ベルモンド・バンデラスは今日も店番
夢と現実のあわいに佇む、小さな喫茶店「トバリ亭」。
マスターのベルモンド・バンデラスは、見た目も声もとびきり渋いイケメン――なのに、中身はちょっとズレてる、お人好しで世話焼きなマスター。開店5億年(?)、来る者は拒まず、夢迷う誰かれともなく、コーヒーと不思議なドリンクでもてなしてきた。
静かすぎる金曜の夜、夢の最果てからただならぬ気配が近づいてくる。そして、ひとりでに開き始める扉――その向こうにいるのは、いったい誰?
にじさんじの仲間たちがふらりと訪れては、笑って、泣いて、たまに変なことに巻き込まれる。ダジャレと優しさと、ほんの少しの不思議でできた夢喫茶コメディ、開店です。
「いらっしゃい。おかわりは、まだまだいけるぜ」
今日もベルさんは、カウンターの向こうで誰かを待っている。
ベルモンド・バンデラスは今日も店番 - 作戦はいつも大騒ぎ
トバリ亭の中は、まだ少しだけ夢のかけらの光が漂っていた。
暖色の、やわらかい光。ユメの楽しい記憶からこぼれ落ちたかけらたちが、ふわり、ふわりと天井近くを泳いでいる。
でも、その光が届かない場所があった。
床の上。
黒いかたまりが、そこにあった。
さっきまでビー玉くらいの大きさだった。なのに、今はもう両手で抱えるくらいある。表面がぶるぶると震えている。
「……うぅ」
ユメは奥の座敷で、アイシャの後ろに隠れるようにしてそれを見ていた。
黒いかたまりの震えが、だんだん大きくなる。
ぶるぶる。ぶるぶるぶる。
まるで怒っているみたいに。
「おお?なんじゃ、あやつは」
アイシャは金色の瞳をきらきらさせて、黒いかたまりに近づこうとした。
「こらこら、待ちなさい」
カウンターの向こうから、ベルさんの低い声が飛んでくる。
「だって面白そうなんじゃもん!ちょっと触るだけじゃ!」
「触るだけで済まないのが、ああいう類いのものだよ」
ベルさんはエプロンを直しながら、ゆっくりとカウンターから出てきた。
黒いかたまりは、まだ震えている。
いや、震えているだけじゃない。
みるみるうちに、大きくなっている。
「……おいおい」
黒いかたまりは、ソファくらいの大きさまで膨らんだ。
どすん、と重たい音がして、床がきしむ。
ミシッ。
木の床に、細いひびが入った。
「ベルさん、床が……」
ユメの小さな声が震えている。
「大丈夫だよ。床はまた直せる」
ベルさんは笑顔のまま言った。
でも、その目は黒いかたまりをじっと見つめている。
「アイシャ、ユメちゃんを連れて少し下がってな」
「えー!うちも戦いたいんじゃ!」
「戦う前に、まずは様子を見るんだよ」
その時だった。
ガラガラガラッ!
店の扉が勢いよく開いた。
「ちょっと待って、一回整理する!」
息を切らせて飛び込んできたのは、くすんだ水色の髪をした青年だった。
左が銀色、右が薄紫のオッドアイ。首元には小さな三日月のタトゥー。手にはいつものメモ帳とペン。
ジロウ・カゲヤマ。トバリ亭の常連で、にじさんじの仲間だ。
「ジロウ、遅かったじゃないか」
「遅かったじゃないか、じゃないよベルさん!外から見てたけど、店の中から黒い霧みたいなのが見えたんだよ!なんで連絡してくれないのさ!」
ジロウは早口でまくしたてた。
「連絡する前に、君が来てくれたんだよ」
「えっ、そうなの?」
ジロウは一瞬止まって、メモ帳を開いた。
「と、とにかく状況を整理するよ。あの黒いかたまりは何?ユメちゃんは無事?アイシャちゃんは……ああ、もう、なんでそんなに楽しそうなの!?」
アイシャは、ぴょんぴょん跳ねていた。
「ジロウ!見ろ見ろ!あれ、どんどん大きくなっとるんじゃ!面白いじゃろ!」
「面白くないよ!床にひび入ってるし!」
「そうじゃ!ひびが入るほど強いってことじゃ!すごいじゃろ!」
「すごくない!どうしてそうなるの!」
ジロウは天を仰いだ。
その間にも、黒いかたまりはさらに形を変えていく。
ソファくらいだったのが、今度は背の高い本棚くらいになった。
黒い霧の表面に、無数の目が浮かんでは消える。
「……こいつは、笑い声が弱点だ」
ベルさんが静かに言った。
「笑い声?」
「ああ。楽しい記憶の光と、笑い声。この二つが、こわい夢を弱らせる。さっき、ユメちゃんが笑った時に少し縮んだんだ」
ジロウはメモ帳に素早く書き込んだ。
「なるほど。じゃあ作戦はこうだ。まず、触手を伸ばしてくる前に、みんなで笑い声を上げて弱らせる。弱ったところを、袋で覆って捕まえる。袋は……ベルさん、厨房に大きめの布袋とかある?」
「あるよ。米袋でよければ」
「完璧だよ。じゃあ、僕が袋を用意する。アイシャちゃんは笑い声を担当。ユメちゃんは、できるだけ楽しいことを考える。ベルさんは……その、なんか、かっこよく見守ってて」
「見守るだけか。まあ、それもマスターの仕事だな」
ベルさんは苦笑いした。
「よし、じゃあ作戦開始!」
ジロウが叫んだ瞬間。
「ええい、面倒くさい!うちがやっつけるんじゃーーーっ!!」
アイシャが、作戦そっちのけで黒いかたまりに突っ込んでいった。
「ちょっと待って、一回整理する!作戦は!?今立てたばかりの作戦はどこ行ったの!?」
ジロウの悲痛な声が店内に響く。
でも、アイシャは止まらない。
銀色の髪をなびかせて、星の髪飾りをキラキラさせながら、一直線に黒いかたまりへ。
「はっはっはー!こわい夢め!うちが成敗してくれるわ!」
アイシャは、笑いながら突撃した。
その笑い声に反応して、黒いかたまりが一瞬縮む。
「効いてる!笑い声が効いてるよ!」
「じゃろじゃろ!うちの笑い声は最強じゃー!」
アイシャはさらに笑いながら、黒いかたまりに飛びかかった。
その時。
にゅるっ。
黒いかたまりから、一本の触手が伸びた。
「おわっ!?」
触手が、アイシャの左足首に巻きついた。
星のアンクレットが、黒い霧に覆われる。
「きゃあっ!」
アイシャはバランスを崩して、思い切り転んだ。
どてっ。
「アイシャちゃん!大丈夫!?」
ジロウが駆け寄ろうとする。
でも、アイシャは床に転んだまま、けらけらと笑っていた。
「あはははは!やられた!こやつ、なかなかやるのう!」
「笑い事じゃないよ!作戦無視して突っ込むから!」
「だって、楽しいんじゃもん!ほら、笑ったらまた縮んだじゃろ!」
確かに、黒いかたまりはまた少し縮んでいた。
でも、アイシャの笑い声が止むと、すぐに元の大きさに戻る。
むしろ、さっきよりも少し大きくなった気がする。
「くそ……笑い声が止むと、また膨らむのか」
ジロウはメモ帳に書き込みながら、歯ぎしりした。
その時だった。
「……ふふ」
小さな、本当に小さな笑い声が聞こえた。
ユメだった。
奥の座敷で、アイシャが転んだ様子を見て、小さく笑ったのだ。
すると、黒いかたまりが、すっと縮んだ。
「え?」
ジロウは、ユメを見た。
「ユメちゃん、今、笑った?」
ユメは、はっとして口を押さえた。
「あ……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ!むしろ、すごくいい!君の笑い声で、黒いかたまりが縮んだんだ!」
ジロウは、ユメの前にしゃがみこんだ。
「お願いだ、ユメちゃん。もう一回、笑ってみてくれないかな。作り笑いでもいい。ほら、僕の顔を見て」
ジロウは、精一杯おかしな顔をした。
眉を上げて、口をへの字に曲げて、目を大きく見開く。
「……ぷっ」
ユメが、また小さく笑った。
黒いかたまりが、また縮む。
「いいよいいよ!その調子!」
ジロウは嬉しそうに言った。
でも、次の瞬間。
ユメは、うつむいてしまった。
「……できない」
「え?」
「笑おうとすると、なんだか……変なの。胸のあたりが、ぎゅってなるの」
ユメの声は、消え入りそうだった。
ジロウは、何か言おうとして、やめた。
代わりに、ベルさんが動いた。
「ジロウ、ちょっと下がってな」
ベルさんは、カウンターに戻ると、コーヒーを淹れ始めた。
豆を挽く音。香りがふわりと広がる。
「ユメちゃん、無理に笑わなくていいんだよ」
ベルさんの声は、いつも通り穏やかだった。
「でも……笑ったら、あれが小さくなるんでしょ?」
「そうだね。でも、無理に笑った笑顔は、心に良くない」
ベルさんは、カップにコーヒーを注いだ。
「さて、ここで一つ。俺のダジャレを聞いてくれ」
ベルさんは、にやりと笑った。
「夢の中で見た夢は、ユメちゃんの夢と同じで、ユメだけに」
沈黙。
「……ベルさん、今の、ダジャレのつもり?」
「そうだよ。ユメちゃんと、夢と、ユメだけに、をかけたんだ」
「いや、全然笑えないんだけど」
「これが俺の間合いだ」
ベルさんは、満足そうにコーヒーを一口飲んだ。
「……ふふ」
ユメが、また笑った。
今度は、さっきよりも少しだけ、大きい声で。
黒いかたまりが、縮む。
「あ、笑った!ユメちゃん、ベルさんのダジャレで笑った!」
「うちも笑った!ベルさんのダジャレ、全然面白くないのに、面白いんじゃ!」
「アイシャちゃん、それ褒めてないからね」
店内に、笑い声が響く。
黒いかたまりは、どんどん縮んでいく。
「いける!このままいけば、袋で捕まえられる!」
ジロウが、厨房から布袋を持ってきた。
「よし、今のうちに——」
その時。
笑い声が、ぴたりと止んだ。
ユメが、黒いかたまりを見つめて、固まっていた。
「ユメちゃん?」
「……あのね」
ユメは、小さな声で言った。
「あの黒いのの中に、見えたの」
「何が?」
「……わたしの、おうち。それから、おかあさんと、おとうさん」
ユメの声が、震えている。
「楽しかったの。あの日、三人で公園に行って、お弁当食べて……すごく、楽しかったの」
ユメの目に、涙が浮かんだ。
「でも、それも、こわれちゃったの」
黒いかたまりが、急に膨らみ始めた。
笑い声が止んだからじゃない。
ユメの悲しみに反応している。
「ユメちゃん、もういいよ、話さなくて」
ジロウは慌てて言った。
でも、黒いかたまりは止まらない。
天井近くまで膨らんだ。
壁に飾られた映画のポスターが、黒い霧に覆われていく。
『カサブランカ』。『ローマの休日』。『七人の侍』。
ベルさんが大切にしている、来訪者の思い出の品々。
その中の一枚——『カサブランカ』のポスターに、黒い触手が伸びた。
ビリッ。
ポスターが、真ん中から引き裂かれた。
「あっ!ポスターが!」
ジロウの声が裏返る。
でも、ベルさんは動じなかった。
ゆっくりと、ジロウの隣に歩いてくる。
手には、淹れたばかりのコーヒーが二つ。
「まあ、こういう日もあるさ」
ベルさんは、ジロウにコーヒーを差し出した。
「ポスターは、また来訪者が持ってきてくれるよ。それより、君が無事で良かった」
「ベルさん……僕、全然役に立ててないよ。作戦は台無しになるし、ポスターは破られるし……」
ジロウは、コーヒーカップを両手で握りしめた。
「役に立ってるさ。君が作戦を立ててくれたから、笑い声が弱点だって確信できた。それに、君がいてくれるだけで、場が締まる」
「締まってないよ!むしろ、どんどん緩んでるよ!」
ジロウは、天を仰いで叫んだ。
「ああああ、もう!なんでこうなるの!?」
その横で。
「すごいすごい!あやつ、天井まで届くんじゃないか!?おっきくなったら、捕まえるのも面白そうじゃ!」
アイシャが、無邪気に笑いながら、黒いかたまりに飛びつこうとしていた。
「やめなさい!今度は足だけじゃ済まないよ!」
「大丈夫じゃ!うちは強いんじゃぞ!」
アイシャは、また突撃した。
でも、黒いかたまりは、するりとアイシャの突撃をかわした。
そして、すっと小さくなって、カウンターの影に隠れた。
「あれ?どこ行ったんじゃ?」
アイシャが、きょろきょろと周りを見回す。
黒いかたまりは、カウンターの影で、不気味に小さく縮んでいた。
さっきまで天井近くまであったのに、今は、子犬くらいの大きさだ。
でも、表面の目は、ぎょろぎょろと動いている。
まるで、次の獲物を狙っているみたいに。
「……隠れたな」
ジロウは、メモ帳に素早く書き込んだ。
「カウンターの影。狭い場所に隠れる習性がある。次の作戦は、追い込み漁方式で——」
「次の作戦は、うちがもう考えたんじゃ!」
アイシャが、ジロウのメモ帳をひょいと奪い取った。
「ちょっと、返してよ!」
「作戦その一!うちが笑いながら突撃する!」
「さっきと同じじゃないか!」
「作戦その二!うちが笑いながら、もっと突撃する!」
「全然違う作戦になってないよ!」
「作戦その三!うちが笑いながら、全力で突撃する!」
「だから、どれも同じだって言ってるでしょ!?」
ジロウの悲痛な叫びが、店内にこだました。
「あはははは!ジロウの叫び声、面白いんじゃ!」
アイシャは、けらけら笑っている。
その笑い声に反応して、カウンターの影の黒いかたまりが、また少し縮んだ。
「……笑い声は、やっぱり効いてる」
ジロウは、深いため息をついた。
「でも、アイシャちゃんの笑い声だけじゃ、追い詰めきれない。ユメちゃんの笑い声が、一番効果が高いみたいなんだ」
ジロウは、ユメの方を見た。
ユメは、まだ黒いかたまりを見つめている。
「ユメちゃん」
「……はい」
「無理に笑わなくていい。でも、もし、ちょっとだけでも、楽しいことを思い出せたら、それで十分だから」
ジロウの声は、優しかった。
ユメは、こくりと頷いた。
「……あのね、ベルさん」
ユメは、ベルさんの方を見た。
「なんだい?」
「あの黒いのの中に、楽しかった記憶が、見えたの」
「楽しかった記憶?」
「うん。おかあさんと、おとうさんと、公園で遊んだ時の。すごく、楽しかったの」
ユメの声は、小さかった。
でも、確かに、そう言った。
ベルさんは、静かに目を細めた。
「……そうか」
ベルさんの琥珀色の瞳が、一瞬だけ、何かを考えているように揺れた。
「楽しい記憶が、あの中にあるんだな」
「うん。でも、それも、こわれちゃったの」
「こわれた記憶でも、楽しかったことは、本当だよ」
ベルさんは、ユメの前にしゃがみこんだ。
「ユメちゃん、次は、全員で笑おう」
「全員で?」
「ああ。俺も、アイシャも、ジロウも、君も。みんなで笑うんだ。楽しい記憶を思い出しながら」
「でも、わたし、うまく笑えないよ」
「大丈夫。笑おうとしなくていい。ただ、楽しかったことを思い出して、それで、口角をちょっと上げるだけでいいんだ」
ベルさんは、自分の口元を指でちょんと持ち上げて見せた。
「ほら、これだけで、立派な笑顔だ」
ユメは、ベルさんの真似をして、口元をちょっと上げた。
「……こう?」
「上出来だよ」
ベルさんは、ユメの頭をそっと撫でた。
その手は、ほんのり銀色に光っていた。
「さあ、ジロウ。次の作戦を頼むよ」
ベルさんが立ち上がって言った。
「え?僕?」
「君が作戦参謀だ。俺は、君の指示に従うよ」
ジロウは、一瞬きょとんとした。
でも、すぐに表情を引き締めた。
「……わかった。作戦はこうだ。みんなで、楽しいことを思い出しながら笑う。笑い声で黒いかたまりを弱らせて、カウンターの影から追い出す。追い出したところを、僕が袋で捕まえる」
「了解じゃ!」
「うん」
「いい作戦だ」
四人は、カウンターの影を見つめた。
黒いかたまりは、まだそこに隠れている。
でも、さっきよりも、さらに小さくなっている。
まるで、息を潜めて、反撃の機会を待っているみたいに。
「……よし。みんな、準備はいいかい?」
ベルさんの声が、静かに響いた。
その時。
カウンターの影から、黒い触手が、にゅるりと伸びた。
狙いは、ユメだった。
「きゃっ!」
触手が、ユメの足首に巻きつこうとした。
でも、その瞬間。
「させるかよ」
ベルさんが、ユメの前に立った。
触手は、ベルさんの体に当たって、弾かれた。
「ベルさん!」
「大丈夫。俺は、こう見えて頑丈なんだ」
ベルさんは、笑顔で言った。
でも、その笑顔の奥に、静かな怒りがあった。
「……お前の相手は、俺がしてやる。だから、彼女には手を出すな」
低い声。
黒いかたまりが、びくりと震えた。
「さあ、みんな。行こうか」
ベルさんは、振り返って言った。
「作戦開始だ」
四人の声が、トバリ亭に響く。
笑い声。
楽しい記憶の光。
黒いかたまりは、カウンターの影で、次の大暴れへの予感を残しながら、不気味に縮んでいった。
ジロウの悲痛な叫びと、アイシャの無邪気な笑い声。
そして、ユメの小さな笑顔と、ベルさんの落ち着いた声。
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