裏で嗤う
教室の片隅で、今日も鳴海快斗の机が蹴られる。隠される教科書、捨てられる上履き、そして決まり文句の「空気読めよ、陰キャ」。東京の名門私立・明鏡学園で、快斗は誰にも見えていない。誰も気にしない。誰も助けない。ただのいじめられっ子だ。
だが、誰も知らない真実がある。放課後、誰もいない教室で、快斗のスマホは鳴り止まない。「天音さん、過去の中間テストの過去問ありますか?」「あの先生の裏情報、いくらですか?」「彼氏の浮気調査、できますか?」
そう、快斗こそが“天音”——学園の裏市場を牛耳る伝説の匿名情報屋なのだ。半年間、彼は静かにいじめっ子たちの秘密を集めてきた。リーダー格・黒川竜也のカンニング証拠。No.2・田辺健太の万引き。他の連中の裏アカや、あやしいパパ活の噂。すべての証拠は、いつでも撃てる状態にある。
唯一の味方は、快斗の正体を知るクールでドライな一学年下の後輩、真島理久。「ただのビジネスです」と言い張る理久だが、なぜか稼いだ金はいつも「調査費用」として快斗の懐に戻ってくる。
舞台は整った。学園文化祭。メインステージ、全校生徒の面前で。華麗なる逆転劇が幕を開ける——だが、物語はそこ
裏で嗤う - 仕込みの夜——八つ当たりと忍び込んだ体育館
月曜日の朝。
二年C組の教室は、文化祭の準備で浮かれていた。いつもの朝の喧騒とは少し違う。机の上には色画用紙やハサミが散らばっている。廊下からは、他クラスの生徒たちが段ボールや刷毛を運ぶ音が聞こえていた。
鳴海快斗は、窓際最後列の自分の席に向かって歩いた。黒縁のメガネの奥の深い茶色の瞳が、一瞬だけ教室中央に集まる人だかりを捉える。
「おい、聞いてくれよ。今年の鏡花祭、うちのクラスは絶対に一番になるからな」
黒川竜也が、いつものように机の上に腰掛けて笑っていた。茶髪のセンターパート。つり目の濃い茶色の目。左耳のピアスが、朝の光を受けてチカチカと光る。周りの数人が、彼の言葉に愛想笑いを浮かべている。
黒川が急に、教卓の上にあった企画書を持ち上げた。
「去年はお化け屋敷だったからな。今年はメイド喫茶だ。メイド喫茶に決まってる」
「えー、またぁ?」
「うるせぇ。文句があるなら、お前らが企画出してみろよ。できるのか?ああ?できないだろ。だから、俺がリーダーをやってやってんだよ」
黒川が、クラスメイトを睨みつける。数人が肩をすくめた。反論する者はいない。
視線が一つ、また一つと、黒川の顔から床へ落ちた。
快斗は、視線を外して自分の席に座った。ロッカーの方では、田辺健太が、黒川の隣で小さくなっていた。茶髪のクセ毛を何度も手で押さえつけ、落ち着きなく視線を泳がせている。顔色は今日も青白い。快斗と目が合いそうになると、すぐに目を逸らした。
黒川が、突然、快斗の方を向いた。
「そうだ。鳴海、お前はゴミ拾い係な」
教室の空気が、わずかに固まった。
全員の視線が、快斗に集まる。
彼は、ゆっくりと黒川の方を見た。何も言わない。声を出すのが面倒だった。ここでどんな反応をしても、黒川は笑うだけだ。
「聞こえなかったのか?ゴミ拾い係だ。文化祭の準備中、出るゴミは全部お前が片付けろ。机運びも、床掃除も、何でもやれ。それがお前にできる、唯一の仕事だろうが」
黒川の口元が、意地の悪い笑みに歪む。
教室の後ろの方で、くすくすと笑い声がした。数人は気まずそうに目を逸らした。誰も反論しない。
田辺健太が、黒川の隣で縮こまっていた。その手が、ズボンの裾をぎゅっと握っている。
快斗は小さく頷いた。
「……わかった」
声は、相変わらず小さく、ぼそぼそとしていた。
(これでいい)
(お前が威張れば威張るほど——本番が、楽しみになる)
心の中で、冷たい声が囁いた。
ホームルームが終わると、文化祭準備の一日が始まった。
二年C組の教室は、大騒ぎだった。黒川が、メイド喫茶の看板に使う木材を運ばせ、壁に飾る布を切らせ、机を全て後ろに寄せさせた。
「おい、田辺。お前、何やってんだ。もっと丁寧に運べよ。角が欠けただろうが!」
「す、すまん。すぐに、代わりのを……」
「いいから、さっさと行け!使えねぇな、お前は!」
田辺は、青白い顔のまま、教室を飛び出していった。
「おーい、鳴海。そこのゴミ、片付けろよ。何ぼさっとしてんだ」
快斗は、何も言わずに立ち上がった。
放課後まで、誰も手を貸さなかった。ゴミ分別、机移動、床のモップがけ。昼休みも、黒川グループはカフェテリア「ミラージュ」の窓際の特等席で騒いでいて、教室には快斗一人だった。
夕方、ようやく教室が静かになった頃。
快斗は、一人で大量の段ボールをまとめていた。窓の外は、もう暗い。秋の夜風が、開いた窓から吹き込んでくる。
「手伝うよ」
突然、後ろから声がした。
振り返ると、教室の入り口に真島理久が立っていた。白髪のロングストレートを後ろで一つにまとめ、切れ長の灰青色の目が、冷めた印象を与える。顔立ちは整っているのに、感情が読みにくい。
「……勝手にしろ」
快斗は、短く言った。
理久は、何も答えずに教室の中に入ってきた。黙って、散らかった画用紙を拾い始める。段ボールに破片を入れ、まとめる手際は、意外にも丁寧だった。
しばらく、二人は無言で作業した。
あの夜の、暗い道の出来事——土下座を強要された、あの屈辱。理久は知っている。だが、彼は何も聞かなかった。
ただ、横に立って、黙って手を動かしている。
(……変なやつだ)
快斗は、心の中で呟いた。
作業が一段落したのは、夜の七時を回った頃だった。
生徒はもう、ほとんど校舎にいない。部活動の声も聞こえない。校舎全体が、海の底みたいに静かだった。
二人は、誰にも見つからないように、校舎の裏を通って体育館へ向かった。
体育館の入口は施錠されている。理久が、制服のポケットから鍵柬を取り出した。
「今のうちに、全部終わらせよう」
カチャリ、と小さい音。鉄の扉が、わずかに開いた。
中に入ると、むっとした空気と、冷えた闇が迫ってきた。
体育館は、夜になると、白い部分がぼんやり浮かび上がって見える。天井の骨組み。観客席の段差。ステージの上に、大きなスクリーンが静かにぶら下がっていた。
「こっち」
理久の声は、低く、ピンと張っていた。
快斗は、後ろを警戒しながら、ステージ袖のAV機材室へ進んだ。
機材室の中は、思っていたより狭い。壁一面に、色とりどりのコードが雪崩のように垂れ下がっている。中段には、プロジェクターの制御盤と、音響ミキサー。奥には、暗がりに沈む古いモニターが、ほこりをかぶって置かれていた。
「プロジェクターのメイン入力系統は、ここ。ここに、君のサブスマホをワイヤレスで接続できるように、レシーバーを噛ませる」
理久は、手際よく配線図を広げた。
「僕が仕込んだのは、パススルー式のレシーバーだよ。普段は通常の入力が通る。でも、君のサブスマホから特定の信号を受けた瞬間だけ、入力を乗っ取れる」
「……この前テストしたやつより、精度はどうだ」
「段違いだよ。切り替えのラグは、ほぼゼロに近い」
快斗は、無言で頷いた。
理久が、カバンから小型の機材を取り出す。快斗が、その間に、サブスマホから送信テスト用のダミー映像を立ち上げた。
スピーカーから、ごく小さく、電子音が走る。
スイッチが切り替わる音。
「映像入力、来てるよ。僕のスマホからも見られるようにしておいた」
理久は、ステージ方向を指さした。
150インチの巨大スクリーンに、ぼんやりと青いテスト画面が映し出されている。
映像は、くっきりと光っていた。
「成功だな」
「ああ。当日、君のサブスマホから遠隔操作で、あの大画面に黒川の映像を流せる。音も、会場の全スピーカーから大音量で出せるよ」
快斗は、拳を握った。
手のひらに、じわりと汗が滲む。
これで、準備は——完了した。
作業が終わり、機材室の鍵を閉めた。
二人は、静かな体育館のステージ脇に座り込んでいた。薄暗い非常口の明かりが、緑色に光っている。
理久が、突然、背を向けたまま言った。
「君は、本当にこれで終わりだと思ってるのか」
静かな、でも、はっきりとした声。
快斗は、答えなかった。
「……」
手元の機材の配線を、握りしめる。固いコードの表面が、指の腹に食い込んだ。痛くはなかった。痛みを感じる余裕が、なかった。
「復讐は、君の全部じゃないはずだ」
「……知るか」
やっとのことで、声を絞り出した。
「そうか」
理久は、それ以上、何も言わなかった。
沈黙が、闇の中で膨らんだ。
火曜日。
文化祭前日ということもあって、体育館は装飾で溢れていた。
二年C組はメイド喫茶のため、大きなリボンの飾りをステージの端に取り付けることになっていた。ピンクと白の布で作った、大きなリボン。何人かが、その仕上げをしていた。
「なんだよ、これ!ダセェな!マジでダサい!」
突然、黒川が叫んだ。
彼は、ステージの横に飾られたピンクのリボンを、思い切り蹴り上げた。
ドンッ、と、壁にぶつかる音。
リボンが、床に落ちた。骨組みの一部が、パキンと折れている。
「お前のせいで、ダサくなっただろうが!」
黒川は、近くで片付けをしていた快斗を、指差した。
クラスメイトたちが、息を潜める。
「お前が、ちゃんと滅多にやらないからだ。あいつが、ちゃんと掃除しないから、リボンの角度が決まらないんだよ。……全部、お前のせいだ」
黒川は、壊れたリボンの骨組みを、快斗の足元に蹴り飛ばした。
プラスチックの破片が、鳴海快斗のスニーカーに当たる。
「さっさと片付けろ。見てるだけで腹が立つ」
黒川は、それだけ言うと、仲間を連れて歩き去った。
田辺が、少し後ろを、小走りで追いかける。その背中は、丸まっていた。
快斗は、無表情で、膝をついた。
床に散らばった破片を、一つ一つ拾い上げる。リボンの布は、縫い目がほどけて、無残な形になっていた。
拾う。拾う。拾う。
(この怒りも)
(あと、三日)
(耐えろ)
右手が、小さく震えた。
拾った破片を、ゴミ袋に入れる。指先が、上手く動かない。
怒りが、胃の底から、じわじわとせり上がってくる。喉の奥が、焼けるように熱い。
それでも、顔は動かなかった。
——練習したからだ。この六年間、ずっと。
廊下の奥で、誰かが、こちらを見ている。
真島理久だった。
彼は、唇を結んで、快斗の方をじっと見ていた。
何か言いたげに、目が揺れている。
だが、声には出さなかった。
片付けを終えると、快斗は、第二資料室へ向かった。
放課後の校舎は、静かだった。
本館4階、突き当たりの古いドア。合鍵を差し込み、回す。
ギィ、と、扉が開いた。
古い本と、埃の匂い。
誰もいない、安心できる場所。
書架の裏から、サブスマホと小型ノートPCを取り出す。机代わりの書架の上に置き、電源を入れた。
暗い室内に、液晶の光が広がる。
ピントの合わない古い小さな照明が、チカチカと瞬いていた。
サブスマホの中で、黒川グループの証拠ファイルを開く。
カンニングの動画。
万引きの映像。
裏アカウントの誹謗中傷ログ。
パパ活疑惑のスクリーンショット。
一つ一つ、指でなぞるように確認していく。
映す順番を、頭の中で何度もなぞる。
まず、黒川のカンニング。
次に、田辺の万引き。
そして、他のメンバーの本性。
「……これで、全部終わらせられる」
小さく呟いた。
声が、わずかに震えていた。
(これで、終われる)
(あと、二日)
画面を閉じる。
理久の問いが、頭の中で繰り返す。
——本当に、これで終わりだと思ってるのか。
快斗は、押し黙ったまま、天井を見上げた。
ピントの合わない照明が、ついて、消えて、また、ついた。
メガネの奥の瞳が、薄闇の中で、静かに燃えていた。
文化祭の開会式まで、あと、たった四十八時間だった。Noveliaとは?
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