳に、涙が浮かぶ。
ハルトは、ナミの足元に立っていた。
(ナミさんが、泣いてる)
(また、僕のために、泣いてる)
ハルトは、窓の外を見た。
外では、また別の巨人が、別の小径人に気づかずに歩いていく。
小径人は、必死に逃げている。
でも、巨人は、気づかない。
その光景は、ハルトの日常だった。
(でも、ナミさんは、気づいた)
(僕の存在に、気づいた)
(そして、泣いた)
ハルトは、ナミを見上げた。
「申請しましょう」
ハルトは、静かに言った。
「え……?」
「再審査、受けましょう。僕が、ロビン先輩と話します」
ナミは、目を見開いた。
「あんたが……? ロビンと……?」
「はい。僕が、先輩に、お願いします。ナミさんの管理能力は、ちゃんと向上してるって、僕が説明します」
ハルトの目は、逃げていなかった。
ナミは、ハルトの小さな顔を、じっと見つめた。
「……あんた、やっぱり、変な奴ね」
ナミは、そう言って、少しだけ笑った。
涙で濡れた頬に、えくぼが浮かぶ。
「変で結構です。僕は、ナミさんのパートナーですから」
ハルトは、そう言って、ナミの指先に、自分の手を重ねた。
ナミの指は、まだ、かすかに震えていた。
でも、その震えは、恐怖からではない。
ハルトには、そう感じられた。
窓の外では、巨人の街の明かりが、遠くで瞬いていた。
その光は、美しかった。
でも、ハルトの心は、それ以上に、温かかった。
(ナミさんと、もう一度、やり直せる)
(今度は、僕が、ナミさんを守る番だ)
ハルトは、小さな拳を、ぎゅっと握りしめた。Noveliaとは?
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