ダンまち:オラリオ日常混乱記~女神の湯けむり騒動~
ダンジョンから帰ってきたベルを待っていたのは、ヘスティアの「ユグドラシルの湯の割引券」だった。800ヴァリスで高級浴場に行けると大喜びの女神様。だがその券をくれた「親切そうな人」の正体は……? 大量に貼られたアポロン・ファミリアの勧誘ビラ、そこに描かれた自分に似た似顔絵。何も知らないヘスティア・ファミリア一行は、明日の湯けむり騒動へと足を踏み入れていく——。笑いと波乱の日常コメディ、開幕!
ダンまち:オラリオ日常混乱記~女神の湯けむり騒動~ - リリルカの勘とすれ違い——浴場への道は怪しい影だらけ
朝の光が、オラリオ西区の石畳を白く照らし始めていた。
炉端の家——ヘスティア・ファミリアの拠点である古びた二階建ての借家——の前で、ベル・クラネルは何度目かのため息をついた。白髪の少し跳ねた髪が、朝風に揺れる。真っ赤な瞳は、どこか落ち着きなく周囲を見ていた。
「はぁ……なんだか、緊張しますね」
隣でぴょんぴょん跳ねている主神ヘスティアが、きょとんと首を傾げた。
「何でよ。お風呂に行くだけじゃない」
「だって、ユグドラシルの湯ですよ? 入浴料一回2000ヴァリスの高級浴場です。僕みたいな駆け出しが行っていい場所なのかなって」
ベルの声は少し震えていた。昨日ダンジョンでゴブリン二体を倒して得た90ヴァリスが、まだ指に残っている。あの命がけの戦いの報酬で、この高級浴場に何回入れるというのか。
「何言ってるのよ。割引券があるから大丈夫! 一人800ヴァリスで入れるんだから」
ヘスティアが胸の前で握りしめたのは、昨日街角で親切そうな人からもらったという一枚の紙切れ。ユグドラシルの湯の割引券だ。
ベルはその券をじっと見つめた。
(本当に、こんなにうまい話があるんだろうか)
胸の奥に、小さなとげが刺さったような違和感があった。
「ベル、顔が暗いわよ。せっかくのお出かけなんだから、もっと楽しくいきましょう?」
「は、はい。すみません」
ベルがぺこりと頭を下げた、その時だった。
「ちょっと、二人とも。こんな朝っぱらから何やってるの?」
通りの向こうから、小柄な少女が駆け寄ってきた。
ブラウンの髪を二つに結んだツインテール。琥珀色の大きな瞳。頭の小さな獣耳のような髪飾りが、走るたびにぴょこぴょこ揺れている。身長145センチの小さな体には、使い込まれた革の胸当てと腰袋。しっかり者の冒険者、リリルカ・アーデだった。
「リリルカ、おはよう」
「おはよう、ベル。それで、何の話?」
リリルカはベルの隣に立つと、じっとヘスティアの手元を見た。
「ああ、これよ! ユグドラシルの湯の割引券! 昨日、街角で親切な人がくれたの」
ヘスティアが嬉しそうに券を差し出す。
リリルカはその券をまじまじと見つめた。琥珀色の瞳が、すっと細くなる。
「……ヘスティア様。これ、誰からもらったの?」
「え? だから、親切な人よ。顔は……うーん、あんまり覚えてないけど、とにかくいい人だったわ」
リリルカの眉が、ぴくりと動いた。
「こんな高級浴場の割引券が、普通に手に入るわけないよ。ユグドラシルの湯って、普段は2000ヴァリスもするんだよ? それを800ヴァリスにしますって、そんな都合のいい話、ある?」
「でも、せっかくもらったんだから、使わないと勿体ないじゃない」
「勿体ないって……ヘスティア様、あたしたちの家計、火の車なんだからね? 昨日のベルの稼ぎ、90ヴァリスだったんだよ? 三人で行ったら2400ヴァリスだよ? 一週間分の食費が飛ぶんだよ?」
「うっ……」
ヘスティアが言葉に詰まる。
ベルは二人のやりとりを見ながら、申し訳なさでいっぱいになった。
「リリルカの言う通りです。僕の稼ぎが少ないばかりに……」
「違うよ、ベル。あたしはベルの稼ぎが少ないって言ってるんじゃないの。この券が怪しいって言ってるの」
リリルカはベルの顔をじっと見上げた。
「……ねえ、ヘスティア様。その券、本当にただの親切だったと思う?」
「え、ええ……そうよ。あの人は笑顔で、どうぞって」
リリルカは小さくため息をついた。
「はぁ……まあいいや。でも、あたしも同行する。何かあったら困るから」
「リリルカも来てくれるの?」
「当たり前でしょ。ベルを一人で怪しい場所に行かせるわけにはいかないんだから」
そう言って、リリルカは懐に手を入れた。
その指先が、腰袋の奥に隠した小刀の柄を確かめる。
(念のため。何かあったら、あたしが守らないと)
リリルカの琥珀色の瞳が、一瞬だけ鋭く光った。
三人は、オラリオの街を北へ歩き出した。
西区の住宅街を抜け、中央区のギルド通りを横切る。バベルの塔——高さ800メートルの巨大な塔——が、朝日を浴びて白く輝いていた。その地下に、ダンジョンの入り口がある。
「今日も、たくさんの冒険者がダンジョンに向かってるね」
リリルカが、通りを埋め尽くす人波を見ながら言った。
「そうだな。みんな、頑張ってるんだな」
「ベルも、昨日は頑張ったでしょ。ゴブリン二体、倒したんでしょ?」
「う、うん。まあ、なんとか」
ベルは照れくさそうに頭をかいた。
リリルカはそんなベルの横顔を見て、小さく微笑んだ。
(ベルは、あたしが知ってる誰よりも真面目で、誰よりも弱い。でも、誰よりも諦めない)
リリルカにとって、ベルは特別な存在だった。元いたファミリアで辛い思いをして、路頭に迷いかけた自分を拾ってくれた。ヘスティア・ファミリアの一員として、ベルを支えることが、今のリリルカの生きがいだった。
「……ねえ、ベル」
「なに?」
リリルカは声を潜めた。
「最近、街でベルのことを見かけたって人が多いんだよ。気をつけて」
「え? 僕を? なんで?」
ベルはきょとんとした顔で首を傾げた。
「あたしも詳しくは知らない。でも、変な噂が流れてるみたい。紅眼白髪の小柄な冒険者を見た、って」
「僕なんて、ただの駆け出しの冒険者なのに。目立つ要素なんてないよ」
「……そうだね。ベルは自分で思ってるより、ずっと目立ってるってことだよ」
リリルカはそれ以上何も言わなかった。
(アポロン・ファミリアの勧誘ビラ。あれに、ベルの似顔絵が描かれてた。あたし、見たんだ)
リリルカは、昨日街の掲示板で見た大量のビラを思い出していた。太陽神アポロンを主神とする、構成員120名の大ファミリア。美しい眷属を集めることに執着し、気に入った者を強引に勧誘する——勧誘強奪で悪名高い派閥だ。
(まさか、ベルが狙われてる? でも、なんで?)
リリルカの胸に、じわりと黒い不安が広がった。
ユグドラシルの湯は、北区の高級住宅街の一角にあった。
白い大理石で造られた、豪華な建物。入り口には金の装飾が施された看板が掲げられ、源泉かけ流しの湯煙が、朝の空気にゆらゆらと立ち上っている。
「うわぁ……すごい」
ベルは思わず立ち止まった。
「でしょでしょ! さあ、入るわよ!」
ヘスティアが先頭に立って、意気揚々と入り口へ向かう。
リリルカは周囲をきょろきょろと見回しながら、ベルの袖を引いた。
「ベル、何か変なものを見つけたら、すぐに言って」
「う、うん。分かった」
三人が受付に近づくと、ドワーフの支配人ガルム・ロッジが愛想よく頭を下げた。
「いらっしゃいませ。ユグドラシルの湯へようこそ。三名様でよろしいですか?」
「はい! この割引券でお願いします!」
ヘスティアが券を差し出す。
ガルムは券を確認すると、にこりと笑った。
「ありがとうございます。ああ、そうそう。お連れ様が、先に到着されていますよ」
「……お連れ様?」
ヘスティアが首を傾げた。
「はい。ヘスティア様のお連れ様ということで、二名様がすでにお待ちです」
「私、誰も誘ってないわよ? ベルとリリルカと、あとヴェルフは工房の仕事で来られないって言ってたし」
リリルカの背筋が、ぴんと伸びた。
(お連れ様? あたしたち以外に、誰か来るはずがない)
その時だった。
「あら」
澄んだ声が、ロビーに響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは——
金色の長いストレートヘア。同じ金色に輝く瞳。迷宮都市でも指折りの美貌を持つ、ロキ・ファミリアの第一級冒険者、アイズ・ヴァレンシュタインだった。
隣には、青みがかった銀髪のエルフ、リューが立っている。元アストレア・ファミリア団長で、二つ名「紅の正花」を持つ実力者だ。
「あ、アイズさん!?」
ベルの心臓が、跳ねた。
「ベル。奇遇ね」
アイズは淡々とした口調で、しかしどこか嬉しそうに言った。
「な、なんでここに剣姫がいるのよ!?」
リリルカが、ベルの前に立つようにして警戒心をあらわにした。
「私たちは調査中だ。そちらこそ、何の用だ」
リューが静かに言った。その声には、平静を装いながらも、わずかな緊張が混じっている。
「調査? こんな高級浴場で?」
「ああ。この浴場の給湯設備に、不審な点があると聞いてな」
「不審な点……」
リリルカの表情が、みるみる硬くなった。
ヘスティアは、アイズとリューの姿を見て、何かを考えるように眉をひそめた。
(ロキのところの子たちが、なんでこんな場所に? もしかして、あのアポロンが絡んでるんじゃ……)
ヘスティアの脳裏に、太陽神アポロンの笑顔が浮かんだ。数年前、自分を自ファミリアに引き込もうとし、断った相手。以来、アポロンはヘスティアを逆恨みしている。
「……まさかね」
ヘスティアは小さく首を振った。
「ヘスティア様、どうしたの?」
「ううん、何でもないわ。さあ、せっかく来たんだから、お風呂に入りましょう」
脱衣所は、ひんやりとした石造りの空間だった。
ベルは男湯側の脱衣所で、ごくりと唾を飲んだ。
(落ち着け。普通に、普通に……)
服を脱ぎ、タオルを手に取る。
その時だった。
するり、と。
手からタオルが滑り落ちた。
「あっ」
ベルは反射的に手を伸ばした。
タオルは床を滑り、隣の脱衣所との仕切りになっているカーテンの方へと転がっていく。
「わわっ」
ベルは慌てて追いかけた。
指先が、カーテンの裾に触れそうになる。
その瞬間——
「何してるの!」
ガシッ。
リリルカの小さな手が、ベルの腕を強く引っ張った。
「えっ!? リリルカ!?」
「もう! 何やってるのよ! 隣は女湯なんだからね!?」
リリルカは真っ赤な顔で、ベルの腕をぎゅっと握ったまま怒鳴った。
「ご、ごめん! タオルが落ちて、拾おうとしたら……」
「タオルくらい、あたしが拾うから! ベルは、その、は、裸なんだから、あっち行ってて!」
「は、はい! すみません!」
ベルは真っ赤になって、その場から飛び退いた。
リリルカは床に落ちたタオルを拾い上げ、ベルの方へ投げ渡す。
「ほら。もう、しっかりしてよ」
「……ありがとう、リリルカ」
ベルはタオルを受け取り、ぺこりと頭を下げた。
リリルカは、まだ心臓がバクバクしている。
(も、もう。ベルってば、無防備すぎるんだから……)
リリルカは、ベルの裸を見てしまったことへの動揺を必死に隠しながら、女湯側の脱衣所へと戻っていった。
女湯は、白い湯煙が立ち込める広々とした空間だった。
大理石の浴槽に、源泉かけ流しの湯が満ちている。壁には魔石式の給湯設備が設置され、湯温を保っていた。
「はぁ……極楽、極楽」
ヘスティアは肩まで湯に浸かり、うっとりと目を閉じた。
「本当に、いいお湯だね」
リリルカも、ヘスティアの隣で湯に浸かる。
(でも、さっきのアイズとリュー……あの人たち、本当にただの調査なのかな)
リリルカの頭からは、警戒心が離れない。
彼女は、浴場内をゆっくりと見回した。
湯船。脱衣所。天井。壁。給湯設備——
その時だった。
リリルカの視線が、壁際の配管に釘付けになった。
(あれ……?)
配管の途中に、明らかに規格の違う継ぎ目があった。他の配管が滑らかな金属で繋がれているのに、その部分だけ、色も形も違う部品が取り付けられている。
「……ヘスティア様」
「なあに?」
「あの配管、見て。なんか、おかしい」
リリルカは湯から上がり、配管に近づいた。
「え? どこどこ?」
ヘスティアも、ぱしゃぱしゃと湯をかき分けて近づく。
リリルカは、不自然な継ぎ目を指差した。
「ここ。他の配管と、明らかに部品が違う。誰かが、後から取り付けたみたい」
「誰かが? どういうこと?」
「分からない。でも、こんなの普通じゃない。誰かが細工したみた——」
リリルカが言いかけた、その瞬間だった。
ゴトン。
壁の向こうで、何かが動く音がした。
「……!」
リリルカの全身が、硬直した。
浴場の空気が、張り詰める。
さっきまで心地よかった湯煙が、急に不気味に感じられた。
「え、何? 今の音、何?」
ヘスティアが、リリルカにしがみついた。
「静かに。何かおかしい」
リリルカは声を潜め、腰袋に手を伸ばした。
懐に隠した小刀の柄を、しっかりと握りしめる。
(やっぱり、この割引券は罠だったんだ)
リリルカの心臓が、冷たく脈打った。
一方、男湯側では。
ベルは一人、広い湯船に浸かっていた。
「はぁ……あったかい」
肩まで湯に浸かり、天井を見上げる。
(リリルカが言ってたこと、気をつけてって)
ベルの頭に、リリルカの真剣な顔が浮かんだ。
(僕が、誰かに狙われてる? でも、僕なんて……)
ベルの脳裏に、金色の髪が揺れた。
アイズ・ヴァレンシュタイン。
(アイズさんも、この浴場に来てた。奇遇って言ってたけど……)
ベルの胸が、きゅうっと締め付けられる。
憧憬と、不安。
その二つの感情が、ぐるぐると渦を巻いていた。
「……アイズさん、どうしてここに」
ベルが小さくつぶやいた、その時。
ガタン。
脱衣所の方から、物音が聞こえた。
「ひっ!?」
ベルは反射的に、湯船の中で身をすくませた。
「ま、まさか、また魔物……!?」
心臓が、うるさいくらいに脈打つ。
ベルは、湯船から上がろうとして、動けなかった。
(こんなところで、魔物に襲われたら……)
恐怖で、体が固まる。
しかし。
物音は、それきり聞こえなかった。
「……な、なんだったんだ?」
ベルは恐る恐る、脱衣所の方を見た。
何もいない。
「……気のせい、かな」
ベルは、ほうっと息を吐いた。
でも。
胸の奥の違和感は、消えなかった。
その頃、オラリオ東区のフォイボス館——アポロン・ファミリアの豪華な拠点——では。
「時間通りだな」
美青年ヒュアキントスが、窓の外を見ながら静かに微笑んだ。
二つ名「太陽の光寵童」。アポロン・ファミリアの団長であり、主神アポロンを崇拝する、この計画の実行犯。
「あとは、爆発を待つだけだ」
彼の手には、ユグドラシルの湯の見取り図が握られていた。
給湯設備の配管に、細工を施した印が、赤く書き込まれている。
「ヘスティア・ファミリアの少年……ベル・クラネル。アポロン様が、なぜあんな小僧に目をかけるのか、私には理解できない。だが——」
ヒュアキントスの声が、冷たく響いた。
「アポロン様が望むなら、私は何だってする。あの小賢しい女神と、その眷属どもを、このオラリオから消し去ってみせる」
彼は見取り図を、ゆっくりと握りつぶした。
紙が、くしゃりと音を立てる。
ヒュアキントスの口元が、歪んだ。
「せいぜい、今のうちに湯を楽しむことだな。その湯が、お前たちを地獄に突き落とすのだから」
窓の外では、朝日が、オラリオの街を照らしていた。
女湯では、リリルカが壁に耳を当てていた。
「……聞こえない。でも、今の音は、絶対に気のせいじゃない」
「リリルカ、怖いわ……」
ヘスティアが、リリルカの腕にしがみついたまま震えている。
「大丈夫、ヘスティア様。あたしが守るから」
リリルカは、小刀を握った手を、ヘスティアの背に回した。
(この浴場には、何かがある。割引券をくれた奴。配管の細工。アイズとリューの調査。そして、さっきの物音)
リリルカの頭の中で、バラバラだったピースが、ゆっくりと繋がり始める。
(これは、ただの偶然じゃない。誰かが、あたしたちをここに呼び込んだんだ)
リリルカの琥珀色の瞳が、鋭く光った。
「……ベル」
彼女は、壁の向こうにいるベルのことを思った。
(あたしが、絶対に守るから)
小刀を握る手に、力が込められる。
浴場の空気は、冷たく張り詰めたままだった。
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