裏で嗤う
教室の片隅で、今日も鳴海快斗の机が蹴られる。隠される教科書、捨てられる上履き、そして決まり文句の「空気読めよ、陰キャ」。東京の名門私立・明鏡学園で、快斗は誰にも見えていない。誰も気にしない。誰も助けない。ただのいじめられっ子だ。
だが、誰も知らない真実がある。放課後、誰もいない教室で、快斗のスマホは鳴り止まない。「天音さん、過去の中間テストの過去問ありますか?」「あの先生の裏情報、いくらですか?」「彼氏の浮気調査、できますか?」
そう、快斗こそが“天音”——学園の裏市場を牛耳る伝説の匿名情報屋なのだ。半年間、彼は静かにいじめっ子たちの秘密を集めてきた。リーダー格・黒川竜也のカンニング証拠。No.2・田辺健太の万引き。他の連中の裏アカや、あやしいパパ活の噂。すべての証拠は、いつでも撃てる状態にある。
唯一の味方は、快斗の正体を知るクールでドライな一学年下の後輩、真島理久。「ただのビジネスです」と言い張る理久だが、なぜか稼いだ金はいつも「調査費用」として快斗の懐に戻ってくる。
舞台は整った。学園文化祭。メインステージ、全校生徒の面前で。華麗なる逆転劇が幕を開ける——だが、物語はそこ
裏で嗤う - 文化祭当日——巨大スクリーンが暴く秘密
体育館の空気は、むわりと熱を帯びていた。十月の半ばだというのに、集まった七百人を超える生徒たちの体温が、冷えた床と高い天井の間で渦を巻いている。開会式の開始を待つざわめきが、波のように満ちては引いていく。
鳴海快斗は、観客席の最後列、壁際の一番端に座っていた。黒縁のメガネの奥の深い茶色の瞳が、ステージの上を静かに捉えている。無造作に伸びた黒髪の下で、表情は動かない。ただ、制服のポケットの中で、サブスマホを握る右手のひらに、じわりと汗が滲んでいた。
(始まる)
心の中で、短く呟く。
体育館の前方、ステージの上には、百五十インチの巨大なスクリーンが白く光っていた。その横では、生徒会の役員たちが開会式の準備に追われている。放送機材のコードが床を這い、照明がステージを照らし出す。
「みなさん、お待たせしました! これより、明鏡学園・鏡花祭の開会式を始めます!」
司会を務める女子生徒の声が、スピーカーを通して体育館中に響き渡った。拍手が湧き起こる。保護者席では、カメラを構えた大人たちが一斉にステージへレンズを向けていた。
快斗は、ゆっくりと息を吐いた。
肺の中の空気を、全部押し出すように。
(あと、数分だ)
開会式は、予定通りに進んでいく。校長の挨拶。来賓の祝辞。生徒会長の言葉。どれも、快斗の耳には遠い雑音のようにしか聞こえなかった。彼の意識は、ポケットの中のサブスマホの重さだけに集中している。
「続きまして、二年C組代表・黒川竜也くんによる、クラス紹介のスピーチです」
その名前が呼ばれた瞬間、快斗の指先が、サブスマホの画面をなぞった。
ステージの袖から、一人の男子生徒が歩み出る。
黒川竜也。
茶髪のセンターパートを丁寧に整え、つり目の濃い茶色の目を細めて笑っている。長身の体を包む制服は、今日のために新調したのか、折り目がくっきりとしていた。左耳のピアスが、ステージの照明を反射して、チカリと光る。
会場から、ひときわ大きな拍手が起こった。
黒川は、堂々とした足取りでマイクの前に立つ。一瞬、観客席を見渡し、それから、優等生の仮面を完璧に貼り付けた笑顔を浮かべた。
「えー、二年C組代表の黒川竜也です」
マイクを通した声が、体育館に響き渡る。低く、よく通る声。練習を重ねてきたのが分かる、自信に満ちた口調だった。
「僕たち二年C組は、今年の鏡花祭に向けて、クラス全員で力を合わせて準備をしてきました。仲間と協力し、助け合い、時にはぶつかり合いながらも、最高の文化祭を作り上げることができたと思っています」
保護者席から、感心したような頷きが返ってくる。教師たちも、穏やかな笑みを浮かべて黒川のスピーチに耳を傾けていた。
快斗は、その光景を、冷めた目で見つめていた。
(仲間と協力。助け合い。最高の文化祭)
(よく言う)
黒川の言葉が、快斗の胸の奥で、じくじくと古傷を刺激する。あの日、床に落とされた教科書。ロッカーに詰め込まれたゴミ。椅子に仕込まれた画鋲。消えた体操着。ケヤキ坂の暗がりで強要された土下座。
すべて、こいつの「仲間と協力」の裏側だ。
「僕は、このクラスのリーダーとして、みんなをまとめることの難しさを学びました。でも、それ以上に、仲間を信じることの大切さを知ることができました」
黒川の声は、ますます熱を帯びていく。観客は、彼の言葉に引き込まれていた。
(信じることの大切さ、か)
快斗は、ポケットの中でサブスマホを握り直した。汗で滑る。指先が、わずかに震えている。
(お前が、誰かを信じたことなんて、一度でもあったか)
黒川のスピーチは、クライマックスに差し掛かっていた。
「僕たちのクラスの出し物は、メイド喫茶です! 今日と明日の二日間、二年C組の教室で、皆さんのお越しを心からお待ちしています!」
大きな拍手が、体育館を包んだ。黒川は、満足そうに笑い、観客席に向かって深々と一礼する。
その瞬間を、快斗は待っていた。
スピーチが終わり、黒川が顔を上げる。マイクから一歩離れる。会場の拍手が、まだ鳴りやまない。
快斗の親指が、サブスマホの画面を、静かに、しかし確実に、押し込んだ。
——ザッ。
ノイズ。
一瞬、スクリーンが暗転した。
会場の拍手が、困惑のざわめきに変わる。何かトラブルか、と誰かが呟いた。
次の瞬間。
百五十インチの巨大スクリーンに、映像が映し出された。
それは、教室の監視カメラの映像だった。
日付は、一学期の中間テストの日。映っているのは、テスト用紙に向かう黒川竜也の姿。彼は、左手首に装着したスマートウォッチを、何度も何度も、不自然な仕草でチラチラと見ている。
画面が、ズームされる。
スマートウォッチの小さな画面に、びっしりと文字が並んでいるのが、はっきりと映し出された。解答だ。テストの解答が、カンニング用に、スマートウォッチに表示されている。
大音量のスピーカーから、黒川自身の声が流れ始めた。
「やべえ、これ、全部入ってるわ」
テスト中の教室に、彼の小さな呟きが、鮮明に録音されていた。
「あとで消さねえと。先生に見つかったら終わる」
会場が、凍りついた。
一拍の沈黙。
それから、悲鳴とも笑い声ともつかない、どよめきが、体育館中に渦巻いた。
「ち、ちがう! これは、何かの間違いだ!」
黒川が、マイクを握りしめたまま叫んだ。その顔から、血の気が引いていく。さっきまでの優等生の笑顔は、跡形もなく消え去っていた。
「これは編集された映像だ! 誰かが、俺を陥れようとしてるんだ!」
しかし、スクリーンの映像は、容赦なく続いていく。監視カメラの角度。教室の全景。黒川がスマートウォッチを見るたびに、彼の表情が、緊張と安堵の間を行き来する様子が、はっきりと映し出されていた。
(編集?)
快斗は、心の中で冷たく嗤った。
(あれは、本物だ。お前が、自分の手で、何度も何度も、テスト中にカンニングしてきた、動かぬ証拠だ)
教頭が、慌ててステージ袖に走る。担任の宮園敏夫も、青い顔で機材室のドアを叩いていた。
「誰か! 映像を止めろ! 早く機材室を開けろ!」
しかし、機材室のドアは、内側から鍵がかかっていた。
その中で、真島理久が、冷めた灰青色の目で、制御盤を見つめている。白髪のロングストレートを後ろで一つにまとめた、感情の読めない横顔。彼の指が、ミキサーのフェーダーを、静かに押し上げた。
スピーカーから、黒川の声が、さらに大音量で流れ出す。
「これで、今回も満点だろ。ざまあみろ」
会場のどよめきが、一層大きくなった。
黒川は、マイクを落とし、頭をかきむしった。
「違う! 違うんだ! あれは、あの日だけだ! たまたま、スマホの通知を見てただけで!」
誰も、彼の言葉を信じていなかった。
生徒たちの視線が、一斉に黒川へ突き刺さる。好奇と軽蔑と、そして、ほんの少しの恐怖。今まで彼に怯えていた者たちの目が、少しずつ、色を変えていく。
快斗は、最後列で、その光景を無表情で見つめていた。
(まだだ)
(まだ、始まったばかりだ)
スクリーンの映像が、切り替わった。
今度は、コンビニの防犯カメラの映像だった。
日付は、先月の土曜日。映っているのは、田辺健太。茶髪のクセ毛の、小柄な少年。彼は、コンビニの雑誌コーナーで、周囲を何度も確認してから、小さな菓子の袋を、制服のポケットに滑り込ませた。
田辺の顔が、画面いっぱいにズームされる。
その顔は、恐怖でひどく歪んでいた。
「た、田辺だ……」
「あいつ、万引きしてたのかよ」
観客席のあちこちから、囁き声が上がる。田辺は、自分の席で、顔を青ざめさせていた。細い目が、見開かれている。唇が、わなわなと震え、体が小刻みに揺れ始める。
「ち、違う……俺は、その、あれは……」
田辺の声は、誰にも届かなかった。周囲の生徒たちが、彼から距離を取るように、身を引いていく。その動きが、田辺の心を、さらに深く傷つけていく。
(これが、お前の罪だ)
快斗は、田辺の震える背中を見つめた。
(お前は、黒川に従って、俺を傷つけることを選んだ。その代償だ)
スクリーンは、さらに次の映像を映し出した。
今度は、SNSのスクリーンショットだった。黒川グループの取り巻き二人の、裏アカウントの投稿。クラスメイトへの誹謗中傷が、ずらりと並んでいる。
「あいつ、マジでウザい。消えればいいのに」
「今日も、アイツのせいで気分最悪。死ねばいいのに」
観客席から、悲鳴にも似た声が上がった。
そして、最後に映し出されたのは、パパ活疑惑のSNSスクリーンショットだった。取り巻きの一人が、年上の男性と食事をしている写真。その横に、金額らしき数字が書かれたメッセージのやり取り。
「あれ、マジで?」
「最低だな……」
会場全体が、黒川グループへの非難の空気に包まれていく。
快斗は、唇を噛みしめた。
(ざまあみろ)
(お前たちが、俺にしてきたことを、今、そのまま返してやる)
怒りが、胃の底からせり上がってくる。喉の奥が、焼けるように熱い。それでも、顔は動かない。感情を、表情に出すな。快斗は、自分に言い聞かせた。
——その時だった。
「誰だ! 誰が、こんなことを!」
黒川が、ステージの上で、頭をかきむしりながら叫んだ。
「てめえか! 鳴海! てめえだろ!」
黒川の指が、客席の最後列を、真っ直ぐに指差した。
会場中の視線が、一瞬で快斗に集中する。
七百人以上の目が、快斗の顔を、見つめている。
快斗は、動かなかった。
冷たい視線で、黒川を見つめ返す。
(ああ、そうだよ)
(俺だ)
心の中で、静かに答える。
黒川が、ステージから飛び降りようとした。しかし、駆けつけた教師たちが、彼の体を押さえつける。
「離せ! あいつだ! あいつがやったんだ!」
「落ち着け、黒川! 今は、状況を確認するのが先だ!」
担任の宮園が、必死に黒川をなだめる。しかし、黒川は暴れ続けていた。
その時、AV機材室のドアが、内側から開いた。
真島理久が、静かに姿を現す。
「すみません、機材の調子が悪くて、しばらく操作できませんでした」
理久は、教頭と担任に向かって、丁寧に頭を下げた。その顔は、相変わらず感情が読めない。
「お前! お前がやったのか!」
黒川が、理久に掴みかかろうとした。しかし、教師たちが、再び彼を押さえつける。
「何のことですか? 僕は、機材室に閉じ込められていましたよ」
理久の声は、落ち着いていた。
教頭が、理久に指示を出す。
「とにかく、映像を止めろ! それから、この状況を、すぐに保護者に説明しなければ」
理久は、小さく頷き、機材室の中へ戻っていった。
スクリーンの映像が、消える。
しかし、混乱は、収まらなかった。
「うちの子の学校で、カンニングがまかり通っていたのか!」
「万引きまで! どういう指導をしてるんだ!」
保護者たちが、教師たちに詰め寄る。その声は、怒りに震えていた。
「お、落ち着いてください! 今、詳しいことを調査していますので!」
教頭の声は、明らかに動揺していた。
生徒たちは、スマートフォンを掲げて、スクリーンに映った映像を、次々に撮影していた。その映像は、瞬く間に、SNSを通じて拡散されていく。
「やばい、これ、もう拡散されてる」
「あっという間に、全校に広がってる」
快斗は、混乱に乗じるように、観客席を離れた。
壁際に移動し、体育館の騒ぎを、静かに眺める。
(終わった)
(これで、終わったんだ)
怒りは、晴れていた。
半年かけて集めた情報。緻密に準備した計画。すべてが、完璧に、思い通りに、実行された。
黒川の優等生の仮面は、剥がれた。田辺の保身は、崩れ去った。取り巻きたちの本性も、暴かれた。
(これで、俺の復讐は、完成した)
そう思った。
しかし、その瞬間、快斗の頭の中に、別の考えが、冷たく滑り込んでくる。
(……本当に、これで終わるのか?)
黒川が、最後列の快斗を、名指しで叫んだ。
会場中の視線が、快斗に突き刺さった。
(見られた)
(俺の顔が、黒川に、そして、会場中の全員に)
快斗の胸の奥で、小さな、しかし確かな不安が、芽を出し始める。
(黒川は、絶対に、俺を許さない)
(学校も、この騒動の原因を、調査するだろう)
(理久が、機材室にいたことが、バレたら)
(俺の正体が、遍だということが、バレたら)
快斗は、壁にもたれかかり、天井を見上げた。
体育館の騒ぎは、まだ続いている。保護者の怒号。生徒のざわめき。教師の悲鳴。すべてが、遠くの出来事のように感じられた。
(俺は、これから、どうなる)
快斗の右手は、まだ、わずかに震えていた。Noveliaとは?
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