残響のアビス ―フワモコ後日譚―
アビスの扉が永遠に封印されてから三年の月日が流れた。地上へと戻ったフワワとモココは、かつて任務区域だった港町オルディアで「アビスガード」という小さなカフェを営んでいた。白い犬耳をそっと揺らしながらベリータルトを焼く、穏やかな日々。しかしその平穏は、かつて仕えた主ヘルメス・ヴァロウがアビスの深淵から帰還したことで崩れ始める。ヘルメスの記憶はほとんど失われ、彼はただ一つの名を呟くだけだった――「レイナ……レイナはどこだ?」。フワワは動揺を隠し、冷静な姉として振る舞う。モココは、ヘルメスが見知らぬ少女に注ぐ関心に嫉妬し、姉と衝突する。常連客のヴィンセントは、ヘルメスの記憶を取り戻す鍵がアビスの残滓にあると明かす。三人は封印された階段を下り、フワワはヘルメスとレイナの過去の真実を知る。レイナこそ、ヘルメスをアビスへと堕とす原因となった人物であり、そしてフワワの実の母親でもあった。姉がヘルメスを独り占めしようとしていると誤解したモココは、ヴィンセントにすがり、フワワを挑発する。姉妹の亀裂は決定的となり、フワワは一人でアビスの最深部へと向かう。そこで彼女はレイナの残留思念と出会い、ヘルメスのそばに
残響のアビス ―フワモコ後日譚― - 番犬のキス——喪失の先にある再生
夜明け前の空は、深い藍色に沈んでいた。
オルディアの北東に広がる荒れ地を、四人は黙々と歩いていた。崩落する深淵から這い出して、どれほどの時間が経ったのか。フワワ・アビスガードには、もうよく分からなかった。
白い犬耳が、潮風の匂いを捉える。遠く、港の方から、かすかに鐘の音が聞こえた。早朝の漁に出る船の合図だろう。いつもの、この街の音。それが、たまらなく懐かしい。
「……姉ちゃん」
隣を歩く妹が、フワワの腕にしがみついたまま、小さく呼んだ。
「もうすぐよ。もうすぐ、家に着くわ」
フワワは、モココの手を握り返した。冷たく、細い指。震えている。深淵の底で、自分はこの手を振り払った。もう二度と、離さない。
後ろを歩くヘルメス・ヴァロウは、何も言わなかった。無口な男の、深い緑色の瞳が、夜明け前の闇の中で、静かに前を見つめている。左頬の深い傷跡が、青白い星明かりを受けて浮かび上がっていた。
ヴィンセント・ペイルが、フワワの隣に並んだ。
「深淵守の詰所は、もうすぐです。ここからは、僕が先頭で行きますね」
潮風商会の若手幹部である彼は、疲れているはずなのに、背筋を伸ばして歩いていた。金の髪が、風に揺れている。琥珀色の瞳は、穏やかな光をたたえていた。
「ええ、お願いします」
フワワは、小さく頷いた。
旧深淵入口に続く道は、深淵監視法によって封鎖されている。無許可で近づくだけでも罪になる。ましてや、封印の階段を降りて、深淵から帰還したとなれば、事情聴取は避けられない。
だが、それでいい。
フワワは、もう隠し立てするつもりはなかった。
やがて、石造りの小さな詰所が見えてきた。窓から、ランプの明かりが漏れている。深淵守が、夜通しの見張りについているのだ。
詰所の扉が、内側から開いた。
「……誰だ」
中年の男が、ランプを掲げて四人を照らした。深淵守の制服である、黒い革の外套を着込んでいる。腰には、深淵由来の魔道具を携えていた。
「深淵調査機構ノクスに報告があります」
ヴィンセントが、一歩前に出た。
「ヘルメス・ヴァロウ氏が、深淵の調査から帰還されました。また、深淵の残滓について、重大な進展がありました。至急、ノクスへの連絡をお願いします」
深淵守の男は、ヘルメスの顔を見て、目を見開いた。
「ヘルメス・ヴァロウ……あの、元S級の……」
「ああ、俺だ」
ヘルメスが、低い声で応じた。
深淵守は、しばらく四人の顔を順番に見ていたが、やがて、深く息を吐いた。
「……分かった。中へ入れ。ただし、報告書は書いてもらうぞ」
詰所の中は、狭く、かび臭かった。壁には、深淵の地図と、巡回の記録が貼られている。机の上には、冷めた茶の入ったカップが置かれていた。
四人は、並んで椅子に座った。
深淵守は、書類を取り出し、インク壺にペンを浸した。
「まず、氏名と、深淵に立ち入った日時からだ」
「待ってください」
ヴィンセントが、穏やかな声で遮った。
「報告は、私がまとめてノクスに提出します。ヘルメス氏は、深淵の影響で記憶が混乱されています。フワワさんとモココちゃんも、疲労が激しい。まずは、カフェで休ませてあげてください」
深淵守は、眉をひそめた。
「規則では、立ち入り者全員から事情を聞くことになっている」
「規則は理解しています。ですが、彼らは深淵の残滓を浄化した功労者です。ノクスからの正式な呼び出しがあれば、いつでも応じます。今夜は、どうか」
ヴィンセントは、深々と頭を下げた。
深淵守は、しばらくヴィンセントを見つめていたが、やがて、小さく舌打ちをした。
「……潮風商会の若造が、ずいぶんと偉くなったもんだな」
「兄の代わりに、ですよ」
ヴィンセントは、静かに答えた。
その言葉に、深淵守は、何か言いたげな顔をしたが、結局、何も言わなかった。
「……分かった。今日のところは、見逃してやる。ただし、明日中に、ノクスの支部へ出頭しろ」
「ありがとうございます」
四人は、詰所を出た。
空が、白み始めている。東の空が、薄い橙色に染まっていた。
「……歩けるか、フワワ」
ヘルメスが、フワワの顔を覗き込んだ。
「はい、大丈夫ですわ。ヘルメス様こそ、お怪我は……」
「俺は平気だ。お前の方が、ずっと無理をした」
ヘルメスの言葉に、フワワは、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
フワワは、小さく微笑んだ。
オルディアの街へ続く道を、四人は歩いた。
夜明けの港町は、静かだった。市場の露店は、まだ店を開いていない。石畳の通りに、四人の足音だけが響く。
やがて、見慣れた看板が見えてきた。
『アビスガード』。
フワワとモココが営む、小さなカフェ。木造二階建ての、港区の石畳通りに面した店。
フワワは、店の前で足を止めた。
扉に手を触れる。冷たい木の感触。
「……ただいま」
誰に言うともなく、呟いた。
鍵を開け、扉を押す。
店内は、しんと静まり返っていた。閉店したままの、暗い店内。椅子は机の上に上げられ、カウンターには、白い布がかけられている。
そして、テーブルの上に。
一枚の、タルトが残されていた。
ベリーのタルト。フワワが、深淵へ向かう前に焼いたものだ。深紅のベリーが、たっぷりと乗せられている。だが、その表面は乾き、クリームは溶けて形を崩していた。
冷め切った、タルト。
フワワは、その光景を見つめた。
深淵で過ごした時間は、ほんの数日だった。だが、地上では、それだけの時間が、確かに流れていた。このタルトが、その証拠だった。
「……あ」
モココが、フワワの後ろから、店内を覗き込んだ。
「タルト……姉ちゃんが焼いたやつだ……」
モココの声が、震えた。
「……そうね。帰ってきたら、食べようと思ってたのだけれど」
フワワは、静かに言った。
「ごめんね、モココ。せっかくのタルトを、駄目にしちゃった」
「違う……モココが、悪いんだ……」
モココは、フワワの背中に、顔を押し付けた。
「モココが、姉ちゃんにひどいこと言ったから……姉ちゃん、一人で行っちゃったから……」
「モココ」
フワワは、振り返って、妹を抱きしめた。
「もう、いいのよ。全部、終わったの。だから、もう泣かないで」
「……うん……うん……」
モココは、フワワの胸に顔を埋めたまま、何度も頷いた。
ヴィンセントが、静かにカウンターへ歩いていった。
「お湯を沸かしますね。温かい飲み物を飲みましょう」
「ああ、頼む」
ヘルメスは、窓辺の席に座った。深い緑色の瞳が、夜明けの海を眺めている。
フワワは、モココを抱きしめたまま、ヘルメスの横顔を見つめた。
記憶を失った飼い主。深淵の底で、母の真実を知り、妹と決裂し、すべてを失った自分。
それでも、今、こうして、四人でカフェにいる。
失われたものは、戻らない。
でも、残されたものは、確かにここにある。
フワワは、冷め切ったタルトを見つめながら、静かに、そう思った。
―――
カフェの二階、フワワの自室。
窓の外は、すっかり明るくなっていた。朝日が、レースのカーテンを通して、部屋の中に柔らかな光を落としている。
フワワとモココは、ベッドの上で、向かい合って座っていた。
モココは、フワワの手を握ったまま、俯いている。白い犬耳が、力なく垂れていた。
「……モココ。話したいことがあるの」
フワワが、静かに口を開いた。
「うん。モココも、姉ちゃんに、いっぱい謝りたいことがあるの」
「謝るのは、私の方よ。モココを一人にして、ごめんなさい」
「違う!モココが、あんなこと言ったから!」
モココが、顔を上げた。ピンクの大きな瞳が、涙で潤んでいる。
「姉ちゃん、一人で深淵に行っちゃって……モココ、本当に、本当に怖かったの!姉ちゃんが、もう戻ってこないんじゃないかって!」
「モココ……」
「ごめんなさい、姉ちゃん!モココ、ヘルメス様のことばっかりで、姉ちゃんの気持ち、全然考えてなかった!姉ちゃんが、どれだけ辛いか、全然分かってなかった!」
モココは、フワワの手を、ぎゅっと握りしめた。
「姉ちゃんが、深淵の底で、お母さんのこと……知っちゃったんでしょ?モココ、何も知らなくて、姉ちゃんに『お母さんみたい』なんて……最低なこと、言った……」
「モココ、もういいの。あの言葉は、私も傷ついたけれど、モココの本心じゃないって、分かってるから」
「本心じゃない!絶対に違う!モココ、姉ちゃんのこと、大好きなの!誰よりも、世界で一番、大好きなの!」
モココは、叫ぶように言った。
「でも、ヘルメス様のことも、好きなの。姉ちゃんが、ヘルメス様と仲良くしてるところを見ると、胸が、ぎゅって苦しくなって……姉ちゃんが、ヘルメス様を取っちゃうんじゃないかって、怖くて……」
モココの涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちる。
「それって、おかしいよね。ヘルメス様は、モココのものなのに。でも、姉ちゃんが、いなくなるのは、もっと怖い。ヘルメス様を取られるのと、姉ちゃんを失うの、どっちが怖いかって……モココ、分からなかったの」
フワワは、モココの言葉を、黙って聞いていた。
ヘルメスを取られる恐怖と、姉を失う恐怖が、同じだった。
モココのわがままに見えていたものは、実は、姉への必死の執着だった。
「……モココ」
フワワは、妹の手を、両手で包み込んだ。
「私も、モココに謝らなくちゃいけないことがあるの。私、モココに、全部隠してた。お母さんのこと、ヘルメス様のこと、それから……私の、気持ち」
「姉ちゃんの、気持ち?」
モココが、涙で濡れた顔を上げた。
フワワは、深く息を吸った。
「私、ヘルメス様のことが、好きなの。番犬としてじゃなくて、一人の女性として。ずっと、ずっと前から」
フワワの声は、震えていた。
「でも、私は番犬だから。飼い主に、そんな気持ちを持っちゃいけないって、ずっと自分に言い聞かせてきた。モココが、ヘルメス様のことを好きだって知ってたから、余計に」
「姉ちゃん……」
「ごめんね、モココ。私、モココに隠れて、ずっと、ヘルメス様のことを……ごめんなさい」
フワワの目から、涙がこぼれた。
「……姉ちゃん、泣かないで」
モココが、フワワの涙を、指で拭った。
「モココも、ヘルメス様のこと、好き。でも、姉ちゃんも、ヘルメス様のこと、好きなんだね。それなら、モココ、姉ちゃんと一緒なら、平気かも」
「モココ……」
「だって、姉ちゃんは、モココの一番大切な人だもん。姉ちゃんが好きな人なら、モココも、もっと好きになれる。だから、もう、隠さないで。姉ちゃんの気持ち、全部、モココに教えて」
モココは、フワワに抱きついた。
「モココ……ありがとう。モココ、ありがとう……」
フワワは、妹を抱きしめ返した。
「姉ちゃん、モココ、絶対に失わない。何があっても、モココのことを、守る。だから、モココも、私のことを、見捨てないで」
「当たり前でしょ!モココが、姉ちゃんを見捨てるわけないでしょ!姉ちゃんは、モココの宝物なんだから!」
姉妹は、しばらく、抱き合ったまま、泣き続けた。
窓の外では、朝日が、オルディアの街を、金色に染め上げていた。
―――
同じ夜。
カフェの一階、客間。
ヘルメス・ヴァロウは、簡易ベッドの上で、目を閉じていた。
深淵で浴びた残響の影響で、体は鉛のように重い。だが、意識は、奇妙なほど冴えていた。
深い緑色の瞳を開ける。
天井の木目が、ランプの明かりに照らされて、ゆらゆらと揺れている。
――レイナ。
あの名を、口にした。
記憶の奥底で、何かが、音を立てて崩れていく。
十六年前。深淵の最深部。原初の扉の前。
銀色の腕輪を付けた女。深淵文字を唱え、飼い主契約を悪用し、自分を生贄に捧げようとした女。
レイナ・アビスガード。
フワワとモココの、母親。
彼女は、深淵の力を求めた。深淵の扉を開き、その力を我が物にしようとした。その代償として、飼い主である自分の記憶と命を、扉に差し出そうとした。
しかし、彼女は、最期に、自ら扉を閉じた。
――我が子を守るために。
――フワワを、頼む、と。
レイナは、そう言って、深淵に残った。
ヘルメスは、自分の記憶を封鎖され、地上へと逃がされた。
そして、十五年後。
自分は、フワワとモココを引き取り、飼い主となった。
記憶を失ったまま。
レイナの名だけを、繰り返し呟きながら。
――レイナ。
――レイナはどこだ。
それは、失われた記憶への渇望だった。
だが、本当に求めていたものは、レイナではなかった。
レイナの残した、二人の娘。
フワワと、モココ。
自分が、守るべきだった、二人の存在。
ヘルメスは、目を閉じた。
深淵の底で、フワワの残響感知が完全覚醒した瞬間、自分の記憶封鎖が解け始めた。母の愛が、光となって深淵を浄化した時、すべての記憶が、流れ込んできた。
レイナの罪。
レイナの愛。
そして、自分が、フワワに向けていた感情。
番犬への依存ではない。
一人の女性への、想い。
フワワが、カフェのカウンターで、タルトを焼いている姿。
フワワが、白い犬耳を揺らしながら、自分に微笑みかける姿。
フワワが、深淵の底で、自分の名を呼んだ、あの声。
――ヘルメス様。
胸の奥が、熱い。
ヘルメスは、深く息を吐いた。
「……俺は、お前の母を、許せない」
誰もいない部屋で、彼は、呟いた。
「だが、お前を、失いたくない」
それは、紛れもない、本心だった。
―――
翌朝。
フワワは、カフェの一階で、ヘルメスに呼び出された。
「……おはようございます、ヘルメス様。お加減はいかがですか」
フワワは、白いエプロンを身につけ、ヘルメスの前に立った。
「ああ、悪くない」
ヘルメスは、窓辺の席に座り、外を眺めていた。
「フワワ」
「はい」
「記憶が、戻った」
フワワは、息を呑んだ。
「……本当ですか」
「ああ。全部だ。レイナのこと。深淵のこと。お前とモココのことも」
ヘルメスは、フワワを見つめた。深い緑色の瞳が、まっすぐに、フワワを捉えている。
「ヘルメス様……」
フワワの目が、潤んだ。
「よかった……本当に、よかったですわ……」
フワワは、安堵の涙を流した。
「……泣くな。お前が泣くと、俺まで、どうすればいいか分からなくなる」
ヘルメスは、照れたように、視線を逸らした。
「すみません……でも、嬉しくて……」
フワワは、涙を拭い、微笑んだ。
「フワワ」
ヘルメスが、再び、フワワを見つめた。
「俺は、お前の母を、許せない」
フワワの体が、強張った。
「レイナは、俺を、生贄にしようとした。俺の記憶と命を、深淵に捧げようとした。それは、事実だ。許せることじゃない」
ヘルメスの声は、静かだった。
「だが、お前を、失いたくない」
フワワは、目を見開いた。
「お前は、俺の番犬だ。そして、俺は、お前の飼い主だ。それは、これからも変わらない。だが、それだけじゃない。俺は、お前のことを……」
ヘルメスは、言葉を切った。
「……フワワ。俺は、お前を、一人の女性として、見ている」
フワワの胸の奥で、何かが、激しく脈打った。
「ヘルメス様……」
フワワは、言葉を失った。
ヘルメスは、立ち上がった。
「……返事は、急がない。お前が、どうしたいのか、よく考えろ」
そう言って、ヘルメスは、カフェの奥へと去っていった。
フワワは、その場に、立ち尽くしていた。
胸が、熱い。
嬉しい。
でも、怖い。
ヘルメス様の想いを知って、自分は、どうすればいいのか。
フワワは、自室に戻り、銀の腕輪を握りしめた。
母の形見。
母の罪。
母の愛。
すべてを飲み込んだ、この腕輪。
フワワは、一晩中、考え続けた。
―――
翌日。
オルディア港の桟橋。
夕暮れの海が、橙色に染まっていた。
フワワは、桟橋の先端に立っていた。
白い犬耳が、潮風に揺れる。
銀の腕輪が、夕日を反射して、静かに輝いていた。
「……フワワ」
後ろから、ヘルメスの声がした。
振り返ると、黒い外套を着た男が、立っていた。深い緑色の瞳が、夕日を受けて、金色に光っている。
「ヘルメス様」
フワワは、微笑んだ。
「お呼び立てして、すみません。どうしても、ここで、お話したくて」
「かまわない」
ヘルメスは、フワワの隣に立った。
「ヘルメス様。昨日のお話、よく考えました」
フワワは、海を見つめたまま、静かに言った。
「私は、番犬です。ヘルメス様の、番犬。それ以上は、望みません」
ヘルメスは、黙って、フワワを見つめた。
「ヘルメス様の、お気持ちは、嬉しかった。本当に、嬉しかった。でも、私は、番犬として、ヘルメス様のそばにいたい。飼い主と番犬という、立場を超えない。それが、私の選んだ生き方です」
フワワの声は、穏やかだった。
「これからも、そばにいさせてください。ヘルメス様の、番犬として。モココの、姉として。カフェの、店主として。それが、私の望みです」
フワワは、ヘルメスに向き直った。
「……それで、いいのか」
「はい。それで、いいんです」
フワワは、背伸びをした。
そして、ヘルメスの左頬に、そっと、キスをした。
柔らかな、触れるだけのキス。
番犬としての忠誠と、女性としての想い。
その両方を込めた、精一杯のキスだった。
「……フワワ」
ヘルメスは、目を丸くした。
「番犬の、キスです。どうか、お納めください」
フワワは、悪戯っぽく微笑んだ。
ヘルメスは、しばらく、フワワを見つめていたが、やがて、小さく笑った。
「……ああ、受け取った」
ヘルメスの顔に、穏やかな笑みが浮かんだ。
フワワは、その笑顔を見て、胸が満たされていくのを感じた。
これで、いい。
これが、私の選んだ道。
―――
カフェ〈アビスガード〉の厨房。
モココは、カウンターに突っ伏していた。
「はぁ……どうしよ……」
白い犬耳が、力なく垂れている。
「どうしたんだい、モココちゃん」
厨房の入り口から、ヴィンセントが顔を出した。
「ヴィンセントさん!あの、その……モココ、ヴィンセントさんに、言いたいことがあるの!」
モココは、勢いよく立ち上がった。
「モココ、ヴィンセントさんのこと、好きなの!ヘルメス様のことも、好きだけど、ヴィンセントさんは、モココのこと、助けてくれた。深淵で、モココが、一人で泣いてた時、ヴィンセントさんが、そばにいてくれた。だから、モココ、ヴィンセントさんのこと、好きになったの!」
モココは、一気に告白した。
ヴィンセントは、驚いた顔で、モココを見つめていた。
「……モココちゃん」
「ヴィンセントさんは、姉ちゃんのことが、好きなんでしょ?モココ、知ってるの。ヴィンセントさんが、姉ちゃんのこと、特別な目で見てるの、知ってる」
モココは、ヴィンセントの目を、まっすぐに見つめた。
「でも、姉ちゃんは、ヘルメス様のことが、好きなの。だから、ヴィンセントさんの気持ちは、届かない。モココ、それでも、ヴィンセントさんのこと、好き。だから、モココ、ヴィンセントさんに、好きって言ったの」
ヴィンセントは、静かに、モココの言葉を聞いていた。
「……僕は、フワワさんに、密かな想いを抱いていた。それは、君の言う通りだ」
ヴィンセントは、穏やかな声で言った。
「でも、フワワさんが、ヘルメス氏を選んだことを、深淵で、僕は見ていた。フワワさんの、あの真っ直ぐな目。あれは、誰にも、変えられないものだ。だから、僕は、フワワさんへの想いを、静かに手放すと決めた」
ヴィンセントは、モココに近づいた。
「モココちゃん。君は、真っ直ぐだ。感情に素直で、まっすぐで、誰よりも、一生懸命だ。僕は、そんな君のことが、好きだよ」
「……ヴィンセントさん」
「僕は、兄を失った。深淵で、たった一人の兄を。だからこそ、もう、大切な人を、失いたくない。モココちゃん。君を、失いたくない」
ヴィンセントは、モココの手を、そっと握った。
「……ヴィンセントさん!モココ、ヴィンセントさんのこと、絶対に、離さない!モココが、ヴィンセントさんを、守るの!」
モココは、号泣しながら、ヴィンセントに抱きついた。
「ああ、ありがとう。モココちゃん」
ヴィンセントは、モココの頭を、優しく撫でた。
その様子を、カフェの入り口から、フワワとヘルメスが見守っていた。
「……モココ、よかったわね」
フワワは、涙ぐみながら、微笑んだ。
「ああ、あいつらしい」
ヘルメスは、静かに頷いた。
四人は、カフェのテーブルを囲んだ。
ヴィンセントは、革の手帳を取り出し、ヘルメスに差し出した。
「ヘルメス氏。これを、あなたに」
「……なんだ、これは」
「兄、アレンの遺品です。深淵で、あなたと共に、調査を行っていた。彼の最後の記録が、ここにあります」
ヘルメスは、手帳を受け取った。
「アレン……ああ、覚えている。勇敢な男だった」
ヘルメスは、手帳を開いた。
「……すまない。俺が、彼を守れなかった」
「いいえ。兄は、自分の意思で、深淵に残りました。あなたを、地上へ帰すために。だから、謝らないでください」
ヴィンセントは、静かに首を振った。
「それから、報告があります。深淵の残滓が、浄化されました。オルディア周辺から、残滓の気配が、完全に消えています」
「……そうか」
「深淵閉鎖の真の意味。それは、母レイナが、守ろうとした、我が子の未来だった。そういうことなのでしょうね」
ヴィンセントは、フワワを見つめた。
フワワは、小さく頷いた。
「……ええ。きっと、そうなんだと思います」
―――
深淵から戻って、三日目の早朝。
フワワは、一人で、オルディア港の桟橋に立っていた。
空は、まだ薄暗い。東の水平線が、ほんのりと白み始めている。
潮風が、フワワの白い髪を、優しく撫でていく。
フワワは、左手首の、銀の腕輪を見つめた。
母レイナの形見。
深淵文字が刻まれた、銀の腕輪。
フワワは、ゆっくりと、腕輪を外した。
「……お母さん」
フワワは、腕輪を、両手で包み込んだ。
「私、お母さんのこと、恨んでた。私を置いて、深淵に消えたって。でも、違った。お母さんは、私を守るために、深淵に残ったのね」
フワワの目に、涙が浮かんだ。
「ありがとう、お母さん。私を、生んでくれて。私を、守ってくれて。……そして、ヘルメス様を、私に託してくれて」
フワワは、腕輪を、高く掲げた。
「……さようなら、お母さん」
フワワは、腕輪を、海へと投げ入れた。
銀の腕輪は、夕暮れの空に、一筋の光を描きながら、海面へと吸い込まれていった。
波紋が、静かに広がる。
そして、消えた。
フワワの残響感知から、母の気配が、完全に消えた。
「……お母さん」
フワワは、海に向かって、深く、深く、頭を下げた。
―――
カフェ〈アビスガード〉に戻ると、店内には、甘い香りが漂っていた。
「姉ちゃん、おかえり!」
モココが、オーブンから、焼きたてのタルトを取り出していた。
「おかえりなさい、フワワさん」
ヴィンセントが、カウンターで、コーヒーを淹れている。
「……おかえり」
ヘルメスが、窓辺の席で、海を眺めながら、静かに言った。
フワワは、白いエプロンを身につけた。
「ただいま」
フワワは、笑顔で、三人に言った。
オルディア湾に、朝日が昇る。
港町に、深淵の残滓のない、平穏な朝が訪れる。
カフェ〈アビスガード〉の、新しい一日が、始まる。
失われたものは、戻らない。
それでも、残された者たちは、前へ進むことを選んだ。
階段の底で待っていたのは、喪失ではなく、再生への道だった。
フワワ・アビスガードは、小さく息をついた。
白い犬耳が、朝の光に揺れる。
カフェの窓から、オルディアの海が、どこまでも、青く、輝いていた。Noveliaとは?
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