禁断の恋
ホグワーツ魔法魔術学校に進級した三年目の新学期初日、私は最悪の知らせを聞いた。アズカバン刑務所を脱獄した殺人犯、シリウス・ブラックが私を狙っているらしい。しかも彼は、私の両親を殺した犯人だった。
恐怖で眠れない夜、新しい闇の魔術に対する防衛術の教師が現れた。名前はリーマス・ルーピン。擦り切れたローブを纏い、疲れた顔をした年上の男性。でも彼の授業は、これまで受けたどんな授業よりも面白かった。ボガートを笑い飛ばす呪文、グリフィンドールの剣の扱い方、あらゆる実践魔法。気づけば私は彼の授業を楽しみにしていた。
ある満月の夜、私は偶然教授の秘密を知ってしまった。彼は人狼だった。満月のたびに理性を失い、怪物になる呪い。普通なら逃げ出すところだ。でも私の足は動かなかった。彼の瞳があまりにも悲しそうだったから。
「知ってしまったんだな」と教授は震える声で言った。私は首を振り、一歩近づいた。
「怖くないのか?」
「怖いです。でも、先生のほうがもっと怖いんでしょう?」
その夜から、私たちの秘密の時間が始まった。誰にも知られてはいけない関係。禁断の恋。生徒と教師。人間と人狼。決して越えてはならな
禁断の恋 - 禁じられた森の夜——古文書と三日月のあざ
九月の夜は、もう秋の気配を帯びていた。
ホグワーツ城の廊下を歩くフィアンナ・マクレガーの足音だけが、石の壁に反響する。ローブの内ポケットには、折りたたんだ羊皮紙が一枚。昼間のうちに禁書区画からこっそり写し取った、狼人間の呪いに関する古文書の写しだった。
(誰にも見つからないうちに)
彼女は太った貴婦人の肖像画の前を通り過ぎ、さらに奥へと進んだ。この時間、生徒はほとんど寮に戻っている。監督生の見回りだけを避ければいい。
図書館に着くと、重い扉を押し開けた。
中は静まり返っていた。高い天井まで届く書架の列が、月明かりに青白く浮かんでいる。ろうそくの火は消えている。マダム・ピンスももういない。
フィアンナは迷わず禁書区画へ向かった。
(あの本をもう一度)
昼間、彼女はここで一冊の古文書を見つけていた。『呪われし者たちの系譜——狼人間とその変転』。表紙は黒ずんだ革で、ページの端はぼろぼろだった。誰も読まなくなって久しい本。でも、その中身は彼女の心を強く掴んでいた。
彼女は本を取り出すと、窓際の小さな机に座った。
月の光が、開いたページに落ちる。
『満月の夜、狼人間は理性を失う。人としての記憶も、愛した者の顔も、すべて獣の衝動に飲み込まれる。変身は激痛を伴い、骨は折れ、皮は裂け、全身が狼のそれへと作り変えられる』
フィアンナは指先で文字をなぞった。
(骨が、折れる)
彼女の脳裏に、ある手首が浮かんだ。古い傷。何かが深く噛みついたような痕。疲れた顔。ボロボロのローブ。
——ルーピン先生。
(あの人は、満月のたびにこれを)
胸の奥が、ぎゅっと締まった。
『狼毒薬を服用すれば、変身中も理性を保つことができる。しかし調合は極めて困難で、材料も高価である。また、この薬は呪いを治すものではない。一時的に理性を保つだけの、対症療法にすぎない』
『狼人間は社会から激しく差別される。雇用はほぼ不可能であり、住居を追われ、家族からも縁を切られる。彼らの多くは孤独の中で生き、孤独の中で死ぬ』
フィアンナは、その一文を何度も読み返した。
孤独の中で生き、孤独の中で死ぬ。
(まるで、私みたい)
彼女は自分の左鎖骨に手を当てた。三日月形のあざ。祖母の形見のロケットペンダントのすぐ近く。
(私もずっと、一人だった)
スコットランド北部の孤児院。三歳で両親を失い、それから十五年間、誰にも心を開かずに生きてきた。友達もいない。家族もいない。ホグワーツに来てからも、ずっと一人。
(でも、先生は)
列車で彼女の頬に触れた温かい手。ボガートの前に立ちはだかった背中。「よく眠れたかい?」と書かれた小さなメモ。
(あの人は、私に触れてくれた)
(あの人は、私を気にかけてくれた)
初めてだった。誰かに、存在を認められたのは。
フィアンナは羊皮紙を取り出し、古文書の重要な部分を書き写した。満月の変身。狼毒薬。差別の歴史。そして、狼人間の孤独。
(もし、先生が本当に狼人間なら)
(私は、知りたい)
(先生が、何を抱えて生きてきたのかを)
彼女は写しをローブの内ポケットにしまい、静かに図書館を後にした。
翌日。
放課後の空は、厚い雲に覆われていた。風が冷たい。秋の匂いがする。
フィアンナは一人で城の外に出た。
(今日は、薬草の採集をしよう)
薬草学の課題で、月露草という薬草を集める必要があった。禁じられた森の入り口近くに自生している。危険はない。まだ森の境界の外だ。
彼女は籠を手に、城の西側へと歩いた。
禁じられた森は、昼間でも薄暗い。樹齢数百年のオークやブナが生い茂り、奥は深い闇に沈んでいる。吸魂鬼の黒い影が、森の縁をゆっくりと漂っていた。
(気持ち悪い)
フィアンナは吸魂鬼から距離を取りながら、月露草を探した。銀色に光る小さな花。夜露を含むと、ほのかに青く輝く。
しばらく歩くと、森の入り口近くの茂みに、いくつかの月露草が群生しているのを見つけた。
彼女は膝をついて、慎重に花を摘み始めた。
その時だった。
「——何をしているんだい?」
低くて、落ち着いた声。
フィアンナは顔を上げた。
ルーピン先生が立っていた。
古いローブ。くすんだ茶色の髪。琥珀色の瞳。手には、小さな革の袋。
「……月露草を採っています」
フィアンナは、うつむいて答えた。心臓が、少しだけ速くなる。
「ああ、薬草学の課題か」
ルーピン先生は、彼女の手元を見て微笑んだ。
「いい花を選んでいるね。月露草は、夜露をたっぷり含んだものが一番効能が高い。茎の根元が青白く光っているものを選ぶといい」
「……そうなんですか」
「ああ。私も少し、薬草を探しに来たんだ。授業で使うものと、それから——」
ルーピン先生は、言いかけて口を閉じた。
(それから?)
フィアンナは、先生の手に持った袋を見た。中から、見慣れない草の葉が覗いている。
(あれは、もしかして)
彼女は昨日読んだ古文書の記述を思い出した。
——狼毒薬の材料には、満月草、月桂樹の根、そして人狼の毒を中和するための月下香が必要とされる。
(月下香)
先生の袋から覗いている葉は、まさに月下香に似ていた。
(やっぱり)
フィアンナの胸が、ドキドキと脈打つ。
「先生も、薬草を探していたんですか」
「ああ。まあ、少しだけね」
ルーピン先生は、少し困ったような顔で笑った。
「……手伝ってもいいですか」
フィアンナは、自分でも驚くほど自然に、そう言っていた。
ルーピン先生は、一瞬だけ彼女を見つめた。
「……ありがとう。でも、一人で大丈夫だよ。君は自分の課題を済ませなさい」
「課題はもう終わりました」
「そうか。早いね」
「それに、二人で探した方が早いです」
フィアンナは、まっすぐに先生の目を見た。
ルーピン先生は、少しだけ黙った。
「……分かった。じゃあ、少しだけ頼もうかな」
彼は、そう言って微笑んだ。
二人は並んで、森の境界を歩き始めた。
日が傾き始めていた。西の空が、橙と紫に染まっている。風が木々を揺らし、葉擦れの音が波のように響く。
「この辺りには、月下香が生えているんだ。森の奥には入らない。境界のすぐ外だから、安全だよ」
「……月下香、ですか」
フィアンナは、わざと平静を装って聞いた。
「ああ。薬草の一種でね。夜にだけ花を開く。銀色の花弁が、月の光を集めるんだ」
「何の薬に使うんですか」
ルーピン先生の足が、ほんの少しだけ止まった。
「……いろいろだよ。鎮静作用があって、特に、ある種の……症状を和らげるのに使われる」
彼は、慎重に言葉を選んでいるようだった。
(ある種の症状)
フィアンナの心の中で、確信が固まっていく。
(狼毒薬の材料だ)
(先生は、やっぱり)
でも、彼女はそれを口に出さなかった。
「この辺りは、夜になると危険だ。吸魂鬼もいるし、森の奥から魔物が迷い出てくることもある。君も、こんな時間に一人で来てはいけないよ」
「先生こそ、一人で来てるじゃないですか」
フィアンナがそう言うと、ルーピン先生は苦笑した。
「はは。まあ、私は教師だからね」
「教師でも、危ないものは危ないです」
「……君は、本当にしっかりしているね」
ルーピン先生は、少しだけ驚いたような顔で彼女を見た。
「そうでしょうか」
「ああ。同級生の誰よりも、落ち着いている。でも、だからこそ、心配になるよ」
「……心配、ですか」
「君はいつも一人だ。授業でも、休み時間でも、食堂でも。いつも、誰からも距離を置いている。まるで、自分から世界を閉ざしているみたいだ」
フィアンナは、息が止まりそうになった。
(そんな風に、見られてたんだ)
「……別に、一人が好きなだけです」
「そうかな」
「そうです」
「……君の目は、そう言ってないよ」
ルーピン先生の声は、とても優しかった。
フィアンナは、何も言えなくなった。
風が吹いた。冷たい風。木々がざわめき、落ち葉が舞う。
「……先生は、どうしてそんなことが分かるんですか」
フィアンナは、小さな声で聞いた。
ルーピン先生は、しばらく黙って歩いた。
「……私も、ずっと一人だったからだよ」
その声は、静かだった。
「子供の頃から、ずっと。友達も、家族も、何もかも。一人で抱えて、一人で生きてきた」
「……先生が、ですか」
「ああ。だから、分かるんだ。一人でいることに慣れている人間の目を。君の目は、私が昔、鏡で見ていた目と、同じ色をしている」
フィアンナの胸の奥が、じわりと熱くなった。
(同じ、色)
「……先生は、どうして一人だったんですか」
ルーピン先生は、空を見上げた。
「……私には、人に言えない秘密がある。そのせいで、人を近づけられなかった。近づくと、傷つけてしまうから」
「傷つける?」
「……私は、人を傷つけたことがある。自分でも、止められなかった。大切な人を、危険にさらしたこともある」
ルーピン先生の声は、震えていた。
「だから、私は人と距離を置く。近づかなければ、傷つけることもない。そう思って、ずっと生きてきた」
フィアンナは、彼の横顔を見つめた。
(先生は、自分のことを、怪物だと思ってる)
(狼人間として、人を傷つけることを、何よりも恐れてる)
「……それでも、先生は私に触れました」
「え?」
「列車で。私が吸魂鬼にやられた時、先生は私の頬に触れて、名前を呼んでくれた。それに、ボガートの時も、私を守ってくれた。手紙もくれた」
フィアンナの声は、少しだけ震えていた。
「距離を置くって言いながら、先生は、私に近づいてくれた。どうしてですか」
ルーピン先生は、足を止めた。
「……それは」
「どうして、私なんかを」
「……君が、私に似ていたからだ」
ルーピン先生は、フィアンナを見た。琥珀色の瞳が、夕暮れの光を反射して、金色に輝いている。
「列車で君を見た時、ああ、この子も一人なんだと思った。誰にも頼れず、誰にも心を開けず、それでも必死に立っている。そんな君を見て、放っておけなかった」
「……それだけですか」
「それだけだよ。教師として、当たり前のことをしただけだ」
「当たり前のことを、誰も私にしてくれませんでした」
フィアンナの言葉に、ルーピン先生は黙った。
「……先生は、私が初めてです。私の名前を呼んで、私のことを気にかけて、私に触れてくれた大人は」
彼女の目が、熱くなった。
「だから、知りたいんです。先生のことを。先生が何を隠しているのか、何を恐れているのか。全部」
フィアンナは、ローブの内ポケットから、折りたたんだ羊皮紙を取り出した。
古文書の写し。
ルーピン先生の顔色が、変わった。
「……それは」
「狼人間の古文書です。昨日、禁書区画で見つけました。満月の夜の変身。狼毒薬。社会からの差別。全部、書いてありました」
フィアンナは、写しを先生に差し出した。
「先生は、狼人間なんですね」
ルーピン先生の手が、写しを受け取った。その手が、震えている。
「……なぜ、こんなことを」
彼の声は、低く、乾いていた。
「あなたのことを知りたいと思ったからです」
「なぜ、私のことを」
「……私も、同じだからです」
「同じ?」
フィアンナは、ローブの襟を少しだけずらした。
左の鎖骨の下。
三日月の形をした、小さなあざ。
月明かりが、そのあざを照らした。
「このあざが、何なのかは分かりません。でも、このあざも、私の孤独も、私をあなたに引き寄せた。先生の孤独と、私の孤独は、きっと同じ色をしているから」
ルーピン先生は、そのあざを見つめた。
「……近づくんじゃない」
彼の声は、絞り出すようだった。
「私は、君に近づいてはいけない人間だ。君を傷つける。いつか、必ず。君は、私から離れるべきだ」
「嫌です」
「フィアンナ」
「私は、先生から離れたくない」
フィアンナは、まっすぐに先生を見た。
「先生が狼人間でも、関係ない。先生が何を恐れていても、私は先生のそばにいたい。先生が私を遠ざけようとしても、私は逃げない」
「……君は、何も分かっていない」
「分かってます。満月の夜、先生は理性を失う。人を傷つけるかもしれない。それでも、私は」
「それでも、何だ」
「それでも、先生のそばにいたいんです」
ルーピン先生は、深く息を吐いた。
「……今夜は、帰りなさい。これ以上は、君のためにならない」
彼は、そう言って背を向けた。
「先生」
「帰りなさい」
ルーピン先生は、振り返らなかった。
フィアンナは、彼の背中を見つめた。
(行かないで)
(私を、一人にしないで)
でも、声は出なかった。
涙が、溢れそうになるのを、必死に堪えた。
ルーピン先生の背中が、夕闇の中に消えていく。
フィアンナは、その場に立ち尽くした。
風が、冷たかった。
その夜。
禁じられた森の入り口近くの茂み。
セラフィナ・マルフォイは、息を殺して二人の様子を見ていた。
銀色がかったプラチナブロンドの髪が、夜風に揺れる。氷のような青灰色の瞳が、暗闇の中で冷たく光っていた。
(あのグリフィンドールの女……)
彼女は、フィアンナがルーピン先生に何かを渡した瞬間を、はっきりと目撃していた。
そして、フィアンナが左鎖骨のあざを見せた瞬間。
セラフィナの目が、大きく見開かれた。
(あのあざ……)
(三日月の形……)
(もしかして、狼人間の呪いの証……?)
彼女の唇が、ゆっくりと歪んだ。
(あの女が、先生に近づくなんて)
(許せない)
(先生に近づいていいのは、わたくしだけよ)
セラフィナは、茂みの影から、じっとフィアンナを見つめていた。
嫉妬と執念が、彼女の内側で黒く渦を巻いていた。
翌朝。
スリザリン寮の談話室。
セラフィナは、数人のスリザリン生を集めていた。
「ねえ、聞いてくれる?」
彼女は、冷たく優雅な微笑みを浮かべて、囁いた。
「グリフィンドールのマクレガー。あの子、狼人間の血を引いているんですって」
「え、本当ですか?」
「ええ。わたくし、この目で見ましたの。あの子の鎖骨に、三日月のあざがあったわ。狼人間の呪いの証ですわね」
「まさか……あのマクレガーが?」
「気味が悪いわね。狼人間の血を引く者を、グリフィンドールが受け入れるなんて」
セラフィナは、扇子のように指を揃えて、口元を隠した。
「このことは、まだ内緒にしておいてね。でも、もし他の子に話したくなったら……止めはしないわ」
彼女の目が、冷たく光った。
「分かりました。みんなに伝えます」
「ええ。よろしくてよ」
セラフィナは、満足そうに微笑んだ。
(これで、あの女は終わりよ)
(全校から孤立して、二度と先生に近づけなくしてやる)
(先生は、わたくしのものだもの)
彼女の心の中で、黒い炎が燃え上がっていた。
その夜。
グリフィンドール女子寮。
フィアンナは、ベッドの中で天井を見つめていた。
「近づくんじゃない」
ルーピン先生の声が、頭の中で何度も繰り返される。
(あれは、拒絶だった)
(でも、違う)
(先生は、私を拒絶したんじゃない)
(私を傷つけることを、恐れてるんだ)
フィアンナは、左鎖骨の三日月のあざを、指でなぞった。
「……それでも、私は」
彼女は、小さく呟いた。
「あなたのそばにいたい」
窓の外を見る。
三日月が、雲の切れ間から顔を出していた。
冷たい光。でも、なぜか、温かく感じる。
(この想いは、消えない)
(初めて、分かった)
(私は、先生のことが、好きなんだ)
胸の奥が、じわりと熱くなった。
それは、失恋に似た痛みだった。
でも、同時に、確かな温かさでもあった。
(先生が私を遠ざけても)
(私は、先生のそばにいる)
(だって、やっと見つけたんだ)
(私の孤独を、分かってくれる人を)
フィアンナは、目を閉じた。
窓の外の三日月が、彼女のあざと重なる。
この想いは、消えない。
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