闇堕ちプリキュア・エクリプス —楽園狂宴—
吉祥市――現代日本に似た世界で、プリキュアたちは人々の負の感情から生まれる怪物「ノロイ」と戦っている。真白と深紅は、公でも私でも強い絆で結ばれたパートナーだった。
漆黒の長髪をなびかせ、紅蓮の炎を操る深紅。銀色の三つ編みを揺らし、癒やしの光を放つ真白。息の合った連携で、二人は喝采を浴びる英雄になるはずだった。
だが、すべては幼稚園バスを救ったあの日から変わる。ノロイへの恐怖に駆られた保護者たちは「あんたたちがいるから化け物が来るんだ!」と叫び、石を投げつけた。痣を作り血を流しながら、深夜の公園に逃げ込んだ深紅と真白。真白は声もなく涙をこぼし、深紅は怒りに震える。
そんな心の隙間に、変身アイテムから甘い声が囁きかける。
「辛いだろう。正義なんて捨てろ。俺が解放してやる」
それはアイテムに宿る闇の精霊・ノワール。契約者の絶望を味わい、闇の快楽へと導く、光の精霊の裏の顔だった。深紅は最初こそ拒むが、日々のSNSでの中傷、マスコミの魔女狩り、何より救った人々からの裏切りが彼女の精神を削っていく。そしてついに、ノワールの誘惑に膝を折った。
堕ちた彼女の身体は淫らな闇の光に包まれ、胸元
闇堕ちプリキュア・エクリプス —楽園狂宴— - 残光の少女、愉悦の玉座へ
廃工場の地下に張り詰めた沈黙が落ちていた。
旧サカキ金属精錬所——スザク工業地区の片隅に佇む、この巨大な廃墟の地下は、かつて金属を溶かしていた溶解炉の名残で薄暗い。壁には配管が這い、かすかな錆の匂いが空気に染み付いている。
瑠璃は、粗末な机に左手を置いていた。
細い手首に、淡い光のアザが脈打っている。今朝からずっとだ。痛みに近い熱が、トクトクと骨の芯を震わせる。
瑠璃の灰色の瞳は、自分の手首をじっと見つめたまま動かない。ミントグリーンのウルフカットが汗で額に張り付いている。目の下の隈は、ここ数日の眠れない夜をそのまま刻み込んだようだった。
「……止まらないッス」
瑠璃は声を絞り出した。体育会系の崩した敬語が、かすかに震えている。
机の反対側で、男が腕を組んで立っていた。
引き締まった体躯。角刈りに近い黒髪のこめかみに、白髪が少し混じっている。鷹のように鋭い茶色の目が、瑠璃の手首の光を無表情で見下ろしていた。
黒崎鉄也——元警察官であり、この抵抗グループ「残光の灯火」の戦術担当。四十五歳。左腕の肘から下には、包帯が巻かれている。その下には、歪曲ノロイにやられた古い火傷の痕があった。世界の理が歪む現象を、身をもって体験した傷だ。
彼の背中には、対物ライフルが収められた細長いケース。
数秒の沈黙。
黒崎は無言で、机の上に数枚の衛星写真を叩きつけた。
バサリ、と紙が擦れる音。
「見ろ」
瑠璃は写真に目を落とした。
ハルミ市北部の住宅街。写っているのは、マンションの外壁だ。コンクリートの表面が——脈打っている。まるで生き物の皮膚のように、波打ち、蠢いている。
「昨夜の撮影だ」
黒崎の声は軍隊式の簡潔な命令口調で、感情というものが一切削ぎ落とされている。
「歪みの拡張速度から計算して、ハルミ市全域が影響下に入るまで四十八時間以内だ。今夜動かなければ、もう機会はない」
瑠璃は写真から目を離し、黒崎の茶色い目を真っ直ぐに見上げた。
小柄な瑠璃にとって、百七十八センチの黒崎は見上げるしかない相手だった。しかし、その瞳に迷いは欠片もない。
「行くッス。今夜」
即答だった。
黒崎は一瞬だけ、瑠璃の顔を正面から見た。
猫のように少し吊り上がった目尻。意志の強い灰色の瞳。小柄な体に秘めた、爆発的な闘志と焦燥。
(——似ている)
黒崎の脳裏に、かつての部下の顔が過ぎった。守れなかった部下。若く、純粋で、正義感に溢れ——そして、死んだ。
黒崎はすぐに視線を外し、ライフルケースを肩に担いだ。
「俺が退路を作る」
無駄のない、短い言葉。
「お前は目的だけに集中しろ。それ以上は——何も考えるな」
作戦は単純に、行動は確実に。口癖通りの指示だった。
瑠璃は、左手の疼きをもう一度だけ握り締めた。
光が、指の隙間から漏れる。
* * *
夜。
キサラギシティ中央区の外縁。かつては繁華街だった通りは、今や悪夢の様相を呈していた。
ビルは生物のように脈動し、窓という窓が歪んだ口のように開閉している。道路の舗装は裂け、そこから無数の黒い触手が生え出ていた。太く、ぬらぬらと光り、空気を撫でるように蠢いている。
空は紫がかった不気味な色に染まり、甘い腐敗臭が漂っている。
「行くぞ」
黒崎が対物ライフルを構えた。
銃口が触手の根元を捉える。
引き金を引く。
ドォン——ッ!
轟音が歪んだ空気に吸い込まれる。通常なら二百メートルを貫く弾丸が、触手に命中した瞬間——軌道を曲げられた。
しかし触手は大きく怯み、一瞬だけ動きを止める。
「今ッス!」
瑠璃は小さな体を低くし、その隙間を縫って駆け抜けた。
左手首を強く握り締める。
精霊の接触が、本格的な契約に至っていない。変身は不完全だ。それでも——右のこめかみから首筋にかけての光のアザが、強く輝き始める。
白い光が瑠璃の全身を包んだ。
衣装の半分はプリキュアの白い輝きを纏った。しかし残り半分は形を保てず、揺らめく光の断片のまま。それでも——瑠璃は浄化の光を放つだけの力を、今、絞り出した。
二人がキサラギスカイタワーの直下に到達した時——
螺旋状にねじれた塔の頂上から、二つの影が見下ろしていた。
堕天の乙女。真白と深紅。
触手は二人を防衛するために動いてすらいない。ただ、ゆっくりと、二人の周囲を穏やかに揺れているだけだ。
余裕だった。
侵入を最初から認識していた証拠だった。
* * *
堕天の乙女が、玉座から降下する。
融合した歪な存在が、しかし二人の顔だけははっきりと識別できる形で、瑠璃の前に立った。
真白の銀色の髪は漆黒に染まり、先端が蠢く影のように揺らめく。血のように紅い瞳は、穏やかで、哀れむような光を宿していた。
深紅は紫に輝く瞳で瑠璃を見下ろす。右のこめかみから頬にかけての古い傷跡は、妖艶な紅い紋様に変わっている。背中の漆黒の翼が、蝶の翅を歪めたような形で広がっていた。
瑠璃は震える声を絞り出した。
「……先輩」
二人は答えない。
「これは、本当の幸せじゃないッス……! 戻ってきてほしい……先輩たちが守ってくれたから、あたしはここにいる。だから——今度はあたしが、先輩たちを取り戻すために来たんだ!」
瑠璃の叫びが、歪んだ空気に吸い込まれていく。
真白の表情が、ゆっくりと動いた。
穏やかに。柔らかく。
そして——壊れるほど哀れむように。
手が伸びる。漆黒に染まった指先が、瑠璃の頬に触れた。
冷たい。
「あなたは優しいね」
誘惑的な語尾。甘く蕩けるような声。かつての丁寧な口調は、もうどこにもない。
「でも、私たちはもうずっと前に幸せなのよ。だって、深紅がいるから」
真白の微笑みは、純粋な幸福そのものだった。
それが——何よりも恐ろしい。
瑠璃の胸の奥で、何かが凍りつく。先輩の微笑みが、恐怖でも憎悪でもなく、純粋な幸福に見えた。その事実が、頭の中を真っ白に塗り潰していく。
「……そんな……」
言葉が、出てこない。
その瞬間——深紅が、瑠璃の正面に体を割り込ませた。
真白を背後に庇うように。
同時に、深紅の紫の瞳が瑠璃を見下ろす。サディスティックな愉悦が、瞳孔の奥でチラチラと踊っていた。
深紅の右手が、瑠璃の顎をぐいと持ち上げる。
「お前のその執念」
低く、甘い囁き。
「恋情に限りなく近い、純粋なものだな。先輩への憧れが、そのまま執着に変わった。正義なんかじゃない——お前が戦う理由は、私たちへの恋情だ」
瑠璃の灰色の瞳が、大きく見開かれた。
図星だった。
深紅は瑠璃の耳元に唇を近づける。熱い吐息が、首筋を舐めた。
「お前もこっちにおいで。私たちは全部受け入れる。苦しまなくていい——真白も、私も、お前を待っているんだぞ」
誘惑。
——いや、違う。
「……ふざけるなッ!!」
瑠璃は深紅の腕を力任せに振り払った。
同時に、左手を突き出す。
「これが——あたしの答えだッ!!」
掌から、浄化の光が迸った。
至近距離。
しかし——
深紅の右手が、ゆっくりと翳される。
歪曲。
光の軌道が、直角に折れ曲がった。
瑠璃の放った浄化の光は、虚空へと消える。何かに吸い込まれるように——跡形もなく。
「無駄なのよ」
真白が、哀れむような微笑みを浮かべたまま首を振る。
「あなたの光は、まだ完全じゃない。それに——私たちの歪みは、もう光さえ曲げるの」
* * *
ドォン——ッ!
一発目の狙撃だった。
黒崎の対物ライフルから放たれた弾丸が、深紅の背中を狙う。
しかし——弾丸は、深紅の背中に触れる直前で停止した。
空中に、ピタリと。
弾丸はそのまま、重力に従って地面に落ちる。カラン、と金属音が響いた。
黒崎はすぐさま二発目を放つ。
今度は角度を変え、側面から。
弾丸は——直角に折れ曲がった。
虚空に弾かれるように、全く別の方向へ飛んでいく。
三発目を撃つ前に、黒崎は銃を下ろした。
続けることが、単なる消耗に過ぎないと——理性が判断したからだ。
「……撤退する」
短い、無機質な声。
黒崎は閃光弾を二発、連続で投げた。
爆発的な白い光が、夜を裂く。
堕天の乙女が、一瞬だけ光に怯んだ——その隙に。
黒崎は瑠璃の腕を掴み、強引に引きずり出した。
「離せッ! まだ——まだあたしは……!」
瑠璃が抵抗する。涙が、灰色の瞳から溢れていた。
その時——
黒崎の左腕の包帯が、じわりと赤く染まった。
古傷が開いたのだ。歪曲ノロイにやられた、あの火傷の痕が。
「……っ」
瑠璃の抵抗が、止まった。
黒崎の腕から滲む血を見て——言葉を失った。
「走れ」
黒崎は顔色一つ変えず、ただ前だけを見て言った。
「お前が生きて戻ることが——次の機会を作ることだ」
* * *
廃工場に戻った直後。
黒崎の手元のノートパソコンが、緊急の通信を受信した。
ハルミ市からの連絡だった。
『——北部の住宅街で、ビルの外壁が脈動を始めました。道路に亀裂が走り、避難が追いつきません。至急、応援を——』
通信は、途中でノイズに塗り潰されて途切れた。
黒崎は画面を見つめ、長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「俺はシンワシティへ行く」
瑠璃が、驚いて顔を上げる。
「政府に直接話をつける。これ以上、民間の装備と人間だけでどうにかなる段階じゃない」
「……でも」
「お前は残れ」
黒崎は背を向けた。
「次の機会を作れ。そのための力を、完全に引き出せ——お前の光は、まだ完成していない」
ライフルケースを肩に担ぎ直し、黒崎は迷いなく歩き出す。
瑠璃は彼を引き留めなかった。
作戦室に一人、取り残される。
瑠璃は左手首を強く握り締めた。未完の光が、痛みに似た熱を持って疼いている。
頭の中で——真白の微笑みが、繰り返し再生されていた。
(先輩は——幸せそうに、笑ってた)
恐怖でも憎悪でもない。純粋な幸福の微笑み。
それが、瑠璃の心を深く、深く抉った。
力で倒すのではなく、別の何かが必要だ。
瑠璃は生まれて初めて——戦い方そのものを問い直す確信を、胸の底に宿した。
* * *
愉悦の玉座に、静寂が戻る。
瑠璃と黒崎が撤退した後——真白と深紅の間に、言葉はなかった。
深紅は背後から真白を抱き寄せ、肩口に額を押しつける。
触手が二人の周囲を穏やかに揺れ、街の歪みが二人の感情に呼応してゆっくりと深まっていく。
深紅の意識が、直接真白の中に流れ込んでくる。
満足。安堵。支配欲の余熱。
真白はその全てを、全身で受け取りながら——深紅がいれば他に何もいらないという確信を、ゆっくりと反芻した。
深紅が、真白の耳元に唇を触れさせる。
「あの子には、悪いことをしたな」
珍しく穏やかな声だった。
それは後悔ではない。食べ物を残したときのような、単純な惜しさだけが滲んでいた。
真白はその言葉に、苦笑に似た感情を返す。
「いつでも迎え入れてあげられるよ」
深紅は真白の腰に腕を回し、より深く引き寄せながら——
「お前だけが、俺の全部だ」
低い声で、確かめるように告げた。
その言葉が空気に溶けた瞬間——
ハルミ市の夜空に、紫の光が滲み始める。
歪みが、新たな都市へと静かに根を伸ばし続けている証だった。
* * *
瑠璃は廃工場の地下で、ただ一人、左手首の光の疼きを感じていた。
先輩たちの微笑みが、純粋な幸福に見えた。
その事実が——瑠璃の内側で、戦い方そのものを問い直す強制的な転換点として刻まれている。
力で倒すのではない。
(別の何かが——必要なんだ)
未完の光が、瑠璃の胸底で熱く、静かに疼き続けていた。Noveliaとは?
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