ダンまち:オラリオ日常混乱記~女神の湯けむり騒動~
ダンジョンから帰ってきたベルを待っていたのは、ヘスティアの「ユグドラシルの湯の割引券」だった。800ヴァリスで高級浴場に行けると大喜びの女神様。だがその券をくれた「親切そうな人」の正体は……? 大量に貼られたアポロン・ファミリアの勧誘ビラ、そこに描かれた自分に似た似顔絵。何も知らないヘスティア・ファミリア一行は、明日の湯けむり騒動へと足を踏み入れていく——。笑いと波乱の日常コメディ、開幕!
ダンまち:オラリオ日常混乱記~女神の湯けむり騒動~ - 割引券と似顔絵——ヘスティア・ファミリアの小さな日常と怪しい影
「——はぁっ!」
短い気合とともに、ベルの短剣がゴブリンの首筋を斬り裂いた。
「ギャッ!?」
断末魔を上げて、醜い緑色の魔物が崩れ落ちる。どさり、と湿った音がダンジョンの壁に反響した。
「はぁ……はぁ……や、やった……」
ベル・クラネルは荒い息を繰り返しながら、震える手で短剣を握りしめた。心臓がうるさいくらいに脈打っている。今にもへたり込みそうな膝を、なんとか叱咤して立たせていた。
ここはダンジョン第2階層。オラリオの地下に広がる巨大迷宮だ。階層ごとに魔物が湧き出し、冒険者たちはそれを倒して魔石を回収し、生計を立てている。ベルのような駆け出しの冒険者にとって、第1〜3階層は毎日の仕事場だった。
「……よし、魔石を取らないと」
ベルはしゃがみ込むと、ゴブリンの胸元に短剣を突き立てた。手慣れた動作で魔石を取り出す。青白く光る小さな結晶が、ダンジョンの薄暗い通路にぼんやりと浮かび上がった。
「これで50ヴァリス……かな」
はぁ、とため息が漏れる。
50ヴァリス。パン半分の値段だ。これが命がけの戦いの報酬かと思うと、正直泣きたくなってくる。
(……でも、これが今の俺の実力なんだ)
ベルは立ち上がり、壁に手をついて歩き出した。14歳の少年の体は、たった一体のゴブリンとの戦闘で既に悲鳴を上げている。紅眼白髪の愛らしい顔立ちは、今は疲労と緊張でこわばっていた。
「はぁ……今日はこの辺にしとこうかな」
そうつぶやいた時、通路の奥からガサガサと音がした。
「ひっ!?」
ベルは反射的に身をすくませた。心臓が口から飛び出しそうになる。短剣を構える手が、情けないほど震えていた。
(も、もう一体!? 無理無理無理!)
頭の中は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。今すぐ来た道を引き返して、地上に逃げ帰りたい。
でも。
(アイズさんに教わったことを……思い出せ)
ベルの脳裏に、金色の髪をなびかせて剣を振るう美しい女性の姿が浮かんだ。ロキ・ファミリアの第一級冒険者、アイズ・ヴァレンシュタイン。ベルが心から憧れている、剣姫の二つ名を持つ女性だ。
(速度を活かして、相手の攻撃を避けて、隙を見て斬る……)
ベルは深呼吸した。まだ足は震えている。でも、仲間の顔を思い出したら、ここで逃げるわけにはいかないと思えた。
ヘスティア様。リリルカ。ヴェルフ。
みんなが待っている。
「……来いよ」
通路の奥から、もう一体のゴブリンが姿を現した。
ベルは一瞬で駆け出した。
(速く! もっと速く!)
ゴブリンの振り回す棍棒を、紙一重でかわす。アイズに教わった通り、相手の攻撃の予備動作を見極めて、最小限の動きで避ける。そして、がら空きになった胴体に——
「せいっ!」
短剣が深く突き刺さった。
ゴブリンが倒れる。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ベルはその場にしゃがみ込んだ。心臓がうるさい。呼吸が苦しい。でも、確かな手応えがあった。
「……少しは、強くなれたかな」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
ダンジョンを出たのは、それから30分ほど後のことだった。
オラリオ中央区のギルド通りは、夕方になっても人でごった返していた。バベルの塔——高さ800メートルの巨大な塔——の地下にダンジョンの入り口があり、その周辺はいつも冒険者たちで賑わっている。
「魔石換金お願いします」
ギルドの換金窓口で、ベルは小さな革袋を差し出した。
「はい、ゴブリンの魔石2個ですね。合計100ヴァリス。冒険者収入の10パーセントを税として引かせていただきますので、お渡しは90ヴァリスになります」
受付嬢のエイナ・チュールが、てきぱきと処理をしてくれる。半エルフの彼女は、ベルの担当をしてくれている年上の女性だ。
「ありがとうございます」
「ベル君、今日はもう上がり?」
「はい……今日はこの辺で」
「そう。無理しないでね」
エイナが優しく微笑む。ベルはなんだか照れくさくなって、小さく頭を下げた。
90ヴァリス。
これを握りしめて、ベルはギルドを後にした。
(今日の晩ごはん、何にしよう……)
南区の屋台街グランマルシェを通りかかると、串焼きのいい匂いが漂ってきた。
「うっ……いい匂い……」
ベルは無意識のうちに足を止めていた。ジュウジュウと音を立てて焼かれる肉。香ばしい煙。屋台の親父が威勢のいい声で客を呼び込んでいる。
「らっしゃい! 串焼き一本300ヴァリスだよ!」
300ヴァリス。
ベルの手の中には90ヴァリスしかない。
「……だめだだめだ」
ベルは首を振って、その場を離れた。空腹の胃袋がぎゅうっと鳴る。
(いつか、お腹いっぱい串焼きが食べられるような冒険者になるんだ)
そんな小さな夢を抱えながら、ベルは西区にある自分たちの拠点——炉端の家へと向かった。
「ベルくーん! おかえりー!」
炉端の家の扉を開けた瞬間、元気いっぱいの声が飛んできた。
「ただいま戻りました、ヘスティア様」
「おかえり! ねえねえ、見て見てこれ!」
ヘスティアがぴょんぴょん跳ねながら、一枚の紙をベルの目の前に突き出した。黒いツインテールが揺れている。背は低く、見た目はベルの方が年上に見えるくらいの童顔。でも、れっきとした女神であり、ヘスティア・ファミリアの主神だ。
「なんですか、これ」
「ユグドラシルの湯の割引券よ! 2000ヴァリスが800ヴァリスになるの! すごくない!?」
ヘスティアは目をキラキラさせている。ユグドラシルの湯は、北区にある高級浴場だ。大理石造りの源泉かけ流しで、ベルたちにとっては憧れの場所だった。
「すごいですね……でも、どうしたんですかこれ?」
「え? 街角で親切そうな人がくれたのよ」
「親切そうな人って……」
「えっとね、たしか……白い服を着た、感じのいい人だったわ。うん、そう! 感じのいい人!」
ヘスティアは自信満々にうなずいている。
「……顔とか、名前とか、覚えてないんですか?」
「覚えてないわ。でも、親切そうだったから大丈夫よ!」
大丈夫なのか。ベルは心の中でツッコミを入れた。
「それでね、明日みんなで行こうと思うの! ベルと、リリルカと、ヴェルフも誘って!」
「あ、いいですね。ヴェルフもリリルカも喜ぶと思います」
ベルは素直にそう思った。
でも、すぐに不安がよぎる。
「……あの、ヘスティア様。リリルカにちゃんと相談しました?」
「え? してないわよ? だってサプライズの方が楽しいでしょ?」
「いや、そうなんですけど……」
リリルカ・アーデ。ヘスティア・ファミリアの一人で、家計管理を一手に引き受けている小人族の少女だ。彼女はお金に厳しい。
「800ヴァリス×4人で3200ヴァリスですよ。うちの家計にそんな余裕ありましたっけ……」
「うっ……た、たぶん大丈夫よ! たぶん!」
ヘスティアの声が小さくなった。
「たぶん……」
ベルはため息をついた。
でも、まあ。
(ヘスティア様がこんなに楽しみにしてるんだし、たまにはいいか)
ベルはヘスティアの嬉しそうな顔を見て、そう思うことにした。
「そういえばベル、今日のダンジョンはどうだった?」
「あ、はい。ゴブリンを2体倒しました。魔石を換金して90ヴァリスです」
「90ヴァリス……! えらいわ、ベル! よく頑張ったわね!」
ヘスティアがベルの頭をわしゃわしゃと撫でる。
「へ、ヘスティア様、やめてくださいよ……」
ベルは照れながらも、まんざらでもない顔をしていた。
「でも、無理はしないでね? ベルは私の大切な眷属なんだから」
ヘスティアが真剣な顔で言う。
「……はい」
ベルの胸がじわりと温かくなった。
ヘスティアはぐうたらで、家事もできないし、お金もない。でも、眷族のことを心から大切に思っている。それは、ベルが一番よく知っていた。
「そういえば、ベルのステイタス、そろそろ更新しないとね。最近また強くなったんじゃない?」
「そうですかね……自分ではよく分からないです」
「ふふん、主神の私が言うんだから間違いないわ。後で背中を見せなさい」
「はい、お願いします」
神が眷属の背中に聖文字を刻み、経験値を反映させる——それがファルナの契約であり、ステイタス更新と呼ばれる儀式だ。ベルの背中には、ヘスティアが刻んだ聖文字が浮かんでいる。
「あ、そうだベル。ステイタスと言えば、あんたのスキル、ほんとにすごいわよね」
「え?」
「憧憬一途。あんたのアイズへの想いが生んだスキルでしょ? 成長速度が異常なのよ、あれ」
「あ、あの、その話はやめてくださいよ……!」
ベルの顔が一気に赤くなった。
「あら、照れなくてもいいじゃない。事実なんだから」
「照れますよ! というか、ヘスティア様に言われるとすごく恥ずかしいです!」
「なんでよ。主神として誇らしいわ。それに、あんたのその一途さのおかげで、神の魅了すら効かないんでしょ? すごいことよ」
「そ、そうなんですかね……」
ベルは耳まで赤くしてうつむいた。
確かに、ベルのスキル「憧憬一途」には、魅了が効かないという副次効果がある。アイズへの憧れがあまりにも強すぎて、他のどんな魅了も受け付けないのだ。
(それってつまり、俺がどれだけアイズさんのことばかり考えてるかってことで……)
そう考えると、さらに恥ずかしくなった。
夕食を終えた後、ベルは一人で街を散歩していた。
(明日はみんなでお風呂か……楽しみだな)
そんなことを考えながら歩いていると、中央区の掲示板の前で足が止まった。
「なんだ、これ……」
掲示板一面に、同じビラが何枚も貼られていた。
『アポロン・ファミリア 眷属募集中! 美しき者、才ある者、我らの太陽の下に集え!』
派手な装飾のビラには、そう書かれていた。
「アポロン・ファミリア……」
ベルの顔が曇る。
アポロン・ファミリアは、太陽神アポロンを主神とする中堅ファミリアだ。構成員は約120名。表向きは芸術や音楽を支援する文化ファミリアを名乗っているが、その実態は——美しい眷属を蒐集することに執着する、悪名高い組織だった。
気に入った者を強引に勧誘する「勧誘強奪」で、これまで何人もの冒険者が被害に遭っている。
「……ん?」
ベルはビラの一枚に目を留めた。
他のビラと違い、その一枚には手書きの似顔絵が描かれていた。
「これ……誰だろう」
紅眼に白髪の、少年の似顔絵。
「……まさか、俺?」
いや、そんなはずはない。ベルは首を振った。
「気のせいだよな。似てるけど、たまたまだ」
ベルは特に気にせず、その場を離れた。
「アポロン・ファミリアのビラがたくさん貼ってあったよ」
炉端の家に戻ると、ベルはヘスティアにそう話した。
「えっ、アポロン!?」
ヘスティアの顔色が一瞬で変わった。
「ヘスティア様、そんなにアポロン様のことが嫌いなんですか?」
「嫌いっていうか……苦手なのよ、あの神」
ヘスティアは顔をしかめた。
「昔ね、あいつに勧誘されたことがあるのよ。私のことを自分のファミリアに引き入れようとしてきたの」
「え、そうなんですか」
「そうよ。もちろん断ったわ。そしたら、それからずっと私のことを逆恨みしてるのよ。陰湿なんだから」
「逆恨みって……」
「あの神はね、気に入ったものを手に入れるためなら手段を選ばないの。美しい眷属を集めるのに執着してて、断られると逆上するのよ」
ヘスティアはぶるっと震えた。
「とにかく、アポロンには近づいちゃダメよ。いいわね、ベル」
「はい、分かりました」
ベルは素直にうなずいた。
(アポロン・ファミリア……)
ベルの胸に、小さな不安が芽生えた。
その夜、オラリオ東区。
アポロン・ファミリアの拠点であるフォイボス館は、月明かりに照らされて静かに佇んでいた。
その館の一室で、一人の美青年が窓の外を見つめていた。
「……準備は整ったか」
ヒュアキントス・クリオ。
アポロン・ファミリアの団長であり、Lv.3の実力者。二つ名は「太陽の光寵童」。
金色の髪、整った顔立ち、細身の体。美しい青年だった。
「はい、ヒュアキントス様。ユグドラシルの湯の配管には、すでに細工を施してあります」
背後に控えていた手下が、恭しく頭を下げた。
「そうか。ご苦労だった」
ヒュアキントスは振り返らずに答えた。
「あとは、明日、ヘスティアとその眷属が来るのを待つだけです」
「……アポロン様のご期待に、必ず応えねばならない」
ヒュアキントスの声には、静かな狂信が宿っていた。
彼にとって、主神アポロンは絶対だった。アポロンの望みは、彼の望み。アポロンの敵は、彼の敵。
「ヘスティア・ファミリア……あの小賢しい女神の一派め」
ヒュアキントスの口元が、微かに歪んだ。
「アポロン様があれほど気にかけておられるというのに、あの女神は何も分かっていない。ならば、こちらから動くまで」
「ヒュアキントス様……あの、本当にこんなことをしてよろしいのですか? ギルドに知られたら……」
手下が不安そうに言った。
「問題ない。これは表向き、ただの設備の不具合だ。我々が関わっている証拠はどこにもない」
ヒュアキントスは冷たく言い放った。
「それに、これはアポロン様のためだ。アポロン様のためなら、私は何だってする」
その言葉に、手下は何も言えなくなった。
「……下がっていい」
「は、はい」
手下が部屋を出ていく。
ヒュアキントスは一人、窓の外を見つめ続けていた。
「ヘスティア・ファミリアの少年……ベル・クラネル」
彼の手には、一枚の紙が握られていた。
紅眼白髪の少年の似顔絵が描かれた、アポロン・ファミリアの勧誘ビラだった。
「アポロン様が、なぜあんな小僧に……」
ヒュアキントスの声に、かすかな嫉妬が混じる。
「だが、アポロン様が望むならば。私はただ、従うだけだ」
彼はビラを握りつぶした。
一方その頃、炉端の家では。
「みんなー! 明日はお風呂よー! ユグドラシルの湯に行くわよー!」
ヘスティアが居間で元気に宣言していた。
「ヘスティア様、夜中ですから静かに……」
ベルが苦笑いしながら言う。
「いいじゃない! 楽しみなんだから!」
ヘスティアはぴょんぴょん跳ねている。
ベルはそんな主神の姿を見て、思わず笑ってしまった。
(明日は楽しい一日になるといいな)
その時、ベルの胸を、かすかな違和感がよぎった。
街角で親切そうな人がくれた割引券。
大量に貼られたアポロン・ファミリアの勧誘ビラ。
ビラに描かれた、自分に似た似顔絵。
(……いや、考えすぎだ)
ベルは首を振って、その違和感を振り払った。
「ベル! 早く寝なさいよ! 明日は朝から出かけるんだから!」
「はいはい、分かりましたよ」
ベルは自分の部屋に戻り、ベッドに横になった。
窓から差し込む月明かりが、天井に白い模様を描いている。
(ユグドラシルの湯か……楽しみだな)
大きな湯船に浸かる自分を想像して、ベルの口元が緩む。
(でも、リリルカに何て言われるかな……)
家計のことを考えると、少しだけ胃が痛くなった。
「……まあ、明日考えよう」
ベルは目を閉じた。
こうして、ヘスティア・ファミリアの小さな日常が、静かに夜へと沈んでいく。
だが、その裏では、確実に何かが動き始めていた。
ベルの知らないところで、陰謀の歯車は回り始めている。
割引券は、本当にただの親切だったのか。
似顔絵は、本当にたまたまだったのか。
その答えは、明日、明らかになる。
ヘスティアの「みんなでお風呂よ!」という無邪気な宣言とともに、あの日の幕は閉じる。
(続く)Noveliaとは?
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