縫い目を引っ張る
現代の都市は、規模の異なる大学を中心に築かれている。巨人の女性たちは平均200~300フィート、小さな人々は6フィートほどだ。キャンパスは巨人優先——講堂はスタジアム並み、机は駐車場のような大きさ——で、小さな者たちの設備は後から無理やり付け足された。巨人は何を壊してもほとんど咎められず、小さな者の死は大抵、何としても記録されない。
ハルトは気弱な大学生で、巨人優先の大学を一日一日、慎重な通学で生き延びている。授業の課題でナミ——短気で消えた小さなパートナーが後を絶たない、気性の激しい250フィートの巨人女性——と組むことになったとき、彼は自分が取るに足らない存在になると思っていた。だが彼は彼女の二つの弱点を見つける。彼女は金が大好きで、本当に役に立つ人間には心を開くのだ。彼は小さな出費を負担し、品物を渡し、静かに彼女の生活を楽にしていく。そしてそれはうまくいった。彼女はどちらが予想したよりも早く、彼に心を許していく。
しかし親しくなるほど、彼は自分を気づかずに潰しかねない女性の死角で過ごす時間が増えていく。ナミに害をなす気はない。だが彼女のそばにいることは、安全でいることとは同じ
縫い目を引っ張る - 掌の上の卒業試験と、継続申請書の行方
収穫祭前夜。
ヴァルディアン総合大学のキャンパスは、秋の夜風に包まれていた。巨人用の街灯が、小径人にとっては月のように巨大な光を落としている。その光の下を、ハルトは歩いていた。
(ナミさんの寮まで、あと少し)
背中には、小径人用のリュックを背負っている。中には、明日の発表で使う資料と、打ち上げ用に買った安いワインとチーズが入っていた。
ドン。ドン。ドン。
遠くで巨人の足音が響く。ハルトは反射的に立ち止まり、建物の影に身を寄せた。足音の主は、夜の散歩をしている巨人の学生だった。彼はハルトに気づかず、そのまま通り過ぎていく。
(大丈夫。気づかれてない)
ハルトは小さく息を吐いて、再び歩き出した。
ナミの寮は、キャンパスの北側にある巨人用女子寮の一室だ。小径人にとっては、その建物自体が山のようにそびえ立っている。入り口の扉は、小径人用の小さな通用口が別に設置されていた。
「すみません、ナミ・ヴァルガさんの部屋に用があるんですけど……」
寮の受付にいた巨人の女性職員が、しゃがみ込んでハルトを見た。
「ああ、あなたが例の小径人の子ね。ナミから聞いてるわ。どうぞ、気をつけてね」
ハルトは、巨人用の廊下の端に設置された小径人用通路を進んだ。壁際には、小径人が巨人の足に踏まれないようにと、黄色いラインが引かれている。その内側を、ハルトは慎重に歩いた。
ナミの部屋の前まで来ると、ドアの下の方に小径人用のインターホンが付いていた。ハルトは背伸びして、そのボタンを押した。
しばらくして、ドアが開いた。
「あ、来た来た。遅かったじゃない」
ナミが、部屋の中からハルトを見下ろしていた。肩まで届くオレンジのウェーブがかった髪が、部屋の明かりに照らされて柔らかく光っている。琥珀色の瞳は、いつものように少しだけ吊り上がっていたが、口元には笑みがあった。右頬に、えくぼが浮かんでいる。
「す、すみません。夜道を慎重に歩いてたら、思ったより時間がかかってしまって……」
ハルトは、ナミの足元で小さくなりながら言った。
「まあ、無事ならいいわ。入って」
ナミは、ハルトのために小径人用のスロープを下ろした。ハルトはそれに乗り、ナミの部屋の中へと入っていく。
部屋の中は、巨人用の家具が並んでいた。机は小径人にとっては広場のように大きく、ベッドは丘のようだ。その机の上に、小径人用の小さな作業スペースが設けられていた。
「明日、いよいよ本番ね」
ナミは、机の前に座り、ハルトを作業スペースの上に置いた。彼女の顔が、ハルトの正面に近づく。その吐息が、ハルトの体を優しく揺らした。
「は、はい。緊張します……」
ハルトは、ナミの顔を見上げながら答えた。
「あんたが緊張してどうすんのよ。私の方が、何倍も緊張してるんだから」
ナミは、自分の右手を、机の上に置いた。ハルトの作業スペースのすぐ隣だ。彼女の指は、ハルトの体よりもずっと太く、長い。
「ほら、最後の練習。やるわよ」
ナミは、手のひらを上に向けて、ハルトの前に差し出した。
ハルトは、その巨大な手のひらを見た。
(何度見ても、大きい)
(でも、前より、怖くない)
ハルトは、ナミの手のひらに、そっと足を踏み入れた。彼女の肌は、しっとりと温かい。その上に立つと、まるで生きている地面の上にいるような感覚になる。
「指を動かす前に、まず僕の存在を確認してください」
ハルトは、ナミの顔を見上げて言った。
「……いる?」
ナミが、ぎこちなく尋ねた。その声は、普段の彼女からは想像できないほど、慎重だった。
「います」
ハルトは、そう答えた。
「……本当に、いる?」
「本当に、います。あなたの手のひらの上に、ちゃんと立ってます」
ナミは、ゆっくりと指を曲げ始めた。ハルトの体を傷つけないように、彼女の指先が、ハルトの周りを包み込んでいく。
「……これ、痛くない?」
「痛くないです。大丈夫です」
ナミの指が、ハルトの体に触れるか触れないかの距離で止まった。彼女の指先の温度が、ハルトの肌に伝わってくる。
「これで、あんたを安全に運べるの?」
「はい。指で囲いを作って、手のひらの中心に僕を置く。これが、一番安全な持ち方です」
ハルトは、ナミの指の動きを確認しながら言った。
二人は、この単純なやり取りを、何度も何度も繰り返した。
「いる?」
「います」
「本当にいる?」
「本当にいます」
そのたびに、ナミの指の動きは、少しずつ、少しずつ、滑らかになっていった。
(ナミさん、ちゃんと、覚えてくれてる)
ハルトは、ナミの手のひらの上で、彼女の指の動きを感じながら思った。
(この人の手は、こんなに温かかったんだ)
練習が終わった後、ハルトはナミの指に、小さな手を重ねた。
彼女の指先は、ハルトの両手で包めるかどうかという太さだった。その表面は、巨人特有の、しっとりとした滑らかさがある。体温が、ハルトの手のひらから腕へと伝わってくる。
ドキリ。
ハルトの胸の奥で、何かが跳ねた。
(なんで、今、ドキッとしたんだ)
(これは、ただの練習で)
(ただ、手を触ってるだけで)
ハルトは、自分の心臓の音が、ナミに聞こえてしまうのではないかと思った。
その時、ナミが指を丸めた。
ハルトの体が、彼女の指の中に、ふわりと包まれる。
(あれ)
(力が、入ってない)
ナミの指は、ハルトを締め付けるのではなく、ただ、優しく包んでいた。まるで、壊れやすい宝物を守るように。
「……これで、いい?」
ナミの声が、ハルトの頭上から降ってきた。
「……完璧です」
ハルトは、ナミの指の中で、小さく笑った。
(ああ、もう、この人の手のひらが、一番安全だって、思ってる)
(僕は、とっくに、そう思ってる)
―――
収穫祭当日。
ヴァルディアン総合大学の中央中庭は、巨人用の露店で埋め尽くされていた。焼き菓子の匂い、果実酒の香り、楽しげな巨人たちの笑い声。小径人用の通り道は、中庭の端に申し訳程度に設けられている。
ハルトは、ナミの手のひらの上にいた。
彼女の指が、ハルトの周りを囲んでいる。昨日の練習の通り、力の入っていない、温かい囲いだ。
「や、やっぱり、人が多いですね……」
ハルトは、ナミの指の隙間から、巨人たちの足の間を覗きながら言った。
「あんたは、私の手から一歩も動かないこと。いいわね?」
ナミは、周囲を警戒しながら歩いていた。彼女の歩幅は、ハルトにとっては数十メートルに相当する。一歩ごとに、景色が大きく変わる。
「は、はい。動きません。動けません」
ハルトは、ナミの手のひらにしがみついた。
課題発表の会場は、中庭の中央に設けられた特設ステージだった。巨人用の審査員席が並び、その前に、発表者用のスペースがある。
ナミがステージの前に立つと、審査員の巨人たちが、彼女を見た。
「次は、ナミ・ヴァルガさんと、小径人パートナーのハルトさんですね」
審査員の一人が、手元の資料を見ながら言った。
「はい。よろしくお願いします」
ナミは、背筋を伸ばして答えた。
「では、まず、パートナーの安全な運搬方法から、デモンストレーションをお願いします」
ナミは、手のひらを胸の高さまで上げた。ハルトは、彼女の手のひらの上で、審査員たちに向かって小さくお辞儀をした。
「まず、指を動かす前に、パートナーの存在を確認します」
ナミは、練習の通りに、手のひらの中のハルトを見た。
「いる?」
「います」
ハルトは、ナミの目を見上げて、はっきりと答えた。
「本当に、安全な位置にいる?」
「はい。手のひらの中心に、両足で立っています」
ナミは、ゆっくりと指を曲げ、ハルトを包んだ。彼女の動きは、昨日の練習よりも、さらに滑らかだった。
「この状態で、パートナーを安全に移動させます」
ナミは、ステージの上を、ゆっくりと歩いた。彼女の手のひらの上で、ハルトは、わずかな振動を感じながらも、安定して立っていた。
審査員たちが、メモを取りながら、ナミの動きを観察している。
「次に、共同作業のデモンストレーションです。パートナーと協力して、この箱を開けてください」
審査員が、巨人用の小さな箱をステージに置いた。とはいえ、ハルトにとっては、その箱は一軒家ほどの大きさだ。
ナミは、ハルトを箱のそばに降ろした。
「あんたは、あの隙間から中に入れる?」
ナミが、箱の継ぎ目を指さした。
「え、えっと……行けます。行けますけど……」
ハルトは、箱の継ぎ目を見た。小径人なら、確かに通れる隙間だった。
「じゃあ、あんたが中から留め具を外して。私が外から蓋を開ける」
「わ、わかりました」
ハルトは、箱の継ぎ目に走り寄り、中に滑り込んだ。中は暗く、ひんやりとしていた。巨人用の箱の中は、小径人にとっては体育館のように広い。
(留め具は、どこだ)
ハルトは、箱の内側を走り回り、留め具を探した。すると、箱の内側に、小径人用の小さなレバーが取り付けられているのが見えた。
(あれだ)
ハルトは、レバーに駆け寄り、両手で力いっぱい引いた。
ガチン。
留め具が外れる音がした。
「外れた! ナミさん、蓋を開けてください!」
ハルトは、箱の内側から叫んだ。
「オッケー!」
ナミが、箱の蓋を開けた。光が差し込み、ハルトの視界が明るくなる。
「これが、小径人との共同作業です。私一人では、この留め具は外せませんでした」
ナミは、審査員たちに向かって説明した。
審査員たちが、うんうんと頷いている。
その時だった。
審査員の一人が、ナミの手元を覗き込もうと、急に近づいてきた。
「あっ」
ハルトは、巨人の影が自分に覆いかぶさってくるのを感じた。
(踏まれる——)
その瞬間、ナミの手が、ハルトを覆った。
彼女の掌が、ハルトの上に、そっと被さる。
(あれ)
(暗い)
(でも、温かい)
ハルトは、ナミの掌の下で、小さくなっていた。彼女の肌の温度が、ハルトの全身を包む。外の音が、遠くに聞こえる。
(怖くない)
(これが、一番安全だ)
ハルトは、ナミの掌の下で、静かに目を閉じた。
(守られてる)
(この人の手のひらが、今、僕にとって、世界で一番安全な場所だ)
「すみません、近づきすぎましたか?」
審査員の声が、ナミの掌の上から聞こえた。
「……ええ。私のパートナーは、小径人です。急に近づかれると、危険なんです」
ナミの声は、少しだけ硬かった。
「これは失礼。気をつけましょう」
審査員が、後ろに下がった。
ナミは、ゆっくりと手を上げた。
ハルトの視界に、再び光が戻る。
「……大丈夫だった?」
ナミが、ハルトを見て、小さく尋ねた。
「大丈夫です。むしろ、守ってもらって、安心しました」
ハルトは、ナミの手のひらの上で、笑って見せた。
ナミは、一瞬だけ、驚いたような顔をした。それから、ふっと笑った。
「……あんた、本当に変わってるわね」
「よく言われます」
発表は、成功だった。
審査員たちは、ナミの管理能力を高く評価した。
「良好です。パートナーとの意思疎通も、安全確保も、申し分ありません」
ナミは、審査員たちに深くお辞儀をした。
ハルトも、ナミの手のひらの上で、精一杯のお辞儀をした。
(やった)
(成功した)
(ナミさんと、ちゃんと、やれた)
ハルトの胸に、じわりと温かいものが広がった。
―――
発表が終わった直後だった。
「ナミちゃーん! お疲れー!」
ナミの友人らしい巨人の学生たちが、一斉にナミに駆け寄ってきた。
「ちょ、ちょっと、あんたたち!」
ナミは、ハルトを乗せた手を、とっさに胸の前に抱えた。
「すごかったね! 小径人とちゃんと連携してて!」
「あの子、かわいいね! 触ってもいい?」
巨人の学生の一人が、ハルトに手を伸ばしてきた。
「ダメよ! あんたたち、手を出さないで!」
ナミは、ハルトを守るように、体を反らした。
その時、別の巨人のグループが、ナミたちの横を駆け抜けた。
ドン! ドン! ドン!
地響きのような足音。巨人たちの笑い声。人波が、ナミを押し流していく。
「ちょっと、押さないでよ!」
ナミは、人波に押されて、よろめいた。
その瞬間、彼女の手から、ハルトが滑り落ちた。
「え——」
ハルトの体が、空中に投げ出される。
(落ちる——)
地面が、猛烈な速さで近づいてくる。
ドサッ。
ハルトは、中庭の地面に落ちた。幸い、草むらの上だった。衝撃はあったが、骨は折れていない。
「い、痛った……」
ハルトは、地面に這いつくばったまま、周囲を見た。
巨人の足。
ハルトの周りは、巨人たちの足で埋め尽くされていた。一歩でも動けば、踏み潰される。
(ナミさんは、どこだ)
ハルトは、必死にナミの姿を探した。
しかし、巨人の足の間から見えるのは、無数の巨人の体ばかり。ナミのオレンジの髪は、人波に埋もれて見えなかった。
(まずい)
(このままじゃ、誰かに踏まれる)
ハルトは、這うようにして、近くの露店の下に逃げ込んだ。巨人用の露店の下は、小径人にとっては、ちょうどいい隠れ場所だった。
(ここなら、大丈夫)
ハルトは、露店の柱の陰に隠れて、息を潜めた。
その時だった。
「ハルト——!!」
ナミの声が、中庭に響き渡った。
それは、叫び声だった。悲鳴に近い、切迫した声。
「ハルト! どこ!? ハルト!!」
ナミは、人波の中で立ち止まり、周囲を見回していた。彼女の顔は青ざめ、目には涙が浮かんでいる。
周囲の巨人たちが、驚いてナミを見た。
「え、何? どうしたの?」
「小径人が……私のパートナーが、いなくなったの!」
ナミは、声を震わせながら言った。
「この人混みで? それは、まずいわね……」
巨人の学生たちが、ざわざわとし始めた。
ハルトは、露店の下から、ナミの声を聞いていた。
(ナミさんが、僕の名前を呼んでる)
(あんなに必死に)
(あんなに怖い顔をして)
ハルトの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
(僕は、ここにいるのに)
(ナミさんは、僕がいないと思って、あんなに怖がってる)
ハルトは、露店の下から、ナミの足元を見た。
彼女の足は、人波の中で、小刻みに震えていた。
(行かなきゃ)
(ナミさんのところに、行かなきゃ)
ハルトは、露店の下から這い出した。
巨人の足の間を、縫うように走る。
右から足が降りてくる。左から足が迫る。ハルトは、必死に体を捻り、巨人の足の間を駆け抜けた。
(ナミさん)
(ナミさんのところに)
ハルトは、ナミの足元に向かって、全速力で走った。
「ハルト……お願い、返事して……ハルト……」
ナミの声が、泣き声に変わる。
その時、ハルトは、ナミの足元に辿り着いた。
「ナミさん!!」
ハルトは、ナミの足首に、思い切り抱きついた。
「え……?」
ナミが、足元を見た。
「ナミさん! ここです! 僕、ここにいます!」
ハルトは、ナミの足首にしがみついたまま、叫んだ。
「ハルト……ハルトなの……?」
ナミは、ゆっくりと、しゃがみ込んだ。
彼女の顔が、ハルトの目の前に近づく。涙で濡れた琥珀色の瞳が、ハルトを映した。
「……よかった」
ナミは、これまでで最も慎重に、手を動かした。
指を、ハルトの体の下に、そっと差し入れる。
ハルトは、ナミの指に、ふわりと掬い上げられた。
(怖くない)
(この手は、僕を傷つけない)
ハルトは、ナミの手のひらの上で、彼女の顔を見上げた。
「大丈夫です。僕、ちゃんと、ここにいます」
ハルトは、ナミの手のひらの上で、笑った。
「……ごめん」
ナミは、それだけ言って、ハルトを胸に抱き寄せた。
彼女の鼓動が、ハルトの体に伝わってくる。ドクン、ドクンと、速い。
「慣れましたから」
ハルトは、ナミの胸の中で、小さく言った。
「……え?」
「落とされるのも、踏まれそうになるのも、もう、慣れました。だから、大丈夫です」
ナミは、一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、泣きそうな顔で、笑った。
「……なにそれ。全然、安心できないんだけど」
「そうですか?」
二人は、人波の中で、笑い合った。
周囲の巨人たちが、ほっとしたように、二人を見ていた。
―――
夜。
ナミの寮の窓辺に、ハルトはいた。
彼女の机の上に、小径人用の小さなテーブルクロスを敷いて、その上に、安いワインの小瓶と、チーズを並べる。
「わあ、ちゃんと用意してくれたんだ」
ナミは、机の上に頬杖をついて、ハルトの準備を見ていた。
「え、えっと、大したものじゃないんですけど……小径人用のワインと、チーズです。よかったら、どうぞ」
ハルトは、ナミの顔を見上げて言った。
「ありがと。じゃあ、私も、巨人用のカップを持ってくるわ」
ナミは、立ち上がり、部屋の隅から巨人用のカップを持ってきた。小径人にとっては、浴槽ほどの大きさだ。
「あんたのワイン、私のカップに注いでもいい?」
「は、はい。どうぞ。……あ、でも、小径人用なので、ナミさんには、ちょっと物足りないかもしれません」
ハルトは、ワインの小瓶を、ナミのカップに傾けた。小径人用のワインが、巨人用のカップの底に、ほんの少しだけ溜まる。
「大丈夫よ。気持ちが嬉しいんだから」
ナミは、カップを手に取り、ハルトのワインを、一口含んだ。
「あ、おいしい。小径人用のワインって、繊細な味がするのね」
「あ、ありがとうございます! よかった」
ハルトは、自分の分の小さなカップにワインを注ぎ、ナミのカップに、そっと自分のカップを近づけた。
「乾杯、です。発表、成功しましたね」
「そうね。乾杯」
ナミは、ハルトの小さなカップに、自分の巨大なカップを、そっと触れさせた。
窓の外には、収穫祭の余韻が残るキャンパスの夜景が広がっていた。巨人用の街灯が、遠くで瞬いている。
「ねえ、あんた」
ナミが、カップを置いて、ハルトを見た。
「は、はい?」
「今日、人波に逸れた時、なんで、私のところに戻ってきたの?」
ナミの琥珀色の瞳が、ハルトをじっと見つめる。
「え、えっと……」
ハルトは、言葉に詰まった。
(なんで、戻ったんだろう)
(逃げようと思えば、逃げられたのに)
(でも、ナミさんの声を聞いたら、体が勝手に動いてた)
ハルトは、自分の心の中を、ゆっくりと探った。
「逃げたら、また、誰かが消えるからです」
ハルトは、ナミの目を見て、言った。
「……え?」
「僕が逃げたら、ナミさんは、また、パートナーを失ったって、自分を責めるでしょう。そうしたら、ナミさんが、消えちゃう気がしたんです。僕の知ってる、ナミさんが」
ハルトは、一気に言った。
ナミは、黙って、ハルトを見つめていた。
「……あんた、本当に、変な奴ね」
ナミは、そう言って、小さく笑った。
「……私ね、昔、パートナーを、何人も、消しちゃったことがあるの」
ナミが、静かに語り始めた。
ハルトは、黙って、ナミの言葉を聞いた。
「一人目は、講義中に、私がノートを取ろうとした肘で、机ごと吹き飛ばした。二人目は、私が怒って手を振り回した時に、壁に叩きつけた。三人目は……」
ナミの声が、震える。
「三人目は、私が、気づかないうちに、踏んでた」
ハルトは、息を呑んだ。
「みんな、私のせい。私が、ちゃんと見てなかったから。私が、あの子たちの存在を、忘れたから」
ナミの瞳から、涙がこぼれた。
巨人の涙は、ハルトにとっては、大きな水滴だ。それが、机の上に落ちて、小さな水たまりを作る。
「その子たちの名前、教えてくれませんか?」
ハルトは、ナミの顔を見上げて言った。
「……え?」
「ナミさんが、消してしまったパートナーの名前。僕、覚えます。心に、刻みます」
ナミは、涙で濡れた顔で、ハルトを見た。
「……ミナ。リョウ。サク」
ナミは、一人一人の名前を、絞り出すように言った。
「ミナさん。リョウさん。サクさん。……覚えました」
ハルトは、三人の名前を、心の中で繰り返した。
(この人たちの分まで、僕は、ナミさんのそばにいる)
(そう決めた)
―――
打ち上げの後半。
ハルトは、机の上で、酔いが回っていた。小径人用のワインとはいえ、ハルトにとっては、十分に強い酒だった。
「あ、あれ……なんか、ふわふわする……」
ハルトは、机の上で、ふらふらと体を揺らした。
「あんた、お酒弱いのね。かわいい」
ナミは、酔っ払ったハルトを見て、笑った。
「ち、違います。弱くないです。ただ、今日は、緊張してたから……」
ハルトは、むきになって言い返した。
「はいはい。強がらなくていいわよ」
ナミは、机の上に置いた自分の手を、ハルトのそばに動かした。
「ほら、倒れそうなら、これに掴まってなさい」
ナミの指が、ハルトのすぐ隣に置かれた。
ハルトは、ふらふらと、ナミの指に寄りかかった。
(あ、温かい)
ナミの指の温度が、ハルトの背中に伝わってくる。
「……ナミさんの指、あったかい」
ハルトは、酔った頭で、思ったことをそのまま口にした。
「……な、なに言ってんのよ」
ナミの声が、少しだけ上ずった。
「ほんとです。あったかくて、気持ちいい。このまま、寝ちゃいそう」
ハルトは、ナミの指に、もたれかかったまま、目を閉じた。
「……しょうがないわね」
ナミは、そう言って、指先で、ハルトの頭を、そっと撫でた。
彼女の指先が、ハルトの髪を、優しく梳く。
(ああ)
(この感触、知ってる)
(幼い頃、母さんに、こうやって、頭を撫でてもらった)
ハルトは、ナミの指の感触を感じながら、ゆっくりと、眠りに落ちていった。
ナミは、眠ってしまったハルトを、指先で、そっと包んだ。
「……おやすみ、ハルト」
彼女の声は、誰よりも優しかった。
―――
翌朝。
ハルトは、小径人用の小さなベッドで目を覚ました。
(あれ、ここ、僕の部屋?)
ハルトは、ぼんやりとした頭で、周囲を見回した。
どうやら、ナミが、眠ってしまったハルトを、小径人用の簡易ベッドに寝かせてくれたらしい。
(ナミさん、ありがとう)
ハルトは、ベッドから起き上がり、端末を手に取った。
画面に、通知が表示されている。
『ペアリンク運営委員会からのお知らせ』
ハルトは、通知を開いた。
『次学期ペアリング継続には、申請書の提出と再審査が必要です。再審査には、ロビン・ヴェイル先輩の推薦状が必要です』
「……ロビン先輩の、推薦状?」
ハルトは、通知を読み返した。
(ロビン・ヴェイル先輩。あの、善意100%の巨人の先輩)
(あの人の推薦が、ないと、ナミさんと、もう、ペアを続けられない)
ハルトは、端末を握りしめた。
その時、ナミの部屋のドアが開いた。
「あ、起きた? おはよう」
ナミが、部屋に入ってきた。彼女は、すでに着替えを済ませていて、髪も整えている。
「お、おはようございます。あの、すみません、昨日は、その……」
ハルトは、昨夜、ナミの指に寄りかかって眠ってしまったことを思い出し、顔が熱くなった。
「いいわよ、別に。かわいかったから」
ナミは、笑いながら言った。
「か、かわいかった……」
ハルトは、恥ずかしさで、言葉を失った。
「それより、あんた、端末見た? 通知、来てたでしょ」
ナミが、真剣な顔で言った。
「……はい。見ました。ロビン先輩の推薦状が、必要だって」
ハルトは、端末をナミに見せた。
ナミは、ハルトの端末を覗き込み、唇を噛んだ。
「……ロビンの推薦が、要るんでしょ。あいつ、私のこと、よく思ってないのに」
ナミは、不機嫌そうに言った。
「僕が、先輩と話します」
ハルトは、ナミの顔を見上げて言った。
「あんたが?」
ナミは、驚いた顔で、ハルトを見た。
「はい。僕が、ロビン先輩に、お願いします。ナミさんの管理能力は、ちゃんと向上してるって、僕が、説明します」
ハルトの目は、逃げていなかった。
「……私も、行くわ」
ナミが、きっぱりと言った。
「え、でも……」
「私も行く。あんた一人で、あのロビンと話させるわけにはいかないわ」
ナミは、譲らなかった。
「ナミさんが来ると、多分、余計にややこしくなります……」
ハルトは、そう言いかけて、口を噤んだ。
(ナミさんとロビン先輩、仲が悪いわけじゃないけど、なんというか、空気が、微妙だから)
(でも、それを言ったら、ナミさん、怒るだろうな)
ハルトは、言葉を飲み込んだ。
「……あんた、今、余計にややこしくなるって思ったでしょ」
ナミが、じとっとした目で、ハルトを見た。
「えっ!? ち、違います! そんなこと、全然!」
ハルトは、慌てて否定した。
「顔に書いてあるわよ。まあ、いいわ。とにかく、私も行くから」
ナミは、そう言って、笑った。
「……わかりました。じゃあ、一緒に、行きましょう」
ハルトは、ナミの笑顔を見て、観念したように言った。
その時、窓の外で、ドン、ドン、という足音がした。
ハルトは、窓の外を見た。
巨人の学生が、一人、中庭を歩いていた。
その足元に、小径人の学生が、一人、いた。
小径人は、巨人の足音に気づいて、必死に逃げている。
しかし、巨人は、その小径人に、気づいていない。
「あっ……」
ハルトは、窓に駆け寄った。
巨人の足が、小径人のすぐ横に、ドン、と降りた。
小径人は、間一髪で、巨人の足を避けた。
巨人は、そのまま、何事もなかったかのように、歩き去っていく。
(また、別の巨人が、別の小径人に、気づかずに歩いていく)
(あれが、僕の、日常)
(でも)
ハルトは、窓の外を見つめながら、思った。
(ナミさんは、違う)
(ナミさんは、僕に、気づいた)
(僕の名前を、叫んでくれた)
(僕を、探してくれた)
ハルトは、申請書を、ぎゅっと握りしめた。
(ロビン先輩に、会いに行こう)
(ナミさんと、一緒に)
(次の学期も、ナミさんのパートナーでいるために)
ハルトの心に、新たな決意が、静かに、しかし確かに、生まれていた。
窓の外では、秋の風が、巨人用の街路樹を、大きく揺らしていた。Noveliaとは?
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