「お前、今日から聖嶺学園に通えだってさ」 リビングのテーブルに置かれた編入命令書を指でつまみ上げて、俺はため息をついた。厚手の紙にはヒトガラ管理庁の紋章が燦燦と輝いている。金色のインクで印刷された「国宝個体保護法に基づく指定校編入命令」という文字が、やけに重たく感じた。 「悠真、朝ごはんできたわよ」 母さんがキッチンから声をかけてくる。俺は命令書をテーブルに置いて、椅子に座った。目の前に並ぶのは目玉焼きとトースト、それに小さなサラダ。特別な日でもないのに、母さんはいつもより気合を入れて作ったらしい。 「…いただきます」 手を合わせてから、トーストをかじる。味は普通にうまい。でも、胃が重くてなかなか飲み込めない。 リビングの壁際には、薄型のスクリーンが設置されていた。自動で起動して、朝のニュースが流れ始める。 『——カリュス症候群の影響により、国内の推定男性人口は現在四百四十二万人。全体の約四パーセントにまで減少しています。政府はヒトガラ管理庁を中心に対策を強化しておりますが、出生率の改善には未だ至っておりません』 アナウンサーの無機質な声が部屋に響く。画面には「男性保護政策の現在」というテロップが表示されていた。 俺は左手首に視線を落とした。シルバーのバンド型デバイス——イデンタグが、肌に馴染んで冷たく光っている。GPSで位置を追跡され、心拍数や体温まで監視される。国家に管理された「国宝」の証。 それを外すことは法律で禁止されていて、違反すれば懲役三年。 (国宝ね……) 心の中でつぶやく。男に生まれたというだけで、保護だ管理だと騒がれる。自由に外も歩けない。危険だからって、警護士が常に周囲を見張る。正直、息が詰まりそうだった。 「悠真、大丈夫?」 母さんが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。手にはコーヒーカップ。朝の光を受けて、その横顔に年齢より少し深い疲れが見える。 父さんが誘拐未遂事件に巻き込まれてから八年。母さんはずっと俺のことを気にかけている。玄関のセキュリティゲートは最新式に交換したし、リビングには管理庁直通の緊急通報ボタンもある。 「大丈夫だよ。転校なんて、別に初めてじゃないし」 俺は明るく笑って見せた。心配かけないように。この世界で男が生きるということは、周囲の女たちに心配をかけることでもあるから。 母さんは少しだけ微笑んで、俺の頭に手を置いた。 「あんたは昔からそうね。無理して笑うの」 「…別に無理なんかしてないって」 軽く肩をすくめる。でも、図星だった。 ――― 聖嶺学園の校門に着いたのは、午前八時二十分頃だった。 美鷹市北部に位置する共学校。生徒数は六百二十名ほどで、そのうち男子生徒はたった七人。全国に四十三校しかない貴重な男女共学校のひとつだ。 (さすがに緊張するな) 校門をくぐると、まず最初に目に入ったのは、ずらりと並ぶ女子生徒たちの群れだった。 制服はブレザーにプリーツスカートというオーソドックスなデザイン。しかし、その数が尋常じゃない。百人近い女子が校門付近に詰めかけていて、全員の視線が俺に注がれている。 「…本物の男子……」 「え、待って待って、聖嶺に転入ってマジだったの!?」 「やばい、思ったよりかわいい。顔ちっちゃいし、肌白いし……」 ひそひそ声が波のように押し寄せる。俺は笑顔を作って歩き出した。 視線が痛い。体に突き刺さるような感覚。まるで見世物にでもなった気分だ。 男子制服——紺のブレザーにグレーのスラックス——は、女子たちの派手な制服の中で逆に浮いていた。目立たないはずの地味な色が、ここでは異様に鮮やかに感じる。 「きゃっ」 突然、校門から十メートルほど歩いたところで、一人の女子生徒が倒れた。膝から崩れ落ちるようにして、地面に手をつく。 「ちょっと、何してるの!? しっかりして!」 「だって、本物だよ……? 生の男子が、あんな近くに……」 失神した女子の友人らしい二人が慌てて駆け寄る。周囲からはスマートフォン——いや、リストギアのカメラ機能が一斉に俺へと向けられた。 カシャカシャカシャ。 シャッター音。どこの誰が撮っているのかも分からない。ただ、無数のレンズが俺を狙っている。 (……動物園のパンダかよ) 心の中で悪態をつく。でも、表情は崩さない。笑顔。貼り付けたような愛想笑い。 男が少しでも不機嫌な顔を見せれば、「男子に嫌われた」と騒ぐ奴がいる。逆に笑えば「こっちを見てくれた」と舞い上がる。どちらに転んでも面倒くさい。 校舎までの道のりが、やたらと長く感じた。 ――― 二年A組の教室に入ると、中は水を打ったような静けさに包まれた。 五十人以上いるはずの教室が、しん、と静まり返っている。全員、女子。男子は俺だけ。 「では、本日よりこのクラスに加わることになった……有村悠真くんです」 担任の女性教師——名前はたしか御堂鈴枝、ではなく、このクラスの担任は別の人物だった。プラチナブロンドの髪を後ろで束ねた、若い女教師。彼女は緊張した声で俺を紹介する。額にうっすら汗が浮かんでいるのが見えた。 「えっと……有村悠真です。よろしくお願いします」 頭を下げる。 一瞬の沈黙。 次の瞬間、教室のあちこちから黄色い悲鳴が上がった。 「きゃあああああっ!」 悲鳴というより、絶叫に近い。教室の中央あたりに座っていた女生徒が、そのまま椅子から崩れ落ちる。 「ちょっと、誰か! 彼女、失神してる!」 「本物の男子が……転入してきた……」 ざわざわ、ざわざわ。 教室が一気に騒がしくなる。興奮した声、黄色い声、ひそひそ話。その中から、はっきりと聞こえてくる言葉があった。 「……抱かれたい」 「番にしたい……ツガイ試験、受けるしかない……」 背筋がぞわりとした。冗談でも聞きたくない言葉だ。 「有村くん! 私と連絡先交換して!」 前列にいた女生徒が突然立ち上がり、俺に駆け寄ってくる。手を伸ばして、俺の手を握ろうとした。 「こら、待ちなさい!」 教室の後方にいた二人の警護士が素早く反応する。片方は女性、もう片方も女性。二人とも黒いスーツ姿で、腰にはガードリングが吊られていた。 「男子生徒への無断接触は禁止されています。お戻りください」 警護士の一人が、立ち上がった女生徒の前に立ちふさがる。女生徒は不満そうな顔で、渋々席に戻った。 俺はその場で、にこにこと笑い続ける。 (……吐き気がする) 顔と、生殖能力だけ。俺という人間を見ている奴が、果たしてこの教室に何人いるんだろうか。 ――― 昼休み。 俺は男子専用の保護棟「ノースウィング」へと向かった。 校舎の本館から渡り廊下を渡った先にある、鉄筋四階建ての別棟。入口には分厚いセキュリティゲートが設置されていて、警護士が二人、常駐している。 「お疲れ様です。イデンタグの確認をお願いします」 警護士の一人が、俺の左手首を取って、リストギアをかざした。ピッ、と電子音が鳴る。 「確認が取れました。本日は食堂のご利用ですね?」 「はい」 ゲートが音を立てて開く。 ノースウィングの内部は、本館と違ってとても静かだった。男子生徒は七人しかいないから当然だ。廊下を歩く人影もまばらで、壁に設置された監視カメラが俺の動きを追っている。 十二平方メートルほどの個室寮が七部屋。それに共用ラウンジと専用食堂。俺は食堂でトレーを受け取ると、空いているテーブルに座った。 食事はバランスを考えた定食。魚の煮付けに味噌汁、ごはん、それに野菜の小鉢。味は悪くない。 でも、食欲がわかない。 フォークで魚をほぐしながら、ふと入口の方を見た。 セキュリティゲートの向こうに、数人の女生徒たちが立っている。許可制の面会に来たわけでもなく、ただ、こちらを覗いているだけだ。 「……あれが今日来た転入生?」 「そう。二年A組の有村悠真くん。ね、かわいいでしょ」 「わかる……なんか、こう、守ってあげたくなる感じ」 視線が痛い。 食堂の中はガラス張りになっているから、外の様子がよく見える。――見えるということは、外からも丸見えということだ。 (もういい。食事どころじゃない) 俺はトレーを手に立ち上がると、ほとんど手をつけていない料理を返却口に下げた。 ――― 屋上庭園への扉を開ける。 誰もいない。 聖嶺学園の屋上は、男子生徒が唯一、女子の視線を気にせず休憩できる場所だ。小さな庭園には、花壇とベンチが一つ。みっともなく茂った植え込みが風に揺れている。 フェンス越しに美鷹市の街並みが見えた。駅前のショッピングモール「ルチェーレ美鷹」の白い建物、遠くにはヒトガラ管理庁・西関東支部のビル。 風が吹いた。 頬を撫でていく。初夏の香り。青い空。雲がゆっくりと流れていく。 俺は大きく息を吸って、吐いた。 「……普通の人間として、見てほしいだけなのに」 声に出してつぶやく。 誰にも聞こえない。でも、言わずにはいられなかった。 ――― 放課後。 一日がようやく終わった。 昇降口から校門へ向かう途中、俺は数人の女生徒に囲まれた。 「有村くん! 連絡先、良かったら教えてほしいな!」 「私も! インスタじゃなくて、リストギアのIDでいいから!」 「ねえ、今日このあと時間ある? カフェでも行かない?」 五、六人。全員が一斉に話しかけてくる。香水とヘアオイルの甘ったるい匂いが混ざり合って、気持ち悪くなりそうだった。 「あー、えっと……連絡先は……ちょっと……」 曖昧に笑って断る。 でも、彼女たちは引き下がらない。さらに距離を詰めてくる。手が伸びてきて、腕に触れようとする。 「ちょっとだけだから! ね?」 「私のこと、覚えてほしくて……!」 囲まれて、閉じ込められて。 (やばい、帰れない) そう思った時だった。 「――申し訳ございません。少し、よろしいでしょうか」 凛とした声が、俺の後ろから聞こえてきた。 振り返る。 彼女が立っていた。 腰まである黒紫のストレートロングヘア。切れ長の穏やかな目。色素の薄い瞳が、西日を受けて透き通っている。身長は百六十センチくらいで、華奢な体つき。制服の上からでも分かる、細くしなやかな体の線。 氷上澄香。 俺の幼馴染。 「……澄香?」 彼女は俺の前まで来ると、女生徒たちに軽く一礼した。 「この後、有村くんには私との約束がありますので。ご迷惑をおかけしました」 澄香の声は、静かで、優しかった。 でも、その目には一瞬、ぞっとするほど冷たい光が宿っていて。 さっきまで俺に群がっていた女生徒たちが、言葉を失って後ずさる。 「……氷上さん……」 「え、ちょっと、約束って……」 誰もそれ以上、文句を言おうとしない。澄香がもう一度、笑みを深くする。 「どうかしましたか?」 柔らかい口調。でも、有無を言わせない圧力があった。 女生徒たちは顔を見合わせて、ぱらぱらと散っていく。 澄香は俺に向き直ると、ほんの少しだけ目を細めた。 「……悠真」 たった一言。 それだけで、彼女の雰囲気が和らいだ気がした。 「か、帰り道、一緒に……いいか?」 「もちろん。そのつもりで来たの」 澄香はうっすらと微笑んで、俺の隣に並ぶ。 そして、俺にだけ聞こえる声で、はっきりと囁いた。 「やっと、一緒にいられる」 ――― 帰り道。 美鷹駅まで続く商店街の通りを、二人で歩く。夕焼けが街をオレンジ色に染めていた。 澄香は俺の半歩後ろを歩いている。昔から、彼女はいつもこの歩き方をする。隣ではなく、わずかに遅れて。まるで背後を守るように。 「聖嶺学園の男子生徒は、全部で七人なんだって」 澄香が落ち着いた声で説明を始めた。 「へえ……少ないとは聞いてたけど」 「一学年に二、三人ずつ分散して配置されるの。悠真は二年A組。私は二年B組」 「ああ、別のクラスなのか。残念だな」 俺が軽くそう言うと、澄香は一瞬だけ足を止めた。 「……残念?」 「な、なに? 変なこと言った?」 「ううん。嬉しかっただけ」 澄香がふわりと微笑んで、俺の腕にそっと触れた。 指先が腕に触れる。 その手が、驚くほど熱かった。 「男の子と一緒に帰るの、久しぶりで……ちょっと心臓がうるさい」 「え、何それ……」 彼女の吐息が、やけに近い。気づけば、距離はほとんどゼロに近くて。 歩くたびに、彼女の肩が俺の上腕に触れる。柔らかい髪が風で揺れて、俺の頬をくすぐった。 シャンプーの匂いだろうか。甘い香り。 昔は——小学生の頃は、もっと単純に隣を歩いていただけだった。抱きついてきても、何とも思わなかった。なのに今は、こうして触れ合う何気ない仕草の一つ一つに、妙に意識してしまう。 (澄香、雰囲気変わったか?) 昔から美人ではあった。いつもにこにこしていて、優等生で、誰にでも丁寧で。 でも、今日の澄香は、どことなく違った。 ――― 有村家のマンションが見えてきた。築五年の七階建て。玄関にはセキュリティゲートが設置してある、管理庁指定の住居だ。 「ここでいいよ。送ってくれて助かった」 マンションの前で立ち止まって、澄香の方を見る。 澄香は静かにこちらを見つめていた。夕日に照らされた彼女の瞳が、深い紫色に揺れている。 「悠真」 「ん?」 澄香が一歩、近づいた。 俺の胸元に手を伸ばして、ブレザーの襟を直す。その指先が首筋に触れた。 ひやりとした感覚と、次に熱。 「今日は色々あったでしょう。女の子たちに囲まれたり、失神されたり」 「……ああ、まあ……」 「でも、心配しなくていいの。悠真は、私が守るから」 澄香は微笑んだ。 その笑顔は、とても優しくて、綺麗だった。 なのに、なぜだろう。 背筋がすっと冷たくなった。 「……澄香? 守るって、何から?」 「全部からよ」 彼女はそう言うと、俺から体を離した。 「それじゃあ、また明日。おやすみなさい」 背を向けて、去っていく。 俺はしばらく、彼女の後ろ姿を見送っていた。 ――― 自室のベッドに倒れ込む。 天井を見つめたまま、今日一日のことを思い返していた。 教室での失神、壁に並ぶ警護士、盗撮、番にしたいという囁き、そして、澄香の不気味すぎる微笑み。 「……帰り際の言葉、マジでなんだったんだ」 リストギアを起動する。手首の投影画面に、ニュースが静かに映った。 『——ヒトガラ管理庁は昨日、都内の男子高校生を狙った拉致未遂事件について、警護士制度の強化を発表しました。男子生徒の保護区域外への外出は、引き続き警護士の同伴が推奨されています』 「推奨、ね」 保護されている。言われなくても分かる。 このイデンタグが、警護士たちが、セキュリティゲートが。 俺の人生は、俺のものじゃない。 (普通に、生きたいだけなのに) 今日だけで、何度思ったか分からない。 でも。 明日からは、週一回の交流会もある。女クラス出身の連中が総出で、食料に群がるようにして男に近づいてくるという。吐きそうなイベントだ。 それに、澄香のあの目。あれは、幼馴染の瞳じゃなかった。 「……考えすぎだよな」 俺は独り言を漏らした。 その時、リストギアが小さく震えた。 通知。送信元はヒトガラ管理庁。 『交流会スケジュールのお知らせ:次回開催は明後日。参加は義務です。』 画面に表示された文字を見た瞬間、胃の底から何かがせり上がってくるのを感じた。 俺はリストギアをオフにして、目を閉じた。 眠れるはずもなかった。