デビルマン:黙示録の愛
不動明はごく普通の高校生だった。幼なじみの飛鳥了から「世界を救ってほしい」と頼まれるまでは。悪魔の集会〈サバト〉へと引きずり込まれた明は、強大な悪魔アモンと融合し、悪魔の体と人間の心を持つヒーロー、デビルマンとなる。その先に待つのは、禁断の愛が炸裂する物語。
明が人知れず戦いを繰り広げる一方で、了の秘めた想いは熱病のように彼を焦がす。了はずっと、明を単なる友人としてではなく愛してきた。だが、明の優しさが同級生の牧村美樹にも向けられるのを目の当たりにし、了の内側では吐き気を催すような嫉妬が彼を引き裂く。悪魔の脅威を明に理解させるため、了は美樹を囮に使って明をサバトへ誘き出すという手段にまで手を染め、その嘘は苦い罪悪感となって了に重くのしかかる。
物語の核心は、ある夜に爆発する。化け物じみた所有欲に蝕まれた了は、もはや自らの執着を抑えきれなくなる。悪魔襲撃の虚偽の知らせで人気のない倉庫へ明を誘き出した了は、ついに自らの愛を告白する。混乱に陥る明。だが、了の歪で破滅的なまでの真摯さの深淵を目の当たりにした時、明はもはや目を背けることができなくなる。友情と激情の境界線が、初めて越えられたの
デビルマン:黙示録の愛 - 初陣の森──嫉妬の炎と囁く悪魔
あのサバトの夜から、一週間が経った。
夏の気配が近づく六月の初め。ヒガシムラヤマの街は、今日も変わらず穏やかな朝を迎えていた。駅前の商店街からは活気のある声が聞こえ、遠くの丘の上には飛鳥邸の白い壁が見える。
牧村家の居間には、味噌汁の匂いが漂っていた。
「明、早く食べないと遅刻するわよ」
美樹がエプロン姿で台所から顔を出す。長い黒髪がポニーテールで揺れて、そのたびに朝日が反射してきらきらと輝いた。パッチリとした茶色の瞳が、食卓につく明を見つめている。
明は箸を持ったまま、少しだけぼんやりしていた。
(悪魔、か)
頭の片隅に、昨夜届いた了からのメッセージがこびりついている。
『東京郊外の森林地帯に悪魔の反応あり。今夜、単独で偵察せよ。美樹には話すな』
スマホの画面に表示されたその文字を、何度も読み返した。了の命令口調には慣れているが、今回はやけに切迫している気がする。
それに──美樹に話すな、という指示が、胸に小さな棘のように刺さった。
「どうしたの、明? 食欲ないの?」
美樹が心配そうに覗き込んでくる。その子犬のような茶色の瞳が、まっすぐに明を見上げていた。
「あ、いや、大丈夫だ。いただきます」
明は慌ててご飯を口に運んだ。ふっくらと炊き上がった白米と、美樹お手製の卵焼きが美味しい。
美樹はにこりと笑って、向かい側の席に座った。
「そうだ、明! 今日の放課後、一緒に帰らない? 商店街に新しくできたクレープ屋さん、気になってたんだよね」
明の箸が止まった。
(まずい)
動揺を隠しながら、なんとか笑顔を作る。耳の後ろを無意識に掻く癖が出そうになるのを、必死に抑えた。
「あー……その、悪い。今日、補講があってさ」
「補講?」
美樹の眉が、わずかに上がった。
この一週間、明は美樹に何度か嘘をついてきた。了との打ち合わせがあるから、と。それらはなんとか誤魔化せていたが、今日はどうも雲行きが怪しい。
「そ、そうなんだよ。あの、数学の……小テストで点数が悪くて」
「数学? 明、この前の小テスト、85点だったじゃん」
「え……」
明の動きが完全に止まった。
美樹の記憶力が、こんな時に限って正確すぎる。
「い、いや、その、別の教科で……」
「へえ。どの教科?」
美樹が、じっと明の目を見つめる。口元は笑っているのに、茶色の瞳は全然笑っていない。これが彼女の怒っている時の顔だということを、幼い頃から一緒に育った明はよく知っていた。
(落ち着け。適当な教科を言えば……)
でも、頭が真っ白になって、全然思い浮かばない。
「……体育」
しーん、と部屋が静まり返った。
「「「体育の補講」」」
まるでどこかからツッコミの声が聞こえてきそうな、ありえない単語だった。
美樹が、深いため息をついた。
「……体育の補講って、何するの? 逆上がりの特訓? それとも、縄跳びができない子の集まり?」
「そ、それは……」
明は耳の後ろを掻き始めた。完全に、限界だった。
(どうする、どうするんだ、これ以上は……)
その時だった。
ピコン、と美樹のスマホが軽やかな通知音を鳴らした。
美樹が画面を見る。その表情が、みるみる固くなっていった。
「……飛鳥くんから」
明の心臓が、嫌な跳ね方をした。
「なんて?」
美樹は無言で、スマホの画面を明に向けた。
『明は今夜遅くなります。心配しないでください』
差出人は飛鳥了。たった一文。でもその冷たさが、画面越しにも伝わってくる。
美樹の手が、わずかに震えていた。
「……なにこれ。どうして飛鳥くんから、こんな連絡がくるの」
明は、自分のスマホを確認した。了からのメッセージは、昨夜のものが最後だ。つまり、美樹にこのLINEを送ったことは、明には知らされていなかった。
(了……お前、先回りして……)
背中に冷たい汗が伝う。
これは、了がすでに美樹を完全に把握しているということだ。明の行動も、美樹の動線も、全て。
美樹が顔を上げた。
その瞳に浮かんでいたのは、怒りではなく、もっと深い不安だった。
「明。正直に言ってほしいんだけど。最近、飛鳥くんと何をしてるの?」
「そ、れは……」
「一週間前も、朝帰りしてきたよね。傷だらけで。飛鳥くんに連れられて、どこかに行った日」
美樹は立ち上がった。
彼女の茶色の瞳が、じっと明を見据える。その奥に、傷ついた色が浮かんでいることに、明は気づいてしまった。
(美樹ちゃんは、ずっと心配してくれている)
嘘をつくのは、辛い。でも、本当のことを話せば、この人を危険に巻き込む。
「……美樹ちゃん。ごめん。今はまだ、話せないんだ」
「……私には、話せないこと?」
「違う! そうじゃなくて……その、美樹ちゃんを危ない目にあわせたくないっていうか」
「危ない目って何? 明は何か危ないことをしてるの?」
追求の手を緩めない美樹に、明は完全に追い詰められていた。
その時、再び美樹のスマホが震えた。
今度は、彼女の顔から血の気が引くのがわかった。
「……飛鳥くんから、また」
メッセージを読んだまま、美樹は固まっている。
「なんて書いてあった?」
明が尋ねると、美樹はゆっくりと顔を上げた。
その表情は、もはや警戒を通り越して、恐怖に近かった。
「……『補講の件は、明から聞いているはずです。あまり追及しないでください。彼のためになりませんから』」
明の頭の中で、何かが弾けた。
(了は、ここまで……)
自分が「補講」という嘘をついたことを、了が知っているはずがない。それなのにこのタイミングで、まるで見ていたかのようなメッセージを美樹に送ってくる。
「……了」
明は立ち上がった。
耳の後ろを、無意識に何度も掻いている。
美樹は、スマホを握りしめたまま、小さく呟いた。
「飛鳥くんって、前からああいう人だったっけ。明。気をつけてね。あの人、なんか、怖い」
その言葉が、妙に重く、居間に響いた。
夕暮れが近づく頃、明は一人で東京郊外の森林地帯へと足を踏み入れていた。
ヒガシムラヤマ駅からバスに揺られること三十分。人家が途切れ、道が細くなり、いつのまにか周囲は木々に覆われていた。
(ここが、了の言っていた場所か)
廃林道、と呼ぶにふさわしい場所だった。かつては木材を運び出すための道だったのだろう。地面には轍の跡が古く残り、あちこちに雑草が生い茂っている。夕暮れの光が、枝葉の隙間から差し込んで、地面にまだら模様を描いていた。
空気はひんやりとしていて、どこか湿った土の匂いがする。
深呼吸をすると、肺の中が冷たい空気で満たされた。
明は、目を閉じる。
(やるんだ。デビルマンとして)
胸の奥に、アモンの気配がある。
眠っているわけではない。静かに機会を待っている、そんな感じだった。
(言うことを聞けよ、アモン)
心の中でそう念じる。返事はない。でも、嘲笑の気配だけが微かに伝わってきた。
明は服を脱ぎ、近くの木の根元に隠した。戦闘で破れると美樹に怪しまれるからだ。
そして、変身を意識した瞬間──
体の内側から、何かがせり上がってくる。
熱い。
内臓が灼けるような色が、全身に広がった。
蒼黒い甲殻が皮膚を突き破り、背中からは巨大な翼が展開する。身長は一気に2メートルを超え、額からは二本の湾曲した角が天に向かって伸びた。金色に輝く瞳が、周囲を見渡す。
デビルマン。
悪魔の力と、人間の心を併せ持つ存在。
感覚が研ぎ澄まされていく。
風の匂い、木々のざわめき、遠くで鳥が羽ばたく音──そして。
ザワリ。
嫌な気配を感じ取った。
明は翼を広げ、森の奥へと駆け出した。
木々をかき分けて五分ほど進んだ場所で、遭遇した。
シルヴァ。
蜘蛛型の下級悪魔が、七体。
体長は一メートルほどで、黒光りする甲殻に覆われた胴体から、節くれだった八本の脚が伸びている。複数の目がぎょろりと明を捉え、牙の並ぶ口からは粘ついた唾液が滴っていた。
(七体……!)
一対一なら問題ない。しかし、群れとなると話が違う。
明が身構えるより早く、先頭のシルヴァが跳躍した。
ザシュッ!
脚の先端が、鋭い刃物のように明の肩をかする。蒼黒い甲殻に火花が散った。
「この……!」
明は拳を振り抜く。
デビルマンの膂力が、コンクリートをも砕く一撃。
バキィッ!
シルヴァの甲殻が砕け、体液が飛び散った。一体、仕留めた。
だが、次の瞬間、別の二体が左右から襲いかかる。
脚が、尻尾が、牙が──殺意の雨のように明の体を叩いた。
甲殻が軋み、腕に痛みが走る。
(この程度……!)
明は口から火炎を放射した。
ゴオオオオッ!!!
アモンの能力──高熱火炎が、二体のシルヴァをまとめて焼き尽くす。悪魔たちは断末魔の叫びを上げ、炭化して崩れ落ちた。
残り四体。
明は翼を広げ、跳躍した。空中から急降下し、一体の頭部を爪で貫く。そして着地と同時に、もう一体の胴体を蹴り飛ばした。
ドゴォッ!
シルヴァが木に激突し、幹がへし折れる。
(いける!)
残り二体。
明はそう思った、その瞬間だった。
──殺せ。
頭の中に、声が響いた。
アモンの声だ。
(黙れ……!)
──なぜだ? お前も感じているだろう。この快感を。
その通りだった。
悪魔を倒すたびに、体の奥から何かがせり上がってくる。熱くて、甘い、破壊の衝動。
(違う……違うんだ……)
明は首を振る。
だが、感覚がおかしくなっていた。
周囲の木々が、揺らめいて見える。幹の形が、人間のシルエットに見えた。
(あれは……人……?)
違う。
木だ。
でも、爪を振り下ろしたくなる。その首を引き裂きたくなる。
殺戮本能が、理性を溶かしていく。
──そうだ。それが本来の我の姿。人間ごときが、この力を御せると思うな。
アモンの嘲笑が、頭蓋に反響する。
明の口元が、歪んだ笑みを形作った。
(殺す……全て、殺し尽くす……)
金色の瞳が、狂気の色に変わる。
爪を振り上げた──その時だった。
──明、ごはん食べてないでしょ、もう。
頭の中に、突然、声が浮かんだ。
アモンの声ではない。
もっと優しくて、少し呆れていて、でもあたたかい声。
美樹の笑顔が、映像として再生される。
ぱっちりとした茶色の瞳。ポニーテールが揺れるたびに輝く光。エプロン姿で、少し腰に手を当てて、呆れたように笑っている。
『明は本当にバカなんだから! ちゃんと食べないと体に悪いんだからね!』
そのイメージが、灼けるように脳裏に焼きついた。
「……美樹、ちゃん」
明の口から、かすれた声が漏れる。
同時に、狂気がひいていく。
(違う。俺は、守るんだ)
(誰かを傷つけるために、この力があるんじゃない)
人間の心が、悪魔の本能を押しのける。
金色の瞳から、正気の光が戻った。
──なに?
アモンが驚愕の声を上げた気がした。
でも、もう遅い。
明は、残り二体のシルヴァを見据えた。
「悪いな……つまらない見世物は、ここまでだ」
一瞬だった。
翼を広げ、最高速度で急接近する。一体目の頭部を鷲掴みにして地面に叩きつけ、即座に反転してもう一体の胴体を爪で切り裂いた。
バシャアアアアッ!!!
体液が噴き出し、シルヴァが断末魔とともに崩れ去る。
森に、静寂が戻った。
明は息を切らし、膝をついた。
変身が解け、甲殻が収縮し、翼が背中に吸い込まれていく。元の人間の姿に戻った明の体は、傷だらけで、汗と土に汚れていた。
「……危なかった」
もし美樹の笑顔が浮かばなければ。
自分は、あのまま何をしていたかわからない。
明は震える手で、耳の後ろを掻いた。
(美樹ちゃん、か)
彼女の存在が、歯止めになった。
それは、自分でも驚く事実だった。家族みたいな存在。それだけじゃない。自分は、彼女に何を感じているんだろう。
(まあ、元気でいてくれないと困るし)
そんなふうに、自分に言い訳をした。
でも胸の奥で、何かがじわりと熱くなっていることは、認めないわけにはいかなかった。
──その光景を、百メートル離れた丘の上から見つめる影があった。
飛鳥了だ。
ヒガシムラヤマからどうやって先回りしたのか。いや、そもそもこの森の場所を明に指示した時点で、監視ポイントの準備は整えていたのだろう。
左手に双眼鏡。
周囲には三脚に固定されたタブレット端末があり、双眼鏡と接続されて映像を高精細に記録している。記録用データの整理まで瞬時に行うその手際は、もはや趣味の領域ではなかった。
防水ジャケットを着込み、虫除けスプレーまで完備している。
あまりにも準備が良すぎる。
その姿は、まるで仕事で暗殺対象を監視するプロフェッショナルのようだった。
常人ならば狂気じみて笑える光景だが、了の青い瞳は本気だった。
「明……」
双眼鏡越しに、愛しい人の戦いを見守る。
シルヴァの群れを相手に善戦する明に、了の口元がうっすらと緩んだ。
(さすがだよ、明。君は強い)
しかし、その表情が凍りつく。
明が、暴走しかけたのだ。
金色の瞳が狂気に染まり、口元が歪む。
了は双眼鏡を持つ手に力を込めた。
(まずい……このままでは、悪魔に飲まれる……!)
駆け出そうか。
いや、無駄だ。今の自分が行っても、何もできない。
了の自尊心が、胸の奥でぎりぎりと軋む。
(僕は、君を守るために、これだけのことをしてきたのに……!)
その時だった。
明の口元が、何かを呟いた。
了は双眼鏡のフォーカスを合わせる。
読唇術だ。この監視のために、半年かけて習得した技術だった。
「……み……き……」
明が、そう呟いた。
了の動きが、完全に止まった。
美樹。
牧村美樹の名前を、明は口にした。
そして、明は正気を取り戻した。
美樹の名前が、明を悪魔の本能から引き戻した。
了は、ゆっくりと双眼鏡を下ろした。
その顔に、怒りはない。
悲しみもない。
あるのはただ──静かで、恐ろしいまでの、無表情。
何かが、その瞬間に決定的に変わった顔だった。
「……そうか。『美樹』か」
了は立ち上がった。
タブレット端末を手早く片付け、三脚を折り畳む。動作は冷静で、無駄がなかった。
でも、その青い瞳だけは、深海のように暗く、濁っていた。
了は森を出ると、タツミ倉庫街の方へと歩き出した。
あの時、明に「僕と君だけの秘密だ」と囁いた場所へ。
歩きながら、了はスマホを取り出した。
画面に表示したのは、美樹のSNSアカウント。
写真の中で、美樹は明と肩を並べて笑っている。学校の文化祭だろうか。焼きそばを手に持ち、楽しそうな笑顔だった。
「君は、明の弱点だ」
了は、そう呟いた。
その声は、誰にも聞かれることなく、夕暮れの街に溶けた。
スマホを上着のポケットに戻す。
了は、完全に無表情のまま、歩き続けた。
これからすべきことが、明確になった。
明を守り、二人だけの世界を取り戻すために──牧村美樹という「弱点」は、取り除かなければならない。
その計画が、静かに動き始めていた。
牧村家の玄関を開けると、家の中から明るい声が飛んできた。
「おかえり、明! 補講お疲れさま!」
美樹が、ぱっと明るい笑顔で迎え出る。
玄関の灯りに照らされた彼女の姿は、朝と同じで、いや、それよりもっと輝いて見えた。ポニーテールが揺れる。エプロンからは、カレーの匂いがした。
(……ああ)
明は、一瞬息を止めた。
この笑顔だ。
さっき森の中で、自分の理性を繋ぎ止めた、この笑顔。
(俺は、この笑顔を守るために戦ってる)
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
心臓が、嫌にうるさい。
「明? どうしたの、顔、赤いよ?」
「あ、ありがとう……ごはん、温めといてくれたんだ」
明がしどろもどろで靴を脱ごうとすると、美樹がずいっと近づいてきた。
「ねえ、本当に熱でもあるんじゃない? 顔、すごく赤いけど」
そう言って、美樹は明の額に手を当てようとした。
「な、なんでもない!!」
明は思わず後ずさりした。
「あやしい。逃げるなー!」
「逃げてない! 大丈夫だって!」
「嘘だー! 捕まえてやる!」
二人は玄関から廊下へと、プチ追いかけっこを始めた。
「ちょ、美樹ちゃん、カレーが! カレーが焦げる!」
「えっ、やば!」
美樹が慌てて台所に戻る。その背中を見ながら、明は小さく笑った。
(……普通だ)
さっきまで命がけの戦いをしていたのが、嘘みたいな日常。
でも、これが自分の守りたいものなのだと、明は改めて感じていた。
夕食の後、明は自室で布団に横たわった。
今日一日の疲れが、どっと押し寄せる。
(美樹ちゃんの笑顔で理性を取り戻した)
(了は、なぜ先回りして美樹ちゃんにLINEを……)
(それに、アモンの言っていたことも……)
考えがまとまらない。
気がつくと、まぶたが重くなっていった。
──ここは、どこだ。
暗闇が広がっている。
上下も左右もわからない無限の暗黒空間。
明は、その中心に立っていた。
「……夢、か」
「そうだとも。お前の精神の、最も深い場所だ」
声が響いた。
低く、冷たく、それでいて奇妙な熱を帯びた声。
振り返ると、そこにアモンが立っていた。
いや、「立っている」というより、闇そのものが形を取ったような存在だった。蒼黒い甲殻、巨大な翼、湾曲した二本の角。金色の瞳だけが、爛々と輝いている。
明は足を踏みしめた。
「アモン……お前の相手をしている暇はない」
「ほう、ずいぶんな言い草だな、小僧。今夜の戦い、我の力なくしてどうなっていたと思っている?」
アモンが手をかざすと、暗闇の中に映像が浮かび上がった。
森の中で、明がシルヴァを次々と屠っていく光景。
「見事ではあった。しかし、危うく我の本能に飲まれるところだったな。そして、お前を引き戻したもの──」
映像が切り替わる。
美樹の笑顔。
「人間の牝一匹の笑顔ごときで、よくも我の本能を抑えたものだ。笑わせる」
「黙れ……!」
「なぜだ? 事実だろう。お前はあの女の笑顔一つで戦い、理性を保った。それは美しい。実に人間らしい。だがな──」
アモンの金色の瞳が、楽しげに細められた。
「だからこそ、利用されるのだ。弱みにな。お前の大事な幼なじみ、飛鳥了にな」
映像が切り替わる。
そこに映っていたのは──
夕暮れの丘の上で、双眼鏡を下ろした了の姿。
無表情のまま、何かを決定した顔。
「な、なんだ、これ……?」
「お前の見えない場所で、何が起きていたかだ。了は今日、お前を監視していた。そして、お前が『美樹』の名で踏みとどまる瞬間を、確かに見ていた。あの顔を見ろ──」
了の無表情。
怒りも、悲しみもない、ただ静かな顔。
「了はな、お前の大切な女を喰い殺そうとしているぞ」
「嘘だ!! 了がそんなことするわけない!!」
「なぜそう言い切れる? 了のあの独占欲、嫉妬、狂気。お前が一番よく知っているはずだ。そして、お前は見たはずだ、今夜の了の表情を」
「それは、了が監視してた映像だろ。俺が見たわけじゃない。お前が作り出した幻だ!」
「違うな。我はお前の中にいる。お前が見えないものも、我には見える。これは現実だ。了は、美樹を消す」
アモンの影が、ぐにゃりと大きくなった。
「そして、それは面白いことになるぞ。了が美樹を殺すか、お前の精神が壊れて我に飲み込まれるか。どちらに転んでも、破滅だ。楽しみに見せてもらおう──この愛とやらの結末をな!」
声が、高らかに笑った。
「うわああああっ!!」
明は飛び起きた。
全身に冷や汗が滲み、パジャマがぐっしょりと濡れている。
(夢、か……)
いや、違う。
アモンは確かに、自分の内側にいる。そして、あの映像は──了が双眼鏡を下ろしたあの顔は──妙に生々しかった。
明は震える手でスマホを手に取った。
時刻は午前三時。
迷ったが、了にメッセージを送る。
『了、昨日はありがとう。助かった。でも……美樹のことが出てきて、気になることを言われた。また話せるか?』
既読がつくのに、一秒もかからなかった。
そして返信が来る。
『問題ない。気にするな』
たった一文。
でもその短さが、かえって了の動揺を、あるいは──冷静な計算を、感じさせた。
明はスマホを握りしめたまま、暗闇を見つめた。
──同じ時刻、了は飛鳥邸の地下室にいた。
パソコンのモニターには、今日撮影した明の戦闘データと、美樹のSNSデータが並んでいる。
了は、無表情のままキーボードを叩き、あるファイルを開いた。
タイトルは──
『美樹・排除計画 ver.1.0』
その内容が、画面に静かに表示された。
了の青い瞳が、深海のように冷たく、暗く、輝いた。
「明。すぐに、僕だけの明に戻してあげる。待っていて」
そう呟いた声は、誰にも届かない。
ただ、地下室の静寂だけが、その言葉を包み込んだ。
翌朝のヒガシムラヤマが、いつも通り平和であることが、今はひどく皮肉に感じられた。Noveliaとは?
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