推しの親友は、元アイドルで隣の席
高校2年の春、地味で友達ゼロの磯貝タクト(16)は、超人気VTuber・氷月ユイの隠れガチ勢。学校では誰にも言わず、放課後はアーカイブ配信を観る日々。ある日、長期休学から復帰したばかりのクラスメイト・黒瀬まりあが、消しゴムを拾った拍子にタクトのスマホをチラ見する。画面に映っていたのは、氷月ユイの限定歌配信。まりあの目が輝く。
「ちょっと……ユイ推しなの?」
まりあの正体は、伝説の地下アイドルグループ『ネオポルテ』元メンバーで、解散後にVTuberへ転身した氷月ユイのリアル親友。まりあ自身も元アイドルだった。二人は秘密の共有者となり、まりあは「いつかユイに会わせてあげる」と約束する。しかし、まりあには声を奪う病でアイドルを辞めざるを得なかったという悲しい秘密があった。
そんな中、タクトの幼なじみで彼に密かに恋するギャル・宇佐美ルカが爆弾発言。「あんたの推しの事務所、うちの姉の元カレが運営してるんだけど」。ルカはタクトとまりあを引き裂こうと画策する。一方、無理に声を出し続け倒れたまりあに、タクトは「俺がまりあの声を守る」と誓う。だが、まりあの本当の病は呪いのようなものだった——誰かを
推しの親友は、元アイドルで隣の席 - 隣の席の美少女は緋月ユイの親友だった
朝が来た。
窓の外から差し込む光が、タクトのまぶたをこじ開ける。
重い体を起こして、枕元のスマホを手に取った。待受画面には、いつもの緋月ユイの笑顔。
「……よし」
自分に言い聞かせるように、小さくつぶやく。
今日は、昨日の帰り道で三枝から聞いたあの限定グッズ、クリアファイルキャンペーンの発売日だ。
絶対に手に入れる。
そう決めて、タクトはいつもより三十分近く早く家を出た。
五月の朝はまだ少しだけひんやりしていて、薄手の学ラン越しに空気が染みる。
通学路にはまばらに人影があるだけで、自転車通学の生徒が脇を駆け抜けていく。
ミナセ中央駅の方向に向かう道は、まだ本格的に混んでいない。
タクトは歩きながら、頭の中で昨日のことを反芻していた。
あの黒髪の女生徒。
通学路の曲がり角で、緋月ユイの歌声と重なるようなメロディを口ずさんでいた、あの子。
「……気のせい、だよな」
自分に言い聞かせるように、もう一度小さくつぶやく。
でも、耳の奥にはまだあの歌声が残っている。
心のどこかで、あれは絶対に気のせいじゃない、と誰かが囁いていた。
コンビニ「エブリマート」ソラミネ高校前店。
自動ドアが滑るように開くと、入店音が軽快に鳴った。
「いらっしゃいませー」
カウンターの奥から、見慣れた三枝がひょいと顔を出す。
大学の講義で遅くまで起きていたのだろう、茶色に染めた髪が少しだけ寝癖で跳ねている。
耳には相変わらず複数のピアスが光っている。
「お、磯貝くん。早いね」
「……どうも」
タクトは軽く会釈して、そのまま店内の一番奥、特設コーナーへと向かった。
入口から店の奥まで、たった十数歩。
だけど、その距離が今日は永遠のように感じられた。
昨日、三枝が指さしたキャンペーンポスターの下に、小さな販売台が置いてあるはずだ。
そこに、あの限定クリアファイルが並んでいるはずだ。
胸が、じわじわと熱くなる。
緋月ユイの限定デザイン。
このキャンペーンでしか手に入らない、完全限定品。
これがあるだけで、今日一日が、いや、今月まるごとが輝く。
売り場に着いた。
「……っ!」
タクトはしばらく、その場に立ち尽くした。
販売台の上。
透明なケースの中には、小さな銀色のパッケージが、一つだけ、ぽつんと置かれている。
その脇には、赤い文字で大きく「残りわずか」とプリントされた札。
残り一個。
最後の一個。
まだ、ある。
間に合った。
タクトは伸ばしかけた手を、慌てて引っ込めた。
ダメだ。落ち着け。
堂々と、普通に、自然に。
品出しをしている店員に見られたって、これから買うだけなんだから、別に恥ずかしくない。
そうだ。何も悪いことなんてしてない。
深呼吸。
それから、もう一度、ゆっくりと手を伸ばした。
その瞬間だった。
横から、すっと白い手が差し込まれて。
タクトの手よりも、ほんの少しだけ早く。
最後の一個が、持ち上げられた。
「……えっ?」
タクトの手が、空を掴む。
目線を横に向けると、そこには一人の男が立っていた。
年齢は二十代半ばくらい。
整った顔立ちで、スーツの袖口から覗く時計が異様に高そうだ。
「すみませんね、これが最後みたいで」
男は、そう言って薄く笑った。
声は低く、耳に残るような、嫌な響き方がする。
「あの、それ……」
「君も緋月ユイのファン?」
タクトの言葉を途中で遮るように、男が聞いてくる。
「え、まあ……はい」
「そう。熱心なのは結構なことだ。ただ、世の中には先に取ったもん勝ちのルールがある。残念だったね」
それだけ言うと、男は軽い足取りでレジに向かっていった。
タクトは、その場に縫い付けられたみたいに動けなかった。
……嘘だろ。
朝一で来たのに。
いつもより三十分も早く起きて、一番乗りで駆けつけたのに。
最後の一個を、目の前で、横から、かっさらわれた。
足の力が抜けて、しゃがみこみそうになる。
いや、いっそ、へたり込みたい。
床に手をついて、この場で「うわあああ」と叫びたい。
現実って、なんでこうなんだ。
脳内に、緋月ユイの声がリフレインする。
『今日の限定歌枠、最後まで聴いてくれてありがとう!』
違う。
これは歌枠の話じゃない。
クリアファイルだ。
俺はクリアファイルが欲しかったんだ。
「磯貝くん、大丈夫?」
いつの間にか、レジから出てきた三枝が、しゃがみこみかけたタクトの横に立っていた。
心配そうに、下から覗き込むようにして顔をのぞかせている。
「……いや、あの、その」
タクトは何とか体勢を立て直して、笑おうとした。
でも、うまく笑えない。
引きつった。
「最後の一個、取られちゃった?」
「……はい、見事に」
「あー、今のお客さん、開店前から並んでたんだよ。割と強火のファンみたいでさ。俺も一応、予約できないか聞いてみたんだけど、限定グッズだから先着順だって上に言われてて」
「そう……っすか」
タクトの声が、自分でもわかるくらい沈んでいく。
今日、一日分の気力が、もう底をついた。
教室に行く気力さえ、消えかけている。
「まあ、また次あるって!」
三枝が、ポンとタクトの肩を叩いた。
力加減が絶妙で、慰めてるんだか励ましてるんだかわからない。
「次っていつですか」
「さあ。緋月ユイのグッズって、けっこう頻繁に出るみたいだから、そんなに落ち込むなよ」
「……そうですけど、今回はなんか、特別な限定ってやつで」
「わかるよ、その気持ち。俺も昔、チェキの撮影会で好きな子の列、直前に締め切られたことあるし」
「地下アイドルとか、生々しいですね」
「おう、当時は本気だったからな。まあ、その話はまた今度。ほら、おにぎり買ってくでしょ? 朝飯、まだだろ」
タクトはため息をつきながら、おにぎりと炭酸水を手に取った。
レジに向かう途中、視界の端で、さっきの男が店の外で誰かと電話しているのがチラリと見えた。
あの高そうな腕時計。
緋月ユイの限定グッズを買っていくような、金持ちの社会人の男。
妙に、引っかかる。
同じファンなのか。
それとも、転売か。
どっちにしても、俺の目の前から一個残らず持っていった事実に変わりはない。
「はい、お会計」
三枝の声で、はっと我に返る。
ポケットから小銭を出していると、後ろから声がした。
「あの、すみません」
振り返る。
そこに立っていたのは、おばさんだった。
年齢は六十代くらいか。
薄い水色のカーディガンを着て、手には小さな手提げ袋。
「君、都立ソラミネの生徒さん?」
「……はい、そうですけど」
「ああ、やっぱり。その腕時計、うちの孫と同じのしてるから、もしやと思ってね」
そう言って、おばさんはタクトの左腕を指さした。
彼がつけているのは、入学祝に父からもらった、ごく普通のデジタル腕時計だ。
「失礼だけど、君、二組の子?」
「え、あの……二組です」
「やっぱりね。ちょうど今、二組で、今日から学校に来る子がいるの。隣の席の子、今日は来てるわよ。知らせてあげようと思って」
タクトはキョトンとした。
隣の席の子。
つまり、あの入学してからずっと空っぽだった席の主。
今日から、学校に来る?
それで、隣の席の子なんだから、タクトが知るのは当たり前だと思って、おばさんはわざわざ教えてくれている。
いや、待て。
このおばさんはいったい、何者だ。
「あの、どちらさまで……」
「ああ、ごめんなさいね、名乗りもしないで。私、その子のおばあちゃんの、昔のご近所さんでね。今日から登校するっていうから、朝から嬉しくなっちゃって」
「……はあ」
「君みたいな真面目そうな子が隣なら、きっとあの子も安心よ。よろしくね」
言いたいことだけ言って、おばさんは小さく会釈すると、さっさと店の奥へ消えていった。
タクトは、レジに小銭を出しながら、さっきの言葉を頭の中で繰り返した。
隣の席の子が、今日、学校に来る。
あの空っぽの席に、人が座るのか。
それを、なぜか知らないおばさんに告げられた。
朝から妙な気分だ。
限定グッズは横取りされ、謎の情報を置き土産にされた。
「……わけわからん」
コンビニを出て、校門をくぐる。
ソラミネ高校の朝は、いつも同じ匂いがする。
上履きのゴムの匂いと、チョークの粉の匂いと、ほんの少しの、草の香り。
昇降口でスニーカーから上履きに履き替え、薄暗い靴箱の前を通り過ぎる。
二組の教室は三階の一番奥だ。
廊下を歩く足音が、やけに大きく響く。
教室の引き戸の前で、一度立ち止まった。
(本当に来てるのか?)
あのおばさんの話が本当なら、今日は隣の席に誰かがいる。
入学してからずっと空っぽだった、廊下側から二番目の席。
深呼吸。
ガラッ、と引き戸を開ける。
朝の教室。
まだ着いている生徒はまばらで、グループごとにだらだらと時間を潰している。
タクトは足音を潜めて、窓際の自分の席へ向かう。
そして、見た。
……いた。
隣の席に、女生徒が座っている。
長い黒髪。
伏し目がちな瞳。
白く透き通るような肌。
肩幅の狭い、華奢な体。
一目で、わかった。
昨日、通学路で見かけた、あの女生徒だ。
間違いない。
あの曲がり角で、緋月ユイの歌声にそっくりなメロディを口ずさんでいた、あの子。
タクトは心臓が跳ねるのを感じながら、自分の席へと近づいた。
ひいき目なしに、整った顔立ちだった。
黒くてまっすぐな髪が、背中の真ん中あたりまで垂れている。
前髪は左右に分かれ、時々、長めのまつ毛が伏し目と重なって影を作る。
目鼻立ちは柔らかくて、どこか儚げで、それでいて意志の強そうな口元。
薄いピンクのリップが、わずかに光っていた。
席に着く。
隣の女生徒は、視線を教科書に落としたままだ。
……何か、話しかけたほうがいいんだろうか。
いや、話しかけるな。
まだ何もわかっていない。
そもそも、俺は学校で極力目立たないように生きている男だ。
隣の席に誰が座ろうと、放っておけばいい。
そうだ。
それが、俺のポリシーだったはずだ。
タクトは小さく息を吐いて、カバンから教科書を取り出した。
でも、だめだった。
隣の席の存在が、気になって仕方ない。
昨日のあの歌声が、頭の中でこだましている。
(……なんで、あの歌がユイに似てたんだ?)
チラ、と横目で女生徒を見る。
その視線に気づいたのか、彼女がゆっくりと顔を上げた。
目が、合った。
黒く濡れたような瞳。
吸い込まれそうな、深い色。
「あ、おはよう」
声をかけられた。
その声が、また、ものすごく、緋月ユイの声に似ていた。
透明で、涼やかで、それでいて温かい。
耳の奥に自然に入り込んでくるような、不思議な響き。
「お、おはよう……」
声が、ひっくり返らなかったのが奇跡だ。
「私、黒瀬まりあ。ずっと休んでたから、今日からここに戻ってきたの。よろしくね」
柔らかい口調。
でも、声の端々が、ごくわずかに震えているようにも聞こえる。
「磯貝、タクト。よろしく」
これで自己紹介は成立した。
教室の中は、少しずつ人が増え始めている。
この教室の連中は、隣の席に美少女が座っている程度で騒ぐほど野暮じゃない。
いや、実際は視線がちらちら集まっているけど、直接からかってくる奴はいない。
ホームルーム前の、なんとなく落ち着かない時間。
タクトは、窓の外の校庭を眺めるふりをしながら、どうしても隣の存在を意識してしまう。
長い黒髪。
白い肌。
握りたくなるような細い指。
昨日、曲がり角で消えた後ろ姿。
まさか、こんなに近くに座ることになるとは。
「ねえ」
と、また、彼女のほうから声をかけてきた。
今度は少し声を潜めて。
「え?」
タクトは、ぎこちなく彼女のほうへ顔を向けた。
まりあは、机の上で消しゴムを手のひらで転がしている。
その白い消しゴムが、ころん、と床に落ちた。
あ、と二人の声が重なる。
「拾う」
タクトが屈んだのと、まりあが屈んだのは、ほぼ同時だった。
その拍子。
タクトのポケットから、スマホがするりと抜けて。
床に、小さく落ちた。
「あっ」
画面が、上向きで点いている。
そこに映っていたのは——。
昨日の深夜、タクトが何度もリピートしていた、緋月ユイの限定歌枠のサムネイル画像だった。
メンバーシップ限定の、特別な配信。
歌ってみた動画でも、通常のライブでもなく、あの月に一度の、ファンだけの歌枠。
画面の中のユイが、笑っている。
タクトは血の気が引くのを感じた。
(やばい)
(見られた)
(オタクがバレる)
慌てて手を伸ばす。
だけど、まりあの白い指も、同時に伸びてきた。
彼女の指先が、スマホの画面に、ほんの一瞬、触れる。
「……あ」
まりあの動きが、止まった。
彼女の瞳が、驚いたように見開かれる。
長いまつ毛が、ふるっと震えた。
……終わった。
タクトは、心の底からそう思った。
教室で、女子に、VTuberの画面を見られた。
それも、緋月ユイ。
中学の時のトラウマが、一気に頭の中を駆け巡る。
(また、笑われる)
(また、気持ち悪いって言われる)
(また、教室にいたくなくなる)
息が、浅くなる。
「ちょっと、これ」
まりあが、声を潜めた。
タクトはギュッと目を閉じた。
来る。
どんな言葉が飛んでくるんだ。
「……あんた、ユイ推しなの?」
——え?
タクトは、恐る恐る目を開けた。
まりあの顔は、予想していた「嘲笑」とはかけ離れていた。
むしろ、彼女の瞳は、さっきよりもずっと、明るく光っている。
まるで、宝物を見つけたみたいに。
「あ、あの……」
「これ、昨日の限定歌枠でしょ。メンバーシップ入ってるんだ」
「え、待って、なんで知って……」
「私も見てたから。昨日の夜、ずっと」
タクトは、頭が真っ白になった。
何を言われているのか、一瞬理解できなかった。
いや、理解はしている。
しているのに、脳が受け入れを拒否している。
緋月ユイの限定歌枠。
あれは、メンバーシップに入っている人しか見られない、超がつくほど限定的な配信だ。
それを、隣の席の、不登校から復帰したばかりの美少女が、平然と「見てた」と言う。
「あんた、結構ガチだよね。何時から見てるの?」
まりあは、消しゴムを拾って机の上に置きながら、ずいっと身を乗り出してきた。
距離が、近い。
タクトは、背もたれに体を押し付けて、思わずのけぞった。
「……いや、その、中学の終わりくらいから」
「長いじゃん。すごい、初代からだ」
「初代って……」
初代。
今の話、VTuberの話だよな。
緋月ユイは、VTuberとしては新しい方の存在だけど、活動歴だけで言えば、まだ一年半くらいだ。
でも、まりあの口調は、まるで、もっと前から彼女を知っているみたいな、そういう言い方だった。
「放課後、話せない? 二人で」
突然の提案。
「え、あ、放課後……二人で?」
「うん。大事な話があるの」
まりあは、少しだけ真剣な顔をして、でも口元には小さな笑みを浮かべていた。
タクトは、断れなかった。
「……わかった」
早口で、それだけ答えるのが精一杯だった。
彼女の秘密は、誰にも言わない。
そう、まりあは言った。
「絶対、誰にも言わないから、安心して」
その言葉に、タクトはなぜか、嘘じゃないと感じた。
朝のホームルーム。
担任の戸川先生が、入ってきた。
四十二歳、国語科、温厚だが鈍感。
黒縁の眼鏡をくいっと上げて、出席をとり始める。
「黒瀬」
「はい」
まりあの返事は、はっきりしていた。
教室の空気が、ほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。
休憩時間。
タクトは、机に突っ伏して、荒ぶる心臓をなだめていた。
(緋月ユイの隠れファンが、隣の席の女子にバレた)
(しかも、その女子、めちゃくちゃ詳しい)
(いや、まあ、話した感じだと、嫌われてはいない)
(むしろ、なんでか嬉しそうだった)
(……なんで?)
考えれば考えるほど、わからない。
放課後、二人で話す。
どこで。
入り口のドアの前とかで待ち合わせなのか。
それとも、教室で最後まで残って話すのか。
もやもやしたまま、授業が進んでいく。
五限目と六限目は長かった。
午後四時十分。
終礼が終わって、教室が一気に騒がしくなる。
部活に行く者、帰宅する者、友達とどこかへ遊びに行く者。
タクトは、カバンを抱えたまま、自分の席で小さくなっていた。
「お待たせ」
まりあが、さりげなく紙を一枚、タクトの机の端に置いた。
そこには、こう書いてあった。
『三階の一番奥、空き教室。先に行ってるね』
タクトは、紙を握りつぶして、こくりと頷いた。
三分ほど時間を空けて、タクトも教室を出る。
廊下は、部活の生徒たちで混み始めていた。
誰も、タクトのことなんて見ていない。
それでも、妙にドキドキして、足音が大きくならないように歩いた。
空き教室。
三階の一番奥、普段は整備不良で鍵が開かないはずの教室。
確か、資料室として使われているはずだけど、生徒はほとんど近づかない。
ガラッ。
引き戸を開ける。
夕暮れ前の教室の中に、まりあはいた。
窓際の机に、ぽつんと座っている。
西日が、彼女の黒髪を、やわらかく照らしていた。
「来てくれたんだ」
「あ、ああ」
タクトは、入口から少し離れた場所に立ったまま、ぎこちなく頷いた。
教室の中には、古い机と椅子が、重ねられて置かれている。
黒板には、去年の文化祭のスローガンらしき文字が、消されずに残っていた。
「ここ、誰も来ないから、ちょっと話すのにいいかなって」
まりあは、そう言うと、窓の外へ視線をやった。
沈みかけた太陽が、多摩川の方角に光を投げている。
「それで、話って……」
「うん。朝の話の続き」
まりあは、窓から視線を戻して、タクトをまっすぐ見た。
その瞳が、また、きれいで。
タクトは無意識に、目を逸らした。
「磯貝くん」
「……タクトでいい、呼びにくいだろ」
「じゃあタクトくん。私ね、緋月ユイと、友達なの」
一瞬、時が止まった。
いや、止まったのは、タクトの思考回路だった。
緋月ユイ。
推し。
チャンネル登録者数、約百二十七万人。
日本中、いや世界中にファンがいる、超人気VTuber。
その人と、友達。
「は……?」
タクトの口から、間抜けな声が漏れた。
「だから、友達。リアルの」
「いやいやいや、待って」
タクトは、手のひらで自分の顔をぺしっと叩いた。
痛い。
夢じゃない。
「どういうこと? え、緋月ユイって、中の人と知り合いってこと?」
「そういうこと。というかね、私ね、元アイドルなの」
「……はあ!?」
今度こそ、声が裏返った。
まりあは、くすっと笑った。
その笑い方が、どこか懐かしい感じがして、タクトの胸の奥をくすぐる。
「地下アイドルグループ、ネオポルテって知ってる?」
「ネオ……ポルテ?」
「約三年前に、都内で活動してた五人組のグループ。小さなライブハウスで歌ってただけだけど、最盛期にはワンマンで三百人集めたこともあるの」
タクトは、記憶の引き出しを必死に探した。
ネオポルテ。
どこかで、聞いたことがある。
三枝が、地下アイドルの話をしていた時に、名前が出た……かもしれない。
いや、正直、地下アイドルに詳しいわけじゃないから、全然ピンとこない。
「そのネオポルテってグループに、緋月ユイがいたってこと?」
「そう。当時の芸名は、葵井ゆう。今は、緋月ユイとしてVTuberをしてる」
「……え、元アイドルがVTuberになってるのは、まあ、あるだろ。でも、お前、その、リアル友達って……」
「親友、なの。今でも連絡をとってる」
まりあの声が、ほんの少しだけ、揺れた。
それは、誇らしさなのか、寂しさなのか。
判断はつかなかった。
「……信じていいのか、これ」
タクトは、頭を抱えた。
信じたい。
いや、信じたくない。
信じたくない、というより、信じたら逆に、推しとの距離が一気に近くなりすぎて、何も考えられなくなる。
「うそついても、しょうがないでしょ。私は、それよりさっきの話。タクトくんがユイのこと、どうしてそこまで好きなのか、知りたいの」
「なんで、お前がそんなこと聞くんだよ」
「だって、私はユイの友達だから。友達のことを、それだけ真剣に応援してくれる人がいたら、嬉しいじゃない」
その言葉に、タクトはぐうの音も出なかった。
緋月ユイの友達が、目の前にいる。
その友達が、俺の応援を、嬉しいと言っている。
(なにこれ、頭おかしくなりそう)
「……中学の時、いろいろあって、人の前で趣味の話ができなくなって」
タクトは、ぽつりぽつりと話し始めた。
「緋月ユイの配信を見つけたのは、ちょうど、そんな時で。歌、うますぎて、びっくりした。声が、すごくきれいで。なんか、救われた感じがしたんだよ」
「救われた、か」
「うん。初めてスパチャ送った時、名前呼んでもらって、あ、俺、ここにいていいんだって思った。泣いた。マジで」
そこまで言って、タクトは恥ずかしくなって、口を閉じた。
なんでこんなこと、初対面の女子に話してるんだ。
まりあは、でも、笑わなかった。
ただ、じっと、真剣に、タクトの話を聞いてくれていた。
「そっか。そんなに好きになってくれて、ユイもきっと喜ぶよ」
まりあは、そう言って、窓の外を見た。
空の色が、朱色から紫に変わり始めている。
「タクトくん。私、今、自分がユイの友達だって言ったけど、他にも言ってないことがあるの」
「……なんだよ」
「私もね、元は、ネオポルテにいたの。ユイと同じグループの、メンバーだった」
今度こそ、タクトは声を失った。
「ただ、私は、ステージに立てなくなった。喉を、壊したから」
まりあの手が、無意識に、喉元へ伸びる。
「病気……というか、そういうので。今も、長くしゃべってると、声がかすれて、出なくなることがあるの」
夕日を背にしたまりあの横顔が、一瞬、ひどく弱々しく見えた。
朝、感じたあの震えは、これだったのか。
「だから、無理して声を出すなって、言われてて。学校にも、しばらく来られなかった」
タクトは、何と言っていいか、わからなかった。
元アイドル。
喉を壊して、ステージを降りた。
そのうえ、不登校になって、やっと復帰した。
彼女の声が、耳に残っている。
あの澄んだ声。
緋月ユイに、よく似た声。
それが、失われかけたことがある。
「……声、大事にしろよ」
気づいたら、口から出ていた。
まりあは、少し驚いた顔をして、それから、ふわりと笑った。
「うん。ありがとう。……この話、タクトくんだけにしたってこと、他の人には内緒にして」
「ああ、もちろん」
「それと、私がユイの友達だってことも、絶対、外で言っちゃだめだよ。事務所との契約とかに響くから」
「事務所? 緋月ユイって、どこかに所属してるの?」
「あれ? 知らないの? 結構有名だと思うけど、フォスライブって配信事務所。チャンネル登録者、総勢三百五十万人くらいの」
「フォスライブ……ああ、名前だけなら聞いたことある」
「そこの看板が、ユイ。事務所が厳しくて、中の人同士の交流とかに、けっこううるさいの。私との関係も、表に出せない」
「そうなのか」
「うん。だから、私たちのことは、ここだけの秘密」
人差し指を唇に当てる仕草。
その動きが、やけに色っぽく見えて、タクトは慌てて視線を床に落とした。
「……わかった。誰にも言わない。っていうか、言える相手がいないし」
「友達、いないの? あ、ごめん」
「いや、正解。友達ゼロなんだ、俺」
自虐気味に言うと、まりあは首をかしげた。
「ゼロって、なんか、潔くていいね」
「……褒めてんのか、それ」
「褒めてる褒めてる。私も、今の学校での友達、まだゼロだし」
まりあが笑う。
その笑顔を見ていたら、タクトの胸の奥で、何かが、ちくりと鳴った。
友達ゼロ同士。
境遇は、似ている。
でも、彼女は遠い存在だ。
推しの親友で、元アイドル。
なのに、今、こうして二人で話している。
不思議な感覚だった。
「ねえ、お腹すかない?」
急に、まりあが明るい声を出した。
「え、あ、うん。まあ、普通に」
「この近くに、カフェがあるでしょ。ルミナって店。あそこ、私、不登校の時によく行ってたの。よかったら、行かない?」
「……あ、うん」
二つ返事で頷いてしまってから、タクトは、はたと気づいた。
これ、つまり、放課後に、女子と二人で、カフェ。
しかも相手は、隣の席の美少女で、推しの親友。
(……人生で初めてのイベントが、重すぎる)
心臓が、また、跳ねた。
ミナセ中央駅の南口から、歩いて三分。
カフェ「ルミナ」は、ひっそりとした路地の角にあった。
外壁はレンガ風で、木の看板には、手書きの文字で「Cafe Lumina」と書かれている。
扉を開けると、カランカランと、ドアベルが軽やかに鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、店主の鷹野誠一が顔を出す。
三十八歳。
元ミュージシャン。
無造作に結んだ長めの黒髪と、よれたエプロンが、かえって雰囲気を出している。
店内は、こぢんまりとしていて、壁一面に古いレコードジャケットが飾られている。
木のテーブルと、少しだけ座面の低い椅子。
お客は、奥のソファ席に一組いるだけだった。
「あ、まりあ。久しぶり」
鷹野が、まりあを見て、ぱっと顔をほころばせた。
「こんにちは。今日は友達と一緒に来ました」
「ほう、友達。珍しいじゃないか」
ニヤリと笑う鷹野。
「からかわないでください」
まりあは、頬をほんのり赤くして、タクトに座るよう目で促した。
二人は、窓際の二人掛けテーブルに座った。
テーブルの上には、小さな花瓶に一輪、白い花が生けてある。
「何にする? 私、ここの大盛りパスタが好きなんだ」
「大盛りパスタって、メニューにあるやつか」
手渡されたメニューを開く。
ブレンドコーヒー四百五十円。
自家製チーズケーキ五百二十円。
ナポリタン七百円。
大盛りは、プラス三百円。
「……結構、食べるんだな」
「えへへ。今日は朝から緊張してて、お昼もあんまり食べられなかったから、余計にお腹すいちゃった」
「学校で緊張するんだ」
「そりゃあ、ずっと休んでたから。行くまでが、すごく不安で」
まりあは、ストローで水を一口飲んだ。
その横顔には、もう朝のような固さはなくて、どこかほっとした空気が漂っている。
「でも、隣の席が、あなたでよかった」
「……えっ?」
「もっと、話しにくい人だったらどうしようって、そればっかり考えてたから。タクトくんは、そういうの、ないでしょ」
「……それは、褒めてんの? けなしてんの?」
「褒めてるよ。すごく、いやすい」
タクトは、なんと返していいかわからず、水を一気に飲み干した。
いやすい。
異性に、そんなことを言われる日が来るとは。
注文を取りに来た鷹野に、まりあはにこやかに言った。
「大盛りナポリタンと、あとチーズケーキもください」
「お、今日はよく食うな」
「いいんです。お祝いだから」
「お祝い?」
「復帰祝い」
まりあは、いたずらっぽく笑った。
タクトは、ブレンドコーヒーと、ミートソースのスパゲッティを頼む。
料理が来るまでの間、二人は、他愛もない話をした。
まりあの話は、どれも新鮮だった。
ネオポルテの頃の、小さなエピソード。
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