拾われた刃は、やがて居場所を知る
血の匂いとともに、少年はすべてを失った。
孤児院「陽だまりの家」で十四年間、ただ一人の能力者として戦い続けてきた灰谷累。触れた物の記憶を読む力「残響」——その力ゆえに恐れられ、利用され、そして裏切られた。
施設を守るための囮として、育ての親に切り捨てられた累は、腹を撃ち抜かれ、冷たい地面に倒れる。守りたかった子供たちの顔、果たせなかった初雪の約束、そして「なぜ、捨てた」という消えない問い。
意識が闇に落ちる寸前、累の前に現れたのは、裏社会の組織「ゴーント・ネスト」の冬木蒼と早瀬凪だった。
「お前を、ゴーント・ネストに迎え入れる。組織の一員として、生きろ」
冷たい声で告げる蒼。その手に触れた瞬間、累の脳裏に流れ込む、見知らぬ記憶の断片——雪の降る夜、誰かの背中、燃える建物。それは、決して読めないはずの、累自身の失われた過去への扉だった。
裏切り、暴力、そして自らの正体への渇望。拾われた刃は、いま再び鞘を探し始める。
これは、居場所を求めて戦う少年の、再生と覚醒の物語。
拾われた刃は、やがて居場所を知る - 灰刃の街に降る雪——拾った刃が、名を名乗る朝
雪が、解け始めていた。
ベイ・サイド港湾地区の倉庫街に積もった白が、ところどころ黒い地面を覗かせている。潮の匂いを含んだ風が、溶けかけた雪の上を滑っていく。空はまだ曇っていたが、雲の切れ間から、薄い光が漏れていた。
灰谷累は、ゴーント物流の事務所裏手にある小さな倉庫の前で、壁に背を預けて立っていた。黒に近い焦げ茶の短髪が、風に揺れる。切れ長の灰色の瞳は、倉庫街の向こうに見える海を、ぼんやりと眺めていた。
腰には、ナイフ「無銘」が差してある。
神谷厳から譲り受けた、ただの鋼。特別な力は何もない。だが、その重さだけが、累の足を地面に繋ぎ止めているようだった。
左手の指の関節は、まだかさぶたが残っていた。あの夜、雪の地面を殴り続けた傷だ。痛みはもう、ほとんどない。だが、指を曲げるたびに、皮膚が突っ張る感覚がある。
(一週間か)
神谷が死んでから、一週間。ヴェルムント結社の襲撃から、一週間。蒼に全てを聞いてから、四日。
累は、目を閉じた。
まぶたの裏に、雪の上に広がる赤い染みが浮かぶ。力なく開かれたままの、神谷の目。最期に残した言葉。
「お前は、ここにいていい」
(ここに、いていい)
(俺は、ここにいていいのか)
(神谷さん、俺は、まだ、分からない)
(でも、選ばなきゃいけない)
(お前の教え通り、拾われる側から、拾う側に)
(自分の意思で)
ザッ、と、雪を踏む音がした。
累は、目を開けた。
倉庫の鉄扉の前に、冬木蒼が立っていた。金に近い茶色の癖毛は、今日も寝癖で跳ねている。琥珀色の瞳は、相変わらず感情を読ませない冷たい光を宿していた。黒いロングコートの肩には、溶けかけた雪が、しっとりと染みを作っている。
その後ろから、早瀬凪が、ひょこりと顔を出した。
肩までの黒髪が、風にふわりと揺れる。白いコートの襟元には、薄い水色のマフラーが巻かれていた。凪の瞳は、累を見つけると、ほんの少しだけ、揺れた。
「来たな」
累の声は、低く、掠れていた。
「呼んだのは、お前だろう」
蒼が、冷たい声で返す。
「おはよう、累」
凪の声は、少しだけ、震えていた。
累は、凪の顔を、まっすぐに見た。
(泣きそうな顔をしてやがる)
(俺が、突き放したからだ)
(あの夜、雪の中で)
(でも、今日は、違う)
累は、壁から背を離した。
「話がある。二人とも、聞け」
蒼は、無言で、累を見た。凪は、小さく、頷いた。
「俺は、ゴーント・ネストに残る」
累の声が、溶けかけた雪の上に、静かに落ちた。
「今度は、拾われたからじゃない。自分の意思で、ここに残る」
累は、腰の無銘に、手を触れた。
「神谷さんに、教わった。拾われる側から、拾う側へ。俺は、まだ、拾う側になんてなれない。でも、選ぶことはできる。与えられた居場所じゃなく、自分の意思で、この場所を選ぶ」
累は、蒼を見た。
「てめえの計算に、乗る。だが、それは俺の意思だ。利用されてるんじゃない。俺が、選んで、乗る」
蒼は、しばらく、黙っていた。
溶けかけた雪が、倉庫の屋根から、ポタリと落ちる。
「手放すつもりは、元からなかった」
蒼の声は、冷たく、しかし、どこか静かだった。
「お前がどう選ぼうと、俺の計画に、お前は必要だ。だから、手放す選択肢は、最初から存在しない」
「相変わらず、気持ちの悪い言い方だな」
「事実だ」
「知ってるよ」
累は、小さく、鼻で笑った。
「だから、俺も、てめえを手放さない。腐れ縁でも、何でもいい。俺が選んだ場所に、てめえがいる。それだけだ」
蒼の琥珀色の瞳が、わずかに、細くなった。
「上等だ」
蒼は、短く、そう言った。
凪が、一歩、前に出た。
「私も、いるよ」
凪の声が、震えている。
「私も、累の隣にいる。あの夜、突き放されたけど、私は、離れないって決めたの。だから、私も、ここにいる」
凪の目から、涙が、こぼれた。
雪解けの水のように、静かに、頬を伝う。
累は、凪を見た。
(泣くな)
(俺は、お前を、泣かせてばかりだ)
(でも、今日は、突き放さない)
(もう、突き放さない)
「ああ」
累は、短く、頷いた。
「分かった。……お前も、選べ。自分の意思で、ここにいるかどうかを」
「選んでるよ。とっくに、選んでる」
凪が、涙を拭いながら、笑った。
「……そうか」
累は、凪の頭に、手を置いた。
乱暴に、ぐしゃぐしゃと、髪をかき混ぜる。
「ちょ、ちょっと、何するのよ!」
凪が、驚いた声を上げる。
「泣き止んだかどうか、確認してやっただけだ」
「確認の仕方が乱暴すぎるでしょ!」
「知るか。面倒くせぇ」
累は、手を離した。
凪の髪は、見事に、ぼさぼさになっていた。
「もう、ひどい……」
凪が、笑いながら、髪を整える。
蒼が、呆れたように、ため息をついた。
「茶番は、それくらいにしろ。ボスが、呼んでいる」
「ああ、分かってる」
累は、倉庫の鉄扉を、押し開けた。
ギギギ、と、錆びた蝶番が鳴る。
中から、古い油と埃の匂いが流れ出した。
倉庫の中は、薄暗かった。天井近くの小さな窓から、弱い光が、埃の舞う空気を照らしている。
奥に、鴉山剛が、立っていた。
ゴーント・ネストのボス。白髪交じりの短髪を、きっちりと後ろに撫でつけた、初老の男。細い目は、常に笑っているように見えるが、その奥には、有無を言わせない圧力が潜んでいた。黒いスーツを、隙なく着こなしている。
「来たか、累」
鴉山の声は、低く、落ち着いていた。
「ああ」
累は、鴉山の前に、立った。
「話は、蒼から聞いている。お前は、組織に残る。自分の意思で、そう選んだ、と」
「そうだ」
「ならば、俺からも、一言だけ言っておく」
鴉山は、累の目を、まっすぐに見た。
「お前は、もう、拾われる側じゃない」
鴉山の声が、倉庫の中に、静かに響いた。
「ゴーント・ネストの一員として、正式に、認める。お前の意思を、組織の意思として、受け入れよう」
累は、無言で、頷いた。
(拾われる側じゃない)
(神谷さんと、同じ言葉だ)
(俺は、もう、拾われる側じゃない)
(なら、俺は、何者だ)
(まだ、分からない)
(でも、それでいい)
(俺は、俺の意思で、ここにいる)
「それと、もう一つ」
鴉山が、続けた。
「黒田から、情報が入った。陽だまりの家の元管理者、榊原道造の件だ」
累の肩が、わずかに、強張った。
「榊原が斡旋した子供たちの中に、お前と同じく、記憶を封じられた能力者がいる可能性がある」
「何だと」
累の声が、鋭くなった。
「まだ、確証はない。だが、黒田の情報網が、そう示している。お前の記憶の空白は、お前一人の問題ではないかもしれない。孤児院が関わった、他の子供たちにも、同じことが起きている可能性がある」
累は、拳を握った。
(俺の記憶の空白が、俺だけのものじゃない)
(榊原道造は、他の子供たちにも、同じことを)
(くそ)
(あの男は、どこまで)
「次の任務だ」
鴉山の声が、冷たく響いた。
「榊原道造が斡旋した子供たちの行方を、追え。生きているなら、保護しろ。死んでいるなら、その痕跡を、全て洗い出せ」
「分かった」
累は、短く、答えた。
「お前の過去は、お前のものだ。だが、同じ境遇の子供たちを、放っておくことは、組織の掟が許さない。子供は殺さない。そして、子供を、見捨てない」
鴉山は、累の肩に、手を置いた。
「行け。お前の役割だ」
累は、一瞬、目を閉じた。
(俺の役割)
(俺と同じ境遇の子供たちを、拾う側に立つ)
(俺に、できるのか)
(分からない)
(でも、やるしかない)
(神谷さん、俺は、拾う側になれるか)
(まだ、分からない)
(でも、やる)
累は、目を開けた。
「ああ。行ってくる」
累は、踵を返した。
倉庫の外に出ると、雪解けの水が、地面を濡らしていた。
空は、少しだけ、明るくなっていた。
凪が、累の隣に、並んだ。
「ねえ、累。少し、歩かない?」
凪の声は、柔らかかった。
「任務の合間だぞ。そんな暇は」
「ちょっとだけ。旧市街から、ベイ・サイドへ続く道。雪解けの景色が、きれいなの」
凪が、累の袖を、軽く引いた。
「……勝手にしろ」
累は、歩き出した。
凪が、嬉しそうに、隣に並ぶ。
旧市街からベイ・サイドへと続く道は、雪解けの水で、ぬかるんでいた。石畳の隙間から、枯れ草が、顔を出している。道の両側には、古い商家が並び、その軒先から、雪解けの雫が、ポタポタと落ちていた。
遠くで、カモメの鳴き声が聞こえる。
潮の匂いと、雪解けの匂いが、混ざっていた。
「あんた、あの日、私を突き放したこと、まだ、謝ってない」
凪が、前を向いたまま、言った。
「謝る必要はねえ。俺が勝手に、距離を取っただけだ」
「でも、私、傷ついたの。あの夜、雪の中で、一人で、置いて行かれて」
凪の声が、少しだけ、震えた。
「……悪かった」
累は、小さく、呟いた。
「え?」
凪が、累の顔を、見上げた。
「悪かった。あの夜は、俺も、余裕がなかった。お前を、守れる気がしなかった。だから、突き放した。……悪かった」
累は、前を向いたまま、言った。
凪の目が、じわりと、潤んだ。
「……ううん。もう、いいの。あんたが、そう言ってくれたから」
凪が、笑った。
「でも、もう、距離を取らないでよ」
凪が、累の袖を、掴んだ。
強く、ぎゅっと。
累は、その手を、振りほどかなかった。
「私は、あんたの隣にいたいの。守られるだけじゃなくて、隣に立って、一緒に戦いたいの」
凪の声が、真剣だった。
累は、しばらく、黙っていた。
(隣に立つ)
(俺は、お前を、守られる側だと思っていた)
(ガキの頃から、子供たちを守るのが、俺の役割だった)
(でも、凪は、違う)
(凪は、俺の隣に、立とうとしている)
(神谷さん、俺は、気づかなかった)
(守るだけが、守ることじゃないんだな)
「お前は、守られる側じゃない」
累が、静かに、言った。
「隣に立つ側だ。……俺は、お前に、そう言える。あの夜は、言えなかった。でも、今は、言える」
凪の目から、涙が、こぼれた。
「累……」
凪が、累の袖を、掴んだまま、立ち止まった。
「神谷さん、私に、言ってたの。あの子を、守れって。あんたのことを、私に、託してた」
凪の声が、震えている。
「神谷さんが、お前に?」
累は、足を止めた。
「うん。神谷さん、あんたのこと、本当に、大切に思ってた。あんたが、一人で、突っ走らないようにって。あんたの隣に、誰かが、いるようにって。……私に、そう、言ってた」
凪が、涙を拭いながら、言った。
累は、空を見上げた。
(神谷さん)
(お前は、そこまで)
(俺のことを)
(考えていてくれたのか)
(俺は、何も知らなかった)
(お前の教えも、お前の想いも)
(俺は、まだ、何も)
「……凪」
累が、凪の方を、向いた。
「お前は、守られる側じゃない。隣に立つ側だ。だから、俺の隣に、いろ」
累は、凪の頭に、手を置いた。
今度は、乱暴ではなく、静かに。
「うん」
凪が、泣きながら、笑った。
「私、あんたの隣にいる。ずっと、隣にいるから」
凪が、累の手に、自分の手を、重ねた。
雪解けの水が、石畳を伝って、流れていく。
二人の間に、言葉にしない、しかし、確かな距離の縮まりが、生まれていた。
(俺は、お前の隣に、いられるのか)
(まだ、分からない)
(でも、お前が、隣にいたいと言うなら)
(俺は、その手を、振りほどかない)
(もう、二度と)
夕方近く、累は、一人で、海沿いの丘へと向かっていた。
トワイライト・エッジの郊外。海を見下ろす丘の上に、陽だまりの家は、建っていた。
木造二階建ての孤児院。定員三十名。常時二十名程度の子供たちが、ここで暮らしていた。
今は、閉鎖され、廃墟となっている。
累は、丘の下から、その建物を見上げた。
雪解けの水が、屋根から、滴り落ちている。白い壁は、黒ずみ、窓ガラスは、割れたままだった。かつて、子供たちの笑い声が響いていた場所は、今は、ただの抜け殻だった。
(八年ぶりか)
(いや、違う)
(あの夜、蒼と凪に拾われてから、一度も、来ていない)
(八年間、ここに、来ることができなかった)
(でも、今は、来なければいけない)
(俺の過去と、向き合うために)
累は、ゆっくりと、丘を登った。
草は枯れ、地面はぬかるんでいた。靴底に、泥が、まとわりつく。
丘の上に着くと、海が、一望できた。
灰色の海。水平線は、霞んでいた。
陽だまりの家の玄関は、開きっぱなしだった。蝶番が、錆びて、動かない。
累は、中に入った。
廊下は、暗く、かび臭かった。床は、ところどころ、抜けている。壁には、落書きがあった。かつての子供たちの、名前。
累は、廊下を、ゆっくりと、歩いた。
(ここで、俺は、暮らしていた)
(子供たちと、一緒に)
(守るべきものと、一緒に)
(でも、俺は、守れなかった)
(あの夜、俺は、裏切られて、捨てられた)
(いや、切られた)
(榊原道造に)
(そして、蒼に、拾われた)
累は、一つの部屋の前で、立ち止まった。
かつて、子供たちが、寝起きしていた大部屋。今は、畳もなく、床板が、むき出しになっている。
累は、床に、手を触れた。
冷たい。
そして、残響が、起動した。
触れた物体や場所に残る記憶を読み取る、累の能力。
(読めるか)
(俺の、八歳以前の記憶)
(俺が、ここで、子供たちと、過ごした記憶)
累は、目を閉じた。
残響が、床に残る、過去の記憶を、探る。
……何かが、聞こえる。
子供の笑い声。
(誰だ)
(俺か)
(いや、違う)
(他の子供たちだ)
「明日の朝、初雪を見ようね」
小さな女の子の声。
「うん、約束だよ」
別の子供の声。
「累も、一緒に見ようね」
(俺の名前が、呼ばれている)
(俺は、あの時、ここにいた)
(子供たちと、約束をした)
(明日の朝、初雪を見る約束を)
(でも、その約束は)
(守られたのか)
(俺は、覚えていない)
累は、さらに、深く、記憶を探ろうとした。
その瞬間、激しい頭痛が、襲った。
「ぐっ……!」
累は、頭を、押さえた。
残響が、暴走する。周囲の残留思念が、雪崩のように、流れ込んでくる。
(だめだ)
(読めない)
(俺の、八歳以前の記憶は)
(やっぱり、読めない)
(残響は、俺の過去を、拒んでいる)
(いや、違う)
(俺の記憶が、封じられている)
(何者かによって)
(俺自身によって)
(それとも、榊原道造によって)
(分からない)
(ただ、読めない)
累は、床から、手を離した。
頭痛が、ゆっくりと、引いていく。
「やっぱり、埋まらねえ」
累は、呟いた。
腰の無銘を、握りしめる。
神谷の形見。
(神谷さん)
(俺の記憶は、埋まらない)
(八歳以前の俺は、まだ、空白のままだ)
(でも、それでいい)
(俺は、埋まらない記憶を、抱えて生きる)
(それが、俺の選んだ道だ)
その時、後ろで、足音がした。
累は、振り返った。
玄関の入り口に、冬木蒼が、立っていた。
黒いロングコートの裾が、海からの風に、揺れている。琥珀色の瞳が、薄暗い廊下の中で、静かに光っていた。
「来たのか」
「お前が、ここに来るだろうと思った」
蒼が、静かに、言った。
「お前には、何でもお見通しだな」
「お前の行動パターンは、把握している」
「気持ち悪いな」
「事実だ」
蒼は、累の隣に、立った。
二人は、しばらく、無言で、廃墟を見ていた。
雪解けの水が、屋根から、滴り落ちる音だけが、響いている。
「埋まらない記憶を抱えて生きるのが、お前の選んだ道だ」
蒼が、静かに、言った。
「ああ」
「それで、いいのか」
「いい。俺は、捨てられたんじゃない。切られたんだ。そして、今、俺は、自分の意思で、切られなかった場所を選ぶ」
累は、蒼を見た。
「蒼。お前は、俺を、計算で拾った。でも、俺は、お前の計算を、自分の意思で選ぶ。それで、いいんだろ」
蒼は、しばらく、黙っていた。
そして、初めて、わずかに、笑みを浮かべた。
口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「上等だ」
蒼は、短く、そう言った。
(蒼が、笑った)
(初めて見た)
(こいつ、笑えるんだな)
(気持ち悪い笑い方だ)
(でも、悪くない)
累は、無銘を、鞘に納めた。
「行くぞ。任務だ」
「ああ」
二人は、陽だまりの家を、後にした。
丘を下りながら、累は、一度だけ、振り返った。
海を見下ろす丘の上に、朽ちた孤児院が、立っていた。
雪解けの水が、屋根から、滴り落ちている。
(さよなら、じゃない)
(俺は、また、ここに来る)
(俺の過去と、向き合うために)
(でも、今は、行く)
(俺の居場所へ)
(俺が、選んだ場所へ)
翌朝。
トワイライト・エッジの街は、雪解けの水で、きらきらと光っていた。
路面に残った雪は、ほとんど溶けていた。水たまりが、朝の光を反射している。空は、青かった。雲が、薄く、流れている。
累は、凪と蒼と共に、ゴーント・ネスト本部へと向かう道を、歩いていた。
ベイ・サイド港湾地区の倉庫街。海からの風が、潮の匂いを運んでくる。カモメが、鳴いている。
「今日は、あったかいね」
凪が、空を見上げて、言った。
「ああ」
累は、前を向いたまま、答えた。
「雪も、もう、溶けたな」
蒼が、静かに、言った。
「ああ」
累は、歩きながら、考えていた。
(そういえば)
(俺は、誰にも、自分の名前を、自分から名乗ったことがない)
(孤児院では、名前は、与えられたものだった)
(組織でも、俺は、拾われた者として、名前を呼ばれていた)
(俺は、自分から、名乗ったことがない)
(俺は、誰にも、自分を、名乗ったことがない)
累は、立ち止まった。
「累?」
凪が、振り返った。
累は、凪に向き直った。
「灰谷累だ」
累の声が、朝の空気に、静かに響いた。
「俺の名前だ。灰谷累。……よろしく」
凪の目が、大きく、見開かれた。
そして、次の瞬間、涙が、溢れた。
「……うん」
凪が、涙を拭いながら、笑った。
「早瀬凪。よろしくね、累」
凪が、手を、差し出した。
累は、その手を、握った。
「冬木蒼だ」
蒼が、静かに、言った。
「改めて、よろしく」
蒼は、手を、差し出した。
累は、蒼の手を、握った。
「今さら、何の儀式だ」
「お前が始めたんだろう」
「そうだったな」
三人は、手を離し、再び、歩き出した。
ゴーント物流の事務所の扉の前に、立つ。
累は、扉を、押し開けた。
中から、温かい空気が、流れ出した。
コーヒーの匂い。
鴉山が、奥の部屋から、顔を出した。
「来たか。出発だ」
「ああ」
累は、頷いた。
(俺は、灰谷累だ)
(八歳以前の記憶は、ない)
(でも、俺は、俺の意思で、ここにいる)
(俺の名前は、灰谷累)
(俺が、選んだ居場所で)
(俺が、守るべきもののために)
(俺は、生きていく)
累は、本部の扉を、くぐった。
凪と蒼が、その後に、続く。
外では、雪解けの水が、海へと、流れ出していた。
トワイライト・エッジの朝は、静かに、明けていた。
しかし、その静けさの底には、冷たい現実が、沈んでいた。
ヴェルムント結社は、まだ、動いている。
榊原道造は、まだ、野放しのままだった。
累の記憶の空白に、何が隠されているのか。
その答えは、まだ、遠い。
だが、累は、もう、一人ではなかった。
雪解けの朝、灰谷累は、初めて、自分の名を、名乗った。
それは、新しい始まりの、最初の一歩だった。Noveliaとは?
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