裏で嗤う
教室の片隅で、今日も鳴海快斗の机が蹴られる。隠される教科書、捨てられる上履き、そして決まり文句の「空気読めよ、陰キャ」。東京の名門私立・明鏡学園で、快斗は誰にも見えていない。誰も気にしない。誰も助けない。ただのいじめられっ子だ。
だが、誰も知らない真実がある。放課後、誰もいない教室で、快斗のスマホは鳴り止まない。「天音さん、過去の中間テストの過去問ありますか?」「あの先生の裏情報、いくらですか?」「彼氏の浮気調査、できますか?」
そう、快斗こそが“天音”——学園の裏市場を牛耳る伝説の匿名情報屋なのだ。半年間、彼は静かにいじめっ子たちの秘密を集めてきた。リーダー格・黒川竜也のカンニング証拠。No.2・田辺健太の万引き。他の連中の裏アカや、あやしいパパ活の噂。すべての証拠は、いつでも撃てる状態にある。
唯一の味方は、快斗の正体を知るクールでドライな一学年下の後輩、真島理久。「ただのビジネスです」と言い張る理久だが、なぜか稼いだ金はいつも「調査費用」として快斗の懐に戻ってくる。
舞台は整った。学園文化祭。メインステージ、全校生徒の面前で。華麗なる逆転劇が幕を開ける——だが、物語はそこ
裏で嗤う - 暴露は止まらない。次々と流されるメンバーたちの秘密。観客の視線が一変。激昂した黒川が快斗に掴みかかるが、教師が駆けつける。形勢逆転。
体育館の空気は、まだ騒然としていた。
百五十インチの巨大スクリーンには、今まさに田辺健太の万引き映像が映し出されている。コンビニの防犯カメラが捉えた、あの日の彼。茶髪のクセ毛を何度も手で押さえながら、周囲をきょろきょろと見回す姿。震える手で菓子の袋を制服のポケットに押し込む瞬間。
「た、田辺だ……あれ、マジで田辺だろ」
「うわ、あいつ万引きしてたのかよ。普段おとなしいくせに」
観客席のあちこちから、ひそひそ声が湧き上がる。その声は、波のように広がって、やがて田辺健太のいる席へと届いた。
田辺は、自分の席で体を小さくしていた。細い目は見開かれ、青白い顔がさらに血の気を失っていく。唇がわなわなと震え、両手が膝の上で小刻みに揺れている。
「ち、違う……俺は、あれは……」
彼の声は、誰にも届かなかった。周囲の生徒たちが、田辺から距離を取るように身を引いていく。隣の席の生徒が、露骨に体を反対側へ向けた。
(これが、お前の罪だ)
鳴海快斗は、最後列の壁際から田辺の震える背中を見つめていた。黒縁のメガネの奥の深い茶色の瞳は、冷たく凍りついている。
(お前は、黒川に従って俺を傷つけることを選んだ。その代償を、今ここで払っているんだ)
スクリーンの映像が、さらに切り替わった。
今度は、SNSのスクリーンショットだった。黒川グループの取り巻き二人の裏アカウント。そこに並ぶ、クラスメイトへの誹謗中傷の数々。
「あいつマジでウザい。消えればいいのに」
「今日も、アイツのせいで気分最悪。死ねばいいのに」
会場から、悲鳴にも似た声が上がった。保護者席では、何人もの大人が眉をひそめてスクリーンを睨みつけている。
「何よ、これ……あの子たち、普段あんなこと書いてるの?」
「うちの子のクラスの子じゃない。信じられない」
そして、最後に映し出されたのは、パパ活疑惑のSNSスクリーンショットだった。取り巻きの一人が、年上の男性と食事をしている写真。その横に、金額らしき数字が書かれたメッセージのやり取り。
「あれ、マジで? あいつパパ活してんの?」
「最低だな……あいつら、いつも偉そうにしてたのに」
観客席の空気が、一変した。
それまで黒川グループに向けられていた好奇の視線が、今度は明確な軽蔑と嫌悪に変わっていく。取り巻き二人は、自分たちの席で顔を真っ青にしていた。一人は頭を抱え、もう一人は涙目で唇を噛んでいる。
「やめて……もうやめて……」
「ちがう、これは、なりすましで……」
しかし、誰も彼らの言葉を信じなかった。スクリーンに映し出された証拠は、あまりにも鮮明で、あまりにも具体的だったから。
(ざまあみろ)
快斗は、心の中で冷たく呟いた。
(お前たちが俺にしてきたことを、今そのまま返してやる)
怒りが、胃の底からせり上がってくる。喉の奥が、焼けるように熱い。それでも顔は動かない。感情を、表情に出すな。快斗は自分に言い聞かせた。
——その時だった。
「誰だ! 誰が、こんなことを!」
黒川が、ステージの上で頭をかきむしりながら叫んだ。マイクはすでに床に落ちている。彼の声は、生の叫びとして体育館中に響き渡った。
「てめえか! 鳴海! てめえだろ!」
黒川の指が、客席の最後列を真っ直ぐに指差した。
会場中の視線が、一瞬で快斗に集中する。
七百人以上の目が、快斗の顔を見つめている。
快斗は動かなかった。
冷たい視線で、黒川を見つめ返す。
(ああ、そうだよ)
(俺だ)
心の中で、静かに答える。
黒川が、壇上から飛び降りた。
ドッ、と重い着地音。観客席の生徒たちが悲鳴を上げて道を開ける。黒川は、その隙間を縫うようにして、客席の通路を駆け出した。
「どけ! どけよ、お前ら!」
彼の目は、完全に血走っていた。茶髪のセンターパートは乱れ、左耳のピアスが激しく揺れている。優等生の仮面は、完全に剥がれ落ちていた。
「黒川、待て! 落ち着くんだ!」
担任の宮園が、黒川を追いかける。しかし、黒川の足は止まらない。
「うるせぇ! これは俺の問題だ!」
黒川が、快斗の前に立った。
身長185センチの大きな体が、快斗を見下ろす。つり目の濃い茶色の目が、怒りと憎悪で燃えていた。
「てめえだな、鳴海! てめえがやったんだな!」
黒川の右手が、快斗の胸ぐらを掴み上げた。
ぐっと持ち上げられる。制服の襟が首に食い込む。快斗の体が、わずかに浮いた。
「答えろ! てめえがやったんだろ! このザコが!」
黒川の顔が、すぐ目の前にあった。怒りで歪んだ表情。歯ぎしりの音。荒い息。
(ああ、そうだよ)
(俺がやったんだ)
(お前が俺にしてきたことを、全部そのまま返してやったんだ)
快斗は、心の中で静かに答える。しかし、口は開かない。
「何とか言えよ! この陰キャが! いつもいつも、暗い顔してよ!」
黒川の拳が、振り上げられた。
——しかし、その拳が振り下ろされることはなかった。
「黒川! やめなさい!」
教頭の怒鳴り声が、体育館に響き渡る。
駆けつけた教師たちが、黒川の両腕を掴んで引き剥がした。宮園も、黒川の肩を押さえつける。
「離せ! 離せよ! あいつがやったんだ! あいつが!」
黒川は、暴れ続けた。教師たちの手を振り払おうと、体を大きく捻る。
「俺の父さんが誰だと思ってるんだ! お前ら、俺に逆らったらどうなるか分かってるのか!」
「黒川、今はとにかく落ち着くんだ。話は後で聞く」
宮園の声は、必死だった。しかし、黒川は聞く耳を持たない。
「うるせぇ! お前ら全員、クビにしてやる! 父さんに言って、全員クビにしてやるからな!」
黒川の叫び声は、体育館中に響き渡った。
その声を聞いて、快斗は静かに息を吐いた。
乱れた襟を、ゆっくりと直す。黒縁のメガネの位置を、指先で押し上げた。
(みっともないな、黒川)
(お前の本当の姿は、そんなに醜いのか)
快斗は、無表情で黒川の様子を見下ろしていた。
教師たちが、暴れる黒川を会場から連れ出そうとしている。黒川は、最後まで抵抗していた。
「覚えてろよ! 鳴海! てめえだけは絶対に許さないからな!」
その声が、体育館の外へと消えていく。
——スクリーンが、再び切り替わった。
今度は、これまでとは全く違う種類の映像だった。
映し出されたのは、黒川征一郎——黒川竜也の父親の名前が書かれた、領収書の数々。明鏡学園PTA会計からの出金記録。通帳のコピー。そして、それらが「裏金横領」の証拠であることを示す、詳細な資料の数々。
「な、なんだこれ……?」
「PTA会計から……横領……? 黒川さんが……?」
保護者席から、怒号が上がった。
「どういうことだ! これは!」
「うちのPTA会費が、横領されてたってことか!?」
教頭が、慌ててスクリーンを指差した。
「だ、誰か! 機材を止めろ! 早く!」
しかし、すでに会場の全員が、スクリーンに映し出された証拠を目撃していた。生徒たちはスマートフォンを掲げて、映像を撮影している。
「やばい、これもうSNSで拡散されてる」
「黒川の親父さん、PTAの金を横領してたのかよ。最悪だな」
快斗は、スクリーンに映し出された映像を、無表情で見つめていた。
(これは……俺の計画にはなかった)
(理久……お前がやったのか)
心の中で、静かに呟く。
(俺に無断で、こんなものを)
怒りが、わずかに湧き上がる。しかし、それ以上に、ある種の感嘆があった。
(……よくやった)
(これで、黒川親子は完全に詰んだ)
快斗は、体育館の混乱を静かに眺めていた。
保護者たちの怒号。生徒たちのざわめき。教師たちの悲鳴。すべてが、遠くの出来事のように感じられた。
(終わった)
(これで、本当に終わったんだ)
——騒ぎが、ようやく一段落した頃。
快斗は、体育館の外に出ていた。
校舎の裏手。人気のない、静かな場所。十月の風が、生ぬるく吹き抜けていく。
「……鳴海」
後ろから、小さな声がした。
振り返ると、田辺健太が立っていた。茶髪のクセ毛は汗で額に張り付き、青白い顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。
「ごめん……俺、本当は、やめたかったんだ……」
田辺の声は、震えていた。
「お前へのいじめ、本当はやめたかった。でも、黒川が怖くて……逆らえなくて……」
田辺は、涙を堪えながら、必死に言葉を紡いだ。
「だから、ごめん……本当に、ごめん……」
快斗は、田辺の顔を無表情で見つめた。
(今更、だろ)
(お前は、黒川に従って、俺を傷つけることを選んだ)
(その事実は、謝罪で消えるものじゃない)
「……今更だろ」
快斗の声は、冷たく、低かった。
田辺の体が、びくりと震える。
「で、でも……俺は……」
「お前は、黒川に従って、俺を傷つけることを選んだ。それが、お前の答えだろ」
快斗は、田辺の目を真っ直ぐに見た。
「謝罪なんて、いらない。お前の言葉に、何の価値もない」
田辺の目から、涙がこぼれ落ちた。
「……ごめん……ごめんなさい……」
田辺は、その場に立ち尽くしたまま、何度も謝罪の言葉を繰り返した。
快斗は、田辺に背を向けた。
(お前は、これから自分の罪と向き合えばいい)
(俺は、もうお前に関わらない)
快斗は、振り返らずに歩き出した。
田辺の泣き声が、後ろから聞こえていた。
——その夜。
第二資料室。
本館4階の突き当たりにある、古い部屋。快斗は、一人でそこにいた。
部屋の中は、暗かった。窓から差し込む月明かりだけが、古い書架と百科事典の背表紙をぼんやりと照らしている。
快斗は、書架の裏からサブスマホを取り出した。
画面を開く。
そこには、今日の騒動の様子が、SNSの投稿として無数に流れていた。
「明鏡学園、文化祭で大炎上」
「黒川くん、カンニングしてたんだ。しかも親がPTAの金を横領って」
「ざまあみろ。あいつら、いつも威張ってたから」
快斗は、その投稿の数々を、無表情でスクロールしていく。
(成功した)
(俺の復讐は、完璧に成功した)
(黒川は、もう終わりだ。田辺も、取り巻きも、全員)
(俺は、俺を傷つけた者たちを、全員叩き潰した)
(これで、俺の復讐は完成したんだ)
サブスマホの画面を、静かに閉じる。
部屋の中が、再び暗闇に包まれた。
——ふっ。
快斗の口元が、わずかに歪んだ。
笑っている。
静かに、一人で笑っている。
しかし、その笑みは、達成感に満ちたものではなかった。
失われた青春と、失った自分自身への哀しみが混ざり合った、複雑な表情。
それは、泣き顔にも見えた。
「……これで、よかったんだよな」
誰に言うともなく、小さく呟いた。
声は、暗い部屋の中に、静かに消えていった。
月明かりだけが、快斗の歪んだ笑みを、冷たく照らしていた。Noveliaとは?
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