救急車のサイレンが、水凪市の夕暮れを切り裂いていく。 後部座席で横たわる甘粕湊は、痛みで滲む視界の端に、流れていく街並みをぼんやりと捉えていた。古い城下町の名残を残す低い家並み、その向こうにそびえる聖陵会水凪総合病院の白い建物。人口十八万人のこの地方都市で一番大きな基幹病院だ。病床数四百二十床、職員数約六百五十名。水凪市出身の医師、鴻池宗一郎が三十五年前に開設した。今では三次救急指定を受け、この地域の医療の最後の砦になっている。 「いやー、派手に転んじゃいましたね。階段から落ちる時、人生初のバク宙いけるかと思ったんですけど、着地失敗しました」 右足を固定されたまま、湊は救急隊員に向かって笑いかけた。額には脂汗が浮いている。唇は血の気が引いて白い。それでも口元は笑みの形を作っていた。 「無理して喋らなくていいですよ。痛いでしょう」 「いやいや、これくらい大丈夫です。骨折なんて、ただの骨の引っ越しですから」 そう言って、また笑う。救急隊員はちらりと湊の顔を見た。痛みを我慢している表情。なのに、どうしてこの男は笑っているのか。隊員は小さく首を振り、バイタルチェックに戻った。 湊は天井を見つめながら、心の中で舌打ちした。 (また、やってる) 痛い時ほど笑う。不安な時ほど冗談を言う。昔からの癖だ。笑っていれば、周りが心配しない。心配されなければ、自分も弱さを認めずに済む。二十八歳にもなって、ガキみたいな理屈だ。分かってる。でも、やめられない。 救急車が病院の救急入口に滑り込む。扉が開いた瞬間、消毒液と薬品の混ざった匂いが鼻を突いた。非日常の匂い。これから自分がしばらく世話になる場所の匂いだった。 --- 「甘粕湊さんですね。右足脛骨骨折。観血的整復固定術の適応です。今日はこのまま入院になります」 救急外来のベッドの上で、湊は書類にサインをした。右手でペンを走らせる。その手首には、うっすらと白い手術痕が残っていた。二年前のものだ。 「入院かー。何か、久しぶりだな。修学旅行みたいでちょっとワクワクしますね。あ、でも、修学旅行で骨折したら最悪か」 「元気がありますね。それなら大丈夫」 看護師が笑ってくれた。湊は心の中でほっとする。笑顔は最強の防御だ。自分を守ってくれる鎧だ。 入院手続きを終え、湊は車椅子で四階の整形外科病棟へ運ばれた。エレベーターの扉が開くと、長い廊下が左右に伸びている。中央にナースステーション。東側に個室が八室、西側に四人部屋が十二室。リハビリ室は東の端、処置室は西の端。これがこれからの自分の世界のすべてだ。 「ここがあなたのベッドです。窓際で景色がいいですよ」 そう言って案内してくれたのは、栗色の髪を後ろでゆるくまとめた小柄な看護師だった。丸くて大きな茶色い目が印象的で、ぱっと見、親しみやすい雰囲気をしている。胸元の名札には「三浦沙耶」と書かれていた。 「おお、窓際! 夜景とか見えるんですか? それ、めっちゃいいじゃないですか。入院生活の楽しみができました」 「夜景、きれいですよ。水凪の街並みが一望できます」 湊は四人部屋の窓際ベッドに腰を下ろした。同室には先客が三人。みな高齢の男性患者だ。こちらを興味深そうに見ている。 「どうも、今日からお世話になります甘粕です。入院生活エンジョイ勢です。よろしくお願いします!」 湊が元気よく頭を下げると、老人たちが少し驚いた顔をして、それから笑った。 「若いのが来て、ちょっと賑やかになるのう」 「賑やか担当、任されました。でも、消灯後は静かにしますんで」 三浦がくすくす笑いながら、点滴の準備をしている。湊の明るさに、病室の空気が和んでいく。それは確かだった。でも、三浦はチラリと湊の右足に目をやった。ギプスで固定された足。痛み止めは効いているはずだが、それでも時折、湊の眉がぴくりと動く。 (痛いのに、この人ずっと笑ってる) 三浦はそう思った。でも、口には出さなかった。 --- 夕方。窓の外が茜色に染まり始めた頃、三浦が病室に来た。 「甘粕さん、後で担当医が挨拶に来ますね」 その言葉を聞いた瞬間、湊の表情が一瞬だけ硬くなった。ほんの一瞬。でも、確かに。笑顔の仮面が、ピシリと音を立ててひび割れた。 「……先生、か」 湊の声が、それまでの明るさを失って低くなる。三浦はその変化を見逃さなかった。 「どうかしました?」 「いやー、イケメン先生だったらどうしようかと。ドキドキしちゃいますね。あ、男同士で何言ってんだって話ですけど」 湊はすぐに笑顔に戻った。でも、三浦には分かった。今の笑顔は、さっきまでの笑顔と違う。無理に作った笑顔だ。 (この人、医者に対して何かあるの?) 三浦はその場を離れた後も、妙な引っかかりを覚えていた。 --- 消灯前。湊は松葉杖を借りて、廊下をゆっくりと歩く練習をしていた。本当は安静にしているべきなのだが、じっとしていると痛みばかり意識してしまう。それなら体を動かしていた方がマシだった。 廊下の向こうから、車椅子が近づいてくる。七十代くらいの女性患者だ。右足を骨折したらしく、ギプスをしている。看護師に付き添われながら、必死に車椅子の車輪を自分の手で回していた。 「頑張ってるわね。もう少しよ」 高齢の患者は無言で頷き、額に汗を浮かべながら車椅子を進める。その姿を、湊は壁にもたれて眺めていた。 (俺も、早く歩けるようにならないと) 湊は心の中で呟いた。仕事はフリーランスのグラフィックデザイナー。休めば休むほど、収入が消えていく。貯金は心許ない。何より、一人で暮らしている部屋は、自分が戻らないと誰も守れない。 「……痛いな、やっぱ」 誰もいない廊下で、湊は一瞬だけ顔を歪めた。笑顔を忘れた、素の表情。右足の痛みが、ズキズキと脈打つように響く。 (痛い。本当は、めちゃくちゃ痛い) でも、それを言ったところで何になる。痛いと言えば、誰かが心配する。心配されれば、自分が情けなくなる。だったら笑っていた方がいい。 湊は深く息を吐いて、もう一度笑顔を作った。 「よし、部屋戻ろ」 --- その夜、担当医が病室を訪れた。 ノックの音がして、湊が顔を上げる。ドアが開き、白衣を着た長身の男が入ってきた。短く整えた黒髪をきっちり七三に分け、切れ長の黒い目が静かな光を宿している。百八十二センチの体躯は、白衣の下でもすらりとしているのが分かった。 (うわ、めっちゃ医者って感じの人だ) 湊は反射的に笑顔を作った。 「初めまして。整形外科の名城慧です。あなたの担当医になります」 名城は淡々と自己紹介し、名刺を差し出した。湊はそれを受け取りながら、名城の顔を見た。三十四歳。医師歴十年。名刺の肩書きが、その静かな空気と妙にしっくりくる。 「甘粕湊です。よろしくお願いします。いやー、先生イケメンですね。これなら入院生活も楽しくなりそうです。女の子にモテるでしょ?」 湊はいつものように軽口を叩いた。これが自分の鎧だ。笑顔で、冗談で、相手との距離を埋める。 でも、名城は笑わなかった。 「無理に笑わなくていい」 その一言が、湊の胸に突き刺さった。 笑顔が、凍りつく。 (え?) 湊の表情から、笑みが消えた。切れ長の茶色い目が、驚きに見開かれる。黒髪が無造作に額にかかり、その下で、湊の素の顔が露わになった。痛みを我慢する、二十八歳の男の顔。 名城はその変化を、静かに観察していた。 「痛いなら、痛いと言っていい。ここは病院だ。我慢する場所じゃない」 湊はしばらく何も言えなかった。 (こいつ、何なんだ) 初対面の医者に、自分の鎧を一瞬で剥がされた。そんな経験は初めてだった。湊は喉の奥で何かを飲み込み、もう一度、笑顔を作ろうとした。 「いや、でも、本当に大丈夫ですよ。骨折なんて慣れてますから」 そう言って、笑う。でも、その笑顔は名城には通用しなかった。名城の黒い目が、湊の右手首に留まる。うっすらと残る手術痕。二年前の骨折の痕だ。 (この傷……) 名城は心の中で呟いた。でも、あえて触れなかった。今はまだ、その時ではない。 「明日、詳しい検査をします。今夜は痛み止めを使って、安静に」 「了解です。ありがとうございます」 湊は素直に頷いた。名城は小さく会釈して、病室を出ていった。 --- ナースステーション。 三浦沙耶がカルテを確認しながら、小さく声を上げた。 「あ、この人、二年前にも入院してる。右手首骨折。複雑骨折で、半年間ペンを持てなかったって」 モニターに映る湊の過去のカルテ。三浦はそれを読みながら、昼間の湊の表情の変化を思い出していた。 (医者が来ると告げた時、あの人は怯えた顔をした) 三浦はそう思った。でも、それが何を意味するのかまでは分からない。 「三浦さん、そのカルテ、俺にも見せて」 後ろから声がして、三浦は振り返った。名城が立っている。 「名城先生。甘粕さんのカルテですか?」 「ああ」 名城は三浦の隣に立ち、モニターを覗き込んだ。湊の二年前のカルテ。複雑骨折。観血的整復固定術。半年間のリハビリ。その間、ペンを持てなかったという記録。 (フリーランスのデザイナーが、半年もペンを持てなかったのか) 名城は心の中で呟いた。それはつまり、仕事ができなかったということだ。収入が途絶えたということだ。その不安を、湊は笑いで隠してきたのだろうか。 名城の脳裏に、五年前の記憶が蘇った。 まだ若かった自分。ある患者に必要以上に感情移入した。退院後も連絡を取り、リハビリの相談に乗った。でも、その患者はリハビリを中断した。医師と患者の距離が近すぎたせいで、患者が甘えてしまったのだ。 (あの時の失敗は、もう繰り返さない) 名城は自分に言い聞かせた。患者とは線を引く。それが自分の信条だ。 聖陵会水凪総合病院の就業規則には、こう明記されている。 「診療関係にあった患者との私的連絡は、診療終了後六ヶ月間禁止とする」 水凪市医師会のガイドラインも同じだ。医師と患者の私的関係は、六ヶ月間の交流制限が求められる。地方都市の病院で、この規則を破ることは、医師としての信用を失うことを意味する。 (だから、線を引く) 名城はモニターから目を離した。 「この患者は、俺が担当する。何か気づいたことがあれば報告して」 「はーい。でも名城先生、患者さんに笑顔で接するの、もうちょっと練習した方がいいですよ? せっかくのイケメンが台無しです」 三浦が茶化すように言った。名城は一瞬、眉をひそめて、それから小さく息を吐いた。 「余計なお世話だ」 「あ、照れてる。名城先生、そういうところありますよね」 三浦は楽しそうに笑った。名城はそれ以上何も言わず、ナースステーションを後にした。 --- 消灯時間。 病室の明かりが落とされ、廊下にも薄暗い常夜灯だけが残る。湊はベッドの上で天井を見つめていた。 (無理に笑わなくていい、か) 名城の言葉が、頭の中で繰り返される。 (あの先生、すごいな。初対面で俺の笑顔が嘘だって見抜いた) 湊は苦笑した。自分の鎧が、こんなにあっさり見破られたのは初めてだ。 窓の外を見る。水凪市の夜景が広がっていた。駅前の明かり、住宅街の灯り、遠くの山並みの影。十八万人都市の、静かな夜の風景。 (俺、また入院か) 二年前のことを思い出す。右手首を骨折した時、湊は仕事をすべてキャンセルした。クライアントに謝り、収入が途絶え、貯金を崩した。半年間、ペンを持てない日々。描けない自分が、何の価値もない存在に思えた。 (あの時は、本当に辛かった) でも、誰にも言わなかった。親にも、友達にも。笑って「まあ、何とかなりますよ」と言い続けた。 (また、同じことをするのか) 湊は目を閉じた。右足がズキズキと痛む。痛み止めが切れてきたのかもしれない。ナースコールを押せば、痛み止めをもらえる。でも、押せなかった。 (これくらい、我慢できる) 本当は、我慢できないくせに。 湊は枕に顔を埋めた。 (痛い。痛いよ) 心の中で、弱音を吐く。でも、声には出さない。出せない。 窓の外で、風が木々を揺らす音がした。 --- 同じ頃、名城は非常階段の踊り場に立っていた。 四階から屋上へ続く、この狭いスペースは、夜勤の職員が息抜きに使う場所だ。名城も時々、ここで一人になる。 (甘粕湊、二十八歳。フリーランスのグラフィックデザイナー) 名城は湊のカルテを頭の中で反芻した。 (二年前に右手首骨折。半年間のリハビリ。その間、仕事ができなかった。そして今回、右足骨折) また、同じことが起きた。また、この男は笑顔で乗り切ろうとしている。 (無理に笑わなくていい、と言ったが……) あの言葉は、湊の心にどう響いただろうか。 名城は窓の外を見た。水凪市の夜景が、ここからも見える。 (俺は、患者と線を引く。それは変わらない) でも、あの笑顔の裏にある痛みを、見なかったことにはできない。 名城は深く息を吐いて、非常階段を下りた。 --- 翌朝。 湊は朝の回診で、名城と再会した。 「昨夜は眠れたか」 「バッチリです。看護師さんがみんな優しくて、ぐっすりでした。あ、先生も優しくしてくださいね?」 湊は笑顔で答えた。でも、目の下にはうっすらと隈ができている。名城はそれを見逃さなかった。 (眠れなかったな) 名城は心の中で呟いた。 「今日はレントゲンを撮る。それからリハビリの計画を立てる。明日から本格的に始めるぞ」 「おお、ついにリハビリですか。俺、結構運動神経いいんで、すぐ歩けるようになりますよ」 「無理はするな。焦ると、治るものも治らない」 名城の冷たい口調に、湊は少しだけ口を閉じた。 (この先生、本当に笑わないな) 湊はそう思った。でも、嫌いではなかった。むしろ、その真っ直ぐさが心地よかった。 「……分かりました。無理しないようにします」 湊が素直に頷くと、名城は小さく頷き返した。 その瞬間、朝の光が窓から差し込んで、名城の横顔を照らした。 (あれ、この人、こんな顔だったっけ) 湊は思った。昨日は冷たい印象しかなかったのに、今は少しだけ、柔らかく見える。 (やばい、イケメンって言ったの、冗談のつもりだったのに) 湊は心の中で呟いて、慌てて視線を窓の外に逸らした。 「じゃあ、検査に行こう。車椅子を用意する」 「あ、はい。お願いします」 湊は笑顔で答えた。でも、胸の奥で、何かが小さく跳ねた気がした。 (なんだ、これ) 初めての感覚だった。 --- 検査が終わり、湊は病室に戻った。 「甘粕さん、おかえりなさい。検査どうでした?」 三浦が笑顔で迎えてくれた。 「レントゲン撮られました。骨がバキバキに写ってて、自分で見て笑っちゃいましたよ。あ、笑っちゃいけないのか」 「いいんですよ、笑いたい時は笑って。でも、痛い時はちゃんと痛いって言ってくださいね」 三浦が優しく言った。湊は一瞬、言葉に詰まった。 (この人も、俺の嘘を見抜いてる?) 「……はーい。善処します」 湊は笑ってごまかした。三浦はそれ以上追及せず、点滴の準備を始めた。 「そうだ、甘粕さん。水凪市って初めてですか?」 「あ、いや、住んでますよ。駅前のアパートで一人暮らしです。水凪歴は五年くらいかな」 「そうなんですね! じゃあ、古城通り商店街とか知ってます? 喫茶灯台ってお店、すごくいいんですよ。退院したら行ってみてください」 「喫茶灯台。聞いたことあります。病院の人がよく行くって噂の。モーニングが美味しいとか」 「そうそう! 私もよく行きます。名城先生も休みの日にたまに行くみたいですよ。あの無愛想な先生が、コーヒー飲みながら本読んでる姿、想像できます?」 三浦が楽しそうに笑う。湊もつられて笑った。 (名城先生が、喫茶店でコーヒー飲んでる姿か) 湊は想像してみた。白衣を脱いだ名城。私服で、窓際の席で、本を読んでいる。 (……ちょっと見てみたいかも) 湊は心の中で呟いて、すぐに首を振った。 (いやいや、何考えてんだ俺) 「あ、甘粕さん、顔赤いですよ? 熱あります?」 「え!? いや、ないない。大丈夫です。ちょっと部屋が暑いだけです」 湊は慌てて手を振った。三浦がニヤニヤしながら湊の顔を覗き込む。 「ふーん、そうですか。まあ、いいですけど」 三浦は何か勘づいたような顔をした。湊はますます居心地が悪くなって、窓の外に視線を逃がした。 (くそ、この看護師さん、鋭すぎる) 昼の光が、水凪市の街並みを照らしている。遠くに水凪城跡公園の緑が見えた。 --- その日の午後。 湊はリハビリ室の見学をした。八十平方メートルの広い部屋に、平行棒や訓練用階段、エルゴメーターなどの機器が並んでいる。理学療法士が十二名、作業療法士が四名。責任者は岩永健吾という四十二歳の男性だ。 「ここでリハビリするんですね。なんか、体育館みたいで楽しそう」 「楽しそうって言った患者さん、初めてですよ」 理学療法士が笑った。湊は松葉杖をつきながら、リハビリ室の中をゆっくりと見て回った。 (ここで、また一から歩く練習をするのか) 二年前、湊は右手首のリハビリで、同じような部屋に通った。あの時は、ペンを握る練習から始めた。指を動かすだけで、涙が出るほど痛かった。 (あの時は、本当にきつかったな) 湊は心の中で呟いた。でも、顔は笑っている。 「俺、すぐ歩けるようになりますよ。骨がくっついたら、走ってみせます」 「焦らないでくださいね。骨がくっつくまでは、安静が一番ですから」 理学療法士が苦笑いした。湊は「分かってますよ」と笑い返した。 --- 夕方、名城が病室を訪れた。 「甘粕、リハビリ室は見たか」 「見ました見ました。広くてびっくりしました。あれなら楽しくリハビリできそうです」 「楽しく、ではない。真剣に、だ」 名城の冷たい口調に、湊は少しだけ笑顔を引っ込めた。 「……はい。真剣にやります」 「明日からリハビリを始める。最初は痛みが強い。無理だと思ったら、正直に言え」 名城の黒い目が、湊をまっすぐに見つめる。 (この目、すごいな。全部見透かされてる気がする) 湊は心の中で呟いた。 「正直に言いますよ。痛かったら、泣きつきますんで」 「泣きつかれても困るが、我慢されるよりはマシだ」 名城が少しだけ口元を緩めた。笑ったわけではない。でも、ほんの少しだけ、表情が柔らかくなった。 (あれ、今、ちょっと笑った?) 湊は思った。 「名城先生って、意外と面白い人ですよね」 「どこがだ」 「そういうところですよ。真顔で返すところが、なんかツボです」 湊が笑うと、名城は小さく息を吐いた。 「とにかく、今夜はしっかり寝ろ。明日は朝からリハビリだ」 「了解です。おやすみなさい、名城先生」 「ああ、おやすみ」 名城は病室を出ていった。 湊は一人になり、窓の外を見た。夕闇が迫り、水凪市の街にぽつぽつと明かりが灯り始めている。 (明日から、リハビリか) 不安がないと言えば嘘になる。また、あの痛みを味わうのか。 でも、今回は一人じゃない。 (名城先生がいる) 湊は心の中で呟いた。 (あの先生、冷たいけど、ちゃんと見てくれてる) それが、なぜだか嬉しかった。 「……よし、寝よう」 湊はベッドに横になった。 窓の外で、水凪市の夜景が静かに輝いていた。 --- 消灯後、名城は再び非常階段の踊り場に立っていた。 (甘粕湊) 名城は心の中で、その名前を繰り返した。 (あの男は、痛みを笑いで隠す。二年前の骨折でも、そうだったはずだ) カルテには、湊の二年前の記録が残っている。複雑骨折。半年間のリハビリ。その間、湊は一度も弱音を吐かなかったと、当時の看護記録に書かれていた。 (本当は、辛かったはずだ) 名城はそう思った。フリーランスのデザイナーが、半年間も仕事ができない。収入は途絶え、将来への不安が押し寄せる。それでも、湊は笑っていた。 (無理に笑わなくていい、と言ったが……) あの言葉は、湊に届いただろうか。 名城は窓の外を見た。水凪市の夜景が、静かに広がっている。 (俺は、患者と線を引く) でも、あの笑顔の裏にある痛みを、見なかったことにはできない。 (それが、俺の弱さだ) 名城は深く息を吐いて、非常階段を下りた。 夜の廊下に、名城の足音だけが静かに響いていた。