屋上のドアが閉まる重い音が、まだ耳の奥に残っている。 樋口楓はフェンスに寄りかかったまま、動けなかった。手に持ったペットボトルが、いつの間にか空になっている。最後の一滴が、乾いた唇をわずかに濡らしただけだった。 (恋愛対象として見てる) 美兎の声が、頭の中で何度も再生される。深い紫色の瞳が、真っ直ぐに楓を貫いたあの瞬間。背筋がぞわりとしたのは、夕暮れの風のせいじゃない。 「なんで今更……あのタイミングで言うねん……」 小さく呟いた声が、風に溶けて消える。一年前からずっと、配信の後は喧嘩ばかり。カメラが止まればお互いに嫌味を言い合って、顔も見たくないと思ったことだって一度や二度じゃない。 なのに。 美兎は楓のことを、そんな風に見ていたのか。 楓は無意識に左の耳たぶに触れていた。指先が触れたそこは、ひどく熱を持っている。きっと今、耳だけじゃなくて顔全体が真っ赤だ。幸い誰も見ていないのが救いだった。 (明日、詳細を伝えるって……) 明日。 その言葉だけで、胸の奥がざわつく。学校で会ったら、どんな顔をすればいいんだ。いつも通り喧嘩を売ればいいのか。それとも—— 「あかんあかん! なに真面目に考えてんねん!」 楓は頭を振って、無理やり思考を断ち切った。フェンスから背を離す。制服のスカートについた埃を、適当に手で払った。 空はもう、ほとんど藍色に沈んでいる。ミオリ川の桜並木にぽつりぽつりと灯りがともり、遊歩道を歩く人影がシルエットになって見えた。 明日が来なければいいのに。 でも、来ない明日はない。 火曜日。 セレナーデ学園の朝は、いつも通り騒がしい。正門をくぐると、昇降口で靴を履き替える生徒たちの笑い声が響いている。春の陽気に誘われて、みんな少し浮ついているみたいだった。 楓はその中を、いつもよりずっと速足で歩いた。廊下を曲がり、階段を駆け上がる。すれ違う生徒たちの挨拶に、生返事だけを返した。 (美兎に会う前に、心の準備がいる) 自分でも何をそんなに焦っているのかわからない。ただ、胸の奥のモヤモヤがおさまらなくて、とにかく教室に早く着きたかった。 2年B組の教室に飛び込むと、まだ半分も席が埋まっていない。窓際後方の自分の席に鞄を置いて、ふう、と息を吐く。 その時だった。 「おはよう、楓」 隣の席から声がした。 心臓が跳ねた。 振り返ると、美兎がいつものようにつつましく座っている。背筋を伸ばして、教科書を机の上に揃えて。三つ編みのお下げが、肩の上でちょこんと揺れた。 でも、その手元には教科書だけじゃない。 青い風呂敷に包まれた、明らかに弁当箱らしき包みが、机の端に置いてあった。三段重ねの、かなり大きいものだ。 「な、なんやそれ……」 思わず出た声が、裏返る。 「デート勝負、第一回の準備よ」 美兎はにっこりと微笑んだ。その顔は昨日の屋上で見せた、あの真剣な表情とも違う。かといって、配信で見せる優等生スマイルでもない。 まるで、獲物を狙う猫の目だ。 「ちょ、ちょっと待て! まだ昨日の話、ちゃんと返事してへんやろ!」 「返事? 昨日言ったはずよ。君に拒否権はないって」 「そんなん横暴や!」 「横暴でも何でもいいわ。だって私、楓に私を選んでもらうって決めたんだから」 美兎の声は落ち着いているのに、言葉の内容がまったく落ち着いていない。楓は頭を抱えた。 (なんでこうなるねん) 周りの席の生徒たちが、ちらちらとこちらを見ている。でも美兎はまったく気にする様子がない。いつも通り、超真面目な顔で、楓だけを見つめている。 昼休み。 購買部「ポルカ」の前は、いつも通り長蛇の列だった。名物のルーセントメロンパンを求めて、生徒たちがわいわいと並んでいる。 楓は美兎に手を引かれるようにして、その隣のベンチに座らされていた。 「さあ、開けるわよ」 美兎は大事そうに青い風呂敷を解いた。中から現れたのは、三段重ねの漆塗りの弁当箱。蓋を開けると—— 「うわ……」 思わず声が漏れた。 一段目には、色とりどりのおかずが宝石みたいに並んでいる。卵焼き、唐揚げ、ほうれん草のごま和え、エビフライ、プチトマト。どれもが完璧な形で、まるで料理雑誌の写真から飛び出してきたみたいだ。 二段目は、ふりかけがかかったご飯。三段目はフルーツの盛り合わせ。 「どう? 自信作よ」 美兎の声は弾んでいる。いつもの澄ました顔のままだけど、その切れ長の瞳がほんの少し大きくなっているように見えた。照れているのかもしれない。 「朝の5時から作ったの。卵焼きは昨日の夜に練習して、一番上手くいったやつを選んだわ」 朝5時。 その言葉が、楓の胸に刺さった。 (この女、どんだけ真面目なんや) 美兎は何でも完璧にこなす。配信の準備だって、テスト対策だって、委員長の仕事だって。 料理だけは、別なのに。 楓はそのことを、よく知っていた。 「……食う前に聞くけど、味見はしたんか?」 「味見はしてないわ。だって、楓に最初に食べてもらいたいから」 真顔で言う。 楓は観念して、箸を取った。まずは卵焼き。見た目は完璧。焦げ目ひとつない黄金色で、ふっくらと厚みがある。 口に入れた。 瞬間—— 「あまっ!?」 悲鳴みたいな声が出た。 頭の中で何かが炸裂する。これは卵焼きじゃない。砂糖の塊だ。たぶん、砂糖と塩を間違えたんだ。大さじで何杯も砂糖を入れたに違いない。 「な、なんやこれ! 甘いを通り越してるやんけ!」 関西弁が止まらない。 美兎の顔色が、さっと変わった。 「お、おかしいわね。レシピ通りの分量で……」 「次、次!」 楓はご飯を口に運んだ。ふりかけがかかっている。 ——酸っぱい。 「すっぱ!? なにこれ、酢でも入れたんか!?」 いや、酢のレベルじゃない。もっと刺激臭がある。まるで、洗剤のような。 (まさかな) 楓は首を振って、その考えを追い出した。 「ご飯に、お酢を少しかけると美味しいって聞いたから……」 美兎の声が、だんだん小さくなる。三つ編みを指でいじりながら、うつむいてしまった。 最後にハンバーグ。 箸で割ると、中は真っ黒だった。表面だけきれいに焼けて、中は炭化している。これを作るのに、どれだけ強火で焼いたんだろう。 一口かじる。 苦い。そして、こげた匂いが鼻をつく。 「……これ、人に食わせるもんちゃうやろ」 ついに本音が出た。 美兎が、息を呑んだ。 深い紫色の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。唇がわずかに震えているのに、楓は気づいた。 (やばい) 言い過ぎた。 でも言葉はもう戻らない。美兎はうつむいたまま、ぎゅっと風呂敷を握りしめていた。 その華奢な指が、白くなるほど強く。 楓の胸が、きゅっと痛んだ。 (ああもう、なんで私はこんな時に) 素直になれない自分が、嫌になる。美兎が朝の5時から頑張って作ったのに。味は地獄でも、この見た目を作るのに何時間かかったか、考えればわかるのに。 楓はもう一度、箸を取った。 卵焼きを、もう一切れ口に放り込む。 甘い。やっぱり甘い。でも—— 「……せやけどな」 ごくりと飲み込んで、楓は言った。 「最後まで食うたるわ。作りよった奴を残すんは、趣味やないねん」 美兎が、はっと顔を上げた。 涙がたまっているのに、溢れていない。でも、今にも決壊しそうなその目が、楓をじっと見つめる。 「……楓」 「べ、別にあんたのためやないで! 食べ物を粗末にしたらあかんてだけや! そうや、これは単なるエコ精神!」 楓は必死に言い訳をしながら、ご飯をかきこむ。酸っぱい。ハンバーグをかじる。苦い。卵焼きをもう一個。甘い。 涙が出そうになった。味のせいなのか、何なのか、自分でもわからない。 美兎はそんな楓を、ただ黙って見ていた。 その紫色の瞳から、つう、と一筋の涙がこぼれた。 「……ありがとう、楓」 声は震えているのに、その口元は笑っていた。 「やっぱり私のデータは間違ってなかった。楓は、私の手料理を受け入れてくれるんだね」 「ち、違うわ! 受け入れてへんし! こんなもん二度と作るな!」 「二度と作るな、つまりこれが最初で最後の特別な一品になるのね。それもまた、データとして有意義だわ」 「なんやそのポジティブ変換は!」 楓が叫んだ瞬間—— 「あらまあ」 ベンチのすぐ横から、声がした。 振り返ると、購買部「ポルカ」の店番、徳永幸子が立っている。58歳、白髪交じりの髪をひとつにまとめたおばちゃんだ。 徳永は、にこにこと二人を交互に見比べた。 「でろかえの二人って、付き合ってるの? 愛妻弁当? 今どきの若い子は進んでるねえ」 声が、でかい。 購買部の前に並んでいた生徒たちが、一斉に振り返った。ざわざわと、さざ波のような声が広がる。 「え、マジで?」 「でろかえって、あの配信のでろかえ?」 「付き合ってるって本当だったんだ」 楓は顔が真っ赤になるのを感じた。 「ち、違う違う違う!! 違うし!!」 立ち上がって全力で否定する。 でも徳永は、なおもにこにこしている。 「まあまあ、照れなくてもいいのよ。若いっていいわねえ。おばちゃん、応援するからね」 そう言って、徳永は購買部の中に戻っていった。 でも、噂はもう止まらない。 「でろかえコンビ、やっぱ付き合ってたんだ」 「校内公認ってやつか」 「今日の配信で話すのかな」 囁くような声が、波のように楓の耳に届く。 楓はもう、反論する気力をなくしてベンチにへたりこんだ。俯いたまま、残りのハンバーグを口に詰める。炭の味がした。 (なんでこうなるねん) 頭の中が真っ白だ。 その隣で、美兎はいつもの澄ました顔に戻っている。でもその口元が、わずかに緩んでいるのを、楓は見逃さなかった。 「計画通りね」 「なんやと!? まさか、わざとか!?」 「わざとじゃないわ。でも、噂というのは時に、事実よりも強力な縛りになるのよ」 美兎は立ち上がった。三つ編みのお下げが、さらりと揺れる。 「これで楓は、もう逃げられない。だって、学校中の人が私たちのことを見ているんだから」 夕暮れの屋上で言われた言葉が、脳裏によみがえる。 『君は私の告白から逃げられない』 あれは、脅しでも冗談でもなかったんだ。 美兎は本気で、楓を逃がさないつもりなんだ。 「……あんた、ほんまに怖いわ」 「好きな人に選んでもらうためなら、何でもするわ。委員長だって、暴走特急だって」 そう言って美兎は、ふわりと微笑んだ。 それは今まで見た中で、一番きれいな笑顔だった。 でも、楓の胃は、その笑顔を見ても治まらない。 卵焼きとご飯とハンバーグが、お腹の中で暴れている。 (明日から、どうなるんや) 月曜の告白。火曜の弁当。 まだ三日目も来ていないのに、もうくたくただ。 噂はもう、校内中に広がっているだろう。配信にも影響が出るかもしれない。 美兎の暴走は、これからもっと加速していくに違いない。 「……胃薬、買わなあかんな」 小さく呟いた声は、昼休みの喧騒にかき消されていった。 空を見上げる。 春の陽射しが、やけに眩しかった。