ふたりだけのオフィスで、社長と私のひみつごと
三十一社目の面接も、どうせダメだろう――そう思っていた無職八カ月のカケルは、大手芸能プロダクションの新設部署で、まさかの即採用を言い渡される。
採用を決めたのは、冷徹な美貌の若き社長・鷹嶺ルイ、二十五歳。感情を表に出さず、書類仕事さえも機械のように片付ける彼女が、なぜ経歴も自信もないカケルを選んだのか。
「返事は『はい』か『イエス』だけよ」
そう言い放ち、社長室の隣にデスクを用意させたルイの真意は、謎のまま。
社長室のすぐ隣で始まる、たったふたりだけの秘密の日々。
仕事を超えて近づいていくふたりの距離に、果たして何が待っているのか――。
胃の痛みを抱えたお人好し秘書と、氷のような美人社長が紡ぐ、オフィスラブストーリー、開幕。
ふたりだけのオフィスで、社長と私のひみつごと - 大逆転の告白と凸凹コンビの始まり
午前中に仕上げた企画書が、スーツの内ポケットでずっしりと重かった。いや、重いのは紙の束じゃない。これは、俺の覚悟の重さだ。
青井カケルは、ホロライブセントラル七階のエレベーターホールで、一度だけ深呼吸をした。胃が、きゅうっと縮む。でも、それはいつもの恐怖からじゃない。これから始まる戦いへの、武者震いのようなものだった。
時刻は午後一時。ランチから戻ったばかりの部署の空気は、まだ少し気だるい。デスクについた同僚たちが、チラリとカケルを見て、すぐに視線を戻す。彼らはまだ、昨日の大喧嘩を覚えている。床に散らばった書類。ルイの怒号。あの冷戦の空気を。
でも、もう違う。
カケルは、意を決して社長室のドアをノックした。
「鷹嶺社長、青井です」
「入りなさい」
ドアを開ける。鷹嶺ルイは、銀縁の伊達メガネをかけた仕事モードの顔で、パソコン画面を見つめていた。肩にかかる黒のストレートヘアが、空調の風でふわりと揺れる。昨日のヒステリックな姿が嘘みたいな、クールな佇まい。でも、カケルにはもう分かっていた。この人は、こうやって鎧を着ているだけだ。
「企画書、できました」
カケルは、胸ポケットから折り畳んだ書類を取り出すと、ルイのデスクに丁寧に置いた。
一晩で書き上げた、橘カンナ奪還のための秘策——人気ゲーム実況者との大型生配信コラボ企画だ。
ルイは、その書類を手に取った。伊達メガネの奥のダークブラウンの瞳が、文字を追うごとに、わずかに見開かれる。
「これは……」
「午後から、もう一度ステラグロウに行ってきます」
カケルの声は、震えていなかった。
ルイが顔を上げる。その表情は、驚きと、かすかな心配が入り混じっていた。
「また一人で行くの? あの男のところに?」
「はい。今度は、ちゃんとアポを取ります。前回みたいに、殴り込みじゃありません」
カケルは、少しだけ笑った。胃は痛い。でも、不思議と怖くはない。俺にはこれがある——カケルは、ルイが手にした企画書を見つめた。
ルイは、何か言いたそうに唇を開きかけて、でも、それをグッと飲み込んだ。代わりに、メガネのブリッジをクイッと押し上げる。照れている時の彼女の癖だ。
「……分かったわ。でも、無茶はしないって約束しなさい。いいわね」
「約束します」
カケルは、深く一礼すると、社長室を後にした。
すぐにスマホを取り出し、カフェ「リリオブランカ」の店主、桐野ハナにもらった連絡先に電話をかける。それは、橘カンナのマネージャー直通の番号だった。
数回のコールの後、電話が繋がった。
「お忙しいところすみません、ホロライブの青井と申します。橘カンナさんの件で、どうしても直接ご本人に企画書をお見せしたくて……」
——
一時間後。
カケルは、港区赤坂の「ステラグロウタワー」の前に立っていた。全面ガラス張りの十八階建てビルは、午後の陽光を乱反射して、ギラギラと輝いている。前回来た時は、雨に打たれながら、震える足でここに立った。門前払いされて、何もできずに帰った。
でも、今日は違う。
自動ドアをくぐる。白を基調としたロビーは、水のように静かだった。受付カウンターには、前回も見かけた、感じのいい女性スタッフが二人。
「すみません、ホロライブの青井と申します。神谷社長と橘カンナさんに、午後三時からのお約束で……」
受付嬢は、一瞬だけ驚いた顔をした。前回、追い返された男が、再び——しかも、堂々とアポを取って——現れたからだ。
「はい、伺っております。十八階の社長室へどうぞ。エレベーターは、あちらです」
彼女は、ほんの少しだけ、感心したような笑みを浮かべた。
エレベーターに乗り込む。最上階へのボタンを押す。
静かに上昇していく箱の中で、カケルは、心臓の鼓動を感じていた。ドクンドクンと、うるさいくらいだ。手に持った企画書のファイルが、汗で湿っている。
(大丈夫。俺は、彼女のために、ここにいる)
——チン。
ドアが開くと、そこは前回と同じ、東京タワーを一望できる広大な社長室だった。
ミニマルな家具。デスクの上の一台のパソコン。そして、大きな窓を背にして立つ、長身の男。
「やあ、青井くん。よく来たね。約束通りだ」
神谷レンは、余裕のある微笑みを浮かべていた。少し長めのプラチナブロンドを、サラリとかき上げる。その仕草だけで、映画のワンシーンのようだ。澄んだブルーグレーの瞳が、カケルをじっと見つめている。
そして、部屋の中央のソファセットには、もう一人。
彼女が、そこにいた。
橘カンナ。ホロライブとの契約目前で、ステラグロウに電撃移籍した、超有名タレント。小柄で、黒髪のボブカットが良く似合う。テレビで見るより、ずっと落ち着いた雰囲気の美女だ。その隣には、彼女のマネージャーらしき、スーツ姿の中年女性が座っている。
「わざわざお越しいただき、光栄です。橘さん、初めまして。ホロライブ、タレントイノベーション事業部の青井です」
カケルは、深々と頭を下げた。
橘カンナは、静かに会釈を返した。その瞳は、好奇心と、ほんの少しの警戒心が入り混じっている。
「で、今日はどんな面白い話を聞かせてくれるのかな? 青井くん」
レンは、窓辺に寄りかかりながら、楽しそうに言った。からかっている。いつもの余裕のポーズだ。
カケルは、企画書のファイルをテーブルに置いた。
指先が、まだ少し震えている。でも、もう逃げない。
「まず、率直に申し上げます。神谷社長のSNS戦略は、確かに素晴らしい。拡散力、ブランディング、どれを取っても業界トップクラスです」
カケルは、レンの目をまっすぐに見て、言った。
「でも、それには一つだけ、決定的な盲点があります。それは、タレントとファンの関係が、完全に一方通行だということです」
レンの微笑みが、一ミリだけ、動いた。
「ほう?」
「御社の戦略は、タレントの『見せたい姿』を美しく切り取り、拡散することに特化しています。それはそれで一つの正解です。でも、今のファンはもっと、タレントの『素』の姿を知りたがっている。失敗も、迷いも、そのままの感情を共有したい。つまり——双方向のコミュニケーションです」
カケルは、企画書を開いた。
そこには、一枚のスライド資料。タイトルは——『カンナ × KEITA 生配信コラボ企画』。
「私は、人気ゲーム実況者のKEITAさんと、橘さんの大型生配信コラボを提案します!」
橘カンナの目が、わずかに輝いた。
「カンナさん、あなたは以前、雑誌のインタビューで『実はゲームが大好きで、休日は一日中やってしまう』とおっしゃっていましたね」
「え……読んでくれてたの、あのインタビュー」
カンナの声は、テレビで見るよりも少し高くて、素朴な響きがあった。
「はい! そしてKEITAさんは、チャンネル登録者数三〇〇万人を超える超人気実況者です。この二人が一緒にゲームをプレイして、リアルタイムでファンのコメントに反応する。笑ったり、失敗したり、時には言い争ったり——それを見たファンは、『ああ、カンナってこんなに人間的なんだ』と感じる。そして、共感し、応援したくなる」
カケルは、熱を帯びた声で続けた。胃の痛みは、もう消えていた。
「レン社長の戦略は、『憧れ』を作るのが天才的です。でも、僕が作りたいのは『共感』と『信頼』です。タレントを、手の届かないスターではなく、一緒に笑い、一緒に成長していく『仲間』としてファンに感じてもらう——それが、これからのタレント像だと、僕は信じています」
部屋が、静まり返った。
レンは、何も言わない。そのブルーグレーの瞳は、冷たく、値踏みするようにカケルを見つめている。これまでの余裕の仮面が、わずかに剥がれかけていた。
沈黙を破ったのは、橘カンナだった。
「……私」
彼女は、前のめりになって、企画書を食い入るように見つめていた。
「私、KEITAさんの大ファンなんです! しかも、これ、私が一番好きなホラーゲームじゃないですか! ここ——ここに書いてある、『叫びすぎてコントローラーを投げる』って、私、絶対やりますよ!」
カンナの頬が、興奮でほんのり紅潮している。隣のマネージャーが、驚いた顔で彼女を見た。
「カンナ、あんた……」
「この企画、絶対に面白いです。ねえ、私にやらせてください! 青井さん、いや、ホロライブの鷹嶺社長に、私からお願いしたい!」
カケルの胸の奥で、何かが、そうっと弾けた。
(——届いた)
俺の想いが、ちゃんと、彼女に伝わった。
大逆転だ。
神谷レンの表情が、初めて、硬直した。
「カンナくん、契約の話は……」
「レン社長。私が決めることです」
橘カンナは、凛とした声で言った。
「私は、この企画がやりたい。ステラグロウの契約は、白紙に戻させてください。違約金は、私が持ちます」
レンの左手——銀の指輪が光る薬指が、ピクリと震えた。
彼は、ゆっくりとカケルに向き直った。その顔からは、余裕の微笑みが、完全に消えている。
「……面白いね。青井くん。君は、私の予想をはるかに超えてきた」
レンの声は、冷たいのに、どこか熱を帯びていた。嫉妬と、敵意と——そして、ほんの少しの敬意。
「だが、運が良かっただけだと、そう思わないか? たまたまカンナくんがゲーム好きだった。それだけの話だ」
カケルは、首を横に振った。
「違います。僕は、橘さんのことを、ちゃんと調べました。彼女が何を好きで、何を大切にしているか——それを理解した上で、この企画を立てたんです。それは、運じゃない。努力です」
レンのブルーグレーの瞳が、細められた。
そこにはもう、紳士の仮面はなかった。あるのは、獲物を狩るハンターの冷徹な目だ。
「努力、か。いいだろう。だが、君は結局、何も分かっていない。ルイくんを守りたい? 笑わせるな。彼女の過去を、君は何も知らないだろう。彼女が、どれほどの闇を抱えているか。君みたいなお人好しの坊やじゃ、彼女を守れるわけがない」
その言葉は、冷たい刃だった。
カケルの心臓に、スッと突き刺さる。
(ルイ社長の……過去?)
知らない。俺は、彼女のことを何も知らない。好きなコーヒーの温度も、書類のホチキスの角度も、深夜に一人で泣いていることも——知ってるつもりで、本当は、何も知らないのかもしれない。
レンは、そんなカケルの動揺を見て、初めて口元を歪ませた。
「今日のところは、君の勝ちだよ。おめでとう。でも、覚えておくといい。ゲームは、まだ始まったばかりだ」
——
その夜、午後九時。
カケルは、ホロライブセントラル七階のエレベーターを降りた。
橘カンナのマネージャーとの詳しい打ち合わせを終えて、ヘトヘトだった。胃の痛みが、戻ってきている。でも、それは充実感の痛みだった。
フロアの明かりは、ほとんど消えている。みんな、とっくに帰った後だ。
でも、社長室のドアの下から、細い光が漏れていた。
(まだ、いるんだ)
カケルは、そっとドアをノックしようとして——やめた。
代わりに、そのままドアを開けた。
社長室の中。
鷹嶺ルイは、デスクに突っ伏していた。
書類の山に埋もれて、肩を、小さく震わせて。
泣いている。
声を殺して、泣いている。
「……社長?」
カケルの声に、ルイの肩がビクンと跳ねた。
彼女は、慌てて顔を上げる。伊達メガネの奥のダークブラウンの瞳は、涙で濡れて、宝石みたいにキラキラと光っていた。
「な、なんであんたがここに……! ノックくらいしなさいよ、バカ!」
ルイは、涙を乱暴に手の甲で拭いながら、怒鳴った。でも、その声は震えていて、全然、怖くなかった。
「すみません……でも、どうして泣いて……」
「カンナのマネージャーから、連絡があったのよ。企画書の件、聞いたわ。あんたが、一人で、レンに、勝ったって……」
ルイは、顔を上げた。
涙が、また一粒、こぼれる。彼女の頬を伝って、デスクの上の書類に、ポツリと染みを作った。
「バカ。なんでよ。なんで、あんた、いつもいつも、私のためにそんな無茶ばかりするのよ……」
「それは……俺が、あなたの力になりたかったからです」
カケルの声は、自分でも驚くほど、はっきりとしていた。
「社長が、悔し涙を流してるのを見て。俺、いてもたってもいられなくて。俺なんかが、何ができるか分からなかったけど……でも、何かしたかった。あなたに、もう、あんな顔をしてほしくなかった」
ルイは、立ち上がった。
ゆっくりと、一歩、また一歩と、カケルに近づく。ヒールの音が、静かなオフィスに、コツ、コツ、と響いた。
「ありがとう」
ルイは、カケルの目の前で立ち止まった。
彼女の顔は、涙でグシャグシャだった。いつもの、凛とした女王様の仮面は、もうどこにもない。そこにいるのは、ただの、一人の女の子だった。
「ありがとう。今まで、素直に言えなくて、ごめん。あんたが、私の秘書になってくれて、本当に、本当に良かった……」
ルイは、もう一度、涙を拭った。でも、涙は次から次へと溢れてきて、止まらなかった。
彼女は、震える声で、続ける。
「ええ、君が必要よ。私に、あなたが必要なの。だから……だから、お願い。これからも、ずっと、そばに、いて……」
心臓が、破れそうだった。
くらくらする。目の前の彼女が、本当に、俺の知ってる鷹嶺ルイ社長なのか。
カケルの目頭も、熱くなっていた。
「俺もです」
声が、震えた。
「俺も、あなたが必要です。あなたのそばに、いさせてください。あなたを、守らせてください」
気がついたら、カケルは、ルイを抱きしめていた。
細い体。壊れそうなほど、細くて、温かかった。彼女の髪から、ふわりと、いい匂いがした。
ルイは、一瞬だけ体を強張らせた。
でも、次の瞬間には、彼女もまた、カケルの背中に腕を回していた。
「……あったかい」
ルイが、カケルの胸の中で、小さく呟いた。
部屋には、誰もいない。
窓の外には、東京の夜景が、宝石箱みたいにキラキラと輝いている。
二人は、長い時間、そうしていた。
言葉はいらなかった。
ただ、お互いの体温と心臓の鼓動だけが、すべてを語っていた。
仕事でも、恋でも——最高のパートナーになろう。
そう、誓い合った。
——その時だった。
ブブ、と。
ルイのデスクに置かれたスマホが、無機質に震えた。
ルイは、名残惜しそうにカケルから体を離すと、涙で濡れた顔のまま、スマホを手に取った。
そして——その顔色が、サッと変わった。
「……レン」
ルイの声は、かすれていた。
画面を、カケルにも見せる。
『おめでとう、ルイくん。素晴らしい秘書を持ったね。次のゲームを楽しみにしているよ』
それは、あまりにも不気味な、勝者の祝福だった。
レンの、深海のように冷たい笑みが、脳裏に浮かぶ。
『彼女の過去を、君は何も知らないだろう』
カケルは、ルイの手を、ギュッと握りしめた。
守る。
絶対に、守る。
——
翌朝。
ホロライブセントラル十二階、役員会議室。
「おめでとうございます、青井さん!」
「いやー、マジですごいっすね! あのカンナさんを!」
タレントイノベーション事業部の社員たちが、興奮した顔で拍手を送る中、橘カンナとの正式な専属契約調印式が、つつがなく行われた。
カケルは、ルイの隣で、何度も胃を押さえながら、はにかんだ。
フラッシュが焚かれる。契約書にサインが交わされる。
「改めて、よろしくお願いします、鷹嶺社長。青井さん」
橘カンナは、昨日と同じ、素朴な笑顔で握手を求めてきた。
「こちらこそ! あ、生配信の打ち合わせ、早速来週から——」
「カケル。まずは契約書の整理を先にしなさい。浮かれてるんじゃないわよ」
ルイが、銀縁のメガネをクイッと上げて、横から口を挟む。
「はいっ、すみません!」
カケルは、慌てて書類を抱える。その拍子に、ペンが床に落ちた。カラン、と軽い音。
ルイが、呆れたようにため息をつく。
でも——その口元は、ほんの少しだけ、優しく緩んでいた。
昨日までの冷戦が、嘘みたいだった。
凸凹コンビの、新たな日常の始まり。
部屋中に、温かい拍手と笑い声が満ちる。
——同じ頃。
港区赤坂、ステラグロウタワー最上階。
十八階の社長室には、たった一人、神谷レンだけがいた。
彼は、窓際に立ち、眼下に広がる東京の街並みを、じっと見下ろしている。その先には、白く霞んだ東京タワー。
左手の銀の指輪を、親指でクルクルと回しながら。
「ゲーム実況者のKEITA……所属事務所の株を、買い占めろ。市場で買える分は全部だ。あの生配信——私が、潰す」
電話の向こうで、誰かが短く返事をした。
レンは、通話を切る。
ガラスに映る自分の顔を、彼は、冷たい目で見つめた。
口元が、ゆっくりと、弧を描く。
「楽しみだね、青井くん。ゲームは、まだ始まったばかりだ」
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