零落の令嬢は拳で語る - 拳が稼ぐ夜、雨に濡れた誓い
朝の光が、古びた屋敷の窓から細く差し込んでいた。
ヴァルドレン屋敷の食堂は、がらんとしている。長い食卓には、ひびの入った木の椀が三つ。湯気も立っていない。中身は、昨日の残りの豆を水でのばしただけの、薄い汁だった。
セレスティア・ヴァルドレンは、その椀を両手で包むように持っていた。銀がかった淡い金髪は、今朝も低い位置で一つに結ばれている。ほつれた毛先が、白いうなじに落ちていた。灰青の瞳は、汁の表面に映る自分の顔を、ぼんやりと見つめている。
首元の魔力封じの腕輪が、朝の冷気でひやりと重い。鉄と銀の合金。五年前から、彼女の肌に張り付いて離れない。この世界では、魔力がすべてを決める。魔力の量と質が、身分を決め、仕事を決め、結婚相手まで決める。魔力は通貨にも、担保にも、武器にもなる。
そして、魔力をすべて奪われた者は、空っぽと呼ばれる。死んでいるも同然の、社会の底辺。
セレスティアは、その空っぽだった。
「お嬢様、申し上げにくいのですが」
老執事のガレス・オルドリッジが、静かな声で切り出した。白髪を後ろに撫でつけた、皺の深い顔。灰色の目は、いつも穏やかだ。彼は、古びた帳面を手に、食卓の横に立っていた。
「現在、屋敷に残っております現金は、銀貨二枚と銅貨五枚。食料庫には、豆が半袋と、硬くなったパンが一つ。これが、我々の全財産でございます」
セレスティアは、汁を一口すする。塩気のない、水のような味だった。
「そうか」
彼女の返事は、短かった。金銭感覚がない、と自分でも分かっている。銀貨二枚で何が買えるのか、正直、よく分からない。でも、それがもう底だということだけは、ガレスの声のトーンで理解できた。
「やべえ、まじでやべえじゃん!」
食卓の向かいから、リュカが身を乗り出してきた。赤茶の癖毛が、ふわふわと揺れる。そばかすの浮かんだ茶色の目が、心配そうに見開かれていた。左の頬には、小さな傷がある。
十三歳のリュカは、この屋敷に居着いている、行き場のない少年だ。半年ほど前、ソイル地区の路地で行き倒れていたところを、ガレスに拾われた。お調子者で、いつも早口で、語尾が上がる。でも、本当は臆病で、恩を返したいと焦っている。
「俺も働く! 俺、力仕事ならできるぜ! 運河の荷運びでも、市場の手伝いでも、なんでもやる!」
リュカは、細い腕をまくって、力こぶを作ろうとした。ほとんど膨らんでいない。
「リュカ、あなたはまだ十三歳でしょう。ソイル地区の荷運びは、成人男性でも腰を痛める重労働ですよ」
ガレスが、穏やかに、でも有無を言わせない口調で言った。
「じゃあ、俺に何ができるって言うんだよ! このまま何もしないで、飯だけ食ってろってのかよ!」
リュカの声が、少し震えた。彼は、自分が役に立たないことを、誰よりも気にしている。この屋敷に置いてもらっていること自体が、申し訳なくて仕方ないのだ。
セレスティアは、リュカの顔を見た。
「……お前は、屋敷を守っていろ」
「えっ」
「借金取りが、また来るかもしれない。その時、誰かが家にいないと、何を壊されるか分からない」
セレスティアの声は、低く、よく通った。感情の色は薄い。でも、嘘ではなかった。
「俺が、守るのか……?」
「そうよ。あんたにしか、頼めない」
リュカの茶色の目が、ゆっくりと見開かれた。それから、彼は、ぎゅっと唇を引き結んで、何度も頷いた。
「……分かった。俺が、絶対に守る。誰も、この屋敷に近づけさせない」
その声は、まだ震えていた。でも、今度は、怯えだけの震えではなかった。
ガレスが、小さく微笑んだ。
「お嬢様、それでは、わたくしも何か手を打ちましょう。トビーの雑貨屋に、売れるものがないか、もう一度聞いてみます」
「トビー?」
「ええ、ソイル地区で小さな雑貨屋を営んでおる、わたくしの古い知り合いでございます。以前、屋敷の古い燭台を買い取ってくれたことがありましてな」
「……分かった。でも、無理はしないで」
「お嬢様こそ、お気をつけて」
セレスティアは、残りの汁を一息に飲み干した。椀を置く。
「私も、働く」
彼女は、それだけ言うと、立ち上がった。
「働くって、姉ちゃん、何するんだよ? 貴族の令嬢が、市場で野菜でも売るのか?」
リュカが、首をかしげる。
「……下町には、裏の仕事がある。護衛とか、借金取りの追い払いとか、喧嘩の仲裁とか」
「護衛って、姉ちゃんが!?」
リュカが、素っ頓狂な声を上げた。
「魔力、ないんだぜ? 大丈夫なのかよ」
「魔力がなくても、戦える」
セレスティアは、自分の拳を見下ろした。革の手袋に包まれた、節くれ立った大きな拳。指の付け根には、古い傷跡がある。
「この拳がある。それで十分よ」
彼女の灰青の瞳が、ほんの少しだけ、濃くなった。
「お嬢様」
ガレスが、静かに呼び止めた。
「どうか、ご無理だけはなさらぬよう。わたくしどもは、お嬢様が無事でいてくださることが、何よりの願いでございます」
「……心配ない。行ってくる」
セレスティアは、古びた紺の乗馬服の襟を正し、腰に布を巻きつけた。それから、壊れたままの玄関扉を、静かに押し開けた。
外は、よく晴れていた。
王都ルミナスの空は、澄んだ青だった。でも、下町ソイル地区の空気は、いつもどことなく湿っていて、運河の匂いが混じっている。腐った魚と、泥と、汗と、安い油の匂い。
セレスティアは、石畳の道を北から南へと歩いた。
ソイル地区は、王都の南岸に広がる下町だ。人口三十五万の王都ルミナスのうち、三十二万がこの地区に住んでいる。木造の家々がひしめき合い、細い運河が網の目のように走っている。橋の下では、洗濯をする女たちが、大きな声で笑っていた。
「おい、見ろよ。あれ、ヴァルドレン家の……」
「空っぽの令嬢だろ。なんでこんな所に」
「さあな。借金取りにでも追われてるんじゃないか」
道行く人々が、ちらちらと彼女を見て、ひそひそと噂する。セレスティアは、聞こえないふりをした。慣れていた。
双頭橋を渡る。王都の北岸、貴族街アウレア地区と、南岸のソイル地区を結ぶ、全長百八十メートルの橋だ。通行料は銅貨一枚。セレスティアは、橋のたもとの番人に、銅貨を一枚渡した。
橋の上からは、リヴァー・ルミナス川がよく見えた。川面が、朝日を反射して、きらきらと光っている。対岸には、白い石造りの貴族街が、まるで別世界のようにそびえていた。
でも、セレスティアの足は、南へ向かう。
橋を渡り終えると、空気が変わった。石畳の道は、ぬかるみに変わり、建物は低く、壁は黒ずんでいる。路地の奥からは、腐ったゴミの匂いが漂ってきた。
ソイル地区の中心部に近づくにつれ、人通りは増えた。荷車を引く男、籠を背負った女、裸足で走り回る子供たち。みんな、魔力の少ない平民だ。魔力ランクで言えば、DかEかF。この国では、魔力の量がそのまま人の価値になる。Dランク以下は、貴族からは人として数えられない。
セレスティアは、大通りから一本、細い路地に入った。
しばらく歩くと、古い木造の建物が見えてきた。看板には、錆びた鍵の形をした飾りがぶら下がっている。酒場「錆びた鍵」。ソイル地区の溜まり場だ。
扉を押し開けると、カラン、と鈴の音がした。
中は薄暗く、汗と酒と豆の煮込みの匂いが混ざっていた。昼前だというのに、カウンターには数人の男がいて、安いエールを飲んでいる。
「あら」
カウンターの奥から、女の声がした。
マーサだった。五十代の、がっしりした体格の女だ。元冒険者で、今はこの酒場の店主をしている。白髪交じりの髪を後ろで束ね、腕には古い火傷の跡がある。目つきは鋭いが、口元は笑っている。
「おやまあ、ヴァルドレン家のお嬢様じゃないか。こんな汚い店に、何の用だい?」
マーサは、カウンターに肘をついて、セレスティアを値踏みするように見た。
「仕事を探している」
セレスティアは、まっすぐにマーサの目を見て言った。
「仕事だって?」
マーサは、ふん、と鼻を鳴らした。
「あんた、魔力はどうしたんだい。ああ、そうか。空っぽなんだったね。この街で、空っぽの女にできる仕事なんて、あると思うかい?」
「護衛の仕事を回してほしい」
「護衛?」
マーサの目が、細くなった。
「あんた、自分のこと、何だと思ってるんだい。元貴族の令嬢が、拳ひとつで護衛だって? 笑わせるんじゃないよ」
「笑わせて、もしも本当に強かったら、得をするのはあんたでしょう」
セレスティアの声は、静かだった。でも、その静けさには、不思議な圧があった。
マーサは、しばらくセレスティアの顔をじっと見ていた。それから、ゆっくりと、にやりと笑った。
「……面白いね。いいだろう。ちょうど、品物運びの護衛が一件ある。古運河地区の倉庫から、大通りの商店まで、荷物を運ぶだけさ。報酬は銀貨五枚。どうだい?」
銀貨五枚。この世界では、銀貨一枚が約千円の価値だ。五枚なら、五千円。パン一斤が銅貨三枚、つまり三百円だから、しばらくは食いつなげる。
「受ける」
セレスティアは、即答した。
「そうかい。じゃあ、これが依頼主の住所だ。今日の昼過ぎに、古運河地区の第三倉庫へ行きな。荷物は、運河沿いの道を通って、大通りの『青い看板の商店』まで届ける。道中、チンピラどもがたかってくるかもしれないが、あんたの腕前、見せてもらうよ」
マーサは、紙切れを一枚、カウンターに置いた。
「もし荷物を奪われたら、報酬はなし。あんたの信用もなし。この街で仕事が欲しけりゃ、失敗は許されないよ」
「……分かっている」
セレスティアは、紙切れを手に取った。
「それと、これ、前金だ。銅貨五枚。腹ごしらえでもしな」
マーサは、カウンターに銅貨を五枚、並べた。
「……ありがとう」
セレスティアは、銅貨を握りしめた。
「礼なんかいいよ。仕事で返しな」
マーサは、ひらひらと手を振った。
セレスティアは、酒場を出た。
銅貨五枚を、ポケットに入れる。その重みが、妙に心強かった。
彼女は、古運河地区へ向かった。
古運河地区は、ソイル地区の南東にある、古い倉庫街だ。かつては運河を使った物流の中心地だったが、今では使われなくなった倉庫が並び、昼間でも薄暗い。ここには、まともな人間は近づかない。ミアズマ環という、魔力を売買する組織の隠れ拠点があるとも噂されている。
セレスティアは、マーサから渡された紙切れに書かれた住所を頼りに、倉庫の間を歩いた。
第三倉庫は、運河に面した古い石造りの建物だった。入り口の前に、幌付きの荷車が一台停まっている。荷台には、木箱がいくつか積まれていた。
「あんたが、護衛かい?」
荷車の横から、中年の男が声をかけてきた。薄汚れたエプロンを着た、商人風の男だ。
「そうよ」
「女か……まあ、マーサの紹介なら、文句は言わねえ。この荷車を、大通りの青い看板の商店まで運ぶ。道中、変な奴らに絡まれたら、あんたが追い払うんだ。いいな?」
「分かった」
「頼むぜ。この荷物は、今日中に届けないと、俺の首が飛ぶんだ」
商人は、荷車の手綱を握った。
「行くぞ」
荷車が、ゆっくりと動き出した。セレスティアは、その横を歩く。
古運河地区の道は、石畳が剥がれ、ぬかるんでいた。荷車の車輪が、水たまりに沈むたびに、泥が跳ねる。運河の水面は、油で虹色に光っていた。
しばらく歩くと、周囲の空気が、急に重くなった。
セレスティアは、足を止めた。
「どうした?」
「……来る」
次の瞬間、路地の影から、三人の男が現れた。
みんな、薄汚れた外套を着て、手に棍棒や短剣を持っている。目つきが、獲物を見つけた野良犬のようだった。
「へへ、兄ちゃん、その荷物、置いて行きな」
先頭の男が、棍棒を肩に担いで、にやにや笑いながら近づいてくる。
「な、なあ、あんた、何とかしてくれよ!」
商人が、青ざめて後ずさった。
セレスティアは、無言で、荷車の前に立った。
「おいおい、なんだ、その女。護衛のつもりか? 細っこい女が、俺たちに勝てると思ってんのか?」
男たちが、げらげら笑った。
「空っぽのくせに、生意気だなあ。大人しくしてりゃ、痛い目に遭わないで済むぜ」
「……下がって」
セレスティアは、商人にだけ聞こえるように、小さく言った。
「えっ」
「下がっていなさい。死なせない」
その声は、奇妙なほど静かだった。
商人は、慌てて荷車の陰に隠れた。
「おい、無視してんじゃねえよ!」
先頭の男が、棍棒を振り上げて、突っ込んできた。
セレスティアは、動かなかった。
棍棒が、彼女の頭を狙って振り下ろされる。
その直前、彼女の体が、ふわりと沈んだ。
棍棒が空を切る。セレスティアは、男の懐に滑り込むと、左手で男の手首を掴み、右手の肘を、男のみぞおちに叩き込んだ。
「ぐ、え……!」
男の体が、くの字に折れ曲がる。棍棒が、手から落ちた。
セレスティアは、そのまま男の足を払い、背中から地面に叩きつけた。ドゴッ、という重い音。男は、白目をむいて、動かなくなった。
「て、てめえ!」
二人目の男が、短剣を抜いて突っかかってきた。狙いは、セレスティアの腹。
彼女は、半身になって短剣をかわすと、男の突き出した腕の関節を、逆にひねり上げた。
メリ、という嫌な音。
「ぎゃあああ!」
男が悲鳴を上げる。セレスティアは、その腕を離さず、男の膝の裏を蹴って、地面に押し倒した。短剣が、石畳に落ちて、カラン、と音を立てた。
三人目の男が、後ずさった。
「な、なんなんだよ、この女……魔力も使わずに、なんで……」
男の声は、震えていた。
セレスティアは、無言で、男に歩み寄る。
「く、来るな! 来るなよ!」
男は、手に持っていた棍棒を、でたらめに振り回した。
セレスティアは、その棍棒を、左手で受け止めた。
ガッ、という音。彼女の手袋が、わずかに破れた。でも、彼女は、そのまま棍棒を握りしめ、男の手首を、外側へひねり上げた。
「い、痛え! 痛え痛え痛え!」
男が、悲鳴を上げる。
「……動くな」
彼女の声は、低く、冷たかった。
男は、観念したように、その場にへたり込んだ。
「す、すみません! もうしません! 許してください!」
セレスティアは、男の手首を離した。
「……行きなさい。次はない」
男は、尻餅をついたまま、這うようにして逃げていった。倒れていた二人も、なんとか起き上がり、よろよろと路地の奥へ消えていった。
静かになった。
「……す、すげえ」
商人が、荷車の陰から、恐る恐る顔を出した。
「あんた、本当に、魔力なしで、あの三人を……」
「急ぎましょう。時間がもったいない」
セレスティアは、破れた手袋を直しながら、歩き出した。
商人は、慌てて荷車の手綱を握り、彼女の後を追った。
「あんた、名前は?」
「……セレスティア」
「セレスティア……覚えとくよ。あんた、この街で、すぐに有名になるぜ」
セレスティアは、答えなかった。
有名になるつもりはなかった。ただ、食い扶持を稼ぎたかっただけだ。
でも、この日の出来事は、商人の口から、酒場の客へ、市場の女たちへ、運河の船乗りたちへと、あっという間に広まっていった。
「空っぽの令嬢が、拳だけで、チンピラ三人をのした」
「魔力なしで、だぜ? ありえねえ」
「ヴァルドレン家の、あの令嬢か。化け物だな」
下町に、静かに、でも確実に、セレスティアの名が広がり始めた。
それから、数日が過ぎた。
セレスティアは、マーサの酒場に通い、護衛の仕事を何件かこなした。品物運び、借金取りの追い払い、酔っ払いの喧嘩の仲裁。どれも、拳ひとつで片付けた。
報酬は、銀貨五枚から十枚。屋敷の食卓には、久しぶりに温かい豆の煮込みと、焼きたてのパンが並ぶようになった。
リュカは、毎晩、目を輝かせて、セレスティアの帰りを待っていた。
「姉ちゃん、今日はどんな奴らと戦ったんだ? 五人? 十人? やっぱり、一撃で倒したのか?」
「……ただの仕事よ」
セレスティアは、いつも、それだけ答えた。
「お嬢様、どうか、お体を大事になさってください。無理をなさると、後で響きますぞ」
ガレスは、毎晩、セレスティアの手当てをした。擦り傷、打ち身、時には、深い切り傷。彼は、慣れた手つきで、薬草をすりつぶし、包帯を巻いた。
「……ありがとう、ガレス」
「お礼など、とんでもございません。わたくしは、お嬢様が無事でいてくだされば、それで十分でございます」
ガレスの灰色の目は、いつも、優しかった。
ある日、セレスティアは、古運河地区での護衛を終えて、屋敷へ帰る途中だった。
空が、急に暗くなった。
ポツ、ポツ、と、雨粒が落ちてくる。
あっという間に、土砂降りになった。
セレスティアは、道端の古い倉庫の軒下に、雨宿りをしようとした。
その時だった。
「姉ちゃん!」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、リュカが、びしょ濡れになって走ってきていた。赤茶の癖毛が、雨で額に張り付いている。手には、ぼろぼろの傘を握っていた。
「リュカ? どうしてここに」
「ガレスさんに、傘を持って行ってくれって言われたんだ! 姉ちゃん、雨に濡れるからって!」
リュカは、息を切らしながら、傘を差し出した。
「……あんた、自分がずぶ濡れじゃない」
「へへ、俺は平気だぜ! 子供は風の子って言うだろ?」
リュカは、白い歯を見せて笑った。
「……そう」
セレスティアは、傘を受け取った。
「ほら、姉ちゃん、こっちこっち。水たまり、深いから」
リュカが、先に立って、石畳の道を歩き出す。
その時だった。
リュカの足が、濡れた石畳の上で、つるりと滑った。
「うわっ!」
リュカの体が、大きく傾く。
セレスティアは、咄嗟に、左手を伸ばした。
リュカの腕を、がっしりと掴む。
でも、彼女の右手には、護衛の報酬で買った、屋敷の食料品が入った布袋があった。傘も持っていた。両手がふさがったままの、不格好な救助だった。
リュカの体が、セレスティアの肩に、どん、とぶつかる。
「うわ、ごめん、姉ちゃん!」
リュカが、慌てて体勢を立て直す。
「……大丈夫?」
「だ、大丈夫だぜ! ちょっと滑っただけだ!」
リュカの顔が、雨のせいだけではない赤さで、染まっていた。
「……ほら、傘、入りなさい。あんた、もうずぶ濡れでしょ」
セレスティアは、リュカの頭の上に、傘を傾けた。
「えっ、でも、姉ちゃんが濡れちゃう……」
「私は、もう濡れてるから、同じよ」
セレスティアは、リュカの肩を、軽く自分の方へ引き寄せた。
リュカは、何か言いたそうに口を開いたが、結局、何も言わずに、うつむいた。
雨音が、世界を満たしていた。
ザァァァ、という音。石畳を叩く雨。運河の水面に広がる波紋。遠くの雷鳴。
二人は、肩を寄せ合って、雨の中を歩いた。
セレスティアの左手は、まだ、リュカの腕を掴んだままだった。
リュカは、その手の温かさを、ずっと感じていた。
(姉ちゃんの手、あったけえ……)
彼は、誰にも聞こえないように、小さく息を吐いた。
屋敷に着くと、ガレスが、玄関で待っていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。リュカも、よくやりました」
ガレスは、二人の姿を見て、微笑んだ。
「ただいま。……リュカが、傘を持ってきてくれたの」
「ええ、見ておりました。リュカが、あんなに一生懸命に走っていく姿を、見るのは初めてでございました」
「な、なんだよ、ガレスさん! 見てたのかよ!」
リュカが、顔を真っ赤にして叫んだ。
「ふむ。見ておりましたとも。あなたが、お嬢様のために、あんなに頑張るとは、わたくし、感動いたしました」
「う、うるさい! これは、その、傘を届けただけだし!」
リュカは、ばたばたと屋敷の中へ駆け込んでいった。
セレスティアは、濡れた髪を絞りながら、ガレスを見た。
「ガレス、あの子、最近、少し変わったわ」
「ええ。お嬢様のおかげでございます。リュカは、自分の居場所を、この屋敷に見つけたのでしょう。そして、その居場所を守りたいと、思うようになった。それは、とても良いことでございます」
ガレスの声は、穏やかだった。
「……私の、おかげ?」
「左様でございます。お嬢様は、リュカに、『お前にしか頼めない』とおっしゃいました。あの言葉が、あの子の心に、どれほど深く刻まれたか。お嬢様には、分からぬかもしれませんが」
セレスティアは、黙って、濡れた手袋を外した。
「お嬢様」
ガレスが、静かに、でも、はっきりとした声で言った。
「わたくしは、家ではなく、お嬢様にお仕えしております。ヴァルドレン家がどうなろうと、このガレス・オルドリッジは、セレスティア・ヴァルドレンというお方の、執事でございます。どうか、それだけは、忘れないでくださいませ」
セレスティアの灰青の瞳が、わずかに揺れた。
雨音が、静かに、屋敷を包んでいた。
「……知ってる」
セレスティアは、小さく頷いた。
「知ってるわ、ガレス。あんたが、ずっと、私の側にいてくれたこと。家のためじゃなく、私のために」
「お嬢様……」
「ありがとう」
セレスティアは、ガレスの目を、まっすぐに見て言った。
「これからも、よろしくね」
ガレスは、深々と、頭を下げた。
「……光栄の至りでございます」
その声は、少しだけ、震えていた。
それから、数日が過ぎた。
セレスティアの護衛の仕事は、順調だった。マーサの酒場には、彼女を指名する依頼が、少しずつ増えていた。
でも、それと同時に、奇妙なことが起こり始めた。
屋敷の周囲を、うろつく男の影が、増えたのだ。
最初は、一人だった。次は、二人。そして、三人。みんな、薄汚れた外套を着て、屋敷の様子を、じっと窺っていた。
「お嬢様、またです。今度は、庭の裏手に、二人ほど」
ある夜、ガレスが、静かに報告した。
「……分かってる」
セレスティアは、窓の外を見た。月明かりの中、庭の木陰に、確かに、人の気配があった。
「ドラングの手下かしら」
「おそらくは。ですが、何かを仕掛けてくる様子は、まだございません。ただ、見張っているだけのようです」
「……相手にしなくていい。何かしてきたら、その時は、私が追い払う」
「お嬢様、お一人で、ご無理はなさらぬよう」
「大丈夫。ガレスとリュカは、家の中にいて。絶対に、外に出ないで」
セレスティアの声は、有無を言わせなかった。
「また来たら、返り討ちだ! 俺が、この屋敷を守るんだからな!」
リュカが、廊下の奥から、顔を出して言った。手には、古い薪割り用の斧を持っている。
「……あんた、それ、重いでしょ。振り回して、自分が転ばないでよ」
「だ、大丈夫だぜ! 俺だって、やる時はやるんだ!」
リュカは、斧を構えて、ふんす、と鼻息を荒くした。
セレスティアは、リュカの頭に、ぽんと手を置いた。
「……無理するな」
「う、うん……」
リュカは、斧を下ろして、小さく頷いた。
翌日。
セレスティアは、マーサの酒場に、新しい依頼を受けに行った。
「おう、セレスティア。今日の仕事は、ちょっと変わってるよ」
マーサは、カウンターの奥から、一枚の紙切れを差し出した。
「古運河地区の倉庫街で、ある商家の娘さんが、チンピラに絡まれてるんだと。あんた、あの辺りに詳しいだろ? 行って、娘さんを助けて、家まで送り届けておやり。報酬は銀貨八枚」
「……娘さんを?」
「ああ。若い娘さんでね、何でも、父親の使いで倉庫街に来たら、五人組のチンピラに囲まれて、動けなくなってるらしい。通行人が見かけて、酒場に知らせてきたんだ。衛兵は、あの辺りには寄り付かないからね」
「分かった。行く」
セレスティアは、紙切れを受け取ると、酒場を飛び出した。
古運河地区まで、走る。
心臓が、胸の奥で、激しく脈打っていた。
(誰かが、傷つく前に)
彼女の足は、自然と速くなった。
倉庫街の一角。
「おい、小娘。大人しくしろって言ってるんだよ」
「そうそう。痛い目に遭いたくなけりゃ、その金目のもん、全部置いてきな」
「へへ、顔はまあまあだな。大人しくしてりゃ、痛くしねえよ」
薄汚れたチンピラが、五人。
彼らは、古い倉庫の壁際に、若い娘を追い詰めていた。
娘は、十五、六歳だろうか。薄い緑色のワンピースを着て、両手で小さな布袋を抱きしめている。顔は真っ青で、体は、小刻みに震えていた。
「た、助けて……誰か……」
娘の声は、か細く、泣きそうだった。
「誰も来ねえよ。ここは、俺たちの縄張りだ。衛兵も、寄り付かねえ。諦めな」
先頭の男が、娘の腕を、乱暴に掴もうとした。
その時だった。
「……その手を、離しなさい」
低い、よく通る声が、倉庫街に響いた。
チンピラたちが、一斉に振り返る。
そこには、セレスティア・ヴァルドレンが立っていた。
銀がかった淡い金髪。灰青の瞳。古びた紺の乗馬服。腰に布。革の手袋。
「なんだ、てめえは?」
「女が一人で、なに生意気な口聞いてんだ?」
チンピラたちが、下卑た笑いを浮かべる。
セレスティアは、無言で、娘の前に立った。
「……下がって。大丈夫。死なせない」
彼女は、娘にだけ聞こえるように、静かに言った。
娘は、涙で濡れた目を、まん丸にして、セレスティアを見上げた。
「てめえ、空っぽのくせに、俺たちに逆らう気か? ああ?」
先頭の男が、セレスティアの肩を、乱暴に掴んだ。
次の瞬間。
セレスティアの左手が、男の手首を、下から絡め取った。
そして、外側へ、思い切りひねり上げる。
メリッ。
「ぎゃあああああ!」
男の悲鳴が、倉庫街にこだました。
セレスティアは、そのまま男の足を払い、背中から地面に叩きつけた。
「て、てめえ!」
二人目の男が、短剣を抜いて突っ込んでくる。
セレスティアは、半身になって短剣をかわすと、男の腕の内側に、自分の体を滑り込ませた。肘が、男のみぞおちに、深くめり込む。
「か、は……」
男が、短剣を取り落とし、膝をつく。
三人目が、棍棒を振り上げて、後ろから襲いかかってきた。
セレスティアは、振り向きざまに、男の棍棒を、右手の手のひらで受け止めた。
ガッ。
手袋が、破れる。でも、彼女は、そのまま棍棒を握りしめ、男の手首を、内側へひねり込んだ。
「い、痛え! 折れる! 折れる!」
男が、悲鳴を上げて、棍棒を離した。
四人目と五人目が、青ざめて、後ずさった。
「な、なんなんだよ、こいつ……」
「魔力も使わずに、三人を……ありえねえ……」
セレスティアは、無言で、二人に歩み寄った。
「……やるなら、来なさい。やらないなら、消えなさい」
彼女の声は、氷のように冷たかった。
二人のチンピラは、顔を見合わせて、それから、倒れた仲間を置き去りにして、脱兎のごとく逃げていった。
静かになった。
雨上がりの倉庫街に、風が吹き抜ける。
セレスティアは、倒れた三人を、一瞥した。
「……生きてるわ。大丈夫」
彼女は、そう言うと、娘の方を振り返った。
「立てる?」
「は、はい……ありがとう、ございます……」
娘は、震える足で、なんとか立ち上がった。
「送っていくわ。家はどこ?」
「あ、あの、大通りの、青い看板の商店です……」
「青い看板の商店」
セレスティアは、少し驚いた。それは、数日前、最初の護衛の仕事で、荷物を届けた店だった。
「……そう。じゃあ、行きましょう」
セレスティアは、娘の手を取って、歩き出した。
その時だった。
倒れていたチンピラの一人が、顔を上げて、吐き捨てるように言った。
「……覚えてろよ。環の者が、お前のことを、探ってるぜ」
セレスティアの足が、一瞬、止まった。
環。
質屋組合「環」。王都の下町に十二店舗を構える、表向きは合法的な質屋の組合だ。でも、その裏には、ミアズマ環という、魔力を売買する闇組織が存在すると噂されている。
セレスティアは、振り返らなかった。
「……知らないわ」
彼女は、それだけ言って、娘の手を引いて、その場を離れた。
大通りの青い看板の商店まで、娘を送り届ける。
「ああ、よかった! 本当に、ありがとうございました!」
商店の主人が、娘を抱きしめて、何度も頭を下げた。
「……気をつけて。あの辺りは、危ないから」
セレスティアは、それだけ言うと、商店を後にした。
夕暮れのソイル地区を、一人で歩く。
空は、茜色に染まっていた。運河の水面が、夕日を反射して、きらきらと光っていNoveliaとは?
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