拾われた刃は、やがて居場所を知る
血の匂いとともに、少年はすべてを失った。
孤児院「陽だまりの家」で十四年間、ただ一人の能力者として戦い続けてきた灰谷累。触れた物の記憶を読む力「残響」——その力ゆえに恐れられ、利用され、そして裏切られた。
施設を守るための囮として、育ての親に切り捨てられた累は、腹を撃ち抜かれ、冷たい地面に倒れる。守りたかった子供たちの顔、果たせなかった初雪の約束、そして「なぜ、捨てた」という消えない問い。
意識が闇に落ちる寸前、累の前に現れたのは、裏社会の組織「ゴーント・ネスト」の冬木蒼と早瀬凪だった。
「お前を、ゴーント・ネストに迎え入れる。組織の一員として、生きろ」
冷たい声で告げる蒼。その手に触れた瞬間、累の脳裏に流れ込む、見知らぬ記憶の断片——雪の降る夜、誰かの背中、燃える建物。それは、決して読めないはずの、累自身の失われた過去への扉だった。
裏切り、暴力、そして自らの正体への渇望。拾われた刃は、いま再び鞘を探し始める。
これは、居場所を求めて戦う少年の、再生と覚醒の物語。
拾われた刃は、やがて居場所を知る - 灰刃の街に降る雪——拾われた刃の、最初の掟
薬品の匂いがした。
消毒液と、古い包帯と、鉄さびのような血の匂い。それらが混ざり合った、病院とも倉庫ともつかない匂いが、鼻の奥に張り付いている。
灰谷累は、まぶたの裏に感じる冷たい蛍光灯の光で、自分がどこか見知らぬ場所に寝かされていることを知った。
(ここは……どこだ)
体が重い。鉛でも詰め込まれたみたいに、指の一本すら思うように動かない。腹の奥に、鈍い痛みがあった。呼吸をするたびに、肋骨のあたりがギシギシと軋む。
生きている。
その事実だけが、やけにはっきりと分かった。
陽だまりの家で、あの夜、ヴェルムント結社の連中に腹を刺された。榊原の差し金で、子供たちを守ろうとした自分が、逆に囮にされた。逃げ道のない倉庫に追い込まれて、後ろから撃たれた。
(あの後、どうなった)
記憶が途切れている。血を流して倒れたところまでは覚えている。その先は、断片的にしか残っていない。誰かに担架で運ばれた感覚。冷たい空気。雪の匂い。
「目が覚めたか」
声がした。
累がゆっくりと首を動かすと、ベッドの横のパイプ椅子に、冬木蒼が座っていた。
金に近い茶色の癖毛。いつも少し寝癖がついている。琥珀色の瞳は、感情を読ませない冷たい光を宿している。右耳に小さなシルバーのピアス。左手の甲には、古い火傷の痕。
年齢は累より一つ下の十六歳。だが、その目は同年代の少年のものではなかった。裏社会で生きてきた人間特有の、値踏みするような鋭さがあった。
「……お前か」
累の声は、自分でも驚くほどかすれていた。喉が張り付いて、うまく声が出ない。
「三日眠ってた」
蒼は、パイプ椅子の背もたれに体重を預けたまま、淡々と言った。
「ここはゴーント・ネスト本部の地下医療室だ。表向きは運送会社の倉庫だが、地下は治療室と訓練場になってる。お前の傷は、一応塞がった」
「……そうか」
累は、天井を見つめた。
ゴーント・ネスト。裏社会の組織。構成員約八十名、うち能力者は十二名。表の顔は運送会社「ゴーント物流」で、収入源は警護、情報売買、違法取引の仲介。この街の港湾地区を縄張りにしている。
孤児院の大人たちが、恐れていた組織の一つだ。
「水、飲めるか」
蒼が、サイドテーブルのピッチャーからコップに水を注いだ。
「……飲める」
累は上体を起こそうとしたが、腹の傷が痛んで思うように動けない。
蒼が、無言でコップを差し出した。
「……悪い」
「気にするな」
累は、蒼の手から直接、水を飲んだ。冷たい水が、乾いた喉を潤していく。少しだけ、頭がはっきりしてきた。
「お前が、俺を拾ったのか」
「そうだ」
「なぜ」
「使えるからだ」
即答だった。
「お前の能力、残響。触れた物体や場所の記憶を読み取る力。あれは情報戦において、これ以上ないほど有用だ。孤児院の裏帳簿も、ヴェルムントの動きも、お前の手にかかれば筒抜けになる」
「……だから拾ったのか」
「そうだ。お前の性格でも顔でもない。能力が、俺の基準を満たした。それだけだ」
累は、しばらく黙っていた。
(使えるから拾った、か)
嫌な言い方だった。だが、不思議と腹は立たなかった。陽だまりの家では、累の能力は「気味が悪い」「物騒だ」と言われ続けた。それがここでは、真逆の評価をされている。
「……ここは、どんな組織なんだ」
「知ってるだろ。トワイライト・エッジの裏社会で、港湾地区を仕切ってる組織だ。構成員は約八十名。能力者は十二名。表向きは運送会社だが、実態は違法取引の仲介と警護と情報売買だ」
「そうじゃない」
累は、蒼の目を見た。
「ここは、どういうルールで動いてる。何が許されて、何が許されない」
蒼は、少しだけ眉を動かした。
「……面白い質問だな。普通、拾われたばかりのガキは、もっと別のことを聞く」
「聞きたいことがあるんだ」
「そうか」
蒼は、コップをサイドテーブルに置いた。
「なら、直接聞け。ボスに」
その時、地下医療室の扉が、静かに開いた。
空気が、変わった。
重い、圧力のようなものが、部屋全体に満ちていく。呼吸がしづらい。心臓が、胸の奥で早鐘を打つ。
(なんだ、この感覚は)
累は、反射的に身構えた。
「ようやく目を覚ましたか」
低い声だった。
地の底から響いてくるような、重く、深い声。
鴉山剛。
ゴーント・ネストのボス。年齢は四十代半ば。白髪交じりの短髪をオールバックに流し、無精ひげを生やしている。黒いコートを羽織り、左手に銀の杖をついていた。
杖をついているが、足が悪いわけではない。あれは、飾りではない。杖の先端には、鉛の重りが仕込まれている。殴れば、人の頭蓋骨くらい簡単に砕ける。
何より、その存在感が異常だった。
部屋に入ってきただけで、空気が重くなる。これが、鴉山剛の能力「威圧」だ。周囲の人間の精神を圧迫し、動きを鈍らせる。直接的な戦闘力は低いが、交渉や組織運営で絶大な効果を発揮する。
「……あんたが、ボスか」
累は、なんとか声を絞り出した。
「そうだ。鴉山剛だ。お前を拾ったのは蒼だが、お前を組織に入れるかどうかを決めるのは俺だ」
鴉山は、累のベッドの足元に立った。
「灰谷累。十七歳。能力は残響。触れた物体や場所の記憶を読み取る。ただし、自分自身の八歳以前の記憶だけは読めない。使うたびに激しい頭痛と記憶混濁に襲われる。間違いないな」
「……よく調べてるな」
「当然だ。組織に入れる人間のことは、全て調べる」
鴉山は、杖の先を床に置いた。
「お前の能力は、希少だ。物に触れるだけで情報を抜ける能力者は、この街にはお前しかいない。孤児院の裏帳簿、取引先の名簿、ヴェルムント結社の内部情報。お前の手にかかれば、それらは全て手に入る」
「……だから、拾ったのか」
「そうだ」
鴉山は、あっさりと認めた。
「ただし、それだけなら、わざわざ俺が直々に会う必要はない。蒼に任せておけば済む話だ。俺がここに来たのは、別の理由だ」
「……なんだ」
「お前が、なぜ生きているのか。それを、お前自身が理解しているかどうかを確かめに来た」
累は、黙った。
「お前は、孤児院の管理者に裏切られた。子供たちを守ろうとして、逆に囮にされた。瀕死の重傷を負い、死ぬはずだった。それを、蒼と凪が拾った。なぜ拾ったかは、蒼が説明した通りだ」
鴉山は、累の目を真っ直ぐに見た。
「お前は、自分の命の値段を、知っているか」
「……知らない」
「お前の能力は、金になる。孤児院の裏帳簿を読めば、この街の裏社会の金の流れが全て分かる。ヴェルムント結社の機密を読めば、奴らの弱点を突ける。お前一人で、組織の戦力が一割は上がる」
「……だから、生かしたのか」
「そうだ。お前が使えるから、生かした。それ以上でも、それ以下でもない」
鴉山の言葉は、冷たかった。だが、嘘はなかった。
(この人は、嘘をつかない)
累は、直感的にそう思った。
陽だまりの家の榊原道造は、笑顔の裏で嘘をつく男だった。子供たちには優しく接しながら、裏では売り物のリストを作っていた。
でも、この男は違う。
「お前が、組織に入るなら、歓迎する。入らないなら、ここを出て行け。ただし、治療費と情報提供の対価として、お前の能力を一度だけ使ってもらう」
「……条件は、それだけか」
「他に何かあるか」
累は、深く息を吸った。
腹の傷が痛む。でも、言わなければならないことがあった。
「……一つ、条件がある」
「言ってみろ」
「子供は、殺させない」
部屋の中が、静かになった。
蒼が、少しだけ目を細めた。
「……子供は、殺させない?」
「ああ。俺が組織に入るなら、子供を殺す仕事はしない。子供を殺す命令も、受けない。それが、俺の条件だ」
累の声は、かすれていたが、はっきりとしていた。
「なぜだ」
「孤児院に、子供たちがいる」
累は、天井を見た。
「俺が守ろうとしたガキどもだ。俺がここで死んだら、あいつらはどうなる。榊原の手で、またどこかに売られる。ヴェルムントの連中に、殺されるかもしれない。……俺は、あいつらを守りたかった」
「守れなかったな」
「……ああ」
累は、唇を噛んだ。
「守れなかった。だから、せめて、これ以上は。俺のせいで、子供が死ぬのは、もう嫌だ」
「……自分の命が助かったのは、お前の能力が使えるからだ。その能力を使って、組織のために働け。子供を殺すな、だと?」
「そうだ」
「生意気なことを言う」
「あんたが、俺を拾ったんだろ。なら、俺の条件を聞く義務がある」
累は、鴉山の目を見た。
灰色の瞳が、刃物のように冷たく光る。
「……面白い」
鴉山の口元が、わずかに動いた。
笑ったのか、それとも、怒ったのか。累には判断できなかった。
「灰谷累。お前の条件は、組織の掟と矛盾しない」
「……どういう意味だ」
「ゴーント・ネストには、元々、掟がある。『子供は殺さない』。この組織の初代頭領が定めた、絶対の掟だ。裏切りは死をもって償うが、子供を殺した者は、たとえ組織のためでも許されない」
鴉山は、杖を軽く床に打ち付けた。
「お前の条件は、この組織にとって、当たり前のことだ。改めて飲むまでもない」
「……そうか」
累の体から、力が抜けた。
(子供は殺さない)
その言葉が、思っていたよりも深く、胸に落ちた。
「ただし、勘違いするな。お前を拾ったのは、善意でも同情でもない。お前の能力が、この組織に必要だからだ。お前が使えなくなれば、容赦なく捨てる」
「……分かってる」
「ならいい」
鴉山は、背を向けた。
「蒼、後は任せた。こいつの傷が癒えたら、本部の中を案内しろ。組織のルールを叩き込め」
「了解」
鴉山は、扉に向かって歩き出した。
「灰谷累」
「……なんだ」
「お前がここで生き延びたのは、運が良かったからだ。その運を、無駄にするな」
鴉山は、それだけ言って、部屋を出て行った。
空気が、少しだけ軽くなった。
累は、大きく息を吐いた。
「……あれが、ボスか」
「そうだ。強烈だろ」
「ああ。心臓に悪い」
「慣れる。まあ、お前が生きてるうちに、だがな」
蒼は、立ち上がった。
「水、もっと飲むか」
「……ああ」
蒼が、コップに水を注いで、差し出した。
累は、それを受け取って、一気に飲んだ。
冷たい水が、体の中に染みていく。
(生きてる)
(俺は、まだ、生きてる)
その事実が、じわじわと実感として湧いてきた。
---
それから、数日が過ぎた。
累の傷は、順調に回復した。腹の傷はまだ痛むが、歩けるようになった。地下医療室のベッドから、組織の一員として与えられた小さな個室に移された。
ゴーント・ネスト本部。
ベイ・サイド港湾地区の倉庫街にある、表向きは「ゴーント物流」の事務所。三階建ての倉庫を改装した建物で、一階と二階は事務所と会議室、地下には訓練場と武器庫、そして医療室がある。
累は、蒼の案内で、本部の中を歩いていた。
「ここが一階の事務所だ。表向きは、普通の運送会社のオフィスだ。電話応対も、書類仕事も、全部普通にやってる」
蒼は、淡々と説明しながら歩く。
「二階が会議室と、幹部の部屋。地下が訓練場と武器庫、医療室。お前が寝てた場所だ」
「……でかいな」
「構成員は八十名。全員がここにいるわけじゃないが、本部には常時三十人前後が詰めてる」
「能力者は、何人いるんだ」
「十二名。お前を含めれば、十三名だ」
「……十三人も、能力者がいるのか」
累は、少し驚いた。
陽だまりの家では、能力者は累だけだった。この街に、こんなに多くの能力者がいるとは思っていなかった。
「能力者は、人口の約0.03%。この街の人口が四十八万だから、単純計算で十六人いることになる。ゴーント・ネストだけで十二人。ヴェルムント結社には四十人。ノクト・ハウンドには十五人。他の小規模組織にも、数人ずついる」
「……多いな」
「裏社会に、能力者が集まるのは当然だ。能力者秘匿法で、表の社会では能力を隠さなければならない。能力を使えば使うほど、表の社会には居場所がなくなる。だから、裏に流れる」
「……お前もか」
「俺もだ」
蒼は、あっさりと認めた。
「俺の能力は、凍結領域。周囲の温度を急速に下げて、半径二十メートル以内の物体を凍結させる。最大出力で、鉄鋼をも脆化させる。……こんな力を持ってる奴が、表の社会で生きていけると思うか?」
「……思わないな」
「そういうことだ」
二人は、地下の訓練場に降りた。
広い空間だった。壁際には、銃器やナイフ、警棒などが並べられている。床には、血の染みがいくつも残っていた。
「ここで、構成員が戦闘訓練をする。能力者も、非能力者も、関係なく。裏社会で生き残るには、能力があってもなくても、戦えなければ死ぬ」
「……お前は、強いのか」
「お前が、自分で確かめろ」
蒼は、累の方を向いた。
「立てるか」
「……ああ」
「なら、少し付き合え。お前の戦闘力を見極める」
「……まだ、傷が癒えてないんだが」
「知ってる。だから、手加減する」
「手加減、な」
累は、蒼の目を見た。
琥珀色の瞳は、相変わらず冷たかった。だが、その奥に、ほんの少しだけ、何かが光っているように見えた。
(こいつ、俺を試してる)
(どこまで使えるか、見てるんだ)
「……分かった。やってやる」
累は、壁際から、訓練用のナイフを手に取った。
木製の、刃のない練習用ナイフ。だが、当たれば痛い。
「武器は、それでいいのか」
「俺は、これで戦ってきた」
「そうか」
蒼は、何も持たなかった。
「来い」
「……てめえ、素手でやる気か」
「俺は、素手の方が強い」
「ふざけんな。舐めてんのか」
「舐めてるわけじゃない。事実を言っただけだ」
「……上等だ」
累は、ナイフを逆手に構えた。
腹の傷が、痛む。でも、そんなことは関係ない。
(こいつに、俺の値段を、思い知らせてやる)
累は、床を蹴った。
一気に間合いを詰めて、ナイフを振り下ろす。
蒼は、それを、最小限の動きでかわした。
「遅い」
「……っ!」
累は、続けて横薙ぎに振る。
蒼は、それを、手の甲で弾いた。
「動きが単調だ。孤児院で、誰に戦い方を教わった」
「教わってねえよ。独学だ」
「だろうな。無駄な動きが多すぎる」
蒼は、累の突きを、体を半歩ずらしてかわした。
「お前の戦い方は、自己流の喧嘩だ。相手を殺す技術じゃない。……孤児院で、よくそれで生き延びられたな」
「うるせえ!」
累は、怒りに任せて、ナイフを振り回した。
蒼は、それを全てかわす。
「……もういい」
蒼の右手が、累の手首を掴んだ。
「っ!?」
次の瞬間、累の体は、床に叩きつけられていた。
背中から落ちて、肺の中の空気が、一気に押し出される。
「がっ……!」
「終わりだ」
蒼は、累の上に馬乗りになり、ナイフを持った手首を床に押さえつけた。
「……くそ」
「お前の戦闘力は、非能力者の大人と同程度。能力を使わなければ、組織の下位構成員にも劣る」
蒼は、冷たく言った。
「だが、殺気は本物だ。お前は、人を殺す覚悟がある。……いや、殺す覚悟しかない」
「……なにが言いたい」
「お前は、守るための戦い方を知らない。殺すための戦い方しか知らない。孤児院で、子供たちを守るために、どれだけの人間を殺した?」
累は、答えなかった。
「答えられないか。……お前の残響は、情報を読む能力だ。戦闘向きじゃない。だが、お前自身は、戦闘向きの人間だ。その矛盾を、どう活かすか。それが、お前の課題だ」
蒼は、累の手首を離した。
「立て。続きは、傷が癒えてからだ」
「……てめえ」
累は、床に寝転がったまま、蒼を睨みつけた。
「値踏みしてんじゃねえぞ」
「値踏みしてる。当然だろ。お前は、組織の戦力として拾われた。戦力として使えるかどうか、俺が判断する」
「……使えない刃なら、拾わなかった。そう言いたいのか」
「そうだ」
「……くそが」
累は、ゆっくりと起き上がった。
腹の傷が、痛む。でも、それ以上に、悔しさが痛い。
「お前の能力、凍結領域だっけ。あれを使えば、俺なんか一瞬で殺せるだろ」
「殺せる」
「じゃあ、なぜ使わない」
「お前を殺す必要がないからだ」
「……そうかよ」
累は、ナイフを床に投げ捨てた。
「お前の能力、どれだけ強いのか、見せてみろよ」
「……見たいのか」
「ああ。見て、対策を考える」
蒼は、少しだけ、目を細めた。
「……面白いことを言うな」
「面白くて結構。見せろ」
「……いいだろう」
蒼は、右手を上げた。
次の瞬間、訓練場の空気が、変わった。
冷たい。
息を吸うと、肺が凍るような冷気が、部屋全体に広がっていく。
蒼の足元から、白い霜が、床を這うように広がっていく。
「……っ!」
累は、思わず後退った。
蒼の周囲、半径二十メートル。その範囲の空気が、急速に冷えていく。壁に結露が浮かび、それが一瞬で凍りつく。床に残っていた血の染みが、赤い氷になる。
「これが、俺の能力だ」
蒼の声は、冷たかった。
「周囲の温度を、下げる。最大出力で、鉄鋼をも脆化させる。お前の残響が情報を読む能力なら、俺の凍結領域は、情報ごと破壊する能力だ」
「……反則だろ、それ」
「反則で結構。裏社会に、ルールはない」
蒼は、手を下ろした。
冷気が、ゆっくりと消えていく。
「お前の残響は、俺の過去を読めるか」
「……あ?」
「試してみろ。俺のジャケットに触れれば、俺の記憶が流れ込んでくるんだろ」
「……てめえ、正気か。あれは、使うたびに頭が割れるんだぞ」
「知ってる。だが、お前の能力の限界を知っておきたい」
「……勝手なこと言いやがる」
累は、蒼のジャケットを見た。
黒い、シンプルなジャケット。あの夜、蒼が着ていたものと同じだ。
(こいつの過去を、読む)
(……怖い)
累は、正直に思った。
残響で他人の記憶を読むのは、いつも怖い。相手の痛みや悲しみや怒りが、そのまま流れ込んでくる。他人の感情に、自分の心が侵食される感覚。
でも、ここで逃げたら、蒼に舐められたままだ。
「……いいぜ。読んでやる」
累は、蒼のジャケットの袖に、指先で触れた。
——瞬間。
頭の中に、流れ込んでくる。
雪の降る夜。
燃える建物。
誰かの叫び声。
凍てつく空気。
凍結領域の使用感覚。
組織の任務。
標的の顔。
「……っ!」
激しい頭痛。
視界が歪む。
(これは……蒼の……)
(こいつの……記憶……)
記憶の断片が、津波のように押し寄せる。
蒼の過去。
組織に拾われる前の、蒼の過去。
「……見えるか」
「……ああ」
「何が見えた」
「……雪の夜。燃える建物。お前が、誰かを殺した」
「……そうか」
蒼の声は、平静だった。
「お前の残響は、俺の過去の断片を読める。だが、全ては読めない。……そうだな?」
「……ああ。断片的だ。映像と感情が、混ざって流れてくる。全部は読めない」
「……お前自身の過去は、読めるのか」
累は、黙った。
「読めないんだな」
「……ああ。八歳より前の記憶は、何も読めない。俺の持ち物を調べても、何も見えない。まるで、八歳以前の俺が、この世に存在しなかったみたいに」
「……呪いみたいな力だな」
「……ああ。呪いだ」
累は、頭を押さえた。
頭痛が、まだ続いている。
「お前の能力は、他人の過去は読めるのに、自分の過去だけは読めない。……なぜだと思う」
「知るか。考えたこともない」
「……お前の過去に、何かある。八歳以前の記憶が、意図的に封じられている可能性がある」
「……なんだと」
「お前の能力は、記憶を読む力だ。そのお前が、自分の記憶だけ読めない。……それは、能力の欠陥じゃない。誰かが、意図的に、お前の記憶に鍵をかけた可能性がある」
「……誰が」
「知らない。だが、お前を孤児院に置き去りにした人間が、関係しているかもしれない」
累は、蒼の顔を見た。
琥珀色の瞳は、真剣だった。
「……お前、俺のことを、どこまで知ってる」
「孤児院の記録を、全て調べた。お前が八歳の時に、陽だまりの家に連れてこられたこと。それ以前の記録が、一切存在しないこと。……お前は、どこから来たのか、誰にも分からない」
「……そうか」
累は、拳を握った。
(俺は、何者なんだ)
(八歳以前の俺は、どこにいた)
(なぜ、記憶がない)
「……まあ、今は気にするな」
蒼は、背を向けた。
「お前の過去が何であれ、お前はもう、ゴーント・ネストの一員だ。過去より、これからのことを考えろ」
「……勝手なことを言いやがる」
「勝手で結構。俺は、お前を拾った。お前が何を言おうと、関係ない」
蒼は、訓練場の出口に向かって歩き出した。
「……おい、蒼」
「なんだ」
「お前、俺のこと、拾って後悔してないのか」
「後悔する理由がない」
「……そうかよ」
「お前が、俺の期待を裏切らなければな」
「……期待してんのか」
「してる。お前の能力は、この組織に必要だ」
「……能力だけかよ」
「他に何がある」
「……くそが」
累は、思わず笑った。
「てめえ、ほんとに、腹の立つ野郎だな」
「お前もな」
蒼は、それだけ言って、訓練場を出て行った。
累は、一人、訓練場に残された。
「……くそ」
累は、壁に背中を預けて、ゆっくりと座り込んだ。
腹の傷が痛む。頭も痛い。でも、不思議と、気分は悪くなかった。
(蒼のやつ、俺のこと、ちゃんと見てる)
(値踏みして、試して、それでも、捨てない)
(……あいつは、俺を、手放さない)
そのことが、なぜか、嬉しかった。
---
さらに数日が過ぎた。
累は、組織の生活に、少しずつ慣れていった。
朝は、地下の訓練場で体を動かす。昼は、一階の事務所で、運送会社の書類仕事を手伝う。夜は、与えられた個室で、一人で過ごす。
組織の構成員たちは、累に対して、おおむね無関心だった。
「また拾い子か」
「今度は、どんな能力だ」
「残響だってよ。物に触れると記憶が読めるらしい」
「へえ、便利だな。でも、使うたびに頭が痛くなるんだろ。大変だな」
そんな会話が、聞こえてくる。
悪意はない。ただ、新しい仲間に対する、素っ気ない興味。
累は、それで良かった。
陽だまりの家では、累は「気味の悪い能力者」として孤立していた。でも、ここでは、能力者は珍しくない。累の能力も、他の能力者たちと比べれば、特別に異質というわけではない。
(ここでは、俺は、普通だ)
(能力者であることが、普通なんだ)
そのことが、累にとっては、新鮮だった。
---
ある夜。
累は、鴉山剛に、個別に呼び出された。
二階の、ボスの執務室。
重厚な木の机と、革張りのソファ。壁には、古い地図と、いくつかの写真が飾られている。窓からは、ベイ・サイド港湾地区の夜景が見えた。
「座れ」
「……ああ」
累は、ソファに腰を下ろした。
「傷は、もういいのか」
「ああ。もう、動くのに支障はない」
「そうか」
鴉山は、机の上の書類を、手に取った。
「お前の能力について、蒼から報告を受けた。他人の記憶は断片的に読めるが、お前自身の八歳以前の記憶だけは、決して読めない。そうだな」
「……ああ」
「興味深い」
鴉山は、書類を机に置いた。
「お前の能力は、記憶を読む力だ。物に触れれば、その物に残る記憶を読み取る。他人の過去も、場所の過去も、読める。……だが、お前自身の過去だけは、読めない」
「……だから、何だ」
「これは、単なる能力の欠陥ではない。お前の過去に、何かが、意図的に仕組まれている」
「……蒼にも、同じことを言われた」
「そうか。蒼も、同じ結論に達したか」
鴉山は、窓の外を見た。
「灰谷累。お前の八歳以前の記憶は、単に失われたのではない。誰かが、封じたんだ。お前の能力は、その封印を、内側から壊せないようにできている」
「……誰が、そんなことを」
「分からない。だが、お前を孤児院に置き去りにした人間が、関係している可能性が高い」
「……置き去りにした人間」
「お前は、八歳の時に、陽だまりの家に連れてこられた。それ以前の記録は、一切存在しない。出生記録も、戸籍も、何もない。……お前は、この世に存在しないはずの人間だ」
「……なんだ、それ」
「お前は、誰かに、この世から消された。そして、孤児院に、捨てられた。……いや、違うな」
鴉山は、累の目を見た。
「お前は、誰かに、この世から隠された。孤児院は、お前を隠すための場所だった」
「……隠すための場所」
「そうだ。お前の記憶が封じられているのも、お前の存在が隠されているのも、全て、誰かの意図だ。お前は、何かから、守られている。……あるいは、何かのために、取っておかれている」
累は、黙った。
(俺は、何かから、守られている?)
(それとも、何かのために、取っておかれている?)
「……俺は、どうすればいい」
「今は、何もしなくていい。お前の過去は、お前が追いかけても、まだ見つからない。……だが、いずれ、お前の過去が、お前を追いかけてくる」
「……どういう意味だ」
「お前を隠した人間は、お前がここにいることを、まだ知らない。だが、お前が組織の一員として動き始めれば、いずれ、お前の存在は、誰かの目に触れる。……その時、お前の過去が、動き出す」
「……怖いことを言うな」
「怖がらせてすまない。だが、知っておくべきだ。お前の人生は、お前が思っているより、ずっと複雑だ」
鴉山は、杖を手に取った。
「灰谷累。お前は、この組織で、生き延びろ。お前の過去が何であれ、お前はもう、ゴーント・ネストの一員だ。組織は、お前を守る。お前が、組織を裏切らない限りは」
「……あんたは、俺を信じるのか」
「信じない。だが、使う。信頼と利用は、別物だ。……お前も、いずれ、それを学ぶ」
「……そうか」
累は、立ち上がった。
「あんたは、嘘をつかないな」
「嘘は、信頼を生まない。信頼がなければ、組織は崩壊する。……ただし、真実を全て話すわけでもない。それが、ボスというものだ」
「……あんたの下で、働くよ。俺の能力が、役に立つなら、使ってくれ」
「ああ。期待している」
累は、執務室を出た。
廊下を歩きながら、累は、窓の外を見た。
ベイ・サイド港湾地区の夜景。
コンテナ埠頭の明かりが、海に反射して、揺れている。
(俺は、ここで、生きていく)
(俺の過去が何であれ、俺は、ここで)
(守るべきものを、見つける)
累は、自分の部屋に戻った。
部屋は、質素だった。ベッドと、机と、小さなクローゼット。それだけ。
でも、累にとっては、初めての「自分の場所」だった。
陽だまりの家では、相部屋だった。自分の場所なんて、どこにもなかった。
(ここは、俺の部屋だ)
(俺が、帰ってくる場所だ)
累は、ベッドに横になった。
天井を見つめる。
(……蒼のやつ、今頃、何してる)
(……まあ、どうでもいいか)
累は、目を閉じた。
腹の傷が、まだ少し痛む。
でも、不思議と、心は落ち着いていた。
(明日も、生きる)
(ここで、生きる)
累は、静かに、眠りに落ちていった。
窓の外では、海からの風が、倉庫街を吹き抜けていた。
遠くで、船の汽笛が、低く鳴る。
トワイライト・エッジの夜は、まだ、深い。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。