生存者のための遺書
近未来社会では、人類は支配する者と支配される者に分かれている。支配される者に権利はない。親のいない子供たちは施設で育てられ、成人すると使い捨ての資源として送り出される。支配階級の貴族であるヴェルナーは、こうした人々を使ったデスゲームを娯楽として主催している。予選は単純な消耗戦だ――何百人もが走り、生き残った者だけが本戦へ進む。本戦の勝者には「人権」が約束される。
カイトとレンは、ともに施設育ちで、別々の予選を運だけで生き延びた。本戦は砂時計都市と呼ばれる封鎖地区で行われる。参加者は全員、位置と所持アイテム数を観客に配信する装置を身につけている。支配者たちは賭けをし、脱落のたびに歓声を上げる。
カイトとレンは初めて出会い、すぐに互いを疑い合う。大所帯のグループに追われ、渋々手を組む。二人はそれぞれ独自に、同じ戦略を考え出していた。所持アイテム数ゼロのふりをするのだ。若い運用助手のサラは、淡々とルールを説明する。「指輪は六十個。生存ラインは三点。タイムアウトは即死」
しかし二人は同時に、ある抜け穴に気づく。未確認の指輪は装置に表示されない。確認するまで、自分の所持品を隠せるのだ。二人
生存者のための遺書 - 第4話三点は死を呼ぶ ―― 尻込みの算術
夜明け前の空気は、湿った鉄の匂いがした。
カイトは廃工場の二階、窓枠の外れた開口部の脇に背を預け、浅い眠りから浮上した。目を開けると、東の空がわずかに白み始めている。スナドケイ区の輪郭が、青黒い闇からゆっくりと浮かび上がってくる時間だった。
(眠れたか?)
自分に問いかける。答えは、あいまいだった。意識を手放したのか、ただ目を閉じていただけなのか、境目がはっきりしない。体は鉛のように重く、関節のあちこちが冷え切っていた。
腕輪型のリソース端末に目を落とす。表面の小さな窓に「0」の文字。所持指輪数ゼロ。だが、作業着の胸ポケットには、硬い小さな輪が三つ、布越しに重みを伝えていた。
未確定の指輪。
拾ったが、まだ手にしていないもの。端末には表示されない。観客にも、オッズマンにも、他の参加者にも見えない。このゲームにおける、唯一の抜け道。
カイトは、ゆっくりと立ち上がった。
膝が軋む。昨日の包囲突破で、あちこちに細かい傷と痣ができていた。痛みはあったが、動きを止めるほどではない。
(今日は、二日目だ)
本選が始まってから、丸一日が過ぎた。参加者は三十数名。そのうち、すでに十七名が脱落している。生き残っているのは、二十数名。
数字を頭の中で転がしながら、カイトは廃工場の内部を移動した。足音を殺し、錆びた配管の影から影へ。崩れた壁の隙間から、外の様子をうかがう。
遠くで、金属がコンクリートを叩く音がした。
一度、二度。
三度目で、音は止まった。
(始まってる)
カイトは、目だけを動かして周囲を探った。監視ドローン「ハエ」が、まだ薄暗い空を音もなく横切っていく。赤い接眼レンズが、小さく明滅していた。
その時だった。
「——点検です。その場を動かないでください」
声は、廃工場の入口から聞こえた。
若い女の声。平坦で、抑揚のない、機械のような口調。
カイトは、物陰に身を潜めたまま、声の主を視界の端に捉えた。
灰色の制服。黒い長髪を後ろで一つに束ねている。切れ長の黒い瞳。右耳の後ろに、小さな痣。腰には、参加者と同じ型の端末がぶら下がっていた。
運営補助。
リソース管理局のスタッフだ。ゲームの実務を担当し、規則の説明や端末の不具合対応を行う。彼女自身もリソース出身で、ゲーム終了後は出荷される契約だと聞いたことがある。
カイトは、彼女の動きを観察した。
歩き方に無駄がない。視線が、絶えず周囲を走査している。右腕は、腰の端末にいつでも手が届く位置に保たれていた。
(訓練されてる)
運営補助の少女は、廃工場の中央に立つと、手にした端末を操作した。
「参加者の皆さん、これより端末の点検を行います。私の指示に従って、その場で左手首を掲げてください」
声は、よく通った。
物陰から、数名の参加者がおそるおそる姿を現す。カイトは動かなかった。彼らの多くは、昨日の殺し合いを生き延びた者たちだ。疲労と恐怖で、顔色が土気色を帯びている。
運営補助の少女は、一人ひとりの端末を手早く確認していく。動作は正確で、感情は一切見えない。
「——規則の再確認です」
少女は、点検を続けながら、淡々と告げた。
「生存ラインは三点。指輪は全部で六十個。タイムアウトは即死です。端末の表示に異常がある場合は、速やかに私まで申告してください。規則ですので確認してください」
カイトは、少女の口元を見ていた。
言葉は、教科書を読み上げているかのように正確だった。だが、目だけが、わずかに動いている。参加者の顔を、一人ひとり、値踏みするように。
(こいつ、何を見てる)
その時、少女の視線が、一瞬だけ、廃工場の二階、カイトの隠れている方向に向けられた。
目が合った——わけではない。
少女は、すぐに視線を外した。
だが、カイトの背筋を、冷たいものが走った。
(気づかれてる)
運営補助の少女は、点検を終えると、参加者たちに背を向けた。
その直前だった。
「——ああ、それから」
少女は、立ち止まった。
「三点以上を持っている参加者は、今朝から狙われ始めています。ご注意を」
声が、わずかに、柔らかくなった。
ほんの一瞬、ほんの少しだけ。
カイトは、その変化を聞き逃さなかった。
(警告か)
運営補助が、参加者に警告を出す。そんなことが、あるのか。
少女は、それ以上何も言わず、廃工場の入口へと歩き去っていった。
その背中が、薄明かりの中に消える。
カイトは、しばらく動けなかった。
(あの女、ただの運営補助じゃない)
確信があった。
だが、その正体を追うのは、今ではない。
カイトは、ゆっくりと息を吐き、物陰から出た。
「——あんた、今の聞いてた?」
声は、背後からだった。
カイトは振り返らなかった。
「聞いてた」
「あの女、最後だけ声が変わったよね」
レンが、崩れた壁の隙間から姿を現した。茶色の癖毛に、明るい琥珀色の瞳。頬のそばかす。常に笑っているような口元。だが、その目は、笑っていなかった。
「警告だ」
「だね。運営補助が、わざわざ。おかしいでしょ」
レンは、カイトの隣に立った。二人の距離は、およそ一歩半。互いの肩が触れない距離。
「三点以上持ってる奴が、狙われ始めた」
「生存ラインを満たしてるのに?」
「満たしてるからだ」
カイトは、廃工場の外へ目を向けた。
「三点持ってれば、生き残れる。だから、他の奴は、三点持ってる奴を殺して、奪う。生存ラインが三点なら、三点持ってる奴を一人殺せば、それで終わりだ」
「なるほどね。効率がいい」
レンの声は、軽かった。
だが、カイトには、その軽さが、わざとらしく聞こえた。
「行くぞ」
「どこへ?」
「三点持ってる奴が、どうなるか。見ておく」
レンは、一瞬だけ、カイトの横顔を見た。
「……あんた、そういうとこ、ほんと容赦ないよね」
「知るか」
二人は、廃工場を出た。
朝のスナドケイ区は、静かだった。
静かすぎるほどに。
廃工場の群れを抜け、二人は区画の北側へと移動した。
崩れた壁と錆びたパイプが迷路のように入り組んだ、かつての精密機械工場跡。足元には、砕けたコンクリートと、曲がりくねった鉄筋が散らばっている。
空気は冷たく、鉄と油と、かすかに血の匂いが混ざっていた。
「昨日、あの辺りで何人か死んだよ」
レンが、崩れた倉庫の方向を指さした。
「知ってる」
「そっか。あんた、どこに隠れてたの?」
「あっちだ」
カイトは、廃工場の二階を指さした。
「へえ。俺は、あの配管の上。一晩中、風が強くてさ。おかげで全然眠れなかった」
「嘘だ」
「あんた、疑り深いなあ」
レンは、笑った。
だが、その笑顔の奥で、レンの目が、絶えず周囲を走査している。
(こいつも、眠っていない)
カイトは、レンの目の下に、うっすらと浮かんだ隈を見た。
「——止まれ」
カイトは、突然、足を止めた。
レンも、同時に、足を止めた。
二人の視線の先。
廃工場の吹き抜け。
高さ十メートルほどの空間を、朝の光が、破れた天井から差し込んでいた。
その光の中に、四人の人影があった。
一人が、地面に膝をついている。
三人が、その男を取り囲んでいた。
「おい、待てよ。話をしよう」
膝をついた男は、若かった。二十歳前後。作業着は泥と血で汚れ、顔には青痣が浮かんでいる。
「俺は、三点持ってる。生存ラインは満たしてるんだ。だから、お前らと争う理由はない。頼む、見逃してくれ」
男は、手にしていたバールを、地面に置いた。
「武器も捨てた。指輪も、必要ならやる。だから——」
「うるせえなあ」
三人のうち、一人が、男の腹を蹴った。
鈍い音。
男の体が、くの字に折れ曲がる。
「お前、何か勘違いしてねえか? 俺らは、お前の指輪が欲しいんじゃねえんだよ」
「そ、それじゃあ——」
「お前が、生きてることが邪魔なんだよ」
別の一人が、鉄パイプを振り上げた。
「三点持ってる奴が、のうのうと生きてたら、俺らが危ないだろ。だから、お前には、ここで死んでもらう」
「やめ——」
鉄パイプが、男の頭を打った。
グシャリ、という音。
男の体が、横に倒れた。
三人は、倒れた男を、何度も、何度も、踏みつけ、殴りつけた。
靴底が血に滑る。鉄パイプが、肉を砕く。骨の折れる音が、吹き抜けに響き渡る。
カイトは、錆びたパイプの影から、その一部始終を見ていた。
(——殺す理由は、生存ラインを満たしていること、それだけか)
男は、すでに動かなかった。
三人のうち、一人が、男の腕から端末を外そうとした。だが、端末は外れない。代わりに、男の指を一本ずつ折り、はめていた指輪を、無理やり引き抜いた。
指輪は、三つ。
男が、必死に守ってきた三点。
三人は、奪った指輪を、それぞれの手に取った。
その瞬間だった。
奪った指輪を握った男の胸元で、端末が、青白い光を放った。
「——お、表示された。これで俺も三点だ」
男は、嬉しそうに笑った。
その笑顔を、周囲の監視ドローンが、一斉に捉えた。
赤い接眼レンズが、三機、四機、五機——音もなく集まってきて、男の顔を、全身を、舐めるように走査する。
(光った)
カイトは、目を細めた。
(指輪を確定させると、端末が光る。光れば、観客に、居場所が知られる。オッズマンにも、他の参加者にも)
男は、まだ気づいていない。
自分が、今、どれだけ目立っているのか。
「——行くぞ」
カイトは、音を立てずに、その場を離れた。
レンも、後に続いた。
二人は、廃工場の群れを抜け、崩れた倉庫の壁際まで移動した。
「——見た?」
レンが、低い声で言った。
「ああ」
「三点持ってても、死ぬ。むしろ、三点持ってるから、死ぬ」
「そうだ」
カイトは、倉庫の壁に背を預けた。
「生存ラインを満たすってことは、他の参加者から見れば、『こいつを殺せば、生き残れる』ってことだ。だから、三点持ってる奴は、真っ先に狙われる」
「……運営は、それを分かってて、生存ラインを三点にしたんだろうね」
レンの声が、冷たくなった。
「三点持ってる奴を、狩らせる。狩った奴が、今度は三点持ってる奴になる。そしたら、また狩られる。永久に、終わらない」
「終わらせないんだ。観客は、脱落するたびに賭けてる。殺し合いが長引けば長引くほど、賭けは盛り上がる」
「……最低だね」
「今さらだ」
二人は、しばらく黙っていた。
朝の光が、倉庫の壁を白く照らしている。
「——で、どうする?」
レンが、カイトの顔を見た。
「拾うな」
カイトは、短く言った。
「拾えば、載る」
「確定させれば、光る」
「光れば、狙われる」
「つまり、俺らは、ずっとゼロのままでいる」
「そうだ」
カイトは、胸ポケットに手をやった。
未確定の指輪が、三つ。
「持ってるものを、確定させない。端末には、ずっとゼロを表示させる。そうすれば、俺らは、『取れていない弱い二人』に見える」
「三点持ってる奴が、真っ先に狩られるなら、ゼロの奴は、後回しにされる」
「ああ。狩る価値がないからな」
「……あんた、最初から、そうするつもりだった?」
レンの目が、カイトを探った。
「お前もだろ」
カイトは、レンの目を見返した。
レンは、一瞬、黙った。
それから、ゆっくりと、笑った。
「まあね」
その笑顔は、今までで、一番、本物に近かった。
「じゃあ、決まりだ。俺らは、弱い二人を演じる。取れない、狙われない、価値のない、二人を」
「ああ」
カイトは、倉庫の壁から離れた。
「——そのために、一つ、やっておくことがある」
「何?」
「さっきの現場に、指輪が二つ、転がってた」
レンは、目を細めた。
「あの三人が、取りこぼしたやつ?」
「ああ。あれを、拾わない」
「拾わない?」
「拾えば、俺らの端末に表示される。光る。狙われる。だから、拾わない。放置する」
レンは、しばらく考えていた。
「……あんた、本気で言ってる?」
「本気だ」
「指輪は、全部で六十個。生き残るためには、いつか、三点を確定させなきゃいけない。なのに、拾わないの?」
「今は、な」
カイトは、レンの目を見た。
「拾うのは、最後でいい。残りが少なくなって、誰も俺らを狙えなくなった時に、拾えばいい。それまでは、ゼロを維持する」
「……あんた、ほんと、頭いいんだか、悪いんだか」
レンは、苦笑した。
「でも、賛成。あの三人が、指輪を二つ取りこぼしたってことは、まだ、あの辺りに、拾われてない指輪があるってことだ。それを、俺らは拾わない。拾わないことで、存在を消す」
「そうだ」
二人は、崩れた倉庫を後にした。
昼前。
二人は、あえて、参加者たちの視界に入るように、廃工場の間を歩いた。
足音は、わざとらしく、少し重く。
視線は、地面に向けて。
肩を落とし、疲れ切ったふうを装う。
「——おい、あれ見ろよ」
廃パイプの影から、二人の男が、こちらを見ていた。
「指輪、持ってねえな。端末、ゼロだ」
「あんな弱そうな奴ら、相手にする価値もねえ」
男たちは、すぐに興味を失い、別の方向へ去っていった。
(効いてる)
カイトは、心の中で、静かに呟いた。
(ゼロを表示していれば、狙われない。狩る価値がないと判断される)
「——あんた、演技うまいね」
レンが、小声で言った。
「お前こそ」
「俺? 俺は、普段からこんな感じだよ」
「嘘だ」
「あんた、ほんと、すぐ嘘だって言うよね」
レンは、肩をすくめた。
だが、その目は、笑っていなかった。
二人は、区画の中央部へと向かった。
監視ドローンの数が、心なしか、減っている。
(ゼロの参加者を、ドローンは追わない。追う価値がないからだ)
カイトは、その事実を、確かめるように、空を見上げた。
ハエの姿は、遠くの空に、小さく見えるだけだった。
「——楽になったね」
「ああ」
「このまま、誰にも狙われずに、最後まで行けるかな」
「無理だ」
「即答かあ」
「残りが少なくなれば、ゼロの奴も、狙われる。ゼロってことは、『まだ三点持ってない』ってことだ。三点持ってない奴は、つまり、三点持ってる奴を狩るか、死ぬしかない。そうなれば、ゼロの奴同士で、潰し合いが始まる」
「……その通りだね」
レンの声が、低くなった。
「だから、その前に、俺らは、互いのことを、もっと知っておくべきだと思う」
カイトは、レンの横顔を見た。
「どういう意味だ」
「言葉の通りだよ。あんたが何者で、何を隠してて、何のために生きてるのか。俺は、それを知りたい」
「……知って、どうする」
「どうもしない。ただ、知っておきたいだけだ」
レンは、カイトの目を、まっすぐに見た。
「あんた、俺のこと、信用してないでしょ。それは、俺も同じ。でも、だからこそ、知っておくべきだと思うんだ。相手が、いつ裏切るか、いつ消えるか、それを予測するために」
カイトは、黙っていた。
レンの言うことは、間違ってはいなかった。
「……俺は、カイト。それだけだ」
「嘘だ」
今度は、レンが、カイトの言葉を切った。
「カイトって名前は、本当かもしれない。でも、『それだけ』は、嘘だ。あんたの沈黙の質は、普通の参加者のものじゃない。何か、目的がある。何か、背負ってる。違う?」
カイトは、レンの目を見返した。
「お前もだろ」
「……まあね」
レンは、少しだけ、笑った。
「でも、今は、言わない。言ったら、多分、二人とも、ここで終わるから」
「ああ」
二人は、それ以上、何も言わなかった。
夕方まで、二人は、区画の中を歩き回った。
空の手を見せ、ゼロの表示を見せ、弱い二人を演じ続けた。
時折、遠くで、悲鳴や怒号が聞こえた。
そのたびに、監視ドローンが、音もなく、そちらへ流れていく。
カイトは、その光景を、死を見慣れた目で追った。
(殺し合いは、まだ続く)
(俺らがゼロでいる限り、俺らは、その輪の外にいられる)
だが、それも、長くは続かない。
いずれ、ゼロのままでは、生き残れなくなる。
(その時までに、何をする)
カイトの胸の奥で、四年前の記憶が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
ソダテヤ第7。
灰色のコンクリート壁。鉄格子の窓。狭い寝室。
カイトは、十二歳だった。
同室の少年が、脱走に失敗し、処刑された。
カイトは、扉の隙間から、その光景を見ていた。
少年の体が、銃弾で跳ね、壁に叩きつけられる。
血が、灰色の壁を、黒く染めていく。
その夜、カイトは、自分の左眉の上を、壁に拳を打ちつけて、傷つけた。
痛みで、感情を消すために。
(目立つ者は、先に消される)
あの時、同室の別の少年が、カイトに言った言葉。
(お前も、目立つな。目立ったら、殺される)
カイトは、その言葉を、今、このゲームの中で、もう一度、噛みしめていた。
(ゼロを維持する。目立たない。消える。それが、生き残るための、唯一の方法だ)
日が傾き、スナドケイ区の空が、赤く染まり始めた。
二人は、廃工場の二階へと戻った。
窓枠の外れた開口部から、夕焼けが差し込んでいる。
レンは、崩れた壁にもたれかかり、膝を抱えて座った。
カイトは、少し離れた場所に、背を預けて立っていた。
「——カイト」
レンが、静かに言った。
「何だ」
「あんた、予選の時、何を考えてた?」
カイトは、レンの顔を見た。
レンは、夕焼けの光の中にいた。
その表情は、いつもの笑顔ではなかった。
「……生き延びることだけだ」
「嘘だ」
レンは、カイトを見なかった。
「生き延びることだけ考えてる奴は、あんな目をしない。あんたの目は、いつも、誰かを見てる。誰かを、探してる」
カイトは、黙っていた。
レンは、左手首の内側を、親指で、ゆっくりとなぞった。
円を描くように。
何かを確かめるように。
「——俺、予選の時、弟と一緒だったんだ」
レンの声が、低くなった。
「くじ引きで、二人とも選ばれた。予選を走るって決まった時、弟は、すごく怖がってた。だから俺、言ったんだ。『大丈夫、俺が守るから』って」
カイトは、黙って聞いていた。
「予選の最終盤、弟と二人で、走ってた。後ろから、追手が来てた。何人も。俺、弟に言ったんだ。『お前は先に行け。俺が追いつくから』って。でも、それは、嘘だった」
レンは、左手首をなぞる指を、止めた。
「俺は、弟を、置いて行った。弟は、俺の嘘を信じて、笑って、手を振ってた。『すぐ追いかけてくるんでしょ?』って。あいつ、最後まで、笑ってたんだ」
レンは、顔を上げた。
夕焼けの光が、レンの頬を染めていた。
「俺は、あの嘘を守るためだけに、ここにいる。弟が信じた『すぐ追いかける』っていう嘘を、本当にするために。だから、俺は、生き延びる」
カイトは、レンの目を見た。
レンの目は、乾いていた。
涙は、なかった。
「……そうか」
カイトは、それだけ言った。
レンは、少しだけ、笑った。
「あんた、慰めないんだね」
「慰める意味がない」
「そうだね」
レンは、再び、膝を抱えた。
カイトは、窓の外に目を向けた。
夕焼けが、スナドケイ区の廃墟を、赤く染めていた。
(予選で、くじ引きに選ばれた少女がいた)
カイトは、思い出していた。
(あの少女も、笑っていた。『生きて』と。俺に、そう言って)
カイトは、少女の顔を、覚えていない。
だが、その声と、その笑顔は、今も、胸の奥に残っている。
(俺も、同じだ)
カイトは、レンの背中を見た。
(こいつは、弟の笑顔を、背負ってる。俺は、あの少女の『生きて』を、背負ってる)
(同じ種類の、罪悪感だ)
カイトは、そう思った。
だが、それを、口にはしなかった。
夜。
区画の照明が、ゆっくりと落ちていった。
代わりに、監視ドローンの数が、増えていく。
赤い接眼レンズが、闇の中を、無数に飛び交っていた。
カイトとレンは、廃工場二階の、錆びた配管の間に身を潜めていた。
互いの肩が、わずかに触れる距離。
「——あんた、何か隠してるでしょ」
レンが、小声で言った。
「お前もだろ」
「うん。でも、もう、追及しない。追及したら、多分、二人とも、ここで終わるから」
「ああ」
カイトは、レンの左手首に、目を落とした。
(あの仕草。あれは、クサビの隠し印だ)
(こいつは、俺と同じ、クサビの工作員かもしれない)
(だが、確信はない)
レンも、カイトの沈黙の質を、探っているように見えた。
(こいつは、俺の沈黙の質を、組織に所属する者のそれだと、直感してる)
(だが、確信はない)
二人は、互いの核心を、問わなかった。
問えば、終わる。
問わなければ、まだ、続けられる。
「——明日も、生きてたら、またここで」
カイトは、短く言った。
「ああ」
レンは、短く返した。
二人は、それぞれの嘘を胸に隠したまま、目を閉じた。
外では、監視ドローンが、音もなく、闇を泳いでいた。
遠くで、誰かの悲鳴が、かすかに聞こえた。
三日目の朝が、近づいていた。Noveliaとは?
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