ふたりだけのオフィスで、社長と私のひみつごと
三十一社目の面接も、どうせダメだろう――そう思っていた無職八カ月のカケルは、大手芸能プロダクションの新設部署で、まさかの即採用を言い渡される。
採用を決めたのは、冷徹な美貌の若き社長・鷹嶺ルイ、二十五歳。感情を表に出さず、書類仕事さえも機械のように片付ける彼女が、なぜ経歴も自信もないカケルを選んだのか。
「返事は『はい』か『イエス』だけよ」
そう言い放ち、社長室の隣にデスクを用意させたルイの真意は、謎のまま。
社長室のすぐ隣で始まる、たったふたりだけの秘密の日々。
仕事を超えて近づいていくふたりの距離に、果たして何が待っているのか――。
胃の痛みを抱えたお人好し秘書と、氷のような美人社長が紡ぐ、オフィスラブストーリー、開幕。
ふたりだけのオフィスで、社長と私のひみつごと - 冷戦と、初めての宣戦布告
胃が、痛い。
青井カケルは、ホロライブセントラル七階のエレベーターホールで、しばらく足を止めていた。
昨日、雨に打たれながら必死に戻ってきたオフィス。ここで、俺は何をしようとしていたんだろう。
(ルイ社長を、守りたい)
(でも、俺のしたことは、ただの無断行動だ)
胸の奥で、嫌な予感が渦を巻いている。
胃のあたりを、ぎゅうっと押さえながら、カケルはフロアへと足を踏み入れた。
その瞬間。
「青井カケル!!」
ビリビリと、空気が震える。
部署中に響き渡った怒号に、カケルはその場で硬直した。デスクについていた数人の同僚たちが、一斉に顔を上げ、息を呑む。彼らの視線が、カケルに突き刺さる。
(ああ……やっぱり)
社長室のドアが、勢いよく開いた。
現れた鷹嶺ルイは、いつもの銀縁の伊達メガネをかけていたが、その奥のダークブラウンの瞳は、まるで凍った炎のようだった。肩にかかる黒のストレートヘアが、彼女の怒気に合わせてふわりと揺れる。手には、昨日カケルが一人で作った企画書の束が握りしめられている。
「あなた、昨日、一人でステラグロウに行ったんですって!?」
カケルは、言い訳を考えた。しかし、口から出てきたのは、震える声だけだ。
「……はい」
ルイは、手に持った書類の束を、自分のデスクに、ドンッ! と叩きつけた。
衝撃で、ペン立てが倒れる。カタカタと、床に転がったボールペンが、やけに大きく響いた。
「なんて馬鹿なことを……! 私の気持ちも知らないで……! あんな男のところに、一人で行って、もし何かあったらどうするつもりだったの!」
彼女の声は、もはや絶叫に近い。
オフィスの空気が、粉々に凍りついていく。冷戦なんて生易しいものじゃない。これは、処刑宣告だ。
「……でも、俺は、社長の悔しそうな顔を、見ていられなくて」
カケルは、声を振り絞る。
剣幕に怖気づきそうになる自分を、必死に叱咤しながら。
「それで、いてもたってもいられなくなって……何か、俺にもできることがあるんじゃないかと思って……」
自分が情けなくて、涙が出そうだった。
守りたいと思った。力になりたいと思った。それだけが、嘘偽りのない本心だ。
しかし、ルイの怒りは、そんな言葉では溶けなかった。
「何ができるの? 門前払いされて、あの男に笑われて、それであなたは何を得たの?」
ルイは一歩近づくと、カケルのデスクの上に積まれていた書類を、一枚、また一枚と、手に取る。
カケルが数日かけてまとめた、タレントのデータ。スケジュール表。契約書の下書き。
自分のためじゃない、この部署のため、彼女のために、胃を痛めながら必死で作ったものたちだ。
「こんなもの」
ルイは、その書類の束を、カケルの目の前で、バサリと床に落とした。
白い紙が、はらはらと舞って、冷たいフローリングに散らばる。
同僚の一人が、「あっ……」と小さく声を漏らした。
「あんたなんか、もう秘書は頼まない!」
カケルの胸を、冷たい刃が貫いた。
痛い。
物理的に、本当に、胸の真ん中がずきりと痛む。
「そのデスクも、今日中に片付けなさい。あなたには、もう、ここでやってもらう仕事はないわ」
ルイの声は、冷酷なまでに平静に戻っていた。
彼女は、震えるカケルの肩を、冷たい視線で一瞥する。
(ああ、終わったんだ)
(俺は、この人の役に立ちたかっただけなのに)
(それすらも、許されなかったんだ)
カケルは、床に散らばった書類を、拾うことすらできなかった。
指が、震えて、言うことを聞かない。
ルイは、背を向けた。
社長室のドアが、バタンと大きな音を立てて閉まる。
フロアに、重たい静けさが落ちた。
同僚たちが、そそくさと自分のデスクに視線を戻す。誰も、カケルを見ようとしない。見て見ぬふり。関わったらこっちも飛び火する。そんな、打算が見え透いた、冷たい空気。
──これが、俺の……居場所だったのか。
カケルは、一人、立ち尽くした。
胃の痛みは、もう消えていた。代わりに、体の芯の方が、すうっと冷たくなっていく。
冷戦だった。
カケルは、自分のデスクに座っていたが、やることは何もなかった。ルイに全ての仕事を取り上げられ、スケジュール管理のタブレットも没収されていた。
電話が鳴る。隣のデスクの同僚が、素早く受話器を取った。
「はい、タレントイノベーション事業部です」
カケルは、聞き耳を立てることすら、もうやめていた。
給湯室へ行き、コーヒーを淹れようとする。
すると、二人の女性社員が、ひそひそと話しているのが聞こえた。
「……やっぱり社長に愛想つかされたね、あの人。そりゃそうだよ。無断でライバル会社に乗り込むなんて、馬鹿の極みじゃん」
「終わったね。ああいうちょっと頑張っちゃう系のダメな人ってさ、すぐ周りが見えなくなって自爆するんだよね」
二人は、カケルの存在に気づくと、気まずそうに口をつぐみ、そそくさと出ていった。
──ちょっと頑張っちゃう系のダメな人。
自分のことだと、わかっている。図星だった。何も言い返せない。
カケルは、湯気の立つコーヒーカップを手に、自分のデスクへ戻った。
一日が、こんなに長く感じたことはない。
昼休みも、誰もカケルを食堂に誘わなかった。松田トシコさんの焼きうどんが食べたかったけど、顔を見せる勇気もなく、コンビニで買ったおにぎりを、給湯室の隅で一人で食べた。
鮭の味が、しなかった。
午後になっても、状況は変わらない。ルイは社長室にこもったきり、一度も出てこない。カケルは、ただ時間が過ぎるのを、じっと待つことしかできなかった。
これが、本当に、自分のせいなのか。
わかっている。俺が、独断専行したからだ。
でも、あの時、自分の中に生まれた「守りたい」という気持ちは、間違っていたのか。
時計の針が、午後七時を指す。
終業時間になると、同僚たちは逃げるように帰っていった。誰もが、この重苦しい空気から、一秒でも早く解放されたかったのだろう。
「お先に失礼します」
最後の一人がそう言って頭を下げ、フロアを去る。
カチリ。
静かになったオフィスで、エアコンの駆動音だけが、やけに大きく聞こえた。
午後十一時。
ビルの窓の外には、東京の夜景が広がっている。遠くに見える東京タワーの灯りが、滲んで見えた。
カケルは、まだ自分のデスクにいた。
帰る気力が湧かなかった。帰ったところで、何もない。あの六畳一間のアパートで、一人、暗闇を見つめているくらいなら、仕事をしていた方がまだマシだ。
でも、仕事もない。
剥がされた書類の跡が残る、空っぽのデスク。
まるで、自分の心の内側を見せられているようだった。
(俺は……)
俺は、何のためにここにいるんだろう。
胃薬でも飲もうと、給湯室へ向かう。
棚を開ける。そこには、自分の名前が書かれた小さな箱。そして、その隣に、クリアファイルに挟まれた書類があった。
何気なく手に取ったカケルは、息を呑んだ。
それは、つい先週、自分が作った契約書の草案だった。
誤字脱字だらけで、フォーマットもめちゃくちゃで、ルイに「使えないわね」と突き返された、あの時のものだ。
しかし、今、ファイルの中にあるそれは、まるで違う書類のようだった。
赤字で、びっしりと修正が入っている。
「ここは、敬語じゃなくて謙譲語を使うこと」
「この条項の解釈は、我々に不利だから、こう書き換えるように」
「ここ、日付が間違ってる。相手の信用を失うから、一度提出した書類の日付は必ず確認しなさい」
見覚えのある、少し丸っこい癖のある字。
ルイの字だ。
あの深夜、誰もいないオフィスで、彼女は一人、俺の失敗を、こんなふうに全部、直してくれていたんだ。
「字はきれいだから、胸を張りなさい」なんて言いながら。
ファイルをめくると、最後のページに、一枚の付箋が貼ってあった。
『もう無茶はしないで。胃薬、ちゃんと飲んでる?』
その、たった一言で。
堰を切ったように、涙が溢れ出た。
「……っ、う……」
声を押し殺して、カケルはしゃがみ込む。
胃薬の箱と、修正だらけの契約書を胸に抱きしめて、声を押し殺して泣いた。
(違う……違うんだ、社長)
(俺は、迷惑をかけたかったんじゃない)
(ただ、あなたの力に、なりたかったんだ)
こんなに自分の不甲斐なさを呪ったことはない。
俺は、役立たずだ。ただの、足手まといだ。
(俺は……役不足なんだ)
涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた、その時だった。
ブブブブ……
デスクの上に置きっぱなしだったスマホが、振動した。
画面を見たカケルの全身が、恐怖で凍りつく。
ディスプレイに表示された名前。
『神谷 レン』
あの、完璧なライバル社長からだ。
カケルは、震える指で、通話ボタンを押した。
「やあ、青井くん。昨日は失礼なことを言ってしまったね。反省している」
相変わらずの、滑らかで温度のない声。
スピーカー越しに聞こえるその声は、まるでカケルの心の内をすべて見透かしているかのように、落ち着き払っている。
「……話って、なんですか」
カケルは、ようやくそれだけを言った。
電話の向こうで、レンが、かすかに笑った。
「君さ、頑張ってるのはわかるんだ。でもさ、ちょっと考えてみてよ。ルイくんはね、昔から、誰かに守ってもらわなきゃダメな女なんだ。有能で、毅然としているように見えるけど、本当は脆い。一人じゃ、何もできない」
その言葉は、カケルの胸を直接、えぐった。
まるで、自分の知らないルイのことを、レンは全部知っていると言わんばかりだった。
「で、君はどうだい? ただ、彼女に守ってもらって、与えられた仕事をこなすだけ。違うかい? 今日も、怒鳴られて、首を切られそうになって、それでも何も言い返せない」
違う、と言いたかった。
でも、口が動かない。
全部、図星だった。
「だから言っただろ? 君には、無理だよ」
嘲笑。
明確な、カケルの存在そのものを否定する、嘲笑だった。
頭の奥で、何かが、ブチッ、と切れた。
それは、諦めじゃない。
悔しさでも、悲しみでもない。
もっと、原始的で、熱い、感情。
──怒りだ。
「……黙れ」
カケルは、自分でも驚くほど低い声で、そう言った。
「あんたに……何がわかるんだ。俺は……! 俺は、あの人が、俺なんかの書類を、深夜に一人で直してくれたのを知ってるんだ! 仕事ができなくて、怒られてばかりの俺に、胃薬を置いてくれたのを知ってるんだ! 不器用で、口が悪くて、でも、誰よりも人のことを見てる……あの人の何がわかる!!」
涙が、止まらなかった。
声が、震える。
でも、言葉は止まらない。
「俺が、彼女を守ります!」
カケルは、絶叫した。
誰もいない深夜のオフィスに、自分の声が、こだまする。
「俺は……俺は、あなたには絶対に負けない! 彼女を、あなただけには、絶対に渡さない!!」
電話の向こうで、一拍の沈黙があった。
それから。
「……面白いじゃないか、青井カケル。その目だよ。その目が、僕は見たかった」
レンの声には、初めて、かすかな愉悦が混じっていた。
「楽しみにしているよ。君という、小さな小さな歯車が、僕という運命を、どこまで狂わせられるか——ね」
ツー、ツー、という無機質な電子音。
電話は切れた。
カケルは、スマホを握りしめたまま、荒い息を繰り返した。
体中の血が沸騰しているようだった。
(俺は、負けない)
(何があっても、あの人を守るんだ)
初めてだった。
自分から誰かに宣戦布告をしたのは。
こんなに熱い気持ちを、誰かのために抱いたのは。
勝ち目なんて、あるわけがない。相手は巨大企業の若きカリスマ社長で、自分は首になりかけの平秘書だ。
でも、引けなかった。
あの人の、不器用な優しさを、あんなやつに、好き勝手言わせてたまるか。
カケルは、涙を乱暴に袖で拭った。
その時。
カタン。
給湯室の入り口で、かすかな物音がした。
ルイは、給湯室の入り口で、立ち尽くしていた。
忘れ物を取りに来ただけだった。
それなのに、聞いてしまった。
カケルの、魂を削るような怒りの叫びを。
(あいつ……私のために、あんな)
胸の奥が、熱い。
今まで感じたことのない、強い鼓動が、自分でも戸惑うほどに、ルイの全身を駆け巡っている。
(こんなの、ずるい)
今朝、自分は、あんなに冷酷にカケルを突き放したのに。
彼は、それでも、レンに「守ります」と言った。
「……なんで、なのよ」
小さく呟いた声は、涙で濡れていた。
こんな気持ちは、知らない。
仕事ができるできないなんて、そんなことは、もうどうでもよかった。
ただ、あいつの、まっすぐな瞳が、声が、自分だけに向けられていてほしい。
(ああ……これが)
ルイは、手を胸に当てた。
心臓が、今にも飛び出しそうだった。
(私、こいつのこと……)
それが、恋だと自覚するのに、これ以上の瞬間はなかった。
でも、今、この場で声をかけることは、できなかった。
今、自分がここにいたと知られれば、カケルが気まずいだろう。
そんな、情けない言い訳を心の中で繰り返しながら、ルイは、音を立てないように、静かに、その場を離れた。
翌朝。
青井カケルは、ほとんど一睡もできずに出社した。
胃が痛い。いや、もうこれは慢性的なものだ。諦めがつく。
問題は、どうやってルイに謝るか、だ。
いや、謝って済む問題じゃない。もう、クビかもしれない。
そんなことを考えながら、青ざめた顔で自分のデスクに近づいたカケルは、
──そこで、ピタリと足を止めた。
昨日、自分が剥がされ、何もなくなったはずのデスクの上に。
たった一枚、メモが置いてある。
カケルは、恐る恐るそれを手に取った。
少し丸っこい、見覚えのある、でも、いつもよりずっと丁寧に書かれた文字。
『午後7時、リリオブランカで待つわ。
ちゃんと来なさいよね。
ルイ』
それは、命令口調の彼女なりの、不器用な、精一杯の。
──謝罪であり、誘いだった。
カケルは、手にしたメモを、まじまじと見つめた。
紙が、震えている。張り詰めていたものが、一気にほどけていくようだった。
(よかった……捨てられたわけじゃ、なかった……)
涙が、もう一度こぼれそうになるのを、カケルは歯を食いしばって堪えた。
「……わかった」
それは、彼女への返事であり、自分自身への誓いだった。
絶対に行く。
そして、今度こそ、ちゃんと自分の口で、伝えるんだ。
俺は、あなたの力になりたい。
冷戦は、終わった。
でも、カケルの胸の奥では、新たな不安と決意が渦を巻いていた。
自分は本当に彼女を守れるのか。レンの「楽しみだね」という不気味な言葉の真意は何なのか。まだ何も解決していない。
それでも、このメモ一枚で、自分はまだ、ここにいていいのだと思えた。
夕方、定時よりも少し早く、カケルは立ち上がった。
胃の痛みは、相変わらずだ。でも、不思議と、嫌な痛みではなかった。
行こう。
彼女が待っている。
カケルは、大切にメモを胸ポケットにしまうと、ホロライブセントラル七階を後にした。誰もいないオフィスのブラインド越しに、西日が差し込む。
一方、その頃、カフェ「リリオブランカ」では。
ルイは、窓際の席で、カップに残ったコーヒーを、すっかり冷めてしまうまで、じっと見つめていた。
心臓は、まだ落ち着かない。
(私、ちゃんと、ありがとうって言えるかしら)
何度も何度も、頭の中でシミュレーションする。普段の仕事の倍以上に緊張している自分が、笑えてくる。
ルイが、意を決して顔を上げた、その時だった。
テーブルの上に置いたスマホの画面が、小さく光る。
差出人は、神谷レン。
『楽しみな展開だね、ルイくん』
心臓を、冷たい手で握られたような気がした。
(この男は……やっぱり、何もかもお見通しなの?)
ルイの脳裏に、嫌な予感が、黒い染みのように広がっていく。
「……気のせいよ」
ルイは自分に言い聞かせるように小さく呟き、スマホを裏返して、画面を見えないように伏せた。
窓の外を、制服姿の学生たちが笑いながら通り過ぎていく。こんなに穏やかな景色なのに、自分の周りだけ、不穏な空気が渦巻いている。
守りたい。
カケルがそう言ってくれたように、自分もまた、守らなければならない。
カラカラ、とドアベルが鳴る。
顔を上げたルイのダークブラウンの瞳に、少し困ったような垂れ目をした、でも力強い光を宿した、一人の青年の姿が映った。
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