生存者のための遺書
近未来社会では、人類は支配する者と支配される者に分かれている。支配される者に権利はない。親のいない子供たちは施設で育てられ、成人すると使い捨ての資源として送り出される。支配階級の貴族であるヴェルナーは、こうした人々を使ったデスゲームを娯楽として主催している。予選は単純な消耗戦だ――何百人もが走り、生き残った者だけが本戦へ進む。本戦の勝者には「人権」が約束される。
カイトとレンは、ともに施設育ちで、別々の予選を運だけで生き延びた。本戦は砂時計都市と呼ばれる封鎖地区で行われる。参加者は全員、位置と所持アイテム数を観客に配信する装置を身につけている。支配者たちは賭けをし、脱落のたびに歓声を上げる。
カイトとレンは初めて出会い、すぐに互いを疑い合う。大所帯のグループに追われ、渋々手を組む。二人はそれぞれ独自に、同じ戦略を考え出していた。所持アイテム数ゼロのふりをするのだ。若い運用助手のサラは、淡々とルールを説明する。「指輪は六十個。生存ラインは三点。タイムアウトは即死」
しかし二人は同時に、ある抜け穴に気づく。未確認の指輪は装置に表示されない。確認するまで、自分の所持品を隠せるのだ。二人
生存者のための遺書 - 撹乱の街 ―― 偽の反応、血の値段
空気が、変わった。
カイトは眠りから浮上する直前、まずその違和感を覚えた。廃工場の二階、窓枠の外れた開口部から流れ込む風の匂いが、昨日までと違う。湿った鉄と埃の匂いに混じって、かすかに焦げたような、電気が焼き切れる匂いがする。
目を開けた。
東の空はまだ暗い。夜明け前の、最も深い闇の時間帯。だが、区画の北の方角だけが、わずかに明るかった。
青白い光。
何かが、断続的に点滅している。
カイトは壁に背を預けたまま、目だけを動かして周囲を探った。隣では、レンが浅い呼吸を繰り返している。茶色の癖毛が、冷えた空気に揺れた。そばかすのある頬は、眠りの中でもどこか緊張を帯びていて、口元だけがわずかに緩んでいた。
笑っているのか。
寝ている間まで。
カイトは視線を北の方角に戻した。
点滅は、規則的だった。三回短く、一回長く。間を置いて、また同じ。監視ドローン「ハエ」の飛行パターンではない。もっと別の、機械的な信号。
腕輪型のリソース端末が、小さく震えた。
カイトは端末を見下ろした。画面に、文字が浮かんでいる。
「指輪反応 検出」
北区画。
端末の地図表示には、参加者全員の位置と所持数が映し出される。その北区画の一点に、赤い点が明滅していた。指輪の反応を示すマークだ。
(こんな時間に、指輪反応)
カイトは、端末をじっと見た。
赤い点は、一つではなかった。少し間を置いて、もう一つ。さらに西に、もう一つ。三つの反応が、北区画の廃墟のあちこちに、ほぼ同時に現れた。
(三つ同時?)
ありえない。
指輪は、誰かが拾って手にした時点で初めて反応する。三人の参加者が、同時に、別々の場所で、指輪を拾う。そんな偶然は、まず起こらない。
(これは、撒かれたんだ)
誰かが意図的に、指輪の反応を偽装して、北区画にばらまいた。
カイトは、オッズマンのことを思い出した。トケイバコの賭け率を設定・管理する専門職。ホルダー出身者だけが就ける、数学と統計に長けた連中。観客の賭けを最大化するために、あえて生存ラインを変動させたり、偽の指輪反応を撒いたりする撹乱工作を仕掛ける。
(盛り上がらない区画に、餌を撒いたのか)
北区画は、これまで大きな動きがなかった。殺し合いの中心は、区画の南側と中央広場周辺に偏っていた。北は静かすぎて、観客の賭けが動かない。だから、オッズマンが動いた。
カイトは、端末の画面から目を離さなかった。
赤い点が、三つ。
そして、それに引き寄せられるように、いくつもの青い点——参加者の位置を示すマーク——が、ゆっくりと北へ向かい始めていた。
一人、また一人。
青い点が、北区画に集まっていく。
「……起きてる」
声がした。
カイトが振り向くと、レンが目を開けていた。琥珀色の瞳が、暗がりの中でカイトを見上げている。いつもの笑顔はない。眠りから覚めたばかりの、素の表情。その目は、端末の画面に向けられていた。
「北が、騒がしい」
カイトは短く言った。
レンは、ゆっくりと起き上がった。袖をまくった腕に、古傷がいくつも浮かんでいる。左耳の小さなピアス穴が、非常灯の青白い光を受けて、かすかに陰になった。
「見せて」
カイトは端末を差し出した。レンは、自分の端末も確認しながら、画面を覗き込む。
「三つ同時……これは、本物じゃないね」
声が、低くなった。
「ああ」
「オッズマンが撒いたんだ。賭け率が動かない区画に、偽の反応をばらまく。釣られた奴らが北に集まって、殺し合う。観客は喜ぶ。オッズは跳ねる。よくある手だよ」
レンは、端末をカイトに返しながら言った。
「よくある手、か」
「予選でもあった。小規模だったけど。偽の水場の情報を流して、集まった奴らをまとめて始末するってやつ。あれと一緒」
カイトは、レンの顔を見た。
レンの表情は、いつもと変わらない。軽い口調。人懐こい笑み。だが、その目は、端末の画面を追うように動いていて、笑っていなかった。
「どうする?」
レンが、カイトを見た。
「北には近づかない。あそこは、もう罠だ」
「だね。釣られた奴らが、お互いを殺し合う。俺たちまで混ざったら、巻き込まれるだけだ」
二人は、同時に立ち上がった。
廃工場の外は、まだ暗い。だが、北の方角から、かすかに音が聞こえ始めていた。怒号。悲鳴。金属が打ち合う音。
始まっている。
「南に下がる。北から離れる」
「了解」
二人は、廃工場の裏口から外に出た。
空気が、ひどく冷えていた。吐く息が白い。足元の瓦礫が、わずかな物音を立てる。カイトは足音を殺し、崩れた壁の影から影へと移動した。レンも、その動きにぴたりと合わせてくる。
(こいつは、やはり、慣れている)
カイトは、背後にいるレンの気配を感じながら思った。
足音が、ほとんどしない。呼吸も、乱れていない。死地を歩くことに、体が順応している。
二人は、北区画を背にして、南へ向かった。
だが、その途中で、カイトの端末が、再び震えた。
「脱落者 21名」
数字が、増えていた。
昨日の時点では、十七名だった。一晩で、さらに四人が死んだ。
(残りは……)
カイトは、頭の中で計算した。
参加者は、全部で三十数名。二十一が脱落。生き残りは、二十を切っている。
端末が、また震えた。
「脱落者 22名」
間を置かず、もう一人。
北区画から聞こえる悲鳴が、大きくなった。複数の声が、同時に上がる。金属音。打撃音。そして、水っぽい音。
「脱落者 23名」
「脱落者 24名」
カイトは、端末の通知音を、数えていた。
(これは、死者の数だ)
(それとも、俺の残り時間か)
一瞬、自分が何を数えているのか、わからなくなった。
通知音が、また鳴る。
「脱落者 25名」
北区画で、何かが爆発した。オレンジ色の火柱が、暗い空を一瞬だけ照らし出す。熱風が、ここまで届く。
「派手にやってるね」
レンの声が、背後から聞こえた。
カイトは振り返らなかった。
「運営が、本気で殺しを加速させてる」
「そうみたい。北に集まった奴らを、まとめて潰す気だ。偽の反応でおびき出して、同士討ちさせる。効率がいい」
レンの声は、軽かった。
だが、その軽さが、逆に不気味だった。
二人は、さらに南へ進んだ。
北区画から離れるにつれて、悲鳴は遠ざかっていく。だが、端末の通知音は、止まらなかった。
「脱落者 26名」
「脱落者 27名」
カイトは、数字を頭の中で転がした。
(もう、二十人を切った)
(三十数名の参加者のうち、半分以上が死んだ)
(まだ、三日目だ)
ゲームは、カイトの予想よりも、はるかに速く、はるかに残酷に進行していた。
――
南へ下る道は、崩壊した配管通路を抜けるルートだった。
かつての精密機械工場の跡地。錆びたパイプが天井から無数に垂れ下がり、床には金属片とガラスの破片が散乱している。足を踏み出すたびに、微かな音が響いた。
カイトは、通路の入り口で立ち止まった。
(嫌な感じだ)
狭い。
左右は崩れた壁で塞がれ、天井は低い。逃げ場がない。もし、ここで待ち伏せされたら、厄介なことになる。
「……行くか」
カイトは、低く言った。
「うん。でも、気をつけて。こういう場所、好きじゃないな」
レンも、同じことを考えていたらしい。
二人は、間隔を空けて、通路に足を踏み入れた。
カイトが前。レンが後ろ。
一歩、また一歩。
足元の金属片が、小さく音を立てる。天井から垂れるパイプの影が、非常灯の光を受けて、壁に奇妙な形を作っていた。
空気は、湿っていて、冷たかった。
カイトは、五感を研ぎ澄ませた。
物音。
息遣い。
殺気。
(――いる)
カイトは、足を止めた。
「三人」
「わかってる」
レンの声が、背後から返ってきた。
次の瞬間だった。
崩れた壁の影から、三つの影が飛び出してきた。
一人は、鉄パイプを振りかぶっている。もう一人は、手にしたバールを逆手に構えていた。最後の一人は、ナイフを握りしめ、低い姿勢で突っ込んでくる。
「死ねえええ!!」
男の絶叫が、通路に響き渡った。
カイトは、とっさに動いた。
レンの肩を掴み、壁際へ突き飛ばす。
「カイト!?」
レンの驚いた声が、耳の端で聞こえた。
だが、カイトは振り返らなかった。
鉄パイプを振りかぶった男が、目の前に迫っていた。振り下ろされるパイプ。カイトは体を捻って避けようとした。
だが、足元の金属片に、足が滑った。
(しまった)
鉄パイプが、カイトの太ももをかすめた。
いや、かすめただけではない。
パイプの先端に付着していた鋭い金属片が、作業着の布を切り裂き、肉に食い込んだ。
ザシュッ。
生々しい音がした。
痛みが、一瞬遅れてやってきた。
太ももの奥から、熱いものが溢れ出す。血が、作業着の布を黒く染め、床に滴り落ちる。
「うっ……」
カイトは、声を殺した。
痛みを顔に出すな。
施設で覚えた技術が、体を支配する。
カイトは、倒れそうになる体を、片足で支えた。血が流れ続けている。視界の端が、わずかに暗くなる。
(まだ、動ける)
カイトは、鉄パイプを振りかぶった男の腕を掴んだ。
男の顔が、驚愕に歪む。
カイトは、その腕を思い切り捻り上げ、逆に鉄パイプを奪い取った。
「ぐあっ!?」
男の腕が、ありえない方向に曲がる。骨が折れる音が、通路に響いた。
カイトは、奪った鉄パイプを、そのまま男の側頭部に叩き込んだ。
ゴッ。
鈍い音。
男の体が、崩れ落ちる。
「てめえ!!」
バールを持った男が、横から殴りかかってきた。
カイトは、太ももの痛みを無視して、身を屈めた。バールが、頭の上を通過する。風圧が、髪を撫でた。
カイトは、そのまま男の腹に、鉄パイプを突き刺した。
グシャ。
内臓が潰れる感触が、手に伝わってくる。
「が……は……」
男が、血を吐いた。
カイトは、鉄パイプを引き抜き、男の首筋に振り下ろした。
ゴキ。
男の首が、不自然な角度に曲がる。
男は、音もなく倒れた。
「ひ、ひぃ……」
ナイフを持った男が、後ずさった。
顔が、恐怖で真っ青になっている。
「く、来るな……来るなああ!!」
男は、ナイフを振り回しながら、でたらめに突っ込んできた。
カイトは、太ももの傷をかばいながら、男の突きを避けた。
ナイフが、頬をかすめる。
血が、一滴、飛んだ。
カイトは、男の手首を掴み、逆に捻り上げた。
「あがっ!?」
ナイフが、男の手から落ちる。
カイトは、男の胸ぐらを掴み、壁に叩きつけた。
ドン。
男の後頭部が、コンクリートの壁に激突する。
男の目が、白く剥かれた。
カイトは、そのまま男の顔面に、膝を叩き込んだ。
グシャ。
鼻骨が砕ける音。
男は、声もなく崩れ落ちた。
――
静寂が、戻った。
カイトは、その場に片膝をついた。
太ももの傷から、血が止めどなく流れている。床に、赤い水たまりが広がっていた。
呼吸が、荒い。
心臓が、耳の奥で激しく脈打っている。
(まだ、動ける)
(まだ、死ねない)
カイトは、歯を食いしばって、立ち上がろうとした。
「動かないで」
レンの声が、真上から降ってきた。
カイトが顔を上げると、レンが立っていた。
その手に、何かを持っている。
自分の服の裾を、鋭い金属片で切り裂いた布切れだった。
レンは、無言でカイトの横にしゃがみ込んだ。
「足、出して」
「……自分でやる」
「無理しないで。傷、深いよ。血が止まらない」
レンの声は、いつもの軽い調子ではなかった。
低く、静かで、どこか冷たい。
カイトは、レンの顔を見た。
レンの表情は、無表情だった。
いつもの笑顔が、消えている。
「……頼む」
カイトは、短く言った。
レンは、頷くと、カイトの太ももの傷口を確認した。
「深い。金属片が、まだ刺さってる。抜くよ」
「ああ」
レンは、傷口に指をかけた。
「我慢して」
レンは、一気に金属片を引き抜いた。
ズブ。
肉が裂ける音。
カイトは、声を出さなかった。
痛みを、顔に出さない。
だが、額に脂汗が滲み、視界が一瞬、白く弾けた。
レンは、素早く布切れを傷口に当て、強く縛り上げた。
「これで、少しは止まるはず。でも、縫わないと、また開くよ」
「……ありがとう」
カイトは、絞り出すように言った。
レンは、何も言わなかった。
礼の言葉は、なかった。
レンは、立ち上がると、周囲に目を走らせた。
「ここ、危ない。早く移動しよう」
「ああ」
カイトは、レンの肩を借りて、立ち上がった。
太ももが、痛んだ。
歩くたびに、傷口から血が滲む。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
二人は、配管通路を抜け、南側の廃墟へと向かった。
――
移動の間、レンは何も言わなかった。
カイトも、何も言わなかった。
言葉は、なかった。
だが、レンが差し出した肩の力加減が、カイトの体重を支える角度が、言葉よりも雄弁に、何かを伝えていた。
(こいつは、礼を言わない)
(感謝の言葉を、口にしない)
(だが、この仕草は、損得で説明できない)
カイトは、レンの横顔を盗み見た。
レンの表情は、相変わらず無表情だった。
そばかすのある頬。琥珀色の瞳。常に笑っているような口元。
その口元が、今は、きつく結ばれていた。
(こいつは、俺を助けた)
(自分の服を裂いて、俺の血を止めた)
(なぜだ)
カイトは、答えを出せなかった。
――
南側の廃墟に着いた頃には、空が白み始めていた。
二人は、崩れた建物の一室に身を潜めた。窓はなく、壁の一部が崩れ落ちている。外からは、北区画の騒乱が、まだ微かに聞こえていた。
カイトは、壁に背を預けて座り込んだ。
太ももの傷が、ズキズキと脈打っている。
レンは、カイトの向かいに座り、膝を抱えた。
沈黙が、部屋を満たした。
「……なんで、かばったの」
レンが、唐突に言った。
声は、低く、静かだった。
「お前を生かすためだ」
カイトは、即答した。
「俺が死んだら、お前も困るだろ。二人でいる方が、生き残る確率が高い。だから、かばった。損得だ」
カイトは、淡々と続けた。
「……そう」
レンは、短く返した。
「俺も同じだよ」
レンが、顔を上げた。
「あんたが死んだら、俺も困る。だから、血を止めた。損得だよ」
レンの口元が、わずかに歪んだ。
笑っているのか、笑っていないのか、わからない表情。
「損得なら、助ける必要はなかった。俺を見捨てて逃げる方が、お前の生存確率は上がる」
カイトは、レンの目を見た。
「それは、そうだね」
レンは、肩をすくめた。
「でも、俺は、あんたを見捨てなかった。なぜだと思う?」
「知るか」
「俺も、知らない」
レンは、膝に顔を埋めた。
「損得で説明できないことを、俺たちは、さっき、お互いにした。あんたは、俺をかばった。俺は、あんたの血を止めた。どっちも、生存確率を下げる行為だ。なのに、やった」
レンの声が、くぐもって聞こえた。
「……お前を生かすためだ、って言ったのは、嘘だ」
カイトは、静かに言った。
レンが、顔を上げた。
「俺も、同じだって言ったのは、嘘だ」
二人は、見つめ合った。
「でも、嘘をついた理由は、本心を隠すためじゃない」
「うん。本心を、隠すための嘘じゃない。本心を、守るための嘘だ」
レンの目が、わずかに揺れた。
「俺たち、似てるね」
「ああ」
カイトは、短く返した。
(似ている)
(似ているから、わかる)
(こいつは、俺と同じだ)
(自分の命よりも、他人の命を優先する。だが、それを、絶対に認めない。損得の建前で、本心を覆い隠す)
カイトは、胸の奥で、何かが動くのを感じた。
(組織の命令ではなく、レン個人を優先したい)
(そんな欲求が、俺の中に、ある)
カイトは、自分の内側に生まれた感情に、動揺した。
(俺は、クサビの工作員だ)
(任務は、可能な限り参加者を生かすこと)
(だが、今、俺が考えているのは、任務のことじゃない)
(レンを、生かしたい)
(この、目の前にいる、嘘つきの少年を)
カイトは、太ももの傷を押さえた。
血が、まだ滲んでいる。
痛みが、思考を鋭くする。
(ダメだ)
(任務を忘れるな)
(レンは、ただの参加者だ)
(俺が生かすべきは、レンだけじゃない)
(参加者全員だ)
カイトは、自分に言い聞かせた。
だが、心の奥で、別の声が囁く。
(本当に、そうか?)
(お前は、本当に、レンだけを特別に思っていないのか?)
カイトは、目を閉じた。
――
レンもまた、自分の内側と向き合っていた。
左手首の内側を、無意識に、親指でなぞっている。
クサビの構成員が身につける、隠し印の位置。
(俺は、今、何を考えた?)
(カイトを、生かしたい)
(任務よりも、カイトを)
レンは、自分の心の動きに、静かな驚きを覚えていた。
(俺は、弟の嘘を守るために、ここにいる)
(そのためなら、誰を犠牲にしてもいいはずだ)
(なのに、なぜ)
(なぜ、カイトをかばった?)
(なぜ、カイトの血を止めた?)
レンは、答えを出せなかった。
「……なあ、カイト」
レンが、口を開いた。
「なんだ」
「俺たち、この先、どうなると思う?」
「知るか」
「だよね」
レンは、小さく笑った。
「でも、一つだけ、わかることがある」
「なんだ」
「俺は、あんたを、信じてもいいのかもしれないって、思ってる」
レンの声が、静かに響いた。
カイトは、目を開けた。
レンの顔を見る。
レンの目は、真剣だった。
「……俺も、同じことを、考えてた」
カイトは、ゆっくりと言った。
「でも、信じるのは、まだ早い。お互いに、隠してることがある」
「そうだね。隠してること、ある。お互いに」
レンは、左手首をなぞる指を、止めた。
「だから、今は、信じない。でも、信じてもいいかもしれないって、思ってる。それだけで、十分だ」
「……そうか」
カイトは、それ以上、何も言わなかった。
――
その時だった。
カイトの端末が、震えた。
「区画東側 封鎖」
画面に、文字が浮かぶ。
カイトは、端末を見下ろした。
「東側が、封鎖された」
「は? 封鎖?」
レンが、身を乗り出してきた。
「運営が、東側の区画を閉鎖したんだ。壁が下りて、通れなくなってる」
「なんで、東を?」
「参加者を、追い込むためだ。北に集めた奴らを、南に逃がさないように、東を塞いだ。西と南は、まだ開いてるが、いずれ塞がれる」
カイトは、地図を確認した。
東側が、封鎖されている。
北側は、偽の指輪反応で、殺し合いの真っ只中。
西側は、まだ開いているが、遠い。
南側は、ここだ。
だが、南側のさらに先は、袋小路になっている。
「……まずいな」
カイトは、呟いた。
「どういうこと?」
「俺たちが今いる場所は、南側の端だ。この先は、封鎖壁にぶつかる。東は塞がれた。北は、殺し合いの真っ只中。西に抜けるには、北の端をかすめるしかない。だが、あそこは、もう地獄だ」
カイトは、端末の地図を指でなぞった。
「要するに、俺たちは、袋小路に追い込まれた」
「……マジか」
レンが、乾いた声で言った。
「食料も、水も、ない。傷は、塞がってない。動けば、監視ドローンに捕捉される。封鎖区域には、ドローンが集中配備されてる。逃げ場は、ない」
カイトは、淡々と状況を説明した。
「ここで、終わりかもな」
レンが、軽口を叩いた。
だが、その声は、笑っていなかった。
カイトは、応答しなかった。
――
封鎖壁は、高さ十メートルを超える鋼鉄の壁だった。
スナドケイ区の南端に、そびえ立っている。壁の表面は錆びつき、ところどころに亀裂が走っていた。だが、その亀裂は、人が通れるほどの大きさではない。
カイトは、壁の構造を観察した。
(接合部に、隙間がある)
(だが、狭すぎる。人一人が通れるかどうか)
(それに、封鎖壁の周囲には、監視ドローンが集中している)
カイトは、空を見上げた。
監視ドローン「ハエ」が、青白い光を点滅させながら、壁の周囲を旋回している。赤い接眼レンズが、こちらを向いた。
(動けば、狙われる)
(いや、動かなくても、いずれ見つかる)
カイトは、壁の隙間から差し込む光を見つめた。
朝の光が、壁の向こうから、細く、鋭く、差し込んでいた。
(あの光の向こうに、何がある?)
(自由か?)
(それとも、別の檻か?)
カイトは、答えの出ない問いを、胸の奥に抱え込んだ。
――
十二歳の冬。
ソダテヤ第7の、薄暗い廊下。
カイトは、扉の隙間から、それを見た。
同室の少年が、職員に引きずられていく。
少年は、脱走を試みた。
失敗した。
職員たちは、少年を、施設の中庭に連れ出した。
他の子供たちは、全員、窓際に集められた。
「見ろ。これが、規則を破った者の末路だ」
職員の声が、中庭に響いた。
少年は、泣いていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。もうしません。許してください」
少年の懇願は、無視された。
職員の一人が、少年の首に、縄をかけた。
少年は、抵抗した。
だが、大人の力には、敵わなかった。
縄が、締め上げられていく。
少年の顔が、赤くなり、やがて紫に変わった。
足が、宙に浮く。
痙攣。
そして、動かなくなった。
カイトは、扉の隙間から、その一部始終を見ていた。
体が、震えた。
だが、声は、出なかった。
涙も、出なかった。
(俺は、何もできなかった)
(あいつを、助けられなかった)
カイトは、自分の無力さを、骨の髄まで思い知った。
その夜、カイトは、自分の左眉の上を、壁に打ちつけた。
何度も、何度も。
痛みで、無力感を、上書きするように。
血が流れた。
だが、痛みは、心の痛みを、消してくれなかった。
(俺は、強くならなければ)
(誰かを守れるくらい、強く)
(一人では、無理だ)
(組織に属さなければ、誰も守れない)
カイトは、その夜、心に誓った。
――
(あの時の誓いが、俺の原点だ)
カイトは、封鎖壁の隙間から差す光を見つめながら、過去の記憶を反芻していた。
(組織に属することでしか、誰かを守れない)
(そう思っていた)
(だが、今は)
カイトは、隣に座るレンを見た。
レンは、膝を抱え、目を閉じていた。
茶色の癖毛が、風に揺れる。
(レンを生かしたい)
(組織の命令ではなく、自分の意志で)
(任務を果たすことと、レンを生かすことは、同じじゃない)
(どちらかを選ばなければならない時が、来る)
カイトは、太ももの傷を押さえた。
血が、指の間から滲む。
痛みが、現実を引き戻す。
(答えは、出ない)
(今は、まだ)
カイトは、選択を先延ばしにした。
――
時間が、ゆっくりと流れていく。
北区画からの悲鳴は、もう聞こえなかった。
静寂が、封鎖区域を包んでいた。
監視ドローンの羽音だけが、かすかに聞こえる。
「……カイト」
レンが、目を開けずに言った。
「なんだ」
「俺、思うんだけど」
レンは、ゆっくりと目を開けた。
琥珀色の瞳が、カイトを見る。
「もし、どっちか一人しか生き残れないとしたら、あんた、どうする?」
カイトは、黙った。
「俺は、あんたを生かすよ」
レンは、静かに言った。
「……なぜ」
「なぜだろうね。損得で考えたら、自分が生き残るべきだ。でも、俺は、あんたを生かす。理由は、わからない。でも、そうする」
レンの声は、真剣だった。
「俺も、同じだ」
カイトは、短く言った。
「お前を生かす。理由は、わからない。でも、そうする」
二人は、見つめ合った。
沈黙。
「……似てるね、俺たち」
レンが、小さく笑った。
「ああ」
カイトは、頷いた。
「だから、かな。あんたのこと、信じてもいいかもしれないって、思えるのは」
「俺もだ」
カイトは、封鎖壁の隙間から差す光に、目を向けた。
光は、細く、鋭く、暗い部屋の中を切り裂いていた。
(この光の向こうに、何があるのか)
(まだ、わからない)
(だが、今は、この光を、見つめていよう)
カイトは、太ももの血を押さえる手に、力を込めた。
血は、まだ、止まっていなかった。
レンの呼吸が、隣で聞こえていた。
浅く、速い。
眠っているわけでは、ない。
目は閉じているが、指先が、かすかに震えていた。
カイトは、その震えを見ないようにして、壁の光だけを見つめていた。
光は、動かなかった。
何も、変わらなかった。Noveliaとは?
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