極星寮・今日も平和(?)です!
日本一の料理学園・遠月茶寮料理学園。その片隅に建つ、築六十八年のおんぼろ寮「極星寮」――通称・変人の巣。
発酵食品を爆発させる先輩、風呂上がりは常にふんどし一丁の一色先輩、そして笑顔の奥に鬼を飼う寮母・文緒さん。そんな個性豊かな住人たちに囲まれて、創真の寮生活は今日も賑やかだ。
ある日突然言い渡された「部屋の掃除チェック」。最低評価には地獄の読書レポート十冊が待っている――はずが、創真の部屋は不用品と謎の食材に埋め尽くされた、もはや災害現場。
「この食材、まだ使えるんじゃね?」
掃除そっちのけで始まる新作料理への挑戦。北欧産の激臭缶詰、刃こぼれ包丁、謎の乾物たち。果たして創真は、一週間でこの惨状を切り抜け、文緒さんの逆鱗から逃げ切れるのか――?
騒がしくて、ちょっと美味しそうな寮生活コメディ、開幕!
極星寮・今日も平和(?)です! - 逆襲の片付け大作戦!団結の夜明け
部屋の空気は、鉛みたいに重かった。
床にはまだ、壊れた調理器具が散らばっている。開けられた缶詰の跡。十傑の秘密が隠された封筒。
そして——さっきまで笑っていたアリスと、怒りで震える絵里奈。涙をぬぐったばかりの恵。
「……なあ」
創真が、ぽつりと言った。
「なあ、みんな」
誰も返事をしない。
創真はゆっくりと立ち上がった。ずっと頭を抱えて座り込んでいたから、足が小刻みに震えて、自分の体重を支えるだけで精一杯だ。両手を頭の後ろに組んで、首をぐるりと回す。首の骨がポキポキと鳴る。
(なにやってんだ、俺は)
アリスが全部の元凶だって分かった。缶詰も、ピン止めも、資料も。全部、このいたずら好きの実験だった。
でも——。
「喧嘩してる場合かよ」
創真は顔を上げた。琥珀色の目が、部屋の全員を順番に見る。汚れた床、散らかった食材、壁に飛び散ったトマトソースの跡。
「なに言って——」
「片付けるぞ」
創真の声は、不思議と怒っていなかった。しゃがみ込んで、足元に落ちていたしゃもじを拾い上げる。
「誰が何をしたとか、今はいい。それより——この部屋、明日の朝にはチェックなんだぜ。文緒さんの般若の顔、見たくないだろ」
創真はしゃもじを軽く放り投げて、シンクの上のかごに着地させた。
「……創真くん」
一色の顔から、さっきまでの刃物みたいに鋭い表情が消えた。
「ああ、そうだね。僕としたことが、少し取り乱してしまった。そうだ——まずは掃除だ」
一色は腰に手を当てて、いつものふんどし姿でゆっくりと頬を持ち上げた。
「よし。それじゃあ、僕が仕切るよ。文緒さん直伝の掃除術を見せてあげよう。まずは——物の分類からだ」
「ちょっと! まだ話は——」
「絵里奈」
一色が絵里奈の目をじっと見つめた。その視線は柔らかく、それでいてどこか有無を言わせない静けさを持っていた。
「君の『神の舌』は、世界で一番すごい味覚だ。でも、それは味だけじゃない。匂いも、鮮度も、見分けられるはずだ」
絵里奈は一瞬息を呑んだ。指先が自分の制服の襟に触れて、ぎゅっと握りしめる。
「この部屋の食材。腐ってるものと、まだ使えるもの。全部、嗅ぎ分けてほしい。できるね?」
「……できますわ」
絵里奈は一色から目を逸らし、小さくうなずいた。かすれたような声だった。
「神の舌をこんなことに使うなんて、屈辱以外の何物でもない。でも——いまは。いまだけは、言う通りにしてあげますわ」
絵里奈は段ボールの前に膝をついた。スカートが床の埃で汚れるのも構わずに。未開封の瓶のふたを開ける。鼻を近づけて、細く息を吸い込む。すぐにふたを閉めて腕を伸ばした。
「これは腐ってる」
ポイ、とゴミ袋に放り込む。瓶が他のゴミにぶつかって、コツン、と鈍い音を立てた。
次にもう一瓶。ふたを開けて、また匂いをかぐ。今度は少しだけ長く。
「……これは。まだ使える。というより、ずいぶんいい発酵をしてるわね」
絵里奈が手に取ったのは、乾物の入った小袋。鼻を近づけて、紅紫色の瞳が真剣に細められた。睫毛がほんの少し震えている。
「へえ、それ食えるのか」
「食器棚に置いておきなさい。後で使い道を考えますわ」
絵里奈はほんの一瞬だけ口元を緩ませて、創真の胸に袋を押し付けた。創真の手に、彼女の指先が触れる。
(あ)
と、創真が気づく。
(こいつ、ちょっと楽しくなってるな)
「アリス」
「はーい! 私の番ですね!」
アリスがぴょんぴょん跳ねながら前に出た。白い髪がふわりと跳ね、青紫色の目がキラキラしてる。反省の色は、やっぱり欠片もなかった。
「君の分子ガストロノミーの知識なら、この壊れた調理器具を材質ごとに分類できるはずだ」
「もちろん! 鉄、アルミ、銅、セラミック——ぜーんぶ見分けられるのね!」
「修理できるものと、廃棄するもの。頼めるね?」
「任せて! 最高に面白いゲームだと思ってやるのね!」
アリスは壊れた泡立て器の山の前にべたんと座り込んだ。針金がぐにゃりと曲がったそれをつまみ上げて、目の高さまで持ち上げる。指で弾いて、響く金属音に耳を澄ませた。
「これは材質がまだ生きてるから直せるのね。こっちはダメ。内部の結晶構造が壊れてるから、もう二度と使えない」
「……役に立つでしょ?」
アリスがくるりと振り返って、絵里奈の背中に笑いかけた。
「……ええ。その点だけは、感謝しますわ」
絵里奈は瓶の匂いをかぎ続けたまま、うつむいて、小さくそう言った。背中越しの小さな声。
アリスの青紫色の目が、一瞬だけ大きく見開かれた。つまんでいた針金が、指からぽとりと落ちる。それから、照れくさそうに、ぷいと前を向いた。拾い上げた針金を握りしめる指に、ほんの少し力がこもっている。
(絵里奈お姉さまが、感謝した……!)
アリスは胸ポケットから小さな手帳を取り出すと、いつもより少し速く、ページの端に走り書きを始めていた。ペン先が紙をこする音が、部屋の隅で一人だけ早くなる。
「さて——タクミ、イサミ」
廊下の方から、二人組が顔をのぞかせる。
「呼んだか?」
銀色の髪をかき上げながら、タクミ・アルディーニが部屋に入ってきた。その後ろから、弟のイサミがふんふんとうなずきながらついてくる。二人とも遠月の制服姿で、袖を肩までたくし上げていた。
「大きなゴミを廊下まで運び出してほしい。イタリア男のパワー、見せてくれよ」
「任せておけ! フィレンツェの市場で培った腕力、掃除でも役に立つぜ!」
「兄さん、張り切りすぎないでよ。腰を痛めるから」
イサミがタクミの背中に手を当てて優しく注意すると、タクミは振り返らずに高く笑った。
「俺を誰だと思ってる! このくらいどうってことないさ。さあ行くぞイサミ、あのダンボールの山を一気に運ぶ!」
二人は目を合わせることもなく、同時にしゃがみ込んだ。タクミが右端、イサミが左端を持ち上げる。膝のバネだけで一気に立ち上がり、ダンボールの山がふわりと宙に浮いた。足並みがぴったり揃って廊下に向かう。
(さすが兄弟だな)
創真は心の中でつぶやいて、自分の右手をグーにして握りしめた。
「……あの、私も」
小さな声。
恵が一歩、前に出た。涙をぬぐった黒い瞳のふちには、まだ少しだけ赤みがにじんでいる。でも、組んだ両手にぎゅっと力を込めて、顎を引いた。その目はまっすぐ一色を見ていた。
「私にできること、なんでもやります」
「じゃあ——床にこびりついた汚れを頼めるかな。桶と雑巾はそこにある」
「はい!」
恵は桶に水を汲みに行き、両手で抱えて戻ってきた。水が揺れて、桶の縁からこぼれ落ちる。制服の袖をまくって、麻の雑巾をきつく絞った。床にこびりついた缶詰の汁の跡に雑巾を押し当てる。両手のひら全体で体重をかけて、ゆっくりと円を描くようにこすり始めた。
(私ができること)
恵の額に汗が浮かぶ。一度拭いて、跡が残っているのを確認してもう一度こする。
(みんな、すごい才能を持ってる。でも——私にだって。きっと、何か)
恵の指は、こびりついた汚れの感触を確かめながら、一ミリずつ動いていく。
「いいぞ、みんな。その調子だ」
一色が部屋の中央に立って、腕を組み、足を肩幅に開いて全員を見渡す。
夜は、もう深かった。
窓の外には、遠月学園の森が暗く広がっている。風が枝を揺らす音だけが、かすかに聞こえる。寮の中は、さっきまでの重い空気が嘘みたいに、それぞれの手足が何かを動かす、乾いた活気にあふれていた。
絵里奈が瓶を嗅ぎ分ける。その手元には、仕分けられた瓶が綺麗に並べられていく。アリスが器具を分類する。金属の種類ごとに、入れ物がカチカチと音を立てて満たされていく。タクミとイサミがダンボールを運ぶ。廊下に積み上げられた量が、目に見えて増えていく。恵が床をこする。雑巾を濯ぐ桶の水が、黒く濁っていく。
それぞれが、うつむいて、黙って、自分の持ち場で動いてる。
(これが——チームか)
創真は立ち上がって、一番奥の棚に向かった。近くにあった踏み台を足で引き寄せる。
「俺は棚の上の方、片すぜ」
「ああ、気をつけて。上に何があるか分からないから」
「はいはい」
深夜。
時計の針が二時を回った頃。
絵里奈が最後の段ボールを開けた。もう、部屋の床の半分は見えるようになっている。段ボールを開けるたびに舞っていた埃も、窓を少し開けた風に流されて薄くなった。
「……これは」
箱の底から出てきたのは、角の擦り切れた黒いノートだった。表紙は油脂を吸ったように艶が消えて、手垢でところどころ黒ずんでいる。
「どうしました?」
恵が雑巾を桶に置いて、膝をついたまま顔を上げた。
「いえ——ただのレシピノートみたい。でも、ずいぶん古い」
絵里奈はノートを手に取って、指先でページを開いた。紙が乾いて、ぱりぱりと小さな音を立てる。手書きの文字。和食のレシピが、ところどころ掠れたペン先で、びっしりと書かれている。ページの端には、はねた醤油の跡が、茶色いシミになって残っていた。
「これ……創真の字じゃないわね」
「ああ、それ——俺の親父のだ」
創真は棚の上から飛び降りて、音もなく着地した。絵里奈の手の中のノートを覗き込む。
「幸平城一郎。俺の親父で、『ユキヒラ』の店主。世界中を放浪してる料理人だ」
「……世界を」
絵里奈の紅紫色の瞳が、ノートに釘付けになったまま動かなくなった。ページの端をつまんでいた指が、ゆっくりと文字をなぞる。
「いつか、こいつを全部自分のものにするんだ。それが——俺の目標の一つだ」
創真はいつもの調子で言った。声に力みはなく、まるで明日の献立でも話すみたいに。
絵里奈はノートを閉じて、両手で持って、そっと創真に差し出した。ノートが彼の手に渡るまで、彼女の指は空中に残っていた。
「……いいノートね、これは」
「お? 褒めたな」
「べ、別に! あなたを褒めたんじゃありませんわ! ノートを褒めたの!」
絵里奈が顔を真っ赤にして、喉を詰まらせながら早口でまくしたてる。差し出した手を引っ込めて、ぎゅっと自分の胸の前に握りしめた。
アリスがその様子を、段ボールの影からそっとスマホのカメラで連写していた。
「すごく面白いデータ……」
「お前はもうちょっと手を動かせ」
「動かしてるのね! さっきからずっと器具を分類してるのね!」
笑い声が、部屋に広がった。誰かがぐっと伸びをする気配。誰かが息を吐く音。
張り詰めていた糸が、少しずつ、緩んでいく。
気づけば、もうすぐ朝の四時。
一色が、ふんどしの腰ひもから一枚の紙を取り出した。折りたたまれたそれは、十傑の封筒から抜き取った書類の一部だ。かさり、と紙が擦れる音に、全員の手が止まった。
「みんな、少し休憩にしよう。それと——この話だけは、しておきたい」
一色は紙を広げずに、長い指でそっと押さえた。
「この資料についてだ」
一色は、本物の真剣な目で全員を見渡した。普段の、とぼけた光は完全に消えている。ふんどし姿なのに、背筋が伸びて、彼の周囲だけ空気が静かだった。
「実はね、この資料は——以前、寮の共有スペースの本棚の裏で拾ったものかもしれない」
「共有スペース?」
タクミが最後のダンボールを置いて、汗を手の甲で拭いながら振り返った。
「ああ。一ヶ月ほど前だ。誰かが持ち込んで、誰かに気づかれる前に——そこに落としていった。もしそうなら、誰かが意図的に、極星寮にこれを隠したんだ」
「あ、それ!」
アリスが工具を置いて、ぴょんと手を挙げた。
「私が見つけた時、それ、一色先輩の部屋の近くの廊下に落ちてたのね! だから、一色先輩のふんどしと一緒に隠したの!」
「……僕の部屋の近くに?」
一色が眉をひそめる。眉間のしわが、廊下の薄暗がりの中でくっきりと浮かんだ。
「ということは——この資料は、元々は僕宛てだった可能性もある。あるいは、僕に疑いをかけさせようとしたか」
「……きな臭くなってきたな」
「いずれにせよ」
絵里奈が顔を上げた。膝の上に置いた両手を、ゆっくりと握りしめる。
「この件は、学園全体の問題ですわ。私が責任を持って、十傑の正式な会議に報告する」
「そうだね。でも——」
一色は数秒の沈黙のあと、口元をゆっくりと持ち上げて笑った。
「まずは、目の前のゴミだよ。時間はあまりない。もう一踏ん張り、頑張ろう」
全員が、声には出さずにうなずいた。
恵が、部屋の隅で壊れた泡立て器を片付けていた。膝をついて、破片で指を切らないように、そっと一つずつ厚紙の箱に並べている。
創真が音もなく近づく。
「なあ、田所」
「ひゃっ!? な、なんでしょう……」
恵の肩が跳ね上がった。手に持った泡立て器の破片が、箱の中でからんと鳴る。
「ピン止めのことだけどよ。なんか——悪かったな、恥かかせちまって」
創真は恵の隣にしゃがみ込んだ。彼女の顔を覗き込もうとはせず、横を向いたまま言う。
恵は二回首を振った。一度は小さく、二度目は大きく。
「違います。私の方こそ——こっそり部屋に来たのがバレて、その」
恵はしばらく口を閉じて、自分の膝の上のしわになったスカートを見ていた。それから、息を吸って顔を上げた。
「でも——後悔は、してません」
「え?」
「あの時、幸平くんに相談できてよかった。ピン止めのことは恥ずかしかったけど——でも、あなたに話を聞いてもらえて、本当に助かったんです」
恵は、花柄のピン止めをぎゅっと握りしめて言った。ピン止めの縁が手のひらに食い込むくらいに。
目にはうっすら涙が浮かんでいる。でも——その涙は目尻からこぼれ落ちずに、まつ毛の先で小さく光っているだけだ。
「なんかよく分かんねえけど」
創真は立ち上がって、乱暴に頭をガシガシかいた。髪がぼさぼさに逆立つ。
「また相談したいことがあったら、いつでも部屋に来いよ。今は床も見えるしな」
「……はい」
恵が口を結んで、目だけで笑った。
その様子を——
絵里奈が、部屋の反対側から、瓶の分類の手を止めてじっと見ていた。
「…………はあ」
絵里奈は、誰にも聞こえないように口の中で息を吐き出した。右手が無意識に髪の毛先をくるくると指に巻きつける。でも——その口元は、瓶のふたを閉めるのを忘れたまま、ほんの少しだけ持ち上がっている。
「なにをため息ついてるんだい、絵里奈?」
いつの間にか、一色が絵里奈の隣に立っていた。手には人数分のマグカップを持っている。
「な、なんでもありませんわ!」
「そうかい? まあ、とにかく——青春だねぇ」
「どこがですの!! こんな地獄の掃除のどこに青春があるっていうんですの!?」
絵里奈の声が部屋中に響く。マグカップの水面が微かに揺れた。
でも——部屋の中では、誰もが少しだけ、声に出さずに笑っていた。
夜明け前。
空がうっすらと白み始める。窓の外の森が、黒から深い青に変わる瞬間だった。
極星寮の窓から、朝の光が一筋、床に斜めに差し込んできた。
「……床だ」
創真がぽつりと言う。目の前の光景を、まばたきせずに見つめながら。
「見える。俺の部屋の床が——見える!」
創真の足の下で、木の床板がまっすぐに伸びている。
「ああ、やっとだね」
部屋の中は、見違えるほど整っていた。
段ボールは全部片付いて、棚は食材の種類ごとに瓶が整列している。壊れた器具は、修理できるものと廃棄するものが、ラベルを貼られた別々の箱に分けられている。食材は棚に整理され、缶詰の汁の跡が残っていた場所は、布目に沿って拭き上げられて、乾いた木の艶が戻っていた。
「はあ……お、終わった……のか?」
タクミが壁にもたれて、ずるずると腰を落とし、最後には床に尻をついた。
「兄さん、よく頑張ったね」
隣でイサミも一緒に、どさりと座り込む。二人の肩がぶつかって、タクミが軽く弟の頭を小突いた。
「私も……疲れましたわ」
絵里奈が行儀よく正座して、両手のひらを太ももの上にきちんと揃えて置く。伸ばした背筋はそのままに、目だけを閉じて、長く息を吐き出した。
「実験は大成功ね!」
アリスだけが元気いっぱいで、部屋の中央でくるりと一回転した。白い髪がふわりと円を描く。
「一晩でこれだけの成果! みんなの反応も最高のデータだったし——次の実験の参考にするのね!」
「まだ反省してないの!?」
絵里奈が立ち上がった。その動きは、疲れているはずなのに、驚くほど素早かった。
「してるのね? でも、反省より先に好奇心が勝っちゃうのね!」
絵里奈が無言でアリスのほっぺたをつねった。親指と人差し指で、ぎゅう、と。
「いひゃい! いひゃいのね!」
「今回のことは、決して許したわけじゃありませんわ。でも——」
絵里奈は手を離して、つねっていた指をそっと引っ込めた。アリスの頬に赤い指の跡がくっきりと残っている。絵里奈はそれを見て、一回まばたきをした。
「掃除を手伝ってくれたことだけは——感謝します」
アリスは、ほっぺたに両手を当てたまま、絵里奈の顔をまじまじと見つめていた。
(絵里奈お姉さまが——私に、感謝を)
アリスの青紫色の目が、ほんの少しだけ潤んで、まぶたを伏せる。
「……やっぱり絵里奈お姉さまは、最高の研究対象なのね!」
「前言撤回しますわ!!」
絵里奈の声がひっくり返って、部屋の空気が震えた。
笑いが巻き起こる。疲れ切った床に、それぞれの声が折り重なった。
「しかし——すごいな、みんな」
創真は、自分の部屋を見渡した。窓から、部屋の隅から、ドアの隙間から、自分の目が覚えている全ての場所を順番に見ていく。
(つい昨日まで、足の踏み場もなかったのに)
棚にはちゃんと食材が並び、床はピカピカで、窓から朝日が差し込んでいる。
「お前らがいなかったら、絶対に終わらなかった。ありがとな」
創真は頭をガシガシかいたあと、右手を後ろに回して首の後ろをぐっと押さえた。照れくさそうに口の端だけで笑う。
恵が両手を前で組んで、うつむきながら少しだけ頷く。一色が腕を組んだまま、ゆっくりとまぶたを閉じて肯定を示す。タクミとイサミが床から親指を突き上げる。絵里奈はそっぽを向いているけど、首から上だけがほんのりと色づいている。アリスだけが、またスマホを構えてレンズを向け始めていた。
「さて——文緒さんのチェックまであと二時間」
一色が時計に目をやる。
「最後の仕上げにかかろう。窓を開けて空気を入れ替えて、拭き残しがないか最終確認。それと——」
一色は、ふんどしの腰ひもに挟んだ封筒をチラリと見た。視線だけで、まぶたの動きだけだ。
「この問題は、また後で話そう。まずは——目の前のゴミ、最後の最後までだ」
全員がうなずいた。誰も声を出さなかった。それぞれが立ち上がり、それぞれの持ち場に戻っていく。
朝日が、極星寮の窓を黄金色に染める。木の床の上を、光がゆっくりと広がっていく。
長かった夜が、終わろうとしていた。
でも——掃除の最大の関門は、むしろこれからだ。
大御堂文緒の、般若のチェック。
もし合格できなければ、この一晩の努力は全部水の泡。罰則のレポート十枚が待っている。紙の感触と、ペンだこの痛みと、徹夜で乾いた目の奥の重さを、もう一度やり直すことになる。
「……面白くなってきた」
創真は、自分の部屋を見つめて呟いた。腕を組んで、軽く顎を上げて。
その声は、どこか弾んでいた。Noveliaとは?
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