「今日も最後まで見てくれてありがとなー! また明日の配信で会おう!」 楓は画面に向かって満面の笑みを浮かべ、手を振った。配信ソフトの「配信終了」ボタンをクリックする。カチッというマウスの音と同時に、さっきまでの明るいBGMが消えた。 セレナーデ学園の配信棟──ルミエール館の個人ブースに、急に静けさが降りる。 楓はどっと背もたれに寄りかかった。首を左右に回すと、コキコキと軽い音が鳴る。配信用の照明がまだ顔に当たっていて、少し暑い。 配信棟はいつもこの時間、どこか落ち着かない空気に包まれている。壁一面の防音パネルが外の音を遮断して、自分たちの声だけがやけに響くからだ。 「ねえ楓、さっきの配信だけど」 隣の席で同じように機材を片付けながら、美兎が口を開いた。カメラの前でのあのふんわりした委員長モードは、もう微塵もない。 楓は内心で「来た」と思った。配信が終わってから最初の一言が、いつもこれだ。 「雑談コーナーでさ、私が振った話題を二回もスルーしたでしょ。あれ、わざと?」 美兎はアーモンド形の切れ長の目を、じっと楓に向ける。深い紫色の瞳が、まるで心の奥まで見透かすみたいだ。楓はその視線が昔から少し苦手だった。 「わざとやないわ。たまたまや。いちいち細かいねん、あんたは」 しまった、関西弁が出た。楓は心の中で自分に舌打ちする。普段は標準語で通そうと頑張っているのに、美兎に絡まれるとすぐこれだ。 美兎はふっと息を吐くように笑った。でもその目は笑っていない。 「たまたま、ね。先週のコラボ配信でも同じこと言ってたけど、週に一回は『たまたま』が起きるんだ。すごい確率だね」 「うっさいわ! そんなん、しゃあないやろ!」 ぶっきらぼうに言い返して、楓は配信機材のケーブルを乱暴にまとめはじめた。ドタドタと足音を立ててブースの外に出る。廊下には誰もいない。窓から差し込む夕日が、リノリウムの床をオレンジ色に染めていた。 歩きながら、胸の奥がモヤモヤする。 (なんで、美兎の前だとこんなんなんやろ) 本当は違う。配信が楽しかったって、相変わらず息ぴったりだったねって、普通に笑い合いたいのに。 でも美兎がちょっとでも小言を言い出すと、反射的にキツい言葉を返してしまう。まるで自分を守るための鎧みたいに。 配信で見せる「仲良しでろかえコンビ」の顔と、カメラの外でのこのギクシャクした関係。そのギャップが、一年前からずっと楓の中でくすぶっていた。 にじさんじに所属するバーチャルライバーとして、ふたりはもう何十回もコラボしてきた。 配信のコメント欄にはいつも「でろかえ最高!」「二人の掛け合い大好き!」って言葉が並ぶ。事務所のマネージャー、橘奏太も「お前ら配信では完璧なんだよな」と苦笑いするほどだ。 なのに。 どうしてなんだろう。 頭を冷やしたくて、楓は足を本館の屋上へと向けた。鍵が壊れているのを一年生の時に見つけてから、ここは誰にも邪魔されない数少ない場所だった。 鉄製の重いドアを押し開ける。 屋上の風が、楓のセミロングの黒髪をふわりと持ち上げた。肩にかかるくらいの長さの髪が、頬をくすぐる。夕暮れ時の空気はひんやりしていて、火照った頭にちょうどいい。 楓はフェンスに寄りかかり、遠くに見えるミオリ川を眺めた。 川沿いの桜並木が、夕日に照らされて金色に輝いている。もうすぐ四月も終わる。散り始めた花びらが、風に舞って川面に落ちていた。遊歩道には犬の散歩をする人が何人か見える。 この光景を見ると、少しだけ心が落ち着く。 (ああもう、なんであんな言い方したんやろ) 美兎の真面目な顔を思い出す。真っ直ぐな黒髪を三つ編みのお下げにして、いつも背筋をピンと伸ばして。あいつは本当に、委員長キャラにふさわしいくらいなんでも完璧にこなすくせに。 配信の準備だって、いつも楓より先に終わらせている。配信中のトークだって、事前に何時間もネタを仕込んでいるんだろう。 (でも、ただの同級生やなくて……) 楓は左の耳たぶを触る。恥ずかしいときに出る無意識の癖だ。 (本当は、もっと仲良くしたいのに) 美兎と普通に話せるようになりたい。配信の後も喧嘩しないで、今日のここが面白かったね、次はあれをやろう、って笑い合いたい。 でも、どうしても素直になれない。 「何考えてるんだか」 楓は自分に呆れて、ため息をついた。 その時だった。 ギィ、と屋上のドアが開く音。 楓は振り返った。フェンスに立てかけていたペットボトルのお茶が、カタンと音を立てる。 「……こんな所にいたんだ」 いつもの三つ編みを揺らしながら、美兎がゆっくりと近づいてくる。背筋を伸ばした歩き方は、まるでステージの上を歩いているみたいに綺麗だ。身長は158センチで、162センチの楓より少し小さい。 でも今は、そんなことどうでもよかった。 表情が、違う。 さっきまでの、配信のダメ出しをする時の冷たい目じゃない。かといって、カメラの前で見せる優等生スマイルでもない。 何か、決意のようなものが宿っている。 「楓」 美兎は楓のすぐ目の前で立ち止まった。五十センチも離れていない。こんなに近くで美兎の顔を見るのは、いつ以来だろう。 アーモンド形の深い紫色の瞳が、楓を真っ直ぐに見つめている。前髪は眉上でぱっつんに切り揃えられていて、その下から覗く目が、いつもよりずっと大きく見えた。 「さっきは、きついこと言ってごめん」 「……は?」 美兎が謝るなんて、めったにない。楓は拍子抜けして、ポカンと口を開けた。 風がまた吹いて、美兎の三つ編みが肩の上で揺れる。彼女はひとつ、息を吸った。 それから、まるで大切な言葉をひとつひとつ確かめるみたいに、ゆっくりと口を開いた。 「私ね、楓のこと、ライバルとしてだけじゃなくて……恋愛対象として見てるの」 ぶっ──!! 楓は口に含んでいたお茶を、思い切り吹き出した。 細かい水滴が夕日にキラキラと輝きながら、二人の間の空間に霧のように広がる。美兎は少しも動じず、ただ真っ直ぐに楓を見ていた。 「は、はあ!? な、なに言うてんねん! 冗談やろ!?」 思わず関西弁が飛び出す。いや、もうそんなの気にしてられない。心臓がバクバクと鳴っている。胸が痛いくらいに。 (え、なに、どういうこと? なんで美兎が、私のこと?) 頭の中がぐちゃぐちゃだ。楓はペットボトルを取り落としそうになって、慌てて握り直した。手が震えている。 「冗談じゃないわ」 美兎の声は、いつもの澄ました調子だった。でも、その奥に確かな熱がある。声が、ほんの少しだけ震えていた。 「だから、私の本気を証明するために……今日から一週間、私とデート勝負をしてもらうわ」 「で、デート勝負!? なにそれ! 意味わからん!」 楓は頭を抱えた。話が大きくなりすぎている。さっきまで配信のダメ出しで喧嘩してたのに、なんでこんな展開になってるんだ。 (ていうか、告白って、もっとこう……あるやん? 普通さ) ドキドキするとか、キャーキャーするとか、そういうのじゃない。あまりにも突然すぎて、ただただ混乱するだけだ。 美兎はそんな楓の様子を、じっと観察するように見ていた。それから、ふっと口元をほころばせる。 「月曜から日曜まで、私とデートするの。それで日曜の夜に、どっちが楓を幸せにできるか決めてもらうから」 「待て待て待て! どっちってなんや! 他におるんか!?」 「それは……すぐにわかるわよ」 そう言うと美兎は、くるりと背を向けた。制服のプリーツスカートがふわりと広がる。 「詳細は明日、学校で伝えるから」 「おい、まだ話は終わってへんぞ!」 楓の声を背中で聞きながら、美兎は屋上のドアへと歩いていく。振り返らない。最後に一度だけ、肩越しに楓を見た。 その横顔が、夕日に照らされて、なんだか泣きそうに見えたのは、気のせいだろうか。 鉄のドアが、バタンと閉まった。 屋上に、また静けさが戻る。 楓はただ立ち尽くしていた。手に持ったペットボトルが、カタカタと震えている。 (告白……された? 美兎に? 私が?) ゆっくりとフェンスに寄りかかる。冷たい鉄の感触が、熱くなった体に気持ちいい。 空はもう、茜色から紫色に変わり始めていた。一番星がひとつ、光っている。ミオリ川の桜並木はシルエットになって、遊歩道の街灯がぽつりぽつりと灯りだす。 風が髪を揺らした。毛先の少し外ハネしたクセ毛が、頬をチクチクとくすぐる。 楓は自分の頬に手を当てた。 (めっちゃ熱い) きっと今、耳まで真っ赤になっている。美兎に「楓ってすぐ耳赤くなるよね」って言われたのを思い出した。 「なんでこうなるねん……」 小さく呟いた声は、風にさらわれて消えていった。 頭の中ではまだ、さっきの美兎の言葉がぐるぐると回っている。 『恋愛対象として見てるの』 『一週間、私とデート勝負』 配信ではあんなに完璧に「仲良しコンビ」を演じられるのに。カメラが切れれば喧嘩ばかりなのに。なんで今になって、こんな。 (あいつ、本気なんやろか) 美兎の真剣な目を思い出す。あの深い紫色の瞳が、まるで楓の心の奥まで射抜くみたいに見つめていた。 (ていうか私、返事もしてへん) 呆然としているうちに、美兎は行ってしまった。明日、学校で詳細を伝えるって言ってたけど。 明日。 楓はその言葉を、頭の中で繰り返した。 明日から、何かが変わる。いや、もう変わってしまったのかもしれない。さっきの告白で、楓と美兎の関係は、もう元には戻らないところまで来ている。 空を見上げる。 紫色の空が、さらに濃い藍色に変わっていくところだった。星がふたつ、みっつと増えていく。 夕暮れの空気が、少しずつ夜の匂いに変わる。どこか遠くで、カラスが鳴いた。 楓は持っていたペットボトルのお茶を、一気に飲み干した。もうぬるくなっている。 「……しゃあない、腹くくるか」 呟いてから、はたと気づく。 (腹くくるって、なにをやねん) 自分でもよくわからない。でも、逃げるのは性に合わない。楓はもともと、曲がったことが大嫌いな性格だ。 美兎が本気なら、自分もちゃんと向き合わなきゃいけない。 そう、思った。 ──だけど。 それがいったい、どんな嵐を呼ぶことになるのか。 この時の楓には、まだ想像もついていなかった。 屋上のドアを押し開けて、楓は階段を下りはじめる。薄暗い階段には、一足ごとにコツコツと足音が響いた。 明日からの一週間が、どんなものになるのか。 楓の心臓は、まだドキドキと騒いでいる。 それは不安なのか、期待なのか。 自分でもよくわからないけど、ただひとつ確かなことがある。 (もう、ただの相棒には戻れへん) 楓の知らないところで、物語の幕は、切って落とされていた。