拾われた刃は、やがて居場所を知る
血の匂いとともに、少年はすべてを失った。
孤児院「陽だまりの家」で十四年間、ただ一人の能力者として戦い続けてきた灰谷累。触れた物の記憶を読む力「残響」——その力ゆえに恐れられ、利用され、そして裏切られた。
施設を守るための囮として、育ての親に切り捨てられた累は、腹を撃ち抜かれ、冷たい地面に倒れる。守りたかった子供たちの顔、果たせなかった初雪の約束、そして「なぜ、捨てた」という消えない問い。
意識が闇に落ちる寸前、累の前に現れたのは、裏社会の組織「ゴーント・ネスト」の冬木蒼と早瀬凪だった。
「お前を、ゴーント・ネストに迎え入れる。組織の一員として、生きろ」
冷たい声で告げる蒼。その手に触れた瞬間、累の脳裏に流れ込む、見知らぬ記憶の断片——雪の降る夜、誰かの背中、燃える建物。それは、決して読めないはずの、累自身の失われた過去への扉だった。
裏切り、暴力、そして自らの正体への渇望。拾われた刃は、いま再び鞘を探し始める。
これは、居場所を求めて戦う少年の、再生と覚醒の物語。
拾われた刃は、やがて居場所を知る - 灰刃の街に降る雪——拾われた刃と、風を読む少女
海からの風が、倉庫街の鉄骨を震わせる。
ベイ・サイド港湾地区の朝は早い。夜明け前からコンテナ埠頭にガントリークレーンが動き出し、大型トラックが砂埃を巻き上げて走り抜けていく。排気ガスと潮の匂いが混ざった空気が、灰谷累の肺を満たした。
(一ヶ月か)
累は、ゴーント物流の作業員用ジャケットの襟元をぐいと引っ張った。紺色の丈夫な布地は糊がきつく、首回りが妙に窮屈だ。袖口から覗く手首には、古い傷跡がいくつも走っている。陽だまりの家で過ごした十四年間、そこで刻まれたものだ。
「なんだ、その面」
振り返ると、蒼が立っていた。相変わらずの癖毛は寝癖で跳ね、琥珀色の瞳は感情を消している。右手にタブレット端末、左手に紙コップのコーヒー。港湾地区の早朝に、まるで似つかわしくない姿だ。
「別に」
「作業服が気に入らない、って顔だ」
「……てめえに言われる筋合いはねえ」
蒼は、累の返答を聞く前から興味を失ったように、タブレットに視線を落とした。
「今日はゴーント物流名義の荷物を、ベイ・サイド港湾地区の第二倉庫群まで護衛する。中身は、まあ、察せ」
察せ、と言われて、累は黙った。
組織間取引の代金。つまり、現金だ。裏社会の金の流れは、いつもこうだ。表向きの運送会社が、何の変哲もない段ボール箱を運ぶ。中身は札束。それを狙う連中が、必ずいる。
「俺一人か」
「いや、もう一人来る」
その時、事務所の鉄扉がガラガラと開いた。
「おはようございます」
軽やかな声。
早瀬凪が、朝の光の中から歩いてきた。肩までの黒髪が風になびき、赤いリボンが揺れる。大きな黒い瞳は、眠気を残しつつも、はっきりと累を捉えていた。身長は一五二センチ。累より頭ひとつ分低い。だが、その背筋は真っ直ぐで、組織の戦闘員としての芯が通っている。
「あんたが例の拾い子?」
率直な問いだった。
累は、凪の顔をまじまじと見た。
(このガキが、風読みの能力者か)
空気の流れを読み、数十秒先の弾道や動きを予測する。直接攻撃力は低いが、回避と支援に優れる。蒼から聞いていた通りの、小柄な少女。左膝に小さな古傷。戦闘時に髪を結ぶ赤いリボンが、トレードマーク。
「てめえには関係ねえ」
累は、ぶっきらぼうに返した。
凪の眉が、ぴくりと動く。
「……ふうん。まあ、いいわ。私、今日の護衛メンバー。よろしく」
「ああ」
「……『ああ』だけ?」
「何か問題か」
「別に。ただ、愛想悪いなって思っただけ」
凪は、ふいと横を向いた。
二人の間に、剣呑な空気が流れる。
蒼は、そのやり取りを一瞥しただけで、何も言わなかった。
「出るぞ。積荷はトラックの荷台。護衛は二人で挟む形だ。俺は後方から別車両で追走する」
「了解」
「……了解」
累は、渋々ながら頷いた。
トラックは、港湾地区の広い道路を西へ進んだ。
運転手は、ゴーント物流の一般従業員。能力者ではない。護衛の二人をちらりと見たが、何も聞かなかった。組織の仕事では、聞かないことが正解だと、心得ている顔だった。
荷台には、木箱が十個。どれにも「精密機械部品」と印刷されたラベルが貼ってある。中身は、もちろん違う。
累は、助手席の窓から流れる景色を眺めていた。
コンテナ埠頭の巨大なガントリークレーン。山のように積まれた鉄の箱。溶接の火花。鳶職人の怒号。港の朝は、いつも騒がしい。
「あんた、緊張してる?」
凪が、後部座席から身を乗り出してきた。
「してねえよ」
「嘘。さっきから指、動かしてる」
累は、自分の左手を見た。無意識に、親指で人差し指の関節をなぞっていた。孤児院にいた頃からの癖だ。
「……関係ねえだろ」
「まあね。でも、初任務なら緊張して当然よ。私も最初はそうだった」
「てめえ、いくつだ」
「十五」
「ガキが、先輩面すんな」
「あんたより組織歴は長いの。それに、年下に先輩面されるのが嫌なら、せめて仕事くらいちゃんとやりなさいよ」
「やるさ。やるに決まってるだろ」
累の声が、少しだけ低くなった。
凪は、その変化に気づいたのか、少しだけ首をかしげた。
「……あんた、普段は不器用そうなのに、戦闘の話になると急に真面目になるわね」
「うるせえ。黙ってろ」
「はいはい」
凪は、後部座席に体を戻した。
トラックは、港湾地区の東端、第二倉庫群へと差し掛かっていた。
その時だった。
凪の動きが、止まった。
「……止めて」
声の質が、変わった。
「どうした」
「風の流れが、乱れてる。第三倉庫群方面から、複数の能力者反応。五……いや、六人。こっちに向かってる」
凪の目が、窓の外の一点を捉えている。風読み。空気の流れを読み、数十秒先の動きを予測する。その精度は、組織内でも折り紙付きだ。
「運転手、速度を上げろ。第二倉庫群まで、あとどれくらいだ」
「は、はい! あと五分ほどです!」
「間に合うか」
「……微妙。向こうは車で来てる。このままだと、交差点の手前で挟まれる」
累は、一瞬だけ目を閉じた。
(来るなら、来い)
「凪。お前は運転手と荷物を守れ。俺が外に出る」
「は? 正気? 六人よ!」
「数じゃねえ。要は、殺られる前に殺るだけだ」
累の声は、冷え切っていた。
戦闘時の累は、別人になる。普段の粗暴で口の悪い少年が、刃物のように研ぎ澄まされる。感情が消え、動きが変わり、言葉が短くなる。
「……分かった。でも、死なないでよ。死なれたら、私の任務評価が下がる」
「てめえの評価なんざ知るか」
累は、トラックの窓を開けた。
風が、車内に吹き込む。
「止めろ」
運転手が、ブレーキを踏んだ。
累は、走るトラックから飛び降りた。
アスファルトに着地した瞬間、累の右手にナイフが握られていた。
「無銘」。神谷厳から譲り受けた、戦闘用ナイフ。特別な力はない。だが、累にとっては、師の形見。
前方から、黒いワゴン車が二台、猛スピードで突っ込んでくる。
タイヤの悲鳴。砂煙。
ワゴン車が急停止し、スライドドアが開いた。
「ゴーントの護衛だ! やれ!」
飛び出してきたのは、黒いスーツの男たち。全員、手に刃物か警棒を持っている。ヴェルムント結社の工作員。能力者の管理と隔離を掲げる秘密結社。ゴーント・ネストのような「野放しの能力者集団」を、排除対象としている。
累は、無言で駆けた。
先頭の男が、警棒を振り下ろす。
累は、それを半身でかわした。
——ザシュッ。
ナイフが、男の太ももを切り裂いた。深く、正確に。筋肉と腱を断つ。男は、悲鳴を上げる間もなく、その場に崩れ落ちた。
二番目の男が、背後から斬りかかる。
累は、振り返らなかった。
左肘を後方に突き出し、男の顔面を砕く。鼻骨が折れる音。血が、朝の光に飛び散った。
「ひっ……!」
三番目の男が、たじろぐ。
累は、その隙を逃さなかった。
一歩踏み込み、男の手首を掴む。逆手に捻り上げ、関節を外す。男の手から、ナイフが落ちた。累は、そのナイフを蹴り上げ、逆手にキャッチ。男の脇腹に、深く突き刺した。
「があっ……!」
男が、血を吐きながら倒れる。
残り三人。
「こいつ、化け物か……!」
「怯むな! 囲め!」
三人が、距離を取り、包囲の形を取る。
累は、ナイフを構えたまま、静かに呼吸を整えた。
(三人。連携はない。個々の練度も低い。だが、数は多い)
(なら、動きの隙を突く。一瞬で、二つ)
累は、地面を蹴った。
低い姿勢のまま、左側の男に肉薄する。男が、ナイフを振り下ろす。累は、その刃を首を捻ってかわし、男の膝を内側から蹴り砕いた。
「ぎゃあっ!」
男が、膝から崩れる。
累は、その男の後頭部を掴み、もう一人の男に向かって投げ飛ばした。
「うわっ!」
二人が、もつれ合って倒れる。
累は、残る一人の男に向かって走った。
男は、青ざめた顔で、懐から何かを取り出そうとしている。拳銃だ。
累は、速度を上げた。
「させねえよ」
ナイフの柄で、男の手首を打ち据える。骨が砕ける音。拳銃が、アスファルトに落ちた。累は、男の胸ぐらを掴み、顔面に膝を叩き込んだ。
男は、白目を剥いて倒れた。
「……っ!」
その時、倒したはずの最初の男が、血まみれの手で累の足首を掴んだ。
累は、一瞬、動きを止めた。
(しまった)
その隙に、生き残りの一人が、累の背後から襲いかかる。
——ドンッ!
誰かが、累の背中を強く押した。
累の体が、横に流れる。
背後から振り下ろされた刃が、累のいた場所を、空しく切り裂いた。
「何やってんの! ぼーっとして!」
凪だった。
風読みで、数十秒先の弾道と動きを予測し、累の背中を押して刃をかわさせた。
累は、地面を転がりながら、振り返らずにナイフを投げた。
——ズドッ。
ナイフが、背後から襲いかかろうとした男の喉元に、深く突き刺さった。
男は、ごぼりと血を吐き、仰向けに倒れた。
累は、ゆっくりと立ち上がった。
「……余計なことすんな」
「余計じゃないわよ。あんたが死んだら、任務失敗でしょ」
凪は、怒ったように言った。
「てめえ、運転手と荷物を守れって言っただろ」
「運転手は無事。荷物も無事。だから、こっちに来たの。文句ある?」
「……ねえよ」
累は、倒れた男の喉から、ナイフを引き抜いた。
血が、朝の空気に飛び散る。
「終わったか」
「……うん。反応は、全部消えた」
凪が、風を読む。
「……あんた、さっき、一瞬止まったでしょ。どうして?」
「別に」
「別に、じゃない。あの場面で止まったら、普通は死んでる。あんた、何か考えてた?」
累は、答えなかった。
(守るよりも、排除することに特化してる)
(俺の戦い方は、そうだ)
(孤児院で、子供たちを守れなかった。あの時も、俺は、ただ敵を倒すことしかできなかった)
累の脳裏に、陽だまりの家の光景がよぎった。
木造の廊下。子供たちの笑い声。約束した初雪。
そして、裏切った榊原の顔。
「……おい」
凪の声で、累は我に返った。
「何だ」
「……いや、何でもない。ただ、死ぬなって言ったでしょ。あんた、聞いてた?」
「聞いてたよ」
「なら、ちゃんと生きて。私の任務評価のためにも」
「てめえ、ほんと評価のことしか考えてねえな」
「当たり前でしょ。組織で生きていくって、そういうことよ」
凪は、そう言って、赤いリボンを結び直した。
任務は、無事に完了した。
荷物は、第二倉庫群の指定場所に届けられ、取引相手の組織に引き渡された。累と凪は、本部への帰路についていた。
夕方のベイ・サイド港湾地区。
海からの風が、倉庫街を吹き抜ける。オレンジ色の光が、コンテナの鉄の壁に反射して、あたりを鈍く照らしていた。
「あんた、戦い方は異常にうまいのに、普段は不器用ね」
凪が、突然言った。
「あ?」
「道具の扱いも雑だし、人との距離の取り方も下手くそ。さっきだって、運転手に何も言わずに飛び降りたでしょ。普通、ああいう時は、一言声をかけるものよ」
「うるせえ。ほっとけ」
累は、顔を背けた。
だが、凪の指摘は、累の内面を正確に突いていた。
(人との距離の取り方が、下手くそ)
(その通りだ。俺は、ずっとそうだ)
陽だまりの家でも、累は、他の子供たちと距離を取っていた。能力を使うたびに苦しむ姿を見せたくなくて、わざと近づかなかった。
「……別に、悪いって言ってるんじゃないのよ。ただ、もうちょっと、周りを見なさいって言ってるの」
「周り?」
「そう。あんた、一人で戦おうとしすぎ。あの場面だって、私が風読みでカバーしなかったら、あんた、背中を斬られてたわよ」
「……ああ、それは、助かった」
累は、小さな声で言った。
凪が、足を止めた。
「……今、なんて?」
「助かったって言ったんだ。聞こえなかったか」
「聞こえたわよ。……あんた、素直になると、意外と普通の顔するのね」
「ほっとけ」
累は、歩き出した。
凪は、少しだけ笑って、その後を追った。
本部に戻ると、倉庫街の一角にあるゴーント物流の事務所は、夕方の帰宅ラッシュで慌ただしかった。
表向きは、運送会社。デスクに座る事務員たちは、電話をかけ、伝票を整理し、パソコンを叩いている。誰も、裏の顔を知らない。いや、知っていても、見ないふりをしている。
累と凪が、裏口から地下へ降りると、そこは別世界だった。
地下訓練場。コンクリートの壁に、無数の傷。鉄の匂い。汗と血と、古いタバコの匂い。
構成員たちが、思い思いに体を動かしている。
累が通ると、何人かの視線が、ちらりと累を追った。
「あれが、例の拾い子か」
「今日の護衛、一人で五人斬ったらしいぜ」
「五人? マジかよ」
「しかも、凪がカバーに入ったら、『余計なことすんな』って言ったらしい」
「ははっ、相変わらず可愛げねえな」
「でもよ、その後、ちゃんと『助かった』って言ったんだと」
「へえ……意外と律儀なんじゃねえか」
噂は、すぐに広まる。
累は、聞こえていたが、無視した。
(好きに言え。どうせ、明日には別の噂だ)
そう思っていた。
だが、その夜、蒼が、凪を呼び止めた。
地下の廊下。蛍光灯が、白く点滅している。
「凪」
「……何?」
凪は、振り返った。
「あんまり、累に近づくなよ」
蒼の声は、いつも通り、淡々としていた。
「なぜ?」
「お前のためだ」
「それ、答えになってない」
「そうかもな。でも、忠告だ。あいつは、お前が思ってるより、ずっと深いところで、何かに縛られてる」
「……何に?」
蒼は、答えなかった。
「答えなさいよ」
「答えない。ただ、忠告しただけだ。聞くか聞かないかは、お前次第だ」
蒼は、それだけ言うと、背を向けて歩き去った。
凪は、その後ろ姿を、複雑な表情で見つめた。
(累が、何かに縛られてる?)
(……あの人の、何を知ってるの?)
そのやり取りを、累は、遠くの物陰から見ていた。
(蒼が、凪に、何を言った)
(俺が、二人の関係に、影響を与えてる?)
(……分からねえ。ただ、苛立つ)
累は、拳を握りしめた。
数日後。
累と凪は、初の二人きり任務に就いた。
任務は、密売取引の証人となった元ヴェルムント構成員を捕縛し、組織の元へ連行するというもの。標的は、旧市街の廃ビルに潜伏している。
オールド・タウン。
江戸時代からの商家が並ぶ、狭い路地が迷路のように入り組む地区。観光客も多いが、夜は危険だ。
累と凪は、夕暮れの路地を歩いていた。
「……あんた、蒼と何かあったの?」
凪が、突然聞いた。
「別に」
「嘘。この数日、あんた、蒼と顔を合わせても、いつもみたいに喧嘩してない」
「……てめえ、よく見てんな」
「見てるわよ。一応、あんたの相棒だし」
「相棒? てめえが?」
「文句ある? 今日は二人きり任務でしょ。私が相棒じゃなかったら、誰が相棒なのよ」
「……別に、誰でもいい」
「誰でもよくないでしょ。相棒は、信頼できないと、死ぬわよ」
凪の声は、真剣だった。
累は、少しだけ、凪の顔を見た。
(このガキは、いつも、真っ直ぐだ)
(俺には、それが、眩しい)
「……分かったよ。相棒でいい」
「最初から、そう言えばいいのよ」
凪は、少しだけ笑った。
標的は、旧市街の外れにある、古い雑居ビルにいた。
五階建ての、廃墟同然の建物。窓ガラスは割れ、壁には落書き。非常階段は、いつ崩れてもおかしくない。
累と凪は、無言で、階段を上った。
四階の一室。
扉の向こうから、かすかな物音がする。
累は、凪に目配せした。
凪が、風を読む。
「……中に、一人。部屋の奥の隅。震えてる」
「行くぞ」
累は、扉を蹴り破った。
「動くな!」
部屋の中は、薄暗かった。
埃とカビの匂い。床には、空き缶と、破れた毛布。
そして、部屋の隅で、一人の男が、小さくなって震えていた。
四十代半ば。痩せ細った体。青白い顔。目の下には、深い隈。元ヴェルムント結社の構成員。密売取引の証人。
「た、頼む……見逃してくれ……!」
男は、涙を流しながら、頭を床に擦り付けた。
「俺は、もう、結社とは関係ないんだ……! ただ、あの時、取引の場に居合わせただけで……!」
「お前が、何をしたかは、こっちで聞く。おとなしく来い」
「や、やめてくれ……! 組織に連れて行かれたら、俺は……!」
男は、這いつくばったまま、後ずさった。
「頼む……! 俺には、妻も子供もいるんだ……! あんたたちも、組織の人間なら、分かるだろ……! 家族を、守りたいんだ……!」
男の声は、震えていた。
累は、無言で、男に近づいた。
(家族を守りたい、か)
(俺も、かつては、そうだった)
「……凪」
累が、凪を振り返った。
凪は、その場に、立ち尽くしていた。
顔は、青ざめていた。
手が、微かに震えている。
「……凪?」
「……ごめん」
凪は、小さく呟いた。
「私……動けない。あの人を、捕まえられない。……だって、あの人、許しを乞うてる。震えてる。家族がいるって……!」
「凪、お前……」
「ごめん……! 私、殺せなかった……! 捕まえることすら、できない……!」
凪の目に、涙が浮かんだ。
その時、男が、動いた。
凪の動揺を見て、逃げ道を見つけたのだ。
「うわあああっ!」
男は、破れた窓から、外へ飛び降りた。
「ちっ!」
累は、窓に駆け寄った。
男は、下の路地に着地し、走り去っていく。
「……ごめん。私のせいで」
凪は、その場に座り込んだ。
「……お前は、優しいな」
累は、静かに言った。
凪が、顔を上げた。
「……え?」
「お前は、優しい。だから、逃がした。それだけだ」
累の声には、皮肉も、嘲笑も、なかった。
(こいつは、俺と同じだ)
(孤児院で、子供たちを守ろうとした俺と)
(守れなかった俺と)
(それでも、守ろうとすることを、やめられない)
「……待って。どこ行くの?」
「追う。あいつを、捕まえてくる」
「一人で? 私も……」
「お前は、ここにいろ。……いや、先に本部に戻れ。報告は、俺がする」
「でも……!」
「いいから、戻れ」
累は、そう言って、窓から外へ飛び降りた。
夜の旧市街を、累は走った。
標的の男は、路地を縫って、東へ逃げている。
累は、残響を使った。
男が触れた壁に、手を触れる。
——頭痛。記憶の混濁。
だが、男の逃走経路が、手に取るように分かる。
(こっちだ)
累は、路地を曲がり、階段を駆け上がり、屋根を跳び越えた。
男は、必死に逃げていた。
だが、累の脚は、速い。
「待て!」
累は、男の背中に飛びかかった。
二人は、もつれ合って、地面に転がった。
「ぐあっ!」
累は、男の腕を、後ろ手に捻り上げた。
「動くな。動いたら、腕を折る」
「た、頼む……! 本当に、俺は……!」
「うるせえ。お前が何をしたかは、組織が決める。俺は、お前を連れて行くだけだ」
累は、男を拘束し、立ち上がらせた。
男は、泣きながら、よろよろと歩き出した。
累は、その後ろを、無言で歩いた。
(凪のやつ、ちゃんと戻ったか)
(……まあ、あいつなら、大丈夫だろ)
(あいつは、優しい。優しすぎる。でも、それが、あいつの強さだ)
(俺には、もう、ああいう優しさは、残ってない)
(残ってない、はずだった)
累は、空を見上げた。
トワイライト・エッジの夜空に、星は、ひとつも見えなかった。
本部への帰路。
累が、標的を引き渡し、地下の廊下を歩いていると、凪が、壁にもたれて待っていた。
「……おかえり」
「ああ」
「捕まえたの?」
「捕まえた。引き渡した。問題ない」
「……そっか」
凪は、うつむいた。
「……あんた、なんで怒らなかったの?」
「怒る理由がねえ」
「あるでしょ。私、任務を失敗しかけたのよ。あんたに、迷惑をかけた」
「別に。逃がすやつが優しいのは、当たり前だろ」
累は、短く答えた。
凪は、顔を上げた。
その大きな黒い瞳が、累を見つめる。
「……あんた、やっぱり、変な人」
「うるせえ」
「でも、……ありがと。私を、責めなかったこと」
「責める理由がねえだけだ」
「……うん」
凪は、少しだけ、笑った。
その笑顔を見て、累は、胸の奥が、じわりと温かくなるのを感じた。
(なんだ、これは)
(よく分からねえ)
(でも、悪くない)
その夜。
累は、鴉山剛に呼び出された。
ゴーント・ネスト本部の最上階。ボスの執務室。
重厚な木の扉を開けると、鴉山が、大きな窓の前に立っていた。
ベイ・サイド港湾地区の夜景が、眼下に広がっている。
「初任務、ご苦労だった」
鴉山は、振り返らなかった。
「……報告は、聞いてるか」
「聞いている。護衛任務での戦闘。敵五名を、単独で無力化。その後、凪の失態を、お前がフォローした。……そうだな?」
「……あんたに、隠し事はできねえな」
「隠す必要はない。事実を、そのまま報告しただけだ。……凪を、かばったのか?」
「かばったわけじゃねえ。俺がフォローしたのは、事実だ。問題は、ねえ」
「そうか。なら、いい」
鴉山は、ようやく振り返った。
「お前は、拾われる側から、拾う側になりつつあるな」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味だ。お前は、凪を守った。自分の評価を犠牲にしてでも、あの少女をかばった。それは、組織の論理から言えば、非効率だ。だが、人としては、正しい」
「……俺は、ただ、あいつを責める理由がなかっただけだ」
「それでいい。お前は、お前のやり方で、組織に馴染めばいい。……ただし、忘れるな。お前が守ろうとしたものは、いつか、お前の足を引っ張るかもしれない」
「……覚悟は、してる」
「そうか。なら、もう行け。今日は、ゆっくり休め」
累は、一礼して、執務室を出た。
廊下を歩いていると、凪とすれ違った。
「あ、累」
「……ああ」
「ボスに、何か言われた?」
「別に。労いの言葉だけだ」
「……私のこと、怒ってた?」
「怒ってねえよ。……お前も、気にすんな」
「……うん。次は、絶対、逃がさないから」
凪は、真剣な顔で言った。
「逃がしてもいい。俺が追うから」
累は、何気なく言った。
その瞬間、凪の頬が、微かに赤らんだ。
「……ば、バカ! 何言ってんのよ! 私が逃がさないって言ってるの!」
凪は、早口で言った。
累は、自分の発言の意味に気づいて、目を逸らした。
(今のは、なんだ)
(まるで、俺が、こいつのことを……)
「……じゃあ、また明日」
凪は、逃げるように走り去った。
累は、その後ろ姿を、しばらく見つめていた。
小さなアパート。
市の中心部から東へ二キロ。累に与えられた、一Kの質素な部屋。
累は、ベッドに横たわった。
天井を見つめる。
(ここにいてもいいのかもしれない)
(初めて、そう思えた)
(俺は、この組織で、居場所を見つけつつある)
(凪や、蒼や、鴉山と)
(……それで、いいのか)
その時だった。
——ズキン。
頭の奥に、鋭い痛みが走った。
「……っ!」
累は、頭を押さえた。
残響が、暴走する。
視界が、歪む。
陽だまりの家の廃墟。
木造二階建ての、崩れかけた建物。
榊原道造の顔。
白髪交じりの、痩せた男。
表向きは慈善家。裏では、子供を犯罪組織に斡旋する、仲介人。
(あの男は、俺を、切り捨てた)
(俺が、裏切るかもしれないと、判断して)
(先に、排除しようとした)
そして、八歳以前の記憶の空白。
真っ白な、何もない空間。
「……くそっ」
累は、歯を食いしばった。
頭痛は、しばらく続いた。
やがて、痛みが引いていく。
累は、荒い呼吸を繰り返しながら、天井を見上げた。
(凪の、あの笑顔)
(お前は優しいな、と言った時の、あの表情)
(あれは、なんだったんだ)
(俺の、この感情は、恋なのか、執着なのか)
(……分からねえ)
累は、目を閉じた。
遠くで、船の汽笛が、低く鳴る。
トワイライト・エッジの夜は、まだ、深い。
そして、累の過去の影も、また、静かに、その深さを増していた。Noveliaとは?
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