拾われた刃は、やがて居場所を知る
血の匂いとともに、少年はすべてを失った。
孤児院「陽だまりの家」で十四年間、ただ一人の能力者として戦い続けてきた灰谷累。触れた物の記憶を読む力「残響」——その力ゆえに恐れられ、利用され、そして裏切られた。
施設を守るための囮として、育ての親に切り捨てられた累は、腹を撃ち抜かれ、冷たい地面に倒れる。守りたかった子供たちの顔、果たせなかった初雪の約束、そして「なぜ、捨てた」という消えない問い。
意識が闇に落ちる寸前、累の前に現れたのは、裏社会の組織「ゴーント・ネスト」の冬木蒼と早瀬凪だった。
「お前を、ゴーント・ネストに迎え入れる。組織の一員として、生きろ」
冷たい声で告げる蒼。その手に触れた瞬間、累の脳裏に流れ込む、見知らぬ記憶の断片——雪の降る夜、誰かの背中、燃える建物。それは、決して読めないはずの、累自身の失われた過去への扉だった。
裏切り、暴力、そして自らの正体への渇望。拾われた刃は、いま再び鞘を探し始める。
これは、居場所を求めて戦う少年の、再生と覚醒の物語。
拾われた刃は、やがて居場所を知る - 灰刃の街に降る雪——切られた刃の、最初の計算
雪が、降っていた。
ベイ・サイド港湾地区の倉庫街は、三日経ってもまだ、あの夜の血の匂いを閉じ込めているようだった。いや、違う。匂いはもう消えている。残っているのは、自分の中だけだ。
灰谷累は、ゴーント物流の事務所裏手にある小さな倉庫の前で、壁に背を預けて立っていた。黒に近い焦げ茶の短髪が、雪の粒を乗せて白くなっていく。切れ長の灰色の瞳は、降り続く空を見上げていた。
右手には、ナイフ「無銘」が握られている。
鞘から抜いた刃は、雪明かりを吸い込んで鈍く光っていた。神谷厳から譲り受けた、ただの鋼。特別な力は何もない。なのに、この三日間、累はこの刃を握らないと、立っていられなかった。
握りしめた左手の指の関節が、じくじくと痛む。
雪の地面を殴り続けた、あの夜の傷だ。骨が見えるほどではなかったが、皮膚は裂け、かさぶたの下で血が滲んでいる。痛みは、神谷が死んだ事実を、無理やり体に刻み続けているようだった。
(神谷さん)
累は、目を閉じた。
まぶたの裏に、雪の上に広がる赤い染みが浮かぶ。力なく開かれたままの、神谷の目。最期に残した言葉——「お前は、ここにいていい」。
胸の奥が、冷たい。
(ここに、いていい?)
(俺は、ここにいていいのか)
(お前を殺したのは、俺だ)
(俺が、黒田の情報を蒼に伝えなかったから)
(俺が、一人で抱え込んだから)
(俺が、弱かったから)
ザッ。
雪を踏む音がした。
累は、目を開けた。
倉庫の鉄扉の前に、冬木蒼が立っていた。金に近い茶色の癖毛は、今日も寝癖で跳ねている。琥珀色の瞳は、感情を読ませない冷たい光を宿していた。黒いロングコートの肩に、雪が積もっている。
蒼は、累の顔を一瞥した。
「……その手、治ってないな」
「てめえには関係ねえ」
累の声は、低く、掠れていた。
「関係ある。お前は組織の戦力だ。戦力が勝手に壊れるのは、俺の計算を狂わせる」
「計算」
累は、その言葉を噛み砕くように繰り返した。
「……てめえ、今、計算って言ったな」
「言った。それがどうした」
「神谷さんが死んで、まだ三日だ。その口で、よく計算なんて言えるな」
累の灰色の瞳が、刃物のように細くなる。
「感情に浸って戦力が落ちる方が、よほど非効率だ。神谷も、それを望んでいない」
「神谷さんの名前を、てめえが気軽に出すな」
累の声が、雪の降る倉庫街に、鋭く響いた。
蒼は、一瞬、口を閉ざした。
そして、冷たい目で、累を見返す。
「……話がある。中に入れ」
「断る」
「命令だ」
「知るか」
「そうか」
蒼は、それだけ言うと、自分から倉庫の鉄扉を開けた。ギギギ、と錆びた蝶番が鳴る。中から、古い油と埃の匂いが流れ出した。
「なら、ここで言う」
蒼は、扉を開けたまま、累に背を向けた。
「お前が、神谷の死の原因を、自分にあると思っていることは、知っている」
累の肩が、わずかに揺れた。
「黒田からの情報を、お前は俺に伝えなかった。だから、ヴェルムント結社の襲撃を、組織は事前に察知できなかった。神谷は、お前をかばって死んだ。そういう理屈だな」
「……違うのか」
累の声が、絞り出すように低くなる。
「違う」
蒼は、振り返った。
「情報は、既に俺の手にあった。黒田がお前に送った通信より、二日前にな」
「……何だ、と」
「黒田は、お前を試した。お前が、組織に報告するかどうかを。そして、お前は報告しなかった。黒田の見立て通りにな」
「だったら、なんで、あの夜、神谷さんは……」
「神谷は、お前を守るために動いた。情報があっても、なくても、神谷はあの場所にいた。お前が一人で突っ走っていると、黒田から連絡を受けてな」
「黒田が……神谷さんに?」
「ああ。黒田は、お前の行動パターンを読んでいた。お前が一人で第三倉庫群にいることも、ノクト・ハウンドが来ることも、全部な」
累の頭が、ぐらぐらと揺れた。
(黒田が、神谷さんを呼んだ?)
(俺が報告しなかったから?)
(いや、違う。報告していても、神谷さんは来た)
(でも、もし、俺が最初から蒼に話していたら……)
「考えるな」
蒼の冷たい声が、累の思考を断ち切った。
「過去は変えられない。お前が何を選んでいたとしても、神谷は死んでいた。あの男は、そういう男だ。お前が知っているはずだ」
「……知ってる」
累は、うつむいた。
「知ってる……知ってるから、余計に、腹が立つんだよ」
累の拳が、壁を殴った。
ゴッ、と鈍い音。かさぶたが裂けて、血が滲む。痛みが、手のひらから腕全体に走る。
(俺は、何も知らなかった)
(俺は、何も守れなかった)
(俺は、ただ、拾われただけのガキで)
「……蒼」
累は、顔を上げた。
灰色の瞳が、雪の降る空気を切り裂くように、蒼を射抜く。
「てめえが俺を拾ったのは、孤児院がどうなるか、最初から知ってたからだろ」
蒼の表情が、初めて、わずかに動いた。
琥珀色の瞳が、一瞬、細くなる。
「……何を根拠に」
「てめえの目だ。俺を見る時、てめえは、いつも何かを測ってる。俺が、いつ、どこで、どう動くかを、最初から計算してる。まるで、俺の全部を知ってるみたいにな」
「……買いかぶりだな」
「違うのか」
累は、一歩、蒼に近づいた。
「てめえは、俺を拾った。あの雪の夜、瀕死の俺を。でも、あれは、助けたんじゃない。確保したんだろ。てめえの計算に、俺が必要だったから」
蒼は、黙っていた。
沈黙が、雪の降る倉庫街に、重く積もっていく。
「ちょっと、待って」
声がして、累は、振り返った。
早瀬凪が、雪の中を走ってくる。肩までの黒髪が、赤いリボンと一緒に揺れていた。大きな黒い瞳が、不安そうに、累と蒼を交互に見る。
「何の話をしてるの? 蒼、それ、どういうこと?」
凪の声が、震えている。
「……お前には関係ない」
「関係ある! 累が、何か、すごく、苦しそうな顔をしてる!」
凪が、累の前に立った。
「累、落ち着いて。あんた、また、一人で抱え込んでるでしょ」
「……凪、下がってろ」
「下がらない」
「下がれ」
累は、凪の肩を、軽く押した。
凪が、雪の上で、よろける。
「……累?」
凪の顔が、傷ついたように歪む。
累は、凪を見なかった。
「これは、俺と蒼の問題だ。お前は、関係ない」
「関係ないわけないでしょ! 私は、あんたの、仲間で……」
「仲間じゃない」
累の声が、冷たく、凪を突き放した。
「俺は、お前の仲間じゃない。……最初から、俺は、一人だ」
凪が、息を呑む。
「……なんで、そんなこと言うの」
凪の声が、泣きそうに揺れる。
「……蒼」
累は、凪から視線を外し、蒼に向き直った。
「てめえが俺を拾ったのは、孤児院が壊れることを、最初から知ってたからだろ。答えろ」
蒼は、しばらく、雪の降る空を見上げていた。
そして、ゆっくりと、口を開いた。
「……そうだ」
凪が、小さく、声を漏らした。
「蒼、それ、本当なの……?」
「本当だ」
蒼の声は、感情を排した、平坦なものだった。
「八年前、俺は十四歳だった。組織の実働部隊として、ヴェルムント結社の動きを探っていた。そこで、ある情報を掴んだ。陽だまりの家の裏帳簿を、結社が握っている。孤児院を崩壊させる計画が、進行している。そういう情報だった」
累は、黙って、蒼の言葉を聞いていた。
「俺に与えられた任務は、崩壊の混乱に乗じて、使える能力者を確保することだった。孤児院には、能力者が一人いる。灰谷累。残響の能力者。触れた物の記憶を読む、希少な力。俺は、その能力を、事前に評価していた」
「……評価」
「価値がある、と判断した。組織にとって、必要な駒だと」
「駒」
累の唇が、震えた。
「ああ。駒だ。お前は、俺の任務の対象だった。助けたんじゃない。確保したんだ。陽だまりの家が壊れる未来の中で、最も価値のある駒としてな」
雪が、三人の間に、音もなく降り積もる。
累は、自分の胃の腑が、冷えていくのを感じた。
(そうか)
(俺は、捨てられたんじゃない)
(榊原道造は、俺を、恐れたから、切った)
(蒼は、俺を、欲しかったから、拾った)
(二人とも、同じだ)
(どっちも、俺を、人間として見てなかった)
「……ふざけるな」
累の声が、低く、地面を這うように響いた。
「ふざけるな……てめえは、八年前から、全部、知ってて……」
「知っていた」
「なのに、俺に、何も言わなかった」
「言う必要がなかった」
「必要が、なかった?」
「ああ。お前は、俺の任務の対象だった。任務に、説明は不要だ」
「この、クソ野郎が……!」
累は、蒼の胸倉を、掴み上げた。
蒼の背中が、倉庫の壁に、ドン、と叩きつけられる。
「ちょっと、累、やめて!」
凪が、累の腕に、しがみつく。
「離せ、凪」
「離さない! あんた、また、手を傷つける気でしょ!」
「……お前には、関係ない」
「関係ある! あんたが傷つくのは、私が、嫌なの!」
凪の叫びが、雪の倉庫街に、鋭く響いた。
累の手が、一瞬、止まる。
「……凪」
「あんたが、何を抱えてるのか、私は、全部は知らない。でも、あんたが、一人で苦しんでるのは、分かる。見てれば、分かる。だから、一人にしないで」
凪の大きな黒い瞳が、真っ直ぐに、累を見つめる。
「……お前は、俺の、何を知ってるんだ」
「知らないよ。でも、知りたい。あんたのことを、もっと、知りたい」
凪の声が、震えながらも、はっきりと、累に届いた。
累は、ゆっくりと、蒼の胸倉から、手を離した。
「……蒼、続けろ」
累は、蒼から視線を外さずに、言った。
「てめえの計算通りなら、俺は、どう動くはずだった」
蒼は、コートの襟を直しながら、ゆっくりと、口を開いた。
「計算通りなら、お前は、子供たちを見捨てて、俺の元へ来るはずだった」
「……何だ、と」
「陽だまりの家の子供たちは、お前にとって、足枷だった。能力者としての価値を、組織に示すためには、お前は、一人で来るべきだった。俺は、そう計算していた」
「てめえ、俺が、子供たちを、見捨てると?」
「見捨てない、と、お前は言うだろうな。だが、あの夜、お前は、子供たちを守るために、孤児院の大人たちに、囮にされた。血まみれで、動けなくなるまで、雪の中で、もがいてた」
蒼の声が、わずかに、低くなる。
「あの時、俺の計算は、初めて、狂った」
「……狂った?」
「お前が、計算通りに動かなかった。だから、俺は、お前を、見捨てるはずだった。任務は失敗。そう判断して、撤収するはずだった。だが、俺は、お前を、拾った」
「……なんで」
「分からない」
蒼は、初めて、自分の言葉に、迷いを見せた。
「分からない。お前が、雪の中で、血を流しながら、それでも、立ち上がろうとしてた。その姿が、俺の、計算の、どこかに、引っかかった。組織の論理では、説明できない、何かが、俺の中に、生まれた」
「……てめえ、それ、自分で、何を言ってるか、分かってるのか」
「分かっている。だから、お前を、手放さない」
蒼の琥珀色の瞳が、真っ直ぐに、累を射抜く。
「お前は、俺の計算の外にいる。だから、俺は、お前を、手放せない。組織の論理でも、任務の結果でもなく、俺自身の、選択として」
雪が、強くなった。
倉庫の屋根に、積もった雪が、音を立てて、滑り落ちる。
「……蒼、あんた、それ、つまり」
凪が、蒼を見る。
「あんた、累を、助けたってこと? 任務とか、計算とか、そういうのを、全部、無視して?」
「……そういうことだ」
「だったら、なんで、最初から、そう言わないの! 累が、どれだけ苦しんでるか、あんた、見てて、分からないの!」
「言う必要がなかった。言ったところで、何も変わらない」
「変わるよ! 少なくとも、累は、自分が、ただの駒じゃなかったって、分かる!」
「……駒だった。最初はな。だが、今は、違う」
蒼は、コートの内ポケットから、茶封筒を、取り出した。
「……何だ、それは」
「お前に、見せるべきものが、三つある」
蒼は、封筒から、書類の束を、取り出した。
「一つ目。陽だまりの家の、裏帳簿のコピーだ。斡旋された子供たちのリストが、載っている」
累は、その書類を、受け取った。
手が、震える。
「二つ目。俺の凍結領域の、任務記録。八年前の、陽だまりの家周辺の、偵察ログだ。お前を確保するために、俺が、どれだけ、お前を観察していたかが、分かる」
「……てめえ、俺を、ずっと、見てたのか」
「ああ。お前が、孤児院で、どんな風に、子供たちと、過ごしていたかも、全部、記録している」
「……気持ち悪いな」
「そうだな。だが、これが、俺の、任務だった」
蒼は、三つ目の書類を、累に差し出した。
「三つ目。黒田からの通信記録だ。斡旋された子供たちの中に、お前と同じく、記憶を封じられた者がいる可能性が、書かれている」
累は、その書類を、じっと、見つめた。
「……記憶を、封じられた」
「お前の、残響は、触れた物の記憶を読む。なら、お前自身の、記憶は、どうだ。お前は、八歳以前の記憶を、読めない。それは、事故か。それとも、意図的に、そうされたのか」
「……意図的に」
累の声が、かすれた。
「俺の、記憶の空白は、孤児院に、作られたのか」
「その可能性が、ある。榊原道造は、お前の残響が、自分の過去を読むことを、恐れていた。だから、お前に、読めない鍵を、施した。そういうことだ」
「……鍵」
累は、三つの書類を、雪の上に、落とした。
書類が、雪に濡れて、インクが、にじんでいく。
「俺の、記憶の空白は、俺を、守るための、蓋だったのか。それとも、俺を、使い捨てるための、道具だったのか」
「それを、決めるのは、お前だ」
蒼の声が、冷たく、しかし、どこか、突き放すように、響いた。
「知るか、知らないか。過去へ向き合うか、蓋をして生きるか。お前が、選べ」
「……選べる、なら」
累は、うつむいた。
「選べるなら、最初から、選んでる」
「そうか」
蒼は、背を向けた。
「なら、お前は、まだ、選べない。選べないまま、お前は、ここにいる」
蒼は、雪の中を、歩き去っていった。
「……蒼」
凪が、その後ろ姿に、声をかける。
蒼は、振り返らなかった。
累は、雪の上に落ちた書類を、拾い上げた。
濡れて、冷たい。
「……累」
凪が、累の隣に、立った。
「私、あんたの、記憶のこと、何も知らない。でも、あんたが、苦しいなら、私は、あんたの、そばにいる」
凪の手が、累の、震える手に、触れた。
「……冷たい」
「え?」
「お前の手、冷たい」
「あ、ごめん、雪、触ってたから……」
「……別に、謝ることじゃない」
累は、凪の手を、そっと、握り返した。
「……ちょっとだけ、このまま、いさせろ」
「……うん」
凪が、小さく、うなずいた。
雪が、二人の間に、静かに、降り積もっていく。
---
旧市街のノクターン・カフェは、夕方になると、常連客で賑わう。
だが、今日は、誰もいなかった。
黒田が、累の来店を、予期していたかのように、店の前に「本日貸切」の札が、かかっていた。
累は、一人で、カフェの扉を開けた。
カラン、と、ドアベルが鳴る。
店内には、コーヒーの苦い香りが、満ちていた。
カウンターの奥で、黒田が、白いシャツの袖をまくり、黙って、コーヒーを淹れている。
黒田は、四十代半ばの、細身の男だった。銀縁の眼鏡の奥の、切れ長の目が、静かに、累を見た。
「……いらっしゃい。雪、すごいな」
「ああ」
累は、カウンターの、一番奥の席に、腰を下ろした。
黒田は、無言で、コーヒーカップを、累の前に置いた。
黒い液体が、湯気を立てている。
「……飲め。冷えるぞ」
「いらない」
「飲め。話は、それからだ」
累は、カップを、手に取った。
一口、飲む。
苦い。
「……うまい」
「そうか」
黒田は、カウンターに、身を乗り出した。
「蒼から、話は聞いた。三つの証拠を、見せたんだろ」
「……ああ」
累は、茶封筒から、濡れた書類を、取り出して、カウンターに置いた。
「これだ」
黒田は、書類を、一瞥した。
「……陽だまりの家の、裏帳簿か。懐かしいな。これを、俺が、蒼に流したんだ」
「てめえが?」
「ああ。八年前、俺は、まだ、ヴェルムント結社の、末端にいた。榊原道造の、裏の顔を、知ってしまってな。あの男は、子供たちを、ただの商品として、売りさばいていた」
「……知ってたのか」
「知ってた。そして、何も、できなかった。俺は、あの時、結社に、逆らえる立場じゃなかった」
黒田は、コーヒーカップを、自分の分も、淹れ直した。
「お前の、記憶の空白の話だな」
「……ああ」
「榊原道造は、お前の残響を、恐れていた。お前が、自分の過去を、読むことを。だから、お前に、読めない鍵を、施した」
「鍵って、何だ」
「記憶を操作できる、能力者のことだ」
累の、心臓が、ドクリと、跳ねた。
「……記憶を、操作できる、能力者」
「ああ。陽だまりの家は、そういう能力者と、協力関係にあった。お前の記憶を、意図的に、封じた。お前の残響が、お前自身の過去を、読めないように、な」
「……なんで、そんなことを」
「榊原は、お前を、使い捨てるために、お前の記憶を、封じた。お前が、自分の過去を知れば、榊原に、逆らうかもしれない。だから、お前に、何も、知らせないまま、お前を、売るつもりだった」
「……売る」
累の声が、震えた。
「ああ。お前は、希少な、能力者だった。残響は、情報戦で、圧倒的に、有利になる。お前は、孤児院の、商品だったんだ」
「……商品」
「だが、お前の記憶を、封じた、その能力者は、違った」
黒田の声が、わずかに、柔らかくなった。
「お前の記憶の空白は、お前を、守るための、蓋だった。その能力者は、榊原に、利用された。だが、最後の最後で、お前を、守ろうとした。お前が、自分の過去に、触れて、壊れてしまわないように」
「……守るための、蓋」
「ああ。だが、榊原は、その蓋を、お前を、使い捨てるための、道具にした。お前を、何も知らないまま、危険な場所へ、送り込んだ。お前が、死んでも、構わないと、思っていた」
累は、カウンターの上で、拳を握った。
かさぶたが、裂けて、血が、滲む。
「……榊原、道造」
累の声が、低く、獣のように、唸った。
「あの野郎は、俺を、最初から、道具としてしか、見てなかった」
「そうだ」
「蒼も、同じだ。俺を、駒として、確保した」
「そうだ」
「でも、蒼は、俺を、手放さなかった」
「そうだ」
「……なんで、あいつは、俺を、手放さないんだ」
「さあな。それは、蒼にしか、分からない。だが、お前が、蒼にとって、計算の外の存在だということは、確かだ」
黒田は、カウンターの下から、一枚の紙を、取り出した。
「それから、もう一つ。斡旋された子供たちの中に、お前と同じく、記憶を封じられた者が、いる可能性がある」
「……誰だ」
「名前は、分からない。だが、このリストの、ここだ」
黒田は、裏帳簿のコピーの、ある行を、指差した。
「この子は、陽だまりの家から、どこかの組織に、売られた。その後、行方が、分からなくなっている。お前と同じ、記憶の空白を、抱えている可能性が、高い」
「……その子は、今、どこに」
「分からない。だが、調べれば、分かるかもしれない。お前が、その子の、行方を、追うかどうかは、お前の、選択だ」
累は、リストの、その行を、じっと、見つめた。
名前は、読めない。
ただ、数字と、記号だけが、並んでいる。
「……俺は、自分の、過去を、読めるようになるのか」
累は、黒田に、問いかけた。
「読めないままでも、選ぶことは、できる」
黒田は、静かに、言った。
「お前の記憶の空白は、埋まらないかもしれない。だが、お前は、それでも、自分の、居場所を、選べる。お前が、誰と、どう生きるかを、選べる」
「……選べる」
「ああ。お前は、もう、拾われる側じゃない。拾う側だ。神谷が、お前に、そう教えたんだろ」
累は、神谷の、最期の言葉を、思い出した。
——お前は、もう、拾われる側じゃない。拾う側だ。
——お前は、ここにいていい。
「……神谷さん」
累の声が、震えた。
「俺は、まだ、何も、拾えてない」
「これからだ」
黒田は、カウンターの、コーヒーカップを、指で、なぞった。
「お前は、これから、選ぶ。自分の、居場所を。誰を、守るかを」
---
ノクターン・カフェを出ると、外は、もう、暗くなっていた。
雪は、やむ気配がない。
旧市街の、狭い路地を、累は、一人で、歩いた。
石畳に、雪が、積もっている。
足音が、雪に、吸い込まれて、消えていく。
(選べる)
(俺は、選べる)
(でも、選ぶには、まだ、何かが、足りない)
(俺の、記憶の、空白)
(俺を、守るための、蓋)
(俺を、使い捨てるための、道具)
(どっちだ)
その時だった。
「——見つけた」
低い声が、路地の、向こうから、響いた。
累は、足を止めた。
灰色の瞳が、冷たく、光る。
腰の後ろの、無銘のナイフに、手を伸ばす。
「ノクト・ハウンドか」
「残響の能力者、灰谷累。ヴェルムント結社が、お前の、能力を、欲しがっている」
路地の、前後から、複数の、黒い影が、現れた。
三人。
いや、四人。
「……お前ら、神谷さんを、殺した、ノクト・ハウンドの、仲間か」
「さあな。俺たちは、依頼を、遂行するだけだ」
一人が、小さな機械を、起動させた。
ピッ、という、電子音。
次の瞬間、累の頭に、激しい痛みが、走った。
「ぐっ……!?」
残響が、暴走する。
周囲の、残留思念が、雪崩のように、流れ込んでくる。
路地の壁に、染みついた、古い、怒号。
地面に、残る、血の、記憶。
見知らぬ、誰かの、断末魔。
「残響は、周囲の記憶を、読み取る能力。ならば、周囲の記憶を、強制的に、増幅させれば、お前の頭は、使い物にならなくなる」
「くそ……!」
累は、ナイフを、抜いた。
だが、足が、動かない。
頭が、割れそうに、痛い。
視界が、歪む。
「終わりだ」
敵が、一斉に、飛びかかってきた。
その時だった。
「——あんたの、死角は、私が、守る!」
声とともに、風が、吹いた。
凪が、路地の、屋根の上から、飛び降りてきた。
赤いリボンが、雪の降る闇に、鮮やかに、揺れる。
凪の、風読みが、敵の、攻撃の、弾道を、予測する。
「累、右! 二人、来る!」
累は、反射的に、右に、身をかわした。
敵の、刃が、累の、左肩を、かすめる。
「……凪、てめえ、なんで、ここに」
「あんたが、一人で、突っ走るからでしょ! 蒼に、頼まれたの。あんたを、見張れって」
「見張れ、だと?」
「あんたが、死んだら、神谷さんに、合わせる顔がないでしょ!」
凪の叫びが、路地に、響いた。
累の、頭の中で、神谷の、声が、蘇った。
——拾われる側から、拾う側へ。
(ああ、そうだ)
(俺は、まだ、拾う側に、なれてない)
(でも、凪は、俺を、拾おうとしてる)
(蒼も、黒田も、神谷さんも)
(みんな、俺を、拾おうとしてる)
「……凪」
累の、声が、低く、冷たく、響いた。
「下がってろ。ここは、俺が、やる」
「でも、あんたの、残響が……」
「大丈夫だ。お前が、いてくれれば、俺は、動ける」
累は、ナイフを、逆手に、構え直した。
「お前の、風読みで、敵の、動きを、読め。俺が、その、隙を、突く」
「……分かった!」
凪が、うなずいた。
「来るよ、累! 左から、一人、ナイフ! 右から、二人、銃!」
累は、左から来る、敵の、ナイフを、無銘で、弾いた。
ガキンッ!
火花が、散る。
「次! 右、二人、同時!」
累は、地面を、蹴った。
雪が、舞う。
右から来る、二人の、敵の、間を、すり抜ける。
「なっ……!?」
累の、ナイフが、一人目の、手首を、切り裂いた。
「がっ……!」
「まだ! 後ろ、一人、回り込んでる!」
累は、振り向かずに、後ろへ、ナイフを、突き出した。
ズッ。
「ぐあっ……!」
「……これで、三人」
累の、灰色の瞳が、冷たく、光る。
「残りは、一人だ」
「……お前、残響が、暴走してるはずだろ」
最後の一人が、後ずさる。
「ああ、痛いよ。頭が、割れそうだ」
累は、一歩、前に、踏み出した。
「でも、神谷さんに、教わったんだ。痛くても、守るべきものが、あるなら、動けるってな」
累の、ナイフが、最後の一人の、足を、払った。
「ぐあっ!」
敵が、雪の上に、倒れる。
累は、その、敵の、首元に、ナイフを、突きつけた。
「……言え。ヴェルムント結社は、俺の、能力を、どうするつもりだ」
「……知ら、ない。俺たちは、ただ、お前を、連れて来いと……」
「連れて行く? それで、俺の、記憶を、どうする」
「……記憶? 何の、話だ」
「……知らないのか」
累は、ナイフを、引いた。
「なら、いい。消えろ。次に、俺の前に、現れたら、殺す」
敵は、這うようにして、路地の、奥へ、逃げていった。
雪が、降り続ける。
「……累、大丈夫?」
凪が、累の、そばに、駆け寄ってきた。
「……ああ。お前の、おかげで、な」
累は、凪の、頭に、軽く、手を、置いた。
「……ありがとよ」
「……別に、当たり前のことを、しただけよ」
凪が、照れて、早口になる。
「……でも、あんた、また、一人で、突っ走ったでしょ。私が、来なかったら、死んでたわよ」
「……かもな」
「かも、じゃないわよ。絶対、死んでたわ」
「……うるせえ」
累は、小さく、笑った。
その時だった。
「——二人とも、無事か」
声がして、振り返る。
蒼が、路地の、入り口に、立っていた。
右手に、青白い、光を、宿している。
「蒼、遅い! あんたが、もっと、早く来てれば、累が、こんなに、傷つかずに済んだのに!」
「……済まない」
蒼は、素直に、謝った。
「だが、お前が、追いかけたから、俺は、周囲の、敵の、足止めに、回れた。お前の、風読みは、役に立った」
「……そう」
凪が、少し、照れたように、うつむく。
「……蒼、てめえ、凍結領域を、使ったのか」
「ああ。周囲の、建物ごと、敵の、足元を、凍らせた。しばらくは、追って来れない」
「……相変わらず、えげつないな」
「お前ほどじゃない」
「……てめえ、それ、褒めてるのか」
「さあな」
蒼は、背を向けた。
「来い。ベイ・サイドの、第三倉庫の、地下通路に、身を隠す。追跡を、振り切るぞ」
三人は、雪の降る、旧市街の、路地を、駆け抜けた。
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ベイ・サイド港湾地区の、第三倉庫群は、夜になると、人気が、まったく、なくなった。
ガントリークレーンの、黒い影が、雪明かりに、ぼんやりと、浮かび上がる。
蒼の案内で、三人は、使われていない、第三倉庫の、地下通路に、入り込んだ。
地下通路は、狭く、暗く、湿っていた。
かび臭い、空気。
壁には、古い、配管が、這っている。
「……ここは、安全なのか」
「ああ。この通路は、組織の、緊急時の、退避路として、使われている。ヴェルムント結社は、知らない」
「……そうか」
累は、壁に、背を預けて、座り込んだ。
「……疲れた」
「当たり前でしょ。あんた、三日間、まともに、寝てないでしょ」
凪が、累の、隣に、座った。
「……よく、分かったな」
「目が、真っ赤よ。隈も、ひどいし」
「……そうか」
累は、天井を、見上げた。
「……蒼」
「何だ」
「てめえの、計算に、乗る」
累の、声が、暗い、地下通路に、静かに、響いた。
「だが、今回は、俺の、意思で、乗る。てめえに、利用されるんじゃなく、俺が、自分の、選択として、乗る」
蒼は、しばらく、黙っていた。
「……上等だ」
蒼は、短く、答えた。
「なら、お前は、もう、俺の、駒じゃない。俺の、計画の、外にいる。お前の、意思で、動け。お前の、選択で、選べ」
「……言われなくても、そうする」
累は、凪の、方を、見た。
凪が、累の、肩に、頭を、寄せていた。
「……凪」
「……なに」
「……お前は、俺に、付き合って、大丈夫なのか」
「……今さら、Noveliaとは?
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