ふたりだけのオフィスで、社長と私のひみつごと
三十一社目の面接も、どうせダメだろう――そう思っていた無職八カ月のカケルは、大手芸能プロダクションの新設部署で、まさかの即採用を言い渡される。
採用を決めたのは、冷徹な美貌の若き社長・鷹嶺ルイ、二十五歳。感情を表に出さず、書類仕事さえも機械のように片付ける彼女が、なぜ経歴も自信もないカケルを選んだのか。
「返事は『はい』か『イエス』だけよ」
そう言い放ち、社長室の隣にデスクを用意させたルイの真意は、謎のまま。
社長室のすぐ隣で始まる、たったふたりだけの秘密の日々。
仕事を超えて近づいていくふたりの距離に、果たして何が待っているのか――。
胃の痛みを抱えたお人好し秘書と、氷のような美人社長が紡ぐ、オフィスラブストーリー、開幕。
ふたりだけのオフィスで、社長と私のひみつごと - 君、今日から私の秘書ね。
胃が、痛い。
青井カケルは、大手芸能プロダクション・ホロライブの本社ビル「ホロライブセントラル」の前で、立ちすくんでいた。
千代田区神田錦町。皇居の緑を背にした、オフィス街のど真ん中だ。
目の前には、十四階建ての巨大なビル。一階の受付ロビーは全面ガラス張りで、中の様子がまる見えだった。
大理石みたいなピカピカの床。壁には、横幅五メートルはありそうな巨大モニターがかかっていて、ホロライブ所属の超人気タレントたちが、笑顔でコマーシャルを流している。
(……場違いすぎる)
カケルは、自分が着ているスーツを見下ろした。
スーパーの安売りで買った、三千九百八十円の激安品。ネクタイは、今朝いくら直しても微妙に曲がったままだ。
くせっ毛が少し入った黒髪も、伸ばしっぱなしでボサボサしている。猫背で、身長172センチの体は、実際よりずっと小さく見えるはずだ。
「はあぁ……」
胃を、ぎゅうっと押さえる。
これはカケルの悪い癖だ。緊張すると、すぐにお腹が痛くなる。
今日は、ここで三十一回目の面接だ。
大手芸能プロダクションが新しく作った「タレントイノベーション事業部」の、社長秘書の求人。
(どうせ、またダメだ)
カケルは、手に持ったボロボロの履歴書を見つめた。
地方のテレビ局に一年だけ勤めて、それっきり。無職期間は、もう八ヶ月になる。
自己肯定感なんて、とっくの昔に地の底だ。
──前の会社で、俺は。
パワハラに遭っている同僚を、助けようとした。
結果、自分が辞めることになった。
(後悔は、してない)
(けど……こんな俺を、誰が雇うんだ)
カケルは深いため息をついてから、観念して、ビルの正面玄関をくぐった。
自動ドアが開くと、ひんやりした冷房の風が、カケルの前髪を揺らす。
ロビーの天井は、やけに高かった。
受付には、笑顔のきれいなお姉さんが四人も座っている。奥では、警備員が二人、厳しい顔で立ちっぱなしだ。
「あの……面接の、青井と申します」
カケルは受付にそう言って、指定された七階のボタンを押した。
エレベーターが、静かに上昇を始める。
(どうせ、今回もダメに決まってる)
壁に貼られた、事業部の案内を見る。
『タレントイノベーション事業部』──既存のマネジメントだけじゃなくて、タレントの新規発掘から育成、ブランディング、異業種コラボまで、一括してやる新部署らしい。
年間予算、約八億円。
(すごい額だ……)
(そんな場所で、俺が秘書? 無理に決まってる)
エレベーターが、チン、と音を立てて止まった。
七階のフロアは、しんと静まり返っていた。
ここが、タレントイノベーション事業部のワンフロアだ。
廊下を進むと、応接室のドアがある。
カケルは、痛む胃を押さえながら、三回ノックをした。
「遅い」
返ってきたのは、冷たい一言だった。
カケルはおそるおそるドアを開ける。
応接室のテーブルには、一人の女性が座っていた。
片手で分厚い書類をめくりながら、もう片方の手でコーヒーカップを口に運んでいる。
肩にかかるくらいの、艶やかな黒いストレートの髪。サイドの髪を、耳にかける仕草が見えた。
切れ長のダークブラウンの瞳は、知的で、鋭い。
──鷹嶺ルイ。二十五歳。
この新設部署の、若き女性社長だ。
ルイは、カケルの顔をちらりとも見なかった。
「座って」
「は、はい……」
カケルが椅子に腰を下ろすと、ルイは無言で、カケルの履歴書を手に取った。
その動きは、まるで仕事を片付ける機械みたいに、素早くて、無駄がない。
「地方テレビ局で一年。すぐに退職。無職期間八ヶ月」
ルイの声は、抑揚がなかった。
カケルの胸が、ズキリと痛む。
「志望動機は、『誰かの役に立ちたいから』……これ、冗談?」
カケルは、何も言えなかった。
言い返せることなんて、何もない。
俯いて、自分の膝を見つめる。
スーツの膝の部分が、薄汚れていた。
(そうだよな)
(こんな経歴のやつ、誰が雇うんだよ)
カケルは、そっと胃を押さえた。
このまま、何も言わずに帰ろうと思った。
でも。
(……でも)
震える声が、カケルの口から漏れた。
「前の会社で……」
ルイの手が、止まった。
「パワハラに遭ってる人が、いて……その人を、助けようとしたら」
言葉が、うまく出てこない。
「気づいたら、俺が……辞めることになってました」
俯いたまま、カケルは続けた。
「その人からは、ありがとうって言われました。でも……俺、自分が正しいことしたのか、まだわからなくて」
カケルの声は、消え入りそうだった。
ルイが、ゆっくりと顔を上げた。
そして、初めてカケルの顔をまじまじと見つめる。
「それで、後悔してる?」
ルイの声は、さっきよりずっと低くて、真剣だった。
カケルは、膝の上で震える手をぎゅっと握りしめた。
「……後悔は、してません」
カケルは、顔を上げた。
優しそうな垂れ目の奥で、深い茶色の瞳が揺れている。
「あの時助けられなかったら、もっと後悔してたと思います」
自分でも、何を言ってるんだろうと思った。
こんなこと話したって、面接に落ちるだけだ。
でも、カケルの口は止まらなかった。
「俺、困ってる人を放っておけなくて……そのせいで、いつも失敗ばかりで……」
カケルの声は、もう震えていなかった。
ルイの目つきが、変わった。
さっきまでの冷たい瞳じゃない。
何かを、値踏みするような、真剣な目。
ルイは突然、履歴書を机の上に放り投げた。
パサリ、と書類が広がって、床に落ちる。
「君、今日から私の秘書ね」
カケルは、本気で意味がわからなかった。
「……は?」
ルイは立ち上がると、一枚の社員証を、カケルの目の前に突きつけた。
「返事は『はい』か『イエス』だけよ」
ルイはそれだけ言うと、さっさと応接室を出ていく。
カケルは呆然と、突きつけられた社員証を見つめた。
そこには、自分の名前が印字されていた。
青井カケル。タレントイノベーション事業部。社長秘書。
(え……)
(採用……されたのか?)
わけがわからないまま、カケルは立ち上がった。
廊下に出ると、ルイが振り返らずに言う。
「こっち。あなたのデスク、案内する」
ルイが指さしたのは、社長室のすぐ隣にある、小さなデスクだった。
「今日からここがあなたの席。以上」
ルイはそれだけ言うと、社長室のドアをバタンと閉めた。
カケルは、ひとり、廊下に取り残される。
手の中にある、自分の社員証を見つめた。
「……採用、されたのか」
三十分後。
カケルは、一階のロビーで、まだ呆然と立ち尽くしていた。
ピカピカの床に、窓から差し込む午後の日差しが反射して、まぶしい。
巨大モニターでは、相変わらず超人気タレントたちが笑顔を振りまいている。
手には、しっかりと社員証が握られていた。
(わけがわからないまま、就職が決まった)
普通なら、嬉しいはずだ。
三十社も落ちて、やっと決まった内定だ。
なのに。
(さっきの人……鷹嶺社長)
(なんか、ただものじゃない感じだった)
カケルは思い出す。
書類をバサバサ放り投げる姿。
冷たい目つき。
敵に回したら、絶対に怖いタイプだ。
(これは……たぶん)
(地獄の始まりだ)
カケルは、胃を押さえた。
「はあぁ……」
社員証を握りしめたまま、彼は、長い長いため息をつく。
ビルの外では、千代田区の街が、いつも通りに動いていた。
駅から流れてくるスーツ姿の社会人たち。遠くで聞こえる、工事の音。
ここから、いったいどうなってしまうのか──青井カケルには、まったく予想がつかなかった。
ただ、胃の痛みだけが、現実だった。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。