ふたりだけのオフィスで、社長と私のひみつごと
三十一社目の面接も、どうせダメだろう――そう思っていた無職八カ月のカケルは、大手芸能プロダクションの新設部署で、まさかの即採用を言い渡される。
採用を決めたのは、冷徹な美貌の若き社長・鷹嶺ルイ、二十五歳。感情を表に出さず、書類仕事さえも機械のように片付ける彼女が、なぜ経歴も自信もないカケルを選んだのか。
「返事は『はい』か『イエス』だけよ」
そう言い放ち、社長室の隣にデスクを用意させたルイの真意は、謎のまま。
社長室のすぐ隣で始まる、たったふたりだけの秘密の日々。
仕事を超えて近づいていくふたりの距離に、果たして何が待っているのか――。
胃の痛みを抱えたお人好し秘書と、氷のような美人社長が紡ぐ、オフィスラブストーリー、開幕。
ふたりだけのオフィスで、社長と私のひみつごと - すれ違いの夜と、逆転の企画書
午後七時。
青井カケルは、心臓が口から飛び出しそうだった。
千代田区神田錦町。ホロライブセントラルから、歩いてたったの三分。路地を一つ曲がっただけで、街の喧騒がうそみたいに遠くなる場所に、その店はひっそりと佇んでいた。白い外壁。紺色の、ささやかな看板。リリオブランカ。
カケルは、三度も深呼吸をした。
胸ポケットには、今朝、自分のデスクに置かれていた一枚の手書きメモ。少し丸っこい、でも、いつもよりずっと丁寧に書かれた文字。
『午後7時、リリオブランカで待つわ。ちゃんと来なさいよね。ルイ』
(ルイ社長が、俺を)
昨日の大喧嘩が、脳裏に蘇る。
「あんたなんか、もう秘書は頼まない!」——床に散らばった書類。冷たく響いた声。
それから、深夜のオフィスで聞いてしまった、彼女の心の叫び。
『俺が彼女を守ります!』
俺は、言ったんだ。
彼女のために。
(ちゃんと、謝らなきゃ)
(それから——俺の口から、もう一度、伝えなきゃ)
震える手で、白いドアを押し開けた。カラン、と鈴の音が、静かな店内に落ちる。
ホワイトを基調とした、落ち着いたインテリア。二十席ほどの小さなカフェだ。カウンターの奥には、豆の種類がチョークで書かれた黒板。空気には、コーヒーのいい香りと、ほのかに甘いバターの匂いが混ざっている。
「いらっしゃい。あら、あなたがカケルくんね?」
声がした。
カウンターの向こう。
そこに立っていたのは、見知らぬ女性だった。
ゆるくパーマをかけた、アッシュブラウンのセミロング。いつも笑っているような、優しい印象の垂れ目。明るい茶色の瞳が、カケルをじっと見つめている。左手首には色とりどりの天然石のブレスレットが揺れていた。
声が、とても柔らかい。話していると、眠くなりそうなほど。
「あ、はい。青井です。あの、鷹嶺社長は……」
カケルは、店の奥を覗き込んだ。窓際の席。カウンター。どこにも、ルイの姿はない。
桐野ハナは、困ったように笑った。
「ごめんね。ルイちゃん、ついさっき飛び出してったのよ。ステラグロウから至急の案件が入ったって。これ、あんたにだって」
彼女が差し出したのは、ルイの筆跡で書かれた走り書きだった。
『ごめん、また今度。ルイ』
頭の中が、真っ白になった。
(来てない)
(ルイ社長は、いない)
午後七時。約束の時間。ルイの手書きメモに導かれて、初めてリリオブランカを訪れたのに。約束の席に、彼女はいなかった。
指から力が抜ける。
カウンターに、がっくりと突っ伏した。
「そんなに、がっかりしちゃって。あらあら」
ハナの声が、遠くに聞こえる。
「ルイちゃん特製のレモンクリームパンケーキ、食べてく? あの子がいつも食べてるやつよ」
「……いります」
カケルは、突っ伏したまま、くぐもった声で答えた。
(なんで、こうなるんだ、俺は)
ルイと、ちゃんと話したかった。喧嘩の仲直りがしたかった。それだけだったのに。
「青春だわ」
ハナは、小さく呟いて、カウンターの奥で手を動かし始めた。
——
十五分後。
カケルは、目の前に置かれたパンケーキを、スプーンでつついていた。
レモンクリームが、白いパンケーキの上でふるふると揺れている。こんなに絶望しているのに、胃は正直だった。一口食べると、甘酸っぱさが口の中に広がって、すごく、美味しい。
「うま……」
思わず、声が漏れた。
「でしょ。で、何があったの? ルイちゃんと喧嘩でもした?」
カウンター越しに、ハナが紅茶を差し出した。アールグレイの、華やかな香りが立ち上る。
「喧嘩っていうか……俺が、馬鹿なことして」
カケルは、ポツリポツリと話し始めた。
橘カンナの引き抜き。ルイの、初めて見せた悔し涙。いてもたってもいられずに、ライバル会社ステラグロウに一人で乗り込んだこと。神谷レンに、データと笑顔で完膚なきまでに叩きのめされたこと。
「俺、社長の力になりたかっただけなんです。でも、それで結局、社長を怒らせて。あんたなんか、もう知らないって……」
ルイに、書類を投げつけられた。床に、白い紙が散った。
あの瞬間の、胸を貫かれたような痛みが、蘇る。
カケルは、ぎゅうっと胃を押さえた。
「ふうん」
ハナは、カウンターにもたれて、優しい目でカケルを見つめた。
「あんた、ルイちゃんの秘書のカケルくんでしょ? あの子ね、最近ずっと、あんたの話しかしないのよ」
カケルの手が、止まった。
「……え?」
「『コーヒーの温度でキレても泣かなかった』とか、『営業で罵倒されても逃げなかった』とか、『ステラグロウに一人で乗り込んだバカがいる』とか。もうね、ずっと目がぴかぴかしてるの。見ててこっちが恥ずかしくなっちゃうわ」
ハナは、おかしそうに目を細める。
カケルの胸の奥で、何かが、ドクンと脈打った。
(ルイ社長が……俺の、話を?)
「あの子ね、素直になれないだけ。すごく、不器用で。でも、あんたのことは、ちゃんと見てるのよ。あんたが馬鹿やって、傷ついたことも、きっと本当は分かってる」
ハナは、そっとカップを持ち上げた。
「俺、俺は……社長に、必要とされてるんでしょうか」
「されてるどころの話じゃないわ。あの子は——」
ハナが、言いかけた、その時だった。
彼女の視線が、カウンターの隅で、止まった。
そこには、一台のスマートフォンが、無造作に置き去りにされている。
「あら、ルイちゃん、スマホ忘れてる。やばいわよ、あの子スマホがないと生きていけないのに」
ハナは、大げさに騒ぎながら、スマホを手に取った。
画面が、点灯する。
ロック画面は、設定されていなかった。
表示された待ち受け写真を、カケルも、横から覗き込む。
——心臓が、止まった。
そこに映っていたのは。
深夜の、誰もいないオフィス。
机に突っ伏して、眠っている——自分だった。
電気もつけずに、パソコンの明かりだけで、一人、企画書を直していた夜。いつの間にか、寝落ちしていたらしい。口が、少し開いている。
(これ、いつ——ていうか、なんで——)
頭が、真っ白になる。
息が、できない。
「うっわ、重っ! これ完全に待ち受けだわ! どんだけあんたのこと好きなのよ、あの子!」
ハナの、腹の底からの大笑いが、静かな店内に響き渡った。
「ちょ、ちょっと待ってください! え、これどういうことですか!? なんで社長が俺の写真なんて!?」
カケルは、顔を真っ赤にして叫んだ。
パニックだ。心臓が、爆発しそうだ。
「どういうことも何も、こりゃもう両想いじゃないの。ルイちゃんてば、やるじゃない。こっそり写真まで撮っちゃって、ニヤニヤしながら見てたのかなあ」
「社長が、俺を……? え、えええ!?」
思考が、追いつかない。
あの、完全無欠の女王様が。
いつも、「使えないわね」と冷たい視線を投げつけてくる、あの鷹嶺ルイが。
俺の、寝顔を——待ち受けに?
ハナは、ニヤニヤしながら、新しい紅茶を淹れ直している。
「あの子ね、あんたのこと好きなんだよ。でも、素直になれないだけ。あんたが全部、受け止めてあげなよ」
カケルは、自分の心臓を、ぎゅうっと掴まれた気がした。
好き。
ルイ社長が、俺を?
ありえない——って、思いたいのに。
この写真を見せられたら、もう、何も言い返せない。
「……俺、どうすれば」
「大丈夫よ。二人なら、きっとうまくいくわ。でもね、カケルくん。あの子の隣に立つなら、覚悟しなきゃダメよ」
ハナの声が、急に、真剣なものに変わった。
「芸能界は、甘くない。ステラグロウの神谷レン——あの男は、特にね。ルイちゃんは、ずっと一人で戦ってきた。あんたが、ちゃんと隣で守ってあげなきゃ」
ハナは、そう言うと、カウンターの奥から一枚のメモを差し出した。
「はい、これ。元マネージャー時代の情報網だから、信憑性は保証するわ。橘カンナって子、最近ゲーム実況にハマってるって噂があるのよ」
カケルは、メモを握りしめた。
橘カンナ。レンに奪われた、トップタレント。
ゲーム実況。
頭の中で、何かが、ピースのようにはまり込んでいく音がした。
「……わかりました。ありがとうございます、ハナさん」
カケルは、深く頭を下げた。
もう、迷っている場合じゃない。
覚悟を、決めなければ。
——
午後十時。
ホロライブセントラル七階。
誰もいない、真っ暗なオフィス。
非常灯だけが、ぼんやりと廊下を照らしている。そのぼんやりとした明かりの中を、青井カケルは真っ直ぐに自分のデスクへ向かった。
パソコンの電源を入れる。ふわりと浮かび上がる無機質な光が、カケルの決意に満ちた顔を照らし出す。
指が、キーボードの上で震えていた。
(レンのSNS戦略は、拡散力に優れている)
(でも、あれは一方向的な発信だ。ファンとの双方向コミュニケーションが、弱い)
頭の中で、全ての情報が結びついていく。
橘カンナ——三百万人のフォロワーを持つ、トップタレント。
ケイタ——同じく三百万人の登録者を持つ、人気ゲーム実況者。
この二人を、コラボさせる。
生配信で、双方向交流を実現する。
ステラグロウには、絶対に真似できない、新しい価値。
「……これだ」
カケルは、夢中でキーボードを叩き始めた。
ルイへの謝罪じゃない。
これは、自分の言葉での、宣戦布告だ。
『企画書 —— 橘カンナ x ケイタ 大型コラボ生配信プロジェクト』
「俺は、絶対にカンナさんを、取り戻す」
暗闇に、カケルの声が響く。
「あなたから、絶対に守ってみせる」
それは、まだ見ぬ誰か——神谷レンへの、初めての反撃だった。
——
同じ頃。
港区赤坂、ステラグロウタワー。
最上階の社長室。
全面ガラス張りの窓の向こうに、東京タワーが、無機質に輝いている。
「なるほど。契約条件の変更、承知したよ。さすがはルイくんだ。抜かりがない」
神谷レンは、余裕のある微笑みを浮かべていた。プラチナブロンドの髪をかき上げる仕草が、絵になる。澄んだブルーグレーの瞳が、部屋の中のたった一つの明かりであるデスクランプの光を反射して、冷たく輝いている。
「こちらの希望を全て飲んでいただけるなら、引き続き前向きに検討します」
鷹嶺ルイは、銀縁の伊達メガネの奥のダークブラウンの瞳で、レンを鋭く見据えた。
(はめられた)
突発的な契約条件変更の相談——そんな名目で呼び出され、深夜まで拘束された。商談自体はなんの問題もない、形式的なものだった。つまり、これは嫌がらせだ。
「では、私はこれで」
ルイは、帰ろうとした。
「そうだ、ルイくん」
レンの声が、背中に突き刺さる。
「君の秘書、なかなか面白い子だね。青井くん、と言ったか。次に彼がここに来るなら、私も楽しませてもらうよ」
レンは、含み笑いを浮かべていた。
温度のない、冷たい笑みだ。
ルイの背筋を、冷たいものが這い降りた。
(この男は——何を、企んでるの?)
「彼には言ってあるんだ。『ルイくんは、昔から誰かに守ってもらわなきゃダメなんだ。君には無理だ』と。そうしたら——」
レンは、一歩、ルイに近づいた。
「『俺が彼女を守ります』と。熱いね。実に面白い」
ルイは、心臓を、冷たい手で握りつぶされたような気がした。
カケルが、そんなことを。
あの、気弱で、いつもおどおどしている、カケルが。
「いいね、青春だ。頑張りたまえよ。私は、楽しみにしている」
レンは、くるりと背を向けた。
会話は終わりだ、という合図だった。
ルイは、エレベーターに飛び込んだ。
ドアが閉まる。
心臓が、うるさくて、仕方がない。
「……カケル。私、あんたを巻き込んでる……?」
初めての、不安と後悔。
守りたいのは、自分の方だったのに。
守られていたのは、自分の方だった。
エレベーターの鏡に映る自分の顔が、今にも泣き出しそうで、ルイはきつく唇を噛んだ。
その時だった。
ブブ、と、スマホが震える。
差出人は、青井カケル。
メッセージを、震える指で開く。
『企画書、できました。明日、見てください。絶対に、俺がカンナさんを取り戻します』
ルイの目から、涙が一つ、こぼれ落ちた。
「この……バカ」
涙を拭いながら、ルイは、エレベーターの壁を、拳でそっと叩いた。
せっかく、約束をすっぽかしてしまった。
なのに、このバカは、一人で、こんなものを作っている。
「すぐに、戻るから」
エレベーターが、一階に到着する。
ルイは、ヒールを鳴らして、タクシー乗り場へと走り出した。
夜の赤坂を、冷たい風が吹き抜ける。
でも、不思議と、もう怖くはなかった。
——あのバカが、本気なら。
私も、本気で行くしかない。
リリオブランカの一件で、すれ違ったままの二人の気持ち。
まだ、言葉にできていない想いが、今、この夜の中で、同じ熱を帯びて燃え始めていた。Noveliaとは?
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