ラボメンNo.009 〜彼女がラボを去った理由〜
秋葉原。雑居ビルの二階。
そこが、未来ガジェット研究所。そして私は、漆原るか。
岡部倫太郎――私たちがオカリンと呼ぶ彼が集めた、数少ない「ラボメン」の一人。特別な力なんて、何もない。紅莉栖のような天才でもなければ、ダルのように機械に詳しいわけでもない。まゆりのように、誰もを安心させる癒しの笑顔さえ、私には持てなくて……。
それでも、オカリンは私をラボメンにしてくれた。「お前は、俺の貴重な戦力だ」と、そう言ってくれた。
その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
タイムマシンだとか、世界線だとか……正直、難しいことはわからなかった。でも、オカリンが真剣な顔で語るから、私も真剣に聞いていた。彼の信じるものを、私も信じたかったから。
これは、誰も知らない私の物語。
たった一人の男の子のために、『シュタインズ・ゲート』へと至る壮大な戦いの陰で、たった七日間だけ、されど永遠にも感じられた、私の恋と決断の記録。
ラボメンNo.009 〜彼女がラボを去った理由〜 - 太陽みたいな笑顔が、刺さる
ラボの外、木の廊下の冷たさが、壁にもたれた背中からじわじわと染み込んでくる。
涙は、いつの間にか止まっていた。
泣き疲れたというより、ただ、涙が枯れただけだ。目の奥がひりひりと痛む。腫れぼったいまぶたをこすると、古い蛍光灯の頼りない光がにじんで見えた。
「[gentle]……帰らなくていいの?」
隣から、静かな声が降ってくる。
紅莉栖さんは膝を抱えて、私と同じように壁にもたれかかっていた。腰まで届く長い赤茶色の髪が、薄暗い廊下の中でぼうっと浮かび上がっている。彼女も、疲れ果てた顔をしていた。目の下に刻まれた隈が、廊下の照明に濃い影を落としている。
「[whispers]……帰れません」
私は、膝の上で組んだ自分の指先を見つめながら、かすれた声で答えた。
「あの、えっと……岡部さんを、一人に、できません」
今、帰ったら。
多分、もう二度と、ここには来られなくなるような気がした。岡部さんの一番になれないと、身に染みてわかった。それでも、ここでただオロオロと見ているだけの自分が、惨めで、情けなくて。それでも。
(離れたく、ない)
矛盾した感情が、胸の奥でぐるぐると渦を巻いている。
紅莉栖さんは、しばらくの間、何も言わずに私を見つめていた。その紫の瞳は、何かを見極めようとするように、真剣だった。やがて、彼女の口元が、ほんの少しだけ緩む。
「[gentle]……そう」
彼女はそう言うと、壁に手をついて立ち上がった。
「[gentle]じゃあ、代わってくれる? 私、少し仮眠を取るわ。あなたが来てくれたから、ようやく安心して眠れそう」
その言葉に、私ははっとして顔を上げた。
「[surprised]わ、私で……大丈夫、なんですか?」
「[gentle]大丈夫よ。何かあったら、すぐに起こして」
紅莉栖さんは、それだけ言うと、ラボの隣の小部屋へと消えていった。
私はしばらく、その場に座り込んだまま、動けなかった。
(私で、大丈夫なんだろうか)
不安はある。でも、それ以上に、ほんの少しだけ、嬉しかった。
役に立てるかもしれない、と。そう思えたことが、こんな夜中でも、心の中に小さな灯りをともしてくれた。
——
金曜の早朝。
夏の日差しはまだ柔らかく、窓から差し込む光が、ラボの埃っぽい空気をうっすらと照らし出していた。
岡部さんは、まだ眠っている。
いや、眠っているというより、気を失っているといった方が正しい。ソファに横たわった彼の顔色は、驚くほど白い。時折、苦しそうに眉をひそめ、乾いた唇からかすれた吐息が漏れる。
私は、傍らに置いた洗面器の水で、タオルを冷やしていた。
(熱が、下がらない)
額に手をかざすだけで、熱気が伝わってくる。三日三晩、ほとんど眠らず、飲まず食わずで、タイムリープだの世界線だのという、途方もないものと戦っていたのだ。当然だった。
何度も、まゆりさんが死ぬのを見た。
その事実が、頭の中でこだまする。
(どんな気持ちで、タイムリープしたんだろう)
冷たくなったタオルを、そっと彼の額に乗せる。岡部さんの眉間の皺が、少しだけ緩んだ気がした。
優しくて、強くて、いつも私のことを気にかけてくれて、ラボメンにまでしてくれた人。その人が、今は、小さな子供みたいに、目の前で壊れそうになっている。
背筋を、冷たいものが這い降りた。
ギシ、とドアが開く音がした。
振り返ると、紅莉栖さんが立っていた。少し眠ったのだろう、顔色は昨夜よりいくらかマシに見える。彼女は黙って私の隣に歩み寄ると、同じように床に腰を下ろした。
「[serious]……彼、うわ言は?」
「[whispers]いえ……少し、落ち着いてるみたいです」
私は小さく首を振った。
「[serious]そう」
紅莉栖さんは、岡部さんの寝顔をじっと見つめた。その横顔は、やっぱり疲れ切っていて、でも驚くほど冷静で。私は、昨日聞けなかったことを、思い切って口にした。
「[whispers]牧瀬さん……Dメールって、何ですか?」
紅莉栖さんの肩が、ぴくりと動いた。
「[serious]……知ってるのね」
「[whispers]岡部さんが、うわ言で……世界線が、どうとか」
長い沈黙が、部屋を包んだ。壁の時計の秒針だけが、カチ、カチ、と機械的に時を刻んでいる。
「[serious]……いいわ。話す」
彼女は、まるで自分に言い聞かせるように、静かに、話し始めた。
「[serious]Dメールっていうのは、過去にメールを送る技術よ。岡部が、偶然発見したの」
過去に、メールを。
「[serious]メールを送ると、過去が変わる。すると、世界線——因果律の分岐構造が変わって、今の世界とは全く別の世界に移動してしまう」
世界が、変わってしまう。
「[serious]そして、この世界線では……椎名まゆりが、死ぬことが、確定してる」
まゆりさんが。
死ぬ。
頭の中が、真っ白になった。
「[serious]岡部は、その死を回避しようと、何度も、タイムリープを繰り返している。自分の記憶だけを過去に送って、何度も何度も、彼女が死ぬ瞬間を、目撃しながら」
何度も。
親友の死を。
「[crying]岡部さんは……ずっと、たった一人で……?」
声が、震える。
目の前が、にじんで歪んだ。
あの、誰よりも優しい人が。
私なんかを、仲間だと言って、守ってくれた人が。
たった一人で、何度も、親友の死に向き合って、それでも諦めずに、戦って。
ボロボロになるまで、心を削って。
私、何も、知らなかった。
知ろうとも、しなかった。
ただ、岡部さんに守られて、甘えて。自分の恋心が届くかどうかで、一喜一憂して。
涙が、あふれて、止まらなかった。
声が出ない。喉が、ぎゅうっとなって、息が、うまく吸えない。
紅莉栖さんは、何も言わなかった。ただ、無言で、自分のハンカチを私の膝の上に置いた。
「[crying]すみませ……私、私なんかが……」
うまく言葉にできない。
私はただ、両手で顔を覆って、声を押し殺して泣いた。彼の苦しみの、ほんの一片すら、私は知らなかった。それが、何よりも、つらくて、悔しくて。
どれくらい、そうしていただろう。
「[serious]……もう一つ、伝えておくべきことがあるわ」
涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を、紅莉栖さんはまっすぐに見つめた。
「[serious]まゆりの死が確定している世界線は、一つだけじゃない。彼は、複数の世界線で、彼女の死を経験して——」
その時だった。
「[crying]……クリス……ドクターペッパーを……補充しろ……」
突然の、間の抜けた声に、私と紅莉栖さんの動きが、ぴたりと止まった。
二人して、ソファに横たわる岡部さんを見つめる。
彼は、相変わらず苦しそうな顔で、うわ言を続けている。眉間には深い皺。額には大粒の汗。息は荒い。
でも、さっきの言葉は。
「[cold]……今、そこ?」
紅莉栖さんが、脱力した声でつぶやいた。
思わず、私は、ふっと、息を漏らしていた。
笑って、しまった。
「ふふっ……」
こんな時に、この人は。
世界がどうとか、死がどうとか、そんな、途方もなく重い話をしている時に。
ドクターペッパーの補充。
「[sad]……バカみたい」
紅莉栖さんも、ため息混じりに、でも口元を少しだけ緩めて、苦笑いした。
部屋の重苦しい空気が、ほんの一瞬だけ、ふわりと軽くなる。
でも。
「[crying]……まゆり……待ってろ……俺が……必ず……」
その直後、彼の口から絞り出された言葉に、笑顔が、消えた。
また、その名前を呼ぶ。
何度も、何度も。
その声は、苦しくて、切なくて。
(岡部さんの心は、やっぱり、まゆりさんでいっぱいなんだ)
わかりきっていたことなのに、胸の奥が、チクリと痛んだ。
私は、岡部さんの傍らに手を置いた。
握りしめたいと思った。その手を取って、大丈夫です、と伝えたいと思った。
でも、できない。
(私が握れる手じゃ、ない)
伸ばしかけた指を、ぐっと引っ込める。
代わりに、私は、新しいタオルを手に取った。冷たい水で絞り直して、彼の熱い額に、そっと置く。
今の私にできることは、これだけだった。
——
昼過ぎ。
強い日差しが窓を白く染める頃、異変は突然に訪れた。
トントン、と軽いノックの音。
「[excited]オカリン、聞いてー! お見舞いに来たのです!」
弾むような声と共に、ラボのドアが勢いよく開いた。
心臓が、跳ね上がった。
そこに立っていたのは、小柄な少女だった。肩にかかるくらいの、ふんわりした濃紺のセミロング。サイドで小さなシュシュが揺れている。まんまるで大きな、澄んだ青色の瞳が、部屋の中をきょろきょろと見回していた。
椎名、まゆりさん。
初めて、ちゃんと見る。
あの時の、写真で見た人。
岡部さんの、幼馴染で。
複数の世界線で、死ぬことが、確定している人。
「[excited]あ! オカリン、やっぱり寝てる! バカだよもう、無理しすぎだよ!」
まゆりさんはコロコロと笑いながら、岡部さんのソファに駆け寄った。そして、乱れた毛布を整え始める。その手つきは手慣れたもので、まるでずっと前からこうしてきたかのように自然だった。
彼女は、死ぬ。
この笑顔が、消える。
頭ではわかっているのに、彼女の笑顔は、驚くほど明るくて、あったかくて。
「[excited]あ! もしかしてラボメンの子? はじめまして、まゆりだよ! よろしくなのです!」
まゆりさんは、私に気づくと、ぱあっと表情を輝かせて、手を振った。
その笑顔には、濁りが、何もない。
悪意も、嘘も、かげりも。
ただ、純粋な光だけでできているような。
だからこそ、胸が、抉られるように痛んだ。
「[whispers]……は、はじめまして。漆原、るか、です」
声が、震える。うまく、笑顔を作れない。
「[excited]るかちゃんって呼んでいい? オカリンがね、すっごくかわいい子がラボメンになったんだよーって、自慢してたんだよ!」
岡部さんが、私のことを。
胸が、ドキリと脈打つ。
でも、それ以上に、痛みが走る。
なぜ、よりによって、あなたが、そんなことを言うんだろう。
「[gentle]オカリンってね、本当は誰よりも優しいんだよ。みんなのこと、全部自分で抱えようとするから……見てて、すごく心配になっちゃう」
まゆりさんは、寝ている岡部さんの前髪を、そっと指でとかしながら言った。
「[gentle]だから、るかちゃんみたいな子がそばにいてくれて、私、すごく嬉しいな」
その言葉が。
その目が。
(ああ、この人は、本当に、何も知らないんだ)
自分の死の運命も。
岡部さんが自分のために、どれほど心を砕いているかも。
「[whispers]……私なんかが、いるだけで、大丈夫なんでしょうか」
気がつくと、私は、うつむきながら、そう言っていた。
まゆりさんは、きょとんとした顔で私を見つめ、それから、ふにゃりと笑った。
「[excited]大丈夫だよ! だって、ラボメンはみんな仲間なんだから!」
仲間。
そこに、悪意は、かけらもなかった。
それが、何よりも、胸を刺した。
——
夕方。
紅莉栖さんが「薬を買ってくる」と席を外し、ラボには私と、まゆりさん、そして眠ったままの岡部さんの三人だけになった。
蝉の声が、遠くでうるさく響いている。
「[gentle]ねえ、るかちゃん」
まゆりさんが、いたずらっぽい目で、私の顔を覗き込んできた。
「[gentle]るかちゃんって、オカリンのこと、好きなの?」
心臓が、止まったかと思った。
「[surprised]えっ……あの、えっと……」
言葉が、喉に詰まる。顔が、かあっと熱くなっていくのが自分でもわかった。
「[laughing]隠さなくていいよ。顔に書いてあるもん」
まゆりさんは、くすくすと笑った。
その笑顔に、マウントも、気遣いも、何もない。ただ純粋に、私のことを気にかけている、その優しさだけがあった。
だからこそ。
だからこそ、私は、言わなければと思った。
「[sad]……岡部さんにとって、まゆりさんが一番、大切なんですよね」
自分の声が、やけに遠くに聞こえた。
まゆりさんは、少しだけ困ったような顔をして、首をかしげた。
「[gentle]うーん……そういう一番とか、わかんないけど。でも、オカリンはみんなのこと、ちゃんと大切にしてるよ。もちろん、るかちゃんのこともね」
その言葉が、優しくて、残酷だった。
傷つけたいとは、思えない。
それでも、岡部さんの隣にいるのは、この人なんだと、まざまざと思い知らされる。
私は、ただ、うつむいて、唇を噛むことしかできなかった。
——
深夜。
まゆりさんが帰り、紅莉栖さんも「明日も早いから」と仮眠を取りに隣の部屋へ消えた後。
私は一人、翠明荘の屋上にいた。
フェンス越しに見下ろす秋葉原の街は、まだ眠っていなかった。無数のネオンがチカチカと瞬き、中央通りを歩く人々の姿も見える。少し前まで、私はこの街で、岡部さんと一緒に歩くだけで、幸せだったのに。
夜風が、私の長い髪をふわりと揺らした。
(まゆりさんは、死ぬ)
(岡部さんは、それを見ながら、壊れかけている)
(私は、何もできない)
欄干に、ぎゅっと手をかける。
——本当に、何もできないんだろうか。
紅莉栖さんの言葉が、蘇る。
『Dメールで、世界線は変わる』
世界線が、変わるなら。
もしも、私という存在が、なかったら。
最初から、いなければ。
胸の奥で、何かが、ぐるぐると回り始めた。
ダメだ。そんなことを考えちゃいけない。
頭ではわかっている。でも、その考えは、一度生まれてしまったら、もう止まらなかった。
まゆりさんの、あの太陽みたいな笑顔。
ラボの床で、髪を掴んで泣き叫んでいた、岡部さんの背中。
その二つが、瞼の裏に張り付いて、離れない。
屋上から見る秋葉原のネオンは、いつもより、ずっと遠くに感じた。
私は、夜の闇に溶けていく街の灯りを、ただ、じっと見下ろしていた。