異世界食堂銀杏亭のドタバタ日常――胃袋で繋ぐ絆の物語
異世界食堂銀杏亭のドタバタ日常――胃袋で繋ぐ絆の物語
元三つ星ミシュランシェフの葛木悟は、トラックに轢かれ意識を取り戻すと、見知らぬ村「水の果て」にいた。どうやってここに来たのか記憶はなく、生きる理由を求めて小さな酒場「銀杏亭」を開く。
最初は冒険者たちに料理を嘲笑されたが、葛木の手にかかれば、しなびた肉やモンスターの素材が五つ星の料理へと変わる。日々、酒場は繁盛していく。訪れるのは戦いに疲れた剣士、謎めいた若き魔術師、そして「禁断の塔」から逃げ出したという不思議な少女。
葛木は多様な客たちを料理で魅了しながら、この世界は英雄が救う場所ではなく、普通の人々が食べ、笑い、泣き、生きる世界だと気づく。
しかし、そんな平穏な日常に危機が迫る。塔から来た少女は「禁断の塔の主を導く失われた鍵」だったのだ。ギルドマスターは「少女を引き渡せ」と要求し、ついに塔の主が姿を現す。
だが葛木の武器は魔法でも剣でもない――それは食卓そのもの。人々に食事を振る舞い、絆を紡ぐことで、本当に世界を救えるのか?それとも、ただの料理人に過酷な現実は抗えないのか?
最終章、葛木は初めての生死をかけた選択を迫
異世界食堂銀杏亭のドタバタ日常――胃袋で繋ぐ絆の物語 - 裏口の少女と、五杯目のスープ
裏口の扉を押し開けた瞬間、エンデ海からの夜風が銀杏亭の厨房へ流れ込んだ。
溶素灯の淡い橙色の光が届かない暗がりの中に、何かがある。黒木悟は生ゴミを入れた桶を持ったまま、そこに立ち尽くした。目が慣れてくる。石畳の上に積み上がったボロ布の山——いや、違う。
人だ。
子供のように小柄な輪郭が、地面に折り重なるように倒れている。かすかに、本当にかすかに、胸が上下している。生きている。それだけは確認できた。
黒木は桶を脇に置いた。
(とりあえず、運ぶか)
単純な結論だった。迷いはない。倒れている人間を外に放置して寝るという選択肢は、前世から引き継いできた自分にはどうにも存在しなかった。
膝を折り、両腕を相手の背と膝の下に差し込む。持ち上げる。
——ズキィィィッ!!!
「っ……!!」
腰だ。腰が逝った。前世から持ち越した持病が、最悪のタイミングで炸裂した。三つ星のコック時代、長時間の立ち仕事で痛めた古傷が、異世界に転生してもしっかりついてきている。ありがたくない遺産、その筆頭だ。
しかし黒木は止まらなかった。止まれなかった、というほうが正確かもしれない。少女を抱えたまま、歯を食いしばって石畳を踏んだ。一歩、また一歩。腰が抗議の悲鳴を上げるたびに、背中が汗で濡れていく。
(意地でも運ぶ……!)
どうにか厨房へ引きずり込んだ時、黒木は小さく「やった」と思った。自分でも情けないとは思う。たった数メートルの搬入でこれほど達成感を覚えるとは。三つ星の頂点に立った男の現状がこれだ。
と、その瞬間——ずるり、と音がした。
カウンター席に座らせていた少女が、そのまま横へ滑って床に落ちた。
「……」
静寂。
黒木は五秒ほど固まってから、腰をかばいながら床に毛布を探した。厨房をざっと見回す。毛布がない。当然だ、ここは食堂の厨房だ。代わりにテーブルクロスを引っ張ってきて、少女に被せた。
溶素灯を近づけて顔色を確認する。銀色の長い髪が床に広がっている。顔は青白いが、呼吸は整いつつある。栄養失調と疲労、そんな感じだ。
「……娘か」
自分に言い聞かせるように呟く。いや、娘ではない。姪か。いや、姪もいない。前世の記憶を掘り返してみても、こんな銀髪の少女に心当たりはない。
「……布団管理は専門外ですんで」
誰もいない店内に向かって、黒木はそう弁解した。返事は当然なかった。溶素灯がゆらりと揺れただけだった。
---
翌朝、銀杏亭の窓から朝日が差し込む頃。
黒木が仕込みのために厨房に入ると、テーブルクロスが動いていた。少女が目を覚ましたらしい。銀色の髪がぼさぼさのまま、左右で色の違う目——左が深い蒼、右が輝く金色——がゆっくりと開いていく。
「おはようございます」
穏やかに、できるだけ普通のトーンで言った。
次の瞬間、少女が音速でテーブルの下へ潜り込んだ。
「え?」
黒木は立ち尽くした。今のは何だ。人間の反応速度ではなかった。嵐でも来たのかというスピードで、気づいた時にはテーブルの下に銀色の塊が消えていた。
黒木はもう一度、今度は少しかがんでテーブルの下に顔を向けた。少女が壁際にぴったりと張り付いて、両膝を胸に引き寄せている。全身で「近づくな」と主張している。
「……怖くないですよ」
ずりずり、と少女がさらに奥へ貼り付いた。
「食事を用意しますね」
ずりずりずり。
「……わかりました」
黒木は静かに諦め、仕込みを再開した。三度試みて三度とも失敗した。これ以上声をかけても逆効果なのは明らかだ。無理強いするつもりは毛頭ない。腹が減れば出てくるだろう、という楽観的な結論に達するのに五秒もかからなかった。
鍋に水を入れ、火をつける。昨日のうちに下処理しておいた魔猪の骨を沈める。このあたりの荒野で捕れる魔物——体長一メートル半、牙が鋭く肉は臭みが強い——の骨だが、丁寧にアクを取って長時間煮込めば、この世界では到達不可能なはずの澄んだスープができる。少なくとも黒木にはできる。
じわじわと、白濁したスープが鍋から香りを放ち始めた。
その時、テーブルの下から、ひくひく、という音がした。
(来たか)
黒木は振り向かなかった。ただ黙々と鍋を混ぜ続ける。しばらくして、そっとかがんでテーブルの方を横目で確認すると——少女の顔が五センチだけ縁から出ていた。鼻が小刻みに動いている。スープの匂いを追っている。
目が合った。
ずっ、と顔が消えた。
(なるほど)
黒木はスープをよそって、小さな木の器に入れた。それをカウンターに置くのではなく、テーブルのすぐ脇——少女が手を伸ばせば届く場所——に静かに置いた。そして完全に背を向けて、まな板に向かった。
しばらく沈黙。
やがて、そっと器を持ち上げる音。一口すする音。そして。
「……っ」
小さな声だった。驚きとも、安堵とも取れる声だった。
黒木は振り向かなかった。ただ、まな板の上の野菜を刻み続けた。
少しして、器がカウンターにそっと置かれた。空になっていた。
黒木は無言でおかわりをよそい、また同じ場所に置いた。背を向ける。
すぐに空になった。
三杯目、四杯目と同じことを繰り返した。黒木は一度も振り向かなかった。ただ「食べる子は好き」とだけ、背中越しに独り言のように言った。
五杯目が空になって、黒木がゆっくりと振り向いた。
テーブルの縁から、顔の上半分だけが出ていた。深い蒼と輝く金色のオッドアイが、じっとこちらを見ている。その目が、うるうると光っていた。
(腹が減ってる子の目だ、これは)
黒木はそう自己解釈した。胸の中でなにかがかすかにざわめいたような気もしたが、それよりも先に理性が別の方向へ動いた。
「お名前、聞いてもいいですか」
しばらく間があった。
「……イリーナ」
それだけ言って、また顔が引っ込んだ。
「イリーナさん、か」
黒木は空の器を五つ重ねながら、小さく苦笑いした。
「食費のほうが心配になってきた」
---
開店の鐘が村の北端から響いた頃、銀杏亭の扉が勢いよく開いた。
ウォーターエンド支部の常連である砂級冒険者たちが雪崩れ込んでくる。砂級というのは、大陸規模で冒険者を統括する組織「万民護盾・鋼鉄格子連盟」——略して鋼鉄格子と呼ばれる——が設けた冒険者ランクの最下層にあたる等級で、見習いを卒業したばかりの新参者から叩き上げの古株まで幅広い。そのウォーターエンド支部に依頼票を出す前に、まず銀杏亭で腹を満たしに来るのがこの面々の習慣になっている。
先頭は体格のいい男——黒木が心の中でAさんと呼んでいる常連だ。幅広い肩と日焼けした顔が特徴で、銀杏亭では誰より先にカウンターに陣取ることで知られている。その後ろに、細身でよく喋るBさん——話し始めたら誰かが止めるまで黙らない、この店の口数担当——と、無口だが飯の量だけは誰より多いCさんが続く。無愛想な見た目に反して皿が空になるたびにかすかに満足そうな顔をする、黒木お気に入りの食べっぷりの持ち主だ。
全員がカウンターに腰を下ろしかけたところで、黒木が口を開いた。
「本日から住み込みスタッフが入りました。皿洗い担当、日当銅貨三枚・食事付きです」
全員が「は?」という顔で厨房を見回した。どこにもスタッフの姿がない。
その時、テーブルの下からそっと手だけが出てきた。銀色の髪が少しだけ見える。手がぐっと握りしめられて、了承の意志を示した。
「幽霊か!?」
「銀杏亭、祟られた!!」
「やっぱ裏口に出るって聞いてたんだよ!!」
「スタッフです」
一言で終わらせた。黒木は朝の定食——魔猪の煮込みと麦パン——を三人前カウンターに並べながら、何事もなかったように仕込みを続けた。
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最初の惨事は、開店から十五分後に起きた。
イリーナがテーブルの下からようやく這い出て、厨房の隅で皿を受け取った。黒木が「洗ったものをあちらに積んでおいてください」と棚を示した。
ガシャン!!!
「……気にしないで」
一枚目だった。イリーナが両手を口に当てて固まっている。申し訳なさそうな顔が、首元の光る痣——魔力を封じているという謎の紋章——をわずかに歪ませた。
二枚目は、洗い桶に放り込む時だった。
ガシャン!!
「……まだ気にしないで」
三枚目は、棚に積もうとした瞬間だった。
ガシャン!!!!
黒木は手を止めた。静かに、本当に静かに、指を折って計算を始めた。
「……一枚いくらか、数えてきます」
Aさんが吹き出した。Bさんが「あの人計算始めたよ!」と叫んだ。Cさんが飯を口に詰め込んだまま笑って喉を詰まらせた。
次の難関は皿運びだった。イリーナが両手で皿を持って厨房から出てきた。厨房の出口に、石床に刻まれた微妙な段差がある。誰も気にしていない、ほんの一センチほどの段差だ。
イリーナの爪先がそこに引っかかった。
皿が放物線を描いた。
Aさんが反射で手を伸ばし、見事にキャッチした。
「おおっ!!」
拍手が起きた。イリーナが固まっている。Aさんが「冒険者の反射神経が活きた!!」と普段の三倍のテンションで叫んでいる。本人が一番嬉しそうだった。
注文取りは、別の意味で崩壊した。
黒木がイリーナに「Bさんの注文を聞いてきてください」と言った。イリーナがBさんのテーブルに近づいた。Bさんが「今日は魚の干物定食で」と言った。
イリーナが完全に石になった。
Bさんが首を傾けた。「……魚でいいかな、やっぱ煮込みにしようかな、いや魚で」と三回変えた。イリーナはその間ずっと石像だった。
やがて蚊の鳴くような「はい」が聞こえて、イリーナが厨房へ猛ダッシュした。
「注文は?」
「……忘れました」
「聞いてきてください」
イリーナがまたBさんの前へ向かった。
石像になった。
Bさんが今度は「やっぱ煮込みかな? あ、でも魚か?」と言い始めた。
「あの……」
「うん?」
「……どちら、ですか」
Bさんが少し考えた。「煮込みで」
「……はい」
イリーナが厨房へ走った。
「煮込みで」
「分かりました」
苦情が飛んでくるかと思っていたが、そうはならなかった。Aさんが「ゆっくりやれって言ってやれよ」と誰にともなくぼやいた。Bさんが「俺も最初の依頼を受けた日、鋼鉄格子の依頼書を握りしめて三時間門の前で固まってたから」と言い出した。
「それ依頼始まってないやん」
「始まってなかったね!!」
Cさんが「俺は最初の依頼で依頼書を家に忘れて取りに帰ったら今度は目的地を忘れた」と続けた。
「それは別の問題では!?」
「別の問題でしたね!!」
笑い声が銀杏亭に満ちた。いつの間にか常連たちはイリーナの皿運びと注文取りを採点し合い、「今日は三枚だ」「昨日より皿が飛ぶ距離が伸びた」「石像の持続時間が若干短くなった」などと言い始めていた。評価の基準が完全におかしいが、誰も苦情を言わない。黒木はそれを厨房から見ながら、静かに鍋をかき混ぜた。
(こういう場所に、したかった)
前世ではそう思ったことがなかった。三つ星の厨房に、笑い声はなかった。あったのは緊張と沈黙と、完璧への強迫だけだった。
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客が全員帰り、溶素灯の光が店内にひっそりと残った。
イリーナが食器を丁寧に——ただし今日だけで三枚を犠牲にしながら——片付けている。水桶の前に立って、皿を一枚ずつ慎重に扱っている後ろ姿は、まるで爆発物を処理しているようだった。
黒木は厨房のカウンターを布で拭きながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「前の仕事の話、少しだけしてもいいですか」
独り言のようなトーンだった。イリーナに向けているのか、自分に向けているのか、判然としない話し方だ。
「料理人をしていたんです。かなり頑固な部類の。一番上に立てた時期もあった。料理だけはうまかった。それ以外は、まあ……」
カウンターを拭く手が、少しだけゆっくりになった。
「いつから忘れていたのか分からないんですが、料理を作ることが、いつの間にか目的じゃなくなっていた。自分が一番だということを証明するための手段になっていた。食材を『素材』としか見なくなって、食べる人のことも、一緒に働く人のことも、後回しになって」
布が止まった。
「気づいた時には、厨房から人が消えていました。怒ったわけじゃない。ただ誰もいなくなっていた」
苦笑いが混じった。自分の失敗を人に語るのは、これが初めてだったかもしれない。前世では誰にも言わなかった。言える相手がいなかった、と言うほうが正確だ。
テーブルの端に、いつの間にか人影が腰を下ろしていた。
イリーナだった。両手を膝の上に置いて、静かに聞いている。皿洗いの手が止まっている。
黒木は振り向かなかった。拭き続けた。
長い沈黙があった。エンデ海の波の音だけが、遠くで聞こえている。
「……私も」
低く、控えめな声だった。今日一日で聞いた言葉の数をかき集めても五十に届かないような少女が、自分から口を開いた。
黒木は手を止めた。
振り向かずに、待った。急かさない。追いかけない。ただ待つ。前世で一番下手だったことの一つだが、今は少しだけできるようになった気がする。
また沈黙。
「……逃げてきた」
それから、さらに間があった。溶素灯が揺れた。
「……塔から」
黒木が静かに振り向いた。
「塔?」
イリーナがテーブルの下へ消えた。
(早い)
黒木は一秒だけ宙を見つめてから、片付けを再開した。
「……明日も皿洗い、お願いします」
テーブルの下から、かすかな返事があったような気がした。
食器を棚に戻しながら、黒木はふと気づいた。今日の作業でイリーナの手が荒れている。石板に打ちつけたのか、指の関節のあたりに赤い傷が走っていた。
「手、見せてもらえますか」
テーブルの下から、おそるおそる手だけが出てきた。黒木は渡り蜂——村の雑貨・薬品店で、店主のピスク・ルァーノが冒険者向けに薬草や回復薬を扱っている——で昨日のうちに買い置きしていた回復薬(小)を取り出した。銅貨二十枚のやつだ。
その手を取って、薬を指先に塗った。
その瞬間、胸の中でなにか不穏なものがざわめいた。
それから零コンマ五秒後、黒木の脳内で警報が全力で炸裂した。
(俺は三十八だぞ。三つ星時代も後輩に手を出すような人間ではなかった。今は手当てをしているだけだ。以上、閉廷)
自分の内側に向かって、声に出さずに全速力でまくし立てた。手当てを終えて、業務的に「明日からもよろしく」と厨房へ撤退した。
一人になって黒木は研究ノートを開いた。「魔猪の脂肪と影蛾の翅粉の配合比は……」と書き始めながら、自分でも何をしているのかよく分からなかった。
テーブルの下で、イリーナは手当てされた指をじっと見つめていた。
——塔から、と彼女は言った。
ウォーターエンドから北西八十キロ。「禁忌の塔」——約四百年前、礎崩れの災厄と呼ばれる大地変動とともに一夜にして出現した巨大構造物で、鋼鉄格子がその危険度を最高ランク「滅級」と指定した場所——からやってきた少女が、銀杏亭の裏口に倒れていた。
その意味を、黒木はまだ考えていなかった。研究ノートに書く文字を探しながら、溶素灯の橙色の光を眺めていた。
波の音が続いている。夜は、まだ深い。