ふたりだけのオフィスで、社長と私のひみつごと
三十一社目の面接も、どうせダメだろう――そう思っていた無職八カ月のカケルは、大手芸能プロダクションの新設部署で、まさかの即採用を言い渡される。
採用を決めたのは、冷徹な美貌の若き社長・鷹嶺ルイ、二十五歳。感情を表に出さず、書類仕事さえも機械のように片付ける彼女が、なぜ経歴も自信もないカケルを選んだのか。
「返事は『はい』か『イエス』だけよ」
そう言い放ち、社長室の隣にデスクを用意させたルイの真意は、謎のまま。
社長室のすぐ隣で始まる、たったふたりだけの秘密の日々。
仕事を超えて近づいていくふたりの距離に、果たして何が待っているのか――。
胃の痛みを抱えたお人好し秘書と、氷のような美人社長が紡ぐ、オフィスラブストーリー、開幕。
ふたりだけのオフィスで、社長と私のひみつごと - 奪われたスターと、雨の向こうの宣戦布告
月曜日の朝、ホロライブセントラル七階の空気は、重く、冷たかった。
青井カケルがエレベーターのドアを抜けた瞬間、感じたのは——静けさ。違う。違う、これは静けさなんかじゃない。誰もが口を閉ざし、ただ俯いているだけの、息の詰まるような重たい空気だ。
(なんだ……なにが、あったんだ)
カケルは、ぎゅうっと胃を押さえた。今日はまだ、朝の胃薬すら飲めていない。
自分のデスクへ向かう廊下で、すれ違う同僚たちが、気まずそうに視線をそらす。いつもなら「おはよう」ぐらいは言ってくれるのに、今日はそれすらしない。
(まさか……)
嫌な予感が、足音になって胸に響く。
会議室の大きなモニターが、廊下からも見えた。
画面いっぱいに映し出されているのは、豪華なホテルの宴会場。長テーブルの向こうで、大輪の花のような笑顔を振りまいているのは——橘カンナ。
ホロライブが、今、一番力を入れていたトップタレントだ。
その隣に立っている男。
長身で、プラチナブロンドの髪をかき上げる仕草が異様に絵になる。すべてを見透かすような、澄んだブルーグレーの瞳が、カメラ越しにこちらを見つめているようで、カケルの足がすくんだ。
神谷レン。
ステラグロウ・エンターテインメントの若きカリスマ社長だ。
レンは笑っている。かすかに、わずかに。口元だけの、温度を感じない微笑み。
『——この度、橘カンナは、新たな可能性を求め、ステラグロウ・エンターテインメントに移籍する運びとなりました』
スピーカーから流れる、レンの滑らかな声。
カケルの目の前が、一瞬、ぐにゃりと歪んだ気がした。
(引き抜きが……本当に……)
それは、つい先週、噂として流れてきたばかりの、最悪の予想だった。
カケルは、はっと息を呑んで、社長室の方を見た。
ドアは、閉ざされている。
廊下に、ひときわ大きな足音が響いた。
「……ルイ、社長」
カケルの声は、情けなく震えた。
社長室の前まで来ると、中から、物音一つしない。
(入っていいのか? でも、今は……)
意を決して、カケルは、すりガラスのドアを、ほんの少しだけ開けた。
隙間から、ルイの背中が見えた。
彼女は、会議室のモニターにも繋がっている、大きなモニターの前に、ただ一人で立っていた。肩にかかるつややかな黒髪は、いつものようにきれいに整っている。背筋は、ピンと伸びていた。
でも。
彼女の細い肩が、小刻みに震えている。
「……私の、やり方が……間違ってたのかしら……」
それは、あまりにもか細い声だった。
いつもの「当然でしょ」とカケルを凍りつかせる声でもなく、「何ボサッとしてるの」と叱咤する声でもない。誰かに縋るような、消え入りそうな声。
完璧主義の、誰よりも強くなければならなかった彼女の、初めて聞く弱音だった。
カケルは、ドアノブを握ったまま、動けなくなった。
(ルイ社長が……泣いてる?)
胸の奥が、ぎりぎりと音を立てて痛む。
(俺は——何をしてるんだ)
守りたいと思った。この人のために、頑張りたいと思った。
なのに。
今の俺は、ただドアの前で立ち尽くしているだけの、役立たずだ。
ルイの言葉が、頭の中で、何度もループする。
『私のやり方が、間違ってたのかしら』
そんなわけがない。
カケルは知っている。深夜のオフィスで、たった一人、誰にも見られずに、自分の失敗を全部フォローしてくれていた彼女の姿を。
『字はきれいだから、胸を張りなさい』なんて、小学生みたいな丸文字で書かれた付箋を。
あの不器用な優しさが、間違っているはずがない。
「……俺が」
気がつくと、カケルは、声に出していた。
「俺が……取り戻してきます」
それは、自分に向けた誓いだった。
ドアを静かに閉める。
ルイは、まだ、こちらに気づいていない。
カケルは、誰にも言わず、オフィスを飛び出した。
胃の痛みは、もう、感じなかった。
港区赤坂。
地下鉄を降り、地上に出た瞬間、カケルは、ぐらりとめまいを感じた。
目の前にそびえ立つのは、全面ガラス張りの、十八階建ての巨大なビル。ステラグロウタワー。
ホロライブセントラルよりも、ずっと新しくて、ずっと冷たい。空の青さをそのまま映し込んだ壁面が、見上げたカケルの姿を丸ごと押しつぶしそうに歪ませている。
(これが……敵の、本拠地)
一階は、明るく開放的なギャラリースペースになっていた。所属タレントの等身大パネルが、輝くような笑顔で並んでいる。
その中に、もう、橘カンナのパネルがあった。
つい昨日まで、ホロライブの会議室に貼ってあったはずの、あの笑顔だ。
受付は、高級ホテルのフロントのように洗練されていて、制服を着た女性が二人、完璧な笑顔で座っている。
カケルは、震える足で、受付に近づいた。
「あ、あの……ホロライブの、青井と、申します。神谷社長に、お会いしたいんですが……」
声は、かすかに裏返った。
受付嬢は、一瞬、カケルのスーツ——スーパーの安売りで買った、三千九百八十円の激安品——をちらりと見た。ネクタイは、やっぱり少し曲がっている。
「申し訳ございません。本日はご予約がないと……代わりのご担当者でよろしければ」
当然の、冷静な拒絶だった。
「そ、それでも! どうしても、今、お会いしたいんです!」
カケルは、食い下がった。自分でも驚くほど、声が強かった。
受付嬢が困ったように眉をひそめた、その時だった。
「——いいよ、通して」
声が、背後でした。
カケルが振り返ると、エレベーターから降りてきたばかりらしい男が、立っていた。
長身。完璧なシルエットの、おそらくカケルのスーツの百倍はしそうな、濃紺のスーツ。少し長めのプラチナブロンドを、絵になる仕草でかき上げる。
神谷レン。
ブルーグレーの瞳が、カケルをじっと見ている。まるで、値踏みするように。
「青井……カケルくん、だね」
わざと、名前の前に少し間を置いた。
カケルは、心臓が口から飛び出しそうだった。
(俺の名前を、知ってる……)
レンの口元が、かすかに、本当にかすかに、歪んだ。
「スーツのほつれ、気になるね。次からは直して来た方がいい。……まあ、いい。面白い子だから、十だけ、時間をあげる」
レンは、くるりと背を向けると、役員専用のエレベーターへと歩き出した。
カケルは、何も考えられないまま、その後に続いた。
最上階。十八階。
エレベーターのドアが開いた瞬間、東京の空が、視界いっぱいに広がった。
社長室は、果てしなく広かった。八十平方メートルはあるだろうか。一面のガラス窓の向こうには、東京タワーが、昼間の白い空気の中にくっきりと見える。
家具は、ミニマルで、それでいて一つ一つが途方もなく高いことが、カケルにもわかった。
「座って」
レンは、自分は窓を背にした社長椅子に深く腰掛け、カケルに、来客用のソファを指した。
カケルは、おそるおそる、ソファの端っこに腰を下ろした。
「あ、あのっ! 橘カンナさんの件で、お願いに来ました! どうか、今回の移籍を、なかったことに……!」
カケルは、頭を下げた。
レンは、微笑んだ。
「なかったことに? もう、記者会見も開いたのに?」
「それでも、です! 彼女は、うちの、ホロライブの大事なタレントで……!」
「ホロライブは、彼女に、何をしてあげられたんだい?」
レンの声は、氷のように、静かだった。
「彼女のSNS総フォロワーは、今や三百万。この数字を、君の会社の旧態依然としたマネジメントで、維持できると、本気で思うのかい?」
デスクの上に、一枚の資料が、滑るように差し出される。
数字の羅列。グラフ。
今のカケルには、そのすべてが、鋭い刃物のように見えた。
「君たちにできるのは、テレビの端役を取ってくることと、イベント会場でグッズを売ることくらいだ。私は、彼女に、もっと大きな『世界』を提供できる」
何も言い返せなかった。
悔しい。
でも、彼の言うことは、全部、正しい。
カケルの握った拳が、膝の上で、小刻みに震える。
「それにね、青井くん」
レンは、社長椅子から身を乗り出すと、カケルの顔を覗き込んだ。
ブルーグレーの瞳が、冷たく細められる。
「君じゃ、役不足なんだよ」
かっ、と、頭の奥が熱くなった。
「彼女——鷹嶺ルイくんは、昔から、誰かが守らないとダメなんだ。学生の頃、必死に勉強して、誰よりも上に行こうとして、そのくせ、すぐに一人で抱え込んでしまう。そんな彼女を守るには、君じゃ、あまりにも……無力すぎる」
レンは、左手薬指の、意味ありげな銀の指輪を、そっと指でなぞった。
「だから、私がもらうよ。ビジネスも、——彼女自身も」
目の前が、真っ暗になった気がした。
これは、宣戦布告だ。
ビジネスだけじゃない。
恋愛の、宣戦布告だ。
「……僕は……」
声にならなかった。
(俺は……彼女を守れるのか?)
ルイの涙。レンの嘲笑。
全部が、ぐるぐると頭の中で渦を巻いて、何も考えられない。
「時間だね。話は終わりだ。……いい経験になったろう?」
レンは、もう、カケルを見てはいなかった。手元の書類に視線を落とし、それが、ゲームセットの合図だった。
カケルは、立ち上がった。
足に、力が入らない。
エレベーターのドアが閉まると、カケルは、その場にへたり込んだ。
膝が、崩れた。
『君じゃ、役不足だ』
『無力すぎる』
『私がもらうよ』
レンの声が、頭の中で、何度も、何度も、繰り返される。
ホテルのようなロビーを抜け、外に出た瞬間。
ザァァァ——
土砂降りだった。
ついさっきまでは晴れていたはずだ。
空は、鉛色に覆われていて、バケツをひっくり返したような雨が、アスファルトを叩きつけている。
カケルは、傘を持っていなかった。
でも、もう、どうでもよかった。
港区から、千代田区まで。
三十分もあれば着く距離を、カケルは、一時間以上かけて歩いた。
雨が、全身を打つ。
ずぶ濡れのスーツが、やけに重い。
「……俺は、役不足、なのか」
歩きながら、何度も、何度も、呟いた。
ルイの涙と、レンの嘲笑が、雨に混じって、カケルの心を刺し続ける。
(ああ、そうか。俺は——)
足が、止まった。
冷たい雨が、首筋から背中に流れ込んで、体温をどんどん奪っていく。
(俺は、彼女が、好きなんだ)
それは、あまりにも静かな確信だった。
尊敬でも、感謝でも、庇護欲でもない。
もっと泥臭くて、どうしようもなく、自分勝手な感情。
彼女の隣にいたい。
神谷レンなんかに、渡したくない。
守りたい。
自分の、手で。
どれだけ歩いたのか。
気がつくと、ホロライブセントラルの前に立っていた。
もう、とっくに退勤時間は過ぎている。
非常灯だけがこうこうと灯るロビーを抜け、エレベーターに乗る。
七階。
オフィスは、誰もいなかった。
社長室の電気も、消えている。
ルイは、もう帰ったのだろうか。
ずぶ濡れのまま、カケルは、応接室のドアを開けた。
真っ暗な部屋の、その床に——
カケルは、座り込んだ。
体が、震える。
寒いからじゃない。
悔しさと、情けなさと、自分の無力さで、どうしようもなく、震えている。
「……俺が……守りたいんだ……」
声が、震えて、涙が、勝手に溢れた。
自分なんかが、なんて、思うのは、もうやめようと思ったのに。
それでも、心のどこかで、自分がちっぽけに思えて、仕方がない。
「ルイ社長、を……」
カケルは、濡れた床に、ぽたぽたと涙を落としながら、初めて、自分の恋心を、言葉にした。
その声は。
隣の、真っ暗な社長室で、一人、報告書を待っていたルイの耳に——しっかりと、届いていた。
翌朝。
カケルは、自分のデスクで、ぼうっとしていた。
昨日の雨のせいか、少し頭が痛い。
胃薬を飲む気力も、なかった。
その時、社長室のドアが、勢いよく開いた。
「——青井カケル!!」
ルイの、怒りに震えた声が、フロア中に響き渡る。
カケルが顔を上げると、ルイは、銀縁の伊達メガネの奥のダークブラウンの瞳を、激しい怒りに燃やして、カケルを睨みつけていた。
その手には、何かの書類の束。
「あなた、昨日、一人でステラグロウに行ったんですって!? なんて馬鹿なことを……! 私の気持ちも知らないで……!」
ルイは、手に持っていた書類を、カケルに向かって、思い切り投げつけた。
バサァッ!
書類が、舞い散る。
「……でも、俺は……!」
カケルは、言い返そうとした。
でも、言葉が、続かない。
俺は、あんたが泣いているのを見て、いてもたってもいられなかったんだ、と——どうして、言うことができないんだ。
「あんたなんか……あんたなんか、もう知らない!」
ルイは、そう言い放つと、くるりと背を向けた。
社長室のドアが、バタンと大きな音を立てて閉まる。
フロア中が、凍りついた。
誰も、声を出さない。
カケルは、散らばった書類を拾うこともできず、ただ、立ち尽くしていた。
(ああ——俺は、なんてことを)
守りたかったはずなのに。
一番に、傷つけてしまった。
部署の空気は、最悪だった。
カケルは、完全に、一人になった。
その日の午後。
カケルのスマホが、震えた。
画面に表示された名前に、心臓がぎゅっと握りつぶされる。
『神谷 レン』
震える指で、通話ボタンを押す。
「やあ、青井くん。昨日は、失礼なことを言ってすまなかったね。反省している」
スピーカーから流れる声は、相変わらず、滑らかで、温度がない。
「それで、考え直したんだが——ルイくんはね、昔から誰かに守ってもらわなきゃダメなんだ。そして、やっぱり、君には無理だよ」
頭の奥で、何かが、ブチッと音を立てた気がした。
それは、諦めじゃない。
初めて、自分の奥底から、煮えたぎるような何かが、湧き上がってくる。
「……俺が」
カケルは、震える声を、必死で抑えつけて、レンに言い放った。
「俺が、彼女を守ります。あなたには、絶対に、渡しません」
電話の向こうで、レンが、かすかに笑った気がした。
「……面白い。いいね、その目。楽しみにしてるよ、青井くん」
通話が、切れた。
カケルは、スマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
(言った——)
(俺は、言ったんだ)
恐怖で、足が震えている。
でも、胸の真ん中に、小さな、熱い火が灯った。
負けたくない。
守りたい。
絶対に——渡さない。
カケルは、社長室の、固く閉ざされたドアを見つめた。
この扉の向こうにいる、不器用で、でも誰よりも優しい人と、もう一度、ちゃんと話をしなければ。
初めての、自分の意思で生まれた、譲れない闘志だった。
冷戦状態のオフィスで、カケルは、一人、強く拳を握りしめた。Noveliaとは?
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