拾われた刃は、やがて居場所を知る
血の匂いとともに、少年はすべてを失った。
孤児院「陽だまりの家」で十四年間、ただ一人の能力者として戦い続けてきた灰谷累。触れた物の記憶を読む力「残響」——その力ゆえに恐れられ、利用され、そして裏切られた。
施設を守るための囮として、育ての親に切り捨てられた累は、腹を撃ち抜かれ、冷たい地面に倒れる。守りたかった子供たちの顔、果たせなかった初雪の約束、そして「なぜ、捨てた」という消えない問い。
意識が闇に落ちる寸前、累の前に現れたのは、裏社会の組織「ゴーント・ネスト」の冬木蒼と早瀬凪だった。
「お前を、ゴーント・ネストに迎え入れる。組織の一員として、生きろ」
冷たい声で告げる蒼。その手に触れた瞬間、累の脳裏に流れ込む、見知らぬ記憶の断片——雪の降る夜、誰かの背中、燃える建物。それは、決して読めないはずの、累自身の失われた過去への扉だった。
裏切り、暴力、そして自らの正体への渇望。拾われた刃は、いま再び鞘を探し始める。
これは、居場所を求めて戦う少年の、再生と覚醒の物語。
拾われた刃は、やがて居場所を知る - 灰刃の街に降る雪——拾われる前の、最初の夜
血の匂いが、鼻の奥にこびりついて離れない。
自分の血だ。腹の奥が熱い。指の隙間から、どくどくと温かいものが溢れていく。冷たい地面に背中をつけたまま、灰谷累はぼんやりと空を見上げていた。
晩秋の夜空はやけに高くて、星がひとつも見えなかった。代わりに、海からの湿った風が丘を這い上がってきて、汗と血にまみれた頬を冷やしていく。
(ああ、そうか)
累は他人事みたいに思った。
(俺、死ぬのか)
トワイライト・エッジ。人口四十八万の港湾都市。昼は物流と精密機械の工場で賑わい、夜は海からの霧に包まれる。この街の郊外、海沿いの丘の上に、累が十四年間暮らした孤児院「陽だまりの家」は建っていた。
木造二階建ての、老朽化した建物。白いペンキは剥げ、鉄の階段は錆びつき、雨の日には二階の廊下にバケツが並ぶ。定員三十名、常時二十人前後の子供たちが、そこで暮らしていた。
表向きは、慈善施設。
裏の顔は、子供を犯罪組織に斡旋する、仲介所。
累はその施設で、たった一人の能力者だった。
「残響」。触れた物体や場所に残る記憶を読み取る力。物に触れれば、その物が辿ってきた過去が流れ込んでくる。誰がそれに触れ、何を思い、どこへ運んだのか。古い机に手を置けば、そこに座っていた子供の笑い声や涙の跡まで感じ取れた。
ただし、その代償は重い。使うたびに、頭蓋骨の内側から釘を打ち込まれるような頭痛が襲う。視界が歪み、自分の記憶が一瞬混濁する。何度も使えば、立っていることすら難しくなる。
そして、累自身の過去だけは、決して読めなかった。
八歳より前の記憶がない。孤児院に来る前の自分が、どこで生まれて、どんな親に捨てられたのか。残響で自分の持ち物を調べても、何も見えなかった。まるで、八歳以前の累という人間が、この世に存在しなかったかのように。
累は十四歳になった今も、自分が何者なのかを知らない。
知らないまま、この施設で、たった一人で戦ってきた。
施設の子供たちは、累を避けていた。
無理もない。累が物に触れるたびに、苦しそうに頭を押さえる姿を、何度も見てきたのだ。子供たちは累を「気味が悪い」と噂し、大人たちは「物騒な子」と扱った。累が能力者であることは、施設の中では公然の秘密だった。
能力者秘匿法。能力の存在を公にしないことを定めた法律。違反すれば懲役三年、罰金百万円。表の社会では、能力者は存在しないことになっている。
でも、裏の世界では違う。能力者は、その力の強さで値段がつく。
累は、そのことを、身に染みて知っていた。
三日前の夜。累は、幼い子供たちに約束をした。
「明日の朝、初雪が降ったら、一緒に見ような」
五歳の男の子が、目を輝かせて頷いた。六歳の女の子が、累の袖を引っ張って「絶対だよ」と言った。四歳の双子が、わけも分からず笑っていた。
累はその時、久しぶりに笑った気がする。
(俺にも、まだ、守るべきものがある)
そう思えた。それが、たまらなく嬉しかった。
その翌日。ヴェルムント結社が、陽だまりの家にやってきた。
ヴェルムント結社。能力者の管理と隔離を主張する秘密結社。構成員約二百名、うち能力者は四十名。表向きは製薬会社のシンクタンクだが、実態は能力者登録法案の成立を目指す政治結社だ。彼らは、能力者は「管理されるべき存在」だと考えている。
そして、その管理下に置けない能力者は、排除する。
陽だまりの家が孤児を犯罪組織に斡旋している事実を、ヴェルムントは握っていた。正確には、その証拠となる裏帳簿の存在を。
ヴェルムント側の要求は単純だった。
「帳簿を渡せ。さもなくば、この施設の存在ごと消す」
管理者の榊原道造は、表向きは穏やかな慈善家だった。五十歳を過ぎた、白髪交じりの痩せた男。子供たちには優しく、地域の評判も良かった。
でも、累は知っていた。榊原が裏で何をしているのかを。
何しろ、累の残響は、榊原の机に触れただけで、そこに積まれた書類の内容を読み取ってしまう。孤児の売買リスト。斡旋先の組織名。金額。
榊原が累を「危険視」していた理由は、それだった。
累の能力は、彼の犯罪の証拠を、いつでも暴ける。
「ヴェルムントの連中が来たぞ。累、お前は子供たちを連れて裏口から逃げろ」
榊原の声は震えていた。恐怖で? それとも、別の感情で?
「逃げて、どこに行くんだ」
「決まってる。丘の下の倉庫だ。あそこなら安全だ」
榊原はそう言って、累の肩を押した。
累はその時、違和感を覚えた。榊原の目が、累の顔を見ていなかった。視線が、累の後ろの壁に向いていた。
(こいつ、嘘をついている)
残響を使うまでもなく、分かった。十四年間、この男の顔を見てきた。嘘をつくときの癖も、知っている。
「……あんた、まさか」
累が問い詰める前に、榊原は言った。
「ヴェルムントに、お前を差し出す。そうすれば、施設の子供たちは見逃してくれる」
その言葉を聞いた瞬間、累の頭の中が真っ白になった。
(今、なんて言った)
「お前の能力は、この施設にとって危険すぎる。裏帳簿のことを知られたら、私も、施設も、終わりだ。だから、お前には犠牲になってもらう」
榊原の声は、淡々としていた。
「子供たちは守る。お前さえいなくなれば、ヴェルムントも手を引く。そういう取引をした」
「……てめえ」
累の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。
「俺を、囮にするってのか」
「囮ではない。これは、施設全体を守るための決断だ」
「ふざけんな!」
累は榊原の胸ぐらを掴み上げた。榊原の体が壁に叩きつけられる。
「俺が今まで、どれだけこの施設のために戦ってきたと思ってる! ヴェルムントの連中が来るたびに、俺が追い返してきたんだ! てめえはそれを見てたはずだろ!」
榊原は、累の目を見た。
「だからこそ、お前は危険なんだよ」
静かな声だった。
「お前は強すぎる。そして、お前の能力は、私の秘密を暴く。この施設で最も危険なのは、ヴェルムントでも、他の組織でもない。お前だ」
累の手から、力が抜けた。
榊原の体が、壁からずり落ちる。
「……あんた、最初から」
「ああ。お前を拾った時から、いつかこうなる日が来ると思っていた」
累は、笑った。
声にならない笑いが、喉の奥から漏れた。
(十四年間、こいつのために戦ってきたのか)
(この、クズのために)
その時、施設の正面から、爆発音が響いた。
ヴェルムントの本隊が、突入してきたのだ。
「お前はここで死ね。そうすれば、子供たちは助かる」
榊原はそう言い残し、裏口から逃げていった。
累は、一人、廊下に立っていた。
爆発音が、近づいてくる。子供たちの悲鳴が、遠くで聞こえる。
(守らなきゃ)
累は走り出した。
戦いは、一方的だった。
ヴェルムントの能力者は三人。一人は身体強化系で、素手でコンクリートの壁を砕く。一人は発火能力で、触れたものを燃やした。もう一人は、能力者ではなく、銃を持った兵士だった。
累は、残響を使って、相手の動きを読んだ。床に触れれば、敵の足音が、その意図が、流れ込んでくる。壁に触れれば、敵が隠れている位置が、手に取るように分かった。
でも、それだけだ。
累の残響は、攻撃の能力ではない。情報を得る力。戦闘では、それをどう使うかが全てだった。
累は、身体強化の男の拳を紙一重でかわし、その腕を掴んだ。残響が、男の過去の戦闘パターンを流し込む。次の動きが、分かる。
「ぐっ!」
頭痛が走る。視界が歪む。でも、構っていられない。
累は男の腕を逆に捻り上げ、壁に叩きつけた。男の頭が壁にめり込む。
「次」
発火能力者の女が、手のひらから炎を放った。累は床を蹴って横に跳ぶ。炎が、さっきまで累のいた場所を焼いた。
(熱い)
熱風が、頬を焼く。
累は床に転がりながら、近くに落ちていた消火器を掴んだ。ピンを抜き、ホースを女に向ける。
「燃やせるものなら、燃やしてみろ」
消火剤が、女の顔面に直撃した。女が悲鳴を上げてのけぞる。
その隙に、累は女の足を払い、倒れたところに馬乗りになった。
「お前ら、何しに来た」
「……帳簿を、渡せ」
「知るか、んなもん」
累は女の頭を床に叩きつけて、意識を奪った。
二人目、無力化。
だが、三人目の兵士が、銃を構えていた。
「動くな」
累は動かなかった。動けなかった。頭痛が、限界に達していた。残響の使いすぎだ。視界が、白く霞む。
(まだだ)
(まだ、子供たちが)
累は、兵士に向かって、一歩踏み出した。
銃声が、響いた。
腹に、衝撃。
熱い。
立っていられない。
累は、その場に崩れ落ちた。
(ああ、撃たれたのか)
痛みは、なかった。代わりに、体の中心から、温かいものが流れ出ていく感覚だけがあった。
兵士が、累に近づいてくる。
「トドメを刺せ」
ヴェルムントの、指揮官らしき声だった。
兵士が、累の頭に銃口を向ける。
(死ぬのか、俺)
(ここで)
(こんなところで)
累の脳裏に、浮かんだのは、子供たちの顔だった。
初雪を見ようと約束した、五歳の男の子。
袖を引っ張って「絶対だよ」と言った、六歳の女の子。
わけも分からず笑っていた、四歳の双子。
(守れなかった)
(約束、守れなかった)
(ごめん)
(ごめんな)
涙が、出た。
悔しかった。悲しかった。そして、何より——
(なぜ、捨てた)
榊原への怒りが、腹の奥で、弾けた。
(てめえは、俺を、捨てた)
(十四年間、一緒にいたのに)
(俺は、てめえのために戦ってたのに)
(なぜ)
(なぜ、捨てた)
その問いだけが、焼き付いた。
意識が、闇に落ちる。
——その時だった。
「蒼、見つけた。ここに子供が倒れてる」
声が聞こえた。
若い、女の子の声。
「生きてる?」
「……まだ息はあるな。腹を撃たれてる。出血がひどい」
今度は、男の声。
冷たいのに、どこか焦りを含んだ声。
累は、薄れゆく意識の中で、目を開けた。
ぼやけた視界に、二人の人影が映った。
一人は、金に近い茶色の癖毛。琥珀色の瞳。感情を読ませない、冷たい光を宿した目。黒いコートを着た、背の高い男。
もう一人は、肩までの黒髪に、赤いリボン。大きな黒い瞳が、感情そのままに揺れている。小柄で、あどけない顔立ちの少女。
「……だれ」
累は、かすれた声で尋ねた。
男が、累の顔を覗き込んだ。
「ゴーント・ネストの、冬木蒼だ。こっちは早瀬凪。お前を助けに来た」
ゴーント・ネスト。
聞いたことがある。ベイ・サイド港湾地区を拠点にする、裏社会の組織。構成員約八十名、能力者十二名。ヴェルムント結社とは敵対している。
「……たすけ、に?」
「助けに、来た。ヴェルムントの動きを追ってた。この施設が狙われてるって情報があってな。だが、来るのが遅れた」
蒼は、累の腹の傷を、手早く調べた。
「弾は貫通してない。内臓までは達してない。応急処置をすれば、助かる」
「……なんで」
「なんで助けるのか、って顔だな」
蒼は、累の目を、まっすぐに見た。
「お前、さっきの戦い、見てた。一人で、能力者二人を無力化した。その上で、まだ子供たちを守ろうとしてた。お前の能力、使える。だから拾う」
蒼の声は、淡々としていた。
「お前を、ゴーント・ネストに迎え入れる。組織の一員として、生きろ」
累は、蒼の言葉の意味を、うまく理解できなかった。
拾う? 俺を?
「……ふざけんな」
累は、血まみれの手で、蒼の腕を掴んだ。
「俺は、ここで、死ぬんだ。子供たちを、守れなかった。約束も、守れなかった。だから、もう……」
「死なせない」
蒼の声は、冷たかった。
「お前が死んだら、俺が困る。お前の能力は、組織に必要だ。だから、死ぬな」
「……勝手なこと、言いやがる」
「勝手で結構。俺は、お前を拾う。お前が何を言おうと、関係ない」
凪が、累の手に触れた。
「……この子、小さな子供の手形がついてる」
凪は、累の血まみれの手のひらを、じっと見ていた。
「子供たちを、守ろうとしたの?」
累は、答えなかった。
答えられなかった。
「……あんた、いい人なんだね」
凪の声は、少しだけ、震えていた。
「でも、いい人だけじゃ、生きていけないよ。この世界は、そういう場所だから」
凪の大きな黒い瞳が、累を見つめていた。
累は、その瞳を見て、思った。
(この子は、知っている)
(この世界の、残酷さを)
(それでも、生きている)
「……運ぶぞ。凪、担架を」
「うん」
蒼と凪が、累を担架に乗せた。
体が、浮き上がる。
「ヴェルムントの残党がまだいる。凪、風読みで探れるか?」
「……うん。三人、西の倉庫に隠れてる。でも、こっちには気づいてない。今なら行ける」
凪が、空気の流れを読む。風読み。数十秒先の動きを予測する能力。直接攻撃力は低いが、回避と支援に優れる。
「よし、行くぞ」
蒼が、担架の端を持ち上げた。
その時、累の指が、蒼のコートの裾に触れた。
——瞬間。
頭の中に、流れ込んでくる。
雪の降る夜。
誰かの背中。
燃える建物。
「……っ!」
激しい頭痛。記憶の混濁。
(これは、なんだ)
(俺の記憶か?)
(いや、違う。これは——)
蒼のジャケットから流れ込んだ、蒼の過去の記憶の断片。
組織の任務。凍てつく空気。凍結領域の使用感覚。
そして、それに混ざって、累自身の記憶の空白が、一瞬だけ揺らぐ。
雪の降る夜。誰かの背中。燃える建物。
(これは……俺の……?)
(八歳より、前の……?)
頭痛が、限界を超えた。
視界が、白く弾ける。
(だめだ)
(これ以上は——)
累の意識は、闇に沈んでいった。
最後に、浮かんだのは。
明日の朝。
初雪。
子供たちの笑顔。
そして。
なぜ、捨てた。
その問いだけが、深く、深く、累の内部に刻まれた。
累は、初めて、陽だまりの家の外の世界へと、運ばれていった。
海からの風が、丘を吹き抜けていく。
晩秋の夜空に、白い粒が、ひとつ。
また、ひとつ。
初雪だった。
累は、それを見ることはできなかった。
でも、その冷たさは、失われゆく意識のどこかで、確かに感じていた。Noveliaとは?
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