わたるの蜜
赤い髪、黒縁眼鏡、口元のほくろ——三拍子揃った目立つ容姿のせいで、告白されては断り、誰かを傷つける毎日。染谷我多留が願うのはただひとつ、「普通の高校生」でいること。なのにクラスでは文化祭の脚本係を押しつけられ、断れない性格が今日も彼を追い詰めていく。
そんな我多留の心にずっと住み着いているのは、幼い日に川から救い上げてくれた幼馴染・堀居コウの存在。距離が近すぎる、構ってくる、でもどこか素っ気ない――そんなコウからの連絡が、最近途切れがちになっている。
「ただの幼馴染」のはずなのに、彼からのLINEを待っている自分に気づいてしまった夜。茜色に染まる空の下、我多留の平穏な日常に、少しずつ名前のつけられない感情が滲み出す。
普通でいたい少年と、普通ではいられなくなっていく想い。幼馴染から始まる、不器用で甘い青春の物語。
わたるの蜜 - 茜色の舞台——言葉にできない想いを、声に乗せて
十一月最初の土曜日。茜坂高校の校門には色とりどりのアーチが立ち、吹奏楽部の音が校庭に流れていた。焼きそばの匂いと綿あめの甘い香りが、十一月の冷たい空気に混ざっている。
体育館の舞台袖。
染谷我多留は薄暗い袖の片隅に立っていた。手には擦り切れた『走れメロス』の台本。角は丸くなり、付箋が何枚も貼ってある。
スマホの画面を確認する。コウからのLINEは、昨夜の「今日稽古行けねえわ」の一言だけ。それ以降、何を送っても既読がつかない。
「染谷、準備はいいか」
担任の保科先生が袖のカーテンを開けて顔を出した。四十代の体育教師。今日はジャージではなく、よれよれのスーツを着ている。
「……はい」
小さく頷いた。
「堀居は、まだ連絡つかないのか」
「……すみません」
「謝ることじゃない。アイツの代わりは、お前がやるしかないんだ。いいな」
肩をポンと叩かれる。
昨夜、保科先生から電話があった。コウが文化祭当日に来られないかもしれない。大道具の段取りは他の男子に任せるが、問題は——
「お前が代わりにメロスをやれ」
主役の代役。我多留は脚本担当で、演者ではない。でも、台本を一番理解しているのは我多留だ。保科先生はそう言った。
台本を握りしめる。指が白くなるほど、強く。
「染谷くん」
後ろから柔らかい声がした。
振り返ると、ミナが立っていた。栗色のゆるふわウェーブの髪が薄暗い照明の下でふわりと揺れる。たれ目気味の黒い瞳が、心配そうに我多留を見上げていた。白いワンピースの衣装が、暗がりの中でぼんやりと浮かび上がって見える。
「大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ」
「無理しないでね。染谷くん、昨日もあんまり寝てないでしょ」
「……わかる?」
「目の下、ちょっとクマできてる」
ふわりと微笑む。
その笑顔を見て、少しだけ息が楽になった。数日前、中庭で告白された。丁寧に断った。でも、ミナはその後も普通に接してくれている。
「ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」
「うん。じゃあ、私、立ち位置の確認してくるね」
ミナは舞台の方へ歩いていった。
もう一度スマホを確認する。LINEの画面には過去のやり取りが並んでいる。
「明日もパン頼むわ」
「購買のコロッケパンな」
「お前のシャンプー変えただろ」
「あれ、いい匂いする」
普段なら何気なく流していた言葉。今は、その一つ一つがやけに重く感じられる。
昨夜のことを思い出す。
コウの部屋。本棚から溢れ出した無数の写真。全部、我多留の写真だった。中学時代の制服姿。寝顔。笑顔。知らない間に撮られたものばかり。
部屋の隅で膝を抱えるコウが言った。
「気持ち悪いだろ」
「ずっと、お前のこと——」
その先を、我多留は聞かなかった。聞けなかった。逃げるように、部屋を出た。
台本の表紙を指でなぞる。『走れメロス』。信じること。待つこと。
「染谷、そろそろ幕を開けるぞ」
ハッと顔を上げる。体育館の中からざわざわという観客の声が聞こえる。
「……わかりました」
深く息を吸った。胸の奥で心臓が重く脈打っている。
幕が、上がる。
——
体育館のステージに光が溢れた。我多留は舞台の中央に立っていた。白いシャツに茶色のズボン。メロスの衣装。客席には百人以上の観客がいる。保護者、在校生、近所の住人。
台本を開いた。
「メロスは激怒した」
声が体育館に響く。
「必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」
台本通りの台詞。でも、心は全然舞台にない。
「メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた」
台詞を続ける。
「だが、その日、メロスは知った。王の恐ろしさを。人の命の軽さを」
「メロスは、考えた。信じること。待つこと。それは、人を縛る鎖なのか。それとも、人を救う光なのか」
台本にない台詞だった。口から自然に言葉が溢れ出る。
「俺は——」
台本を閉じた。観客がざわめく。舞台袖で保科先生が何か叫んでいる。でも、耳には何も聞こえない。
「俺は、ただ普通でいたかった」
自分の声が体育館に響く。
「普通に学校に行って、普通に友達と話して、普通に生きていく。それだけでよかった」
客席が静かになる。
「でも、普通って何だろう」
客席を見渡した。
「誰かを傷つけずに生きること。それが普通なのか。それが優しさなのか」
声が震える。
「俺は、ずっと、誰も傷つけないように生きてきた。誰かに嫌われないように。誰かに迷惑をかけないように」
「でも、そのせいで、一番大切な人を傷つけた」
涙が滲む。
「気づけなかった。あいつの気持ちに。あいつが、俺を、どんなふうに見てたのか」
「俺は、あいつの前で、ずっと普通でいたかった。普通の幼馴染でいたかった」
「あいつが、俺の日常だったから。あいつがいないと、俺は、何もできない」
声が張り裂けそうになる。
「壊れるのが怖かった。この関係が、壊れるのが」
「でも、逃げても、何も変わらない。何も、始まらない」
拳を握りしめた。
「俺は——」
言葉が喉に詰まる。
「俺は、あいつに、伝えたいことがある」
体育館がしんと静まり返る。
その時だった。客席の後方で、ガタンと音がした。
——
客席の最後列。車椅子が止まっていた。
そこに座っているのは、堀居コウだった。黒い髪はいつもより乱れている。右眉の小さな傷跡が、薄暗い客席の中でもはっきりと見えた。
「コウ兄、大丈夫?」
車椅子を押しているのは、我多留の妹、みなみだった。艶やかな黒髪をポニーテールに結んで、兄と同じ口元のほくろが心配そうに歪んでいる。
「……ああ」
コウは小さく頷いた。その目は真っ直ぐに、舞台の我多留を見つめている。
「お兄ちゃん、すごいね。台本、全然見てない」
「……あいつ、なんであんなこと言ってんだ」
コウの声は掠れていた。
「コウ兄、昨日、お兄ちゃんの家に来たでしょ」
「……なんで知ってんだ」
「お兄ちゃん、帰ってきてから、ずっと泣いてた。みなみ、部屋の前で聞いてたもん」
コウは黙った。
「お兄ちゃん、コウ兄のこと、すごく考えてたよ。ずっと、ずっと」
みなみの声が静かに響く。
「コウ兄、お兄ちゃんのこと、ちゃんと見てあげて。お兄ちゃん、コウ兄がいないと、あんなにボロボロになっちゃうんだよ」
コウは唇を噛んだ。
舞台の上では、我多留がまだ語り続けている。
「誰かを傷つけずに生きることは、本当に優しさなのか」
その声が客席の後方まで、はっきりと届いていた。
「俺は、そうじゃないと思う。傷つけないように逃げるのは、ただの臆病だ」
コウの目が潤んでいく。
「傷つけてもいい。ぶつかってもいい。でも、逃げない。それが、本当の優しさだ」
我多留の声が体育館全体に響き渡る。
「俺は、もう、逃げない」
——
幕が下りた。拍手が割れるように響いた。
我多留は舞台の上で呆然と立っていた。体が震えている。
「染谷くん!」
ミナが舞台袖から駆け寄ってきた。
「すごかった!本当に、すごかったよ!」
ミナの目がキラキラと輝いている。
「……俺、台本、全然違うこと言って」
「ううん。あれは、染谷くんの言葉だった。染谷くんにしか言えない、本当の言葉だった」
ふわりと微笑んだ。
「きっと、届いたよ。染谷くんの言葉、ちゃんと」
我多留は客席を見渡した。客席の後方で、車椅子が動くのが見えた。
「……コウ?」
車椅子を押しているのは、みなみだ。
「お兄ちゃん!」
みなみが手を振っている。
「コウ兄、連れてきたよ!」
我多留は舞台から飛び降りた。客席を走る。
「お兄ちゃん、待って!」
みなみの声が後ろから追いかけてくる。でも、止まらない。
客席の後方に、コウがいる。車椅子に座ったコウが、我多留を見つめている。
「コウ!」
コウの前に走り寄った。
「お前、来てたのか……」
「……ああ」
小さく頷いた。
「みなみが、無理やり連れてきた」
「だって、コウ兄、昨日からずっと部屋に閉じこもってるんだもん。お兄ちゃんの舞台、見に行こうって言ったら、最初は嫌がったけど」
みなみがぴょんぴょん跳ねながら言った。
「……ありがとう、みなみ」
「へへ。お兄ちゃん、コウ兄のこと、ちゃんと見てあげてね。コウ兄、ずっとお兄ちゃんの背中、追いかけてたよ」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられた。コウは顔を背けた。
「……みなみ、余計なこと言うな」
「だって、本当のことじゃん」
みなみは無邪気に笑った。
「コウ」
静かに言った。
「あとで、話したい。茜川土手で、待ってる」
コウは一瞬だけ我多留を見た。それから、小さく頷いた。
「……わかった」
我多留は客席を駆け出した。体育館の出口へ。茜川土手へ。
——
夕日が茜川の水面を真っ赤に染めていた。十一月の夕暮れ。空気は冷たく、吐く息が白く濁る。桜並木は葉を落として、裸の枝が夕日に照らされている。
その枝の下に、コウが立っていた。車椅子は土手の入り口に置いてある。松葉杖をついて、川の方を向いていた。
「コウ!」
全速力で走った。息が切れる。足が痛い。でも、止まらない。
「コウ!」
もう一度叫ぶ。コウがゆっくりと振り返った。夕日が黒い髪を茜色に染めている。
「……遅えよ」
小さな声。でも、はっきりと耳に届いた。
「ごめん。舞台の片付けが、長引いて」
コウの隣に立った。二人の間には、ほんの少しの距離がある。
「足、大丈夫なのか」
「……別に。ただの捻挫だ」
「捻挫って、いつやったんだ」
「……お前の家から、逃げた夜」
胸が痛んだ。
「ごめん」
「……謝んなよ。俺が勝手に転んだだけだ」
夕日を見つめたまま言った。沈黙が流れる。川の音だけが静かに響いている。
「コウ」
口を開いた。
「俺、ずっと、お前に逆らえなかった」
コウは黙って聞いている。
「それは、助けてもらったからだけじゃない。あの川で、お前に引き上げてもらったからだけじゃない」
「お前が、俺の日常だったから。お前が隣にいることが、当たり前すぎて」
声が震える。
「だから、壊れるのが怖かった。この関係が、変わるのが怖かった」
夕日が赤い髪をさらに赤く染める。
「俺は、お前に、なんて言えばいいのか、ずっとわからなかった」
涙が溢れてきた。止まらない。
「お前の写真を見て、怖くなった。気持ち悪いとか、そういうんじゃない。ただ、俺は、お前のことを、何も知らなかったんだって」
「知らなかった。気づけなかった。お前が、俺を、どんなふうに見てたのか」
涙を拭った。
「だから、今、伝えたい。お前に、俺の気持ちを」
コウがゆっくりと、我多留の方を向いた。その目は赤く腫れている。コウも、泣いていた。
「……俺の方こそ」
声が震えている。
「俺の方こそ、お前を、独り占めしたくて」
涙が頬を伝う。
「お前が、誰かに告白されるたびに、嫌だった。お前が、誰かと話してるのを見るたびに、胸がぐちゃぐちゃになった」
「お前を、俺だけのものにしたかった。でも、そんなこと、言えるわけないだろ」
苦笑いした。
「だから、下ネタで誤魔化した。近くにいる理由を、幼馴染って言葉で、ごまかした」
「コウ……」
「気持ち悪いだろ。俺、お前の写真、何枚も撮って。お前のシャンプーの匂い、嗅いで。お前の寝顔、ずっと見てて」
声が涙で濡れている。
「……ごめん。本当に、ごめん」
「謝るなよ」
はっきりと言った。
「俺も、同じだ」
コウが顔を上げた。
「俺も、お前がいないと、ダメなんだ。お前が、誰かと話してるのを見ると、モヤモヤする。お前が、俺に触れるたびに、ドキドキする」
「だから、もう、逃げない。お前からも、自分の気持ちからも」
コウの目を真っ直ぐに見た。
「俺は、お前のことが——」
その時、コウの指が、我多留の赤い髪に触れた。
「……その赤いの」
髪をそっと撫でる。
「俺のだからな」
泣き笑いの顔で言った。
「……は?」
「お前のその赤い髪、俺が、あの川で引き上げた時に、夕日で染まった色だろ。だから、俺のだ」
声はまだ震えている。でも、その口元は確かに笑っていた。
「勝手に決めるなよ」
我多留も笑った。涙がまだ頬に残っている。でも、心は軽かった。
「俺の髪は、生まれた時から赤いんだよ」
「うるせえ。俺が決めたんだから、俺のだ」
もう一度、髪を撫でる。
「……やめろよ、くすぐったい」
「嫌だね」
夕日が二人を茜色に染めていく。茜川の水面がきらきらと光っている。
「なあ、我多留」
静かに言った。
「ん?」
「俺、お前のこと——」
そこまで言って、口を閉じた。
「……なんでもない」
「なんだよ、気になるだろ」
「いつか言う。もっと、ちゃんと、面と向かって」
夕日を見つめた。
「だから、それまで、俺の隣にいろ」
我多留は小さく頷いた。
「……わかった」
二人はしばらく、無言で夕日を見つめていた。十一月の風が冷たく吹き抜ける。でも、隣にコウがいる。それだけで、心が温かかった。
——
翌朝。
我多留は自宅のリビングで、ぼんやりとテレビを見ていた。昨日の文化祭の疲れが、まだ体に残っている。
「お兄ちゃん、いちごミルク飲む?」
みなみがキッチンから顔を出した。
「ああ、もらうよ」
「はーい」
冷蔵庫からいちごミルクのパックを取り出し、コップに注いで我多留の前に置く。
「お兄ちゃん、昨日、コウ兄と何話したの?」
にやにやしながら聞いてきた。
「……別に、普通の話だよ」
「ふーん、怪しいな〜。お兄ちゃん、昨日、帰ってきた時、すごく嬉しそうだったもん」
「そ、そんなことないよ」
いちごミルクを一口飲んだ。甘い。でも、いつもと少しだけ違う味がする。
「お兄ちゃん、顔赤いよ」
「な、なんでだよ!」
「へへ、やっぱり、コウ兄と何かあったんだ」
楽しそうに笑った。
「みなみ、お兄ちゃんのこと、応援してるからね」
「応援って、何を……」
「ふふ、お兄ちゃんには、まだ内緒」
自分のいちごミルクを飲みながら、にこにこしている。
その時、テーブルに置いたスマホが震えた。画面を見る。コウからのLINEだった。
「今度、買い物行こ。お前が荷物持ちな」
思わず笑った。
「はいはい」
そう打って、返信する。
「お兄ちゃん、誰から?」
「……コウだよ」
「へえ〜、コウ兄から? なんて?」
「買い物行こうって。荷物持ちしろって」
「ふーん、それって、デートじゃん!」
「デートじゃないよ! ただの買い物だよ!」
慌てて否定した。でも、心のどこかで、少しだけ嬉しかった。
スマホの画面に、追加のLINEが届く。
「あ、あと、コロッケパン奢れ」
苦笑いした。
「仕方ないな、コウは」
そう呟いて、返信を打つ。
「わかったよ。その代わり、荷物は半分持てよ」
送信。すぐに返事が来た。
「やだ」
我多留は笑った。
窓の外では、朝日が茜坂の街を照らしている。昨日の夕日とは違う色。でも、同じくらい、綺麗だった。
いちごミルクをもう一口飲んだ。甘くて、少しだけ、温かい味がした。Noveliaとは?
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