二度目の沈黙
以下、紹介文の提案です。
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鉄格子の向こうへ消えた背中。最後に残ったのは「慕っていました」という、たった一言だった。
王太子アルヴィス・ヴェルディアーンは、クーデターの夜、愛した騎士シエラを失った。何も伝えられないまま、彼女は自分を守って死んでいった。
絶望の果てに目覚めたのは、数年前の朝――クーデターが起こるより前の、自分の部屋だった。
二度目の人生。今度こそ、すべてを変えてみせる。
軍務派の台頭、七柱評議会の形骸化、骸環衆という影の集団。前世では見えなかった国の闇が、今はすべて見えている。
だが、彼が得た答えは、歪んでいた。
――彼女に近づけば、また死なせてしまう。
だから、今度は遠ざける。想いは告げない。ただ守れる国を、守れる自分を作るために。
好きだと言えなかった後悔を抱えたまま、彼は再び、愛する人のいない道を歩き出す。
これは、やり直した時間の中で、愛と義務の狭間に揺れる、孤独な王太子の物語。
二度目の沈黙 - 隠し通路の告白――生涯を賭けた求め、涙の格子
王宮の夜は、いつもと違う静けさに包まれていた。
春も終わりに近づいた風が、城壁の石の隙間を抜けて、ひゅう、と低く鳴る。月は出ていない。星の光だけが、かろうじて中庭の敷石を青白く浮かび上がらせていた。
アルヴィス・ヴェルディアーンは、王宮東翼の執務室で、最後の書簡に封蝋を押した。
蝋が固まるのを待つ間、彼は窓の外を見た。垂水街の方角。無数の小さな灯りが、まるで息をするように、ゆらゆらと瞬いている。あの灯りの下で、人々は何も知らずに眠り、朝を迎える準備をしている。
(これで、国は止まらない)
彼は、机の上に並んだ書簡の束を見下ろした。
七柱評議会の掌握。代理統治の体制。有力貴族たちからの支持を約束する誓約書。二度目の人生で、彼が密かに積み上げてきた統治の基盤が、ここに完成していた。彼がこの国を離れても、王権は揺るがない。軍務派の好きにはさせない。誰かが王太子の座を奪おうとしても、国そのものがそれに抵抗する仕組みを、彼は作り上げた。
(彼女を選んだとき、国が停滞しないように)
それは、彼が前世で果たせなかった、王太子としての責務だった。
だが、その責務を果たすための時間は、もう残されていなかった。
彼の手元には、今朝届いたばかりの報告書がある。王宮の外周、垂水街に面した堀の近くで、影狼の目撃情報が三件。いずれも夜間。いずれも単独ではなく、複数で行動している痕跡があった。
骸環衆の使役獣。エーテルを喰らい、術式の気配を消す魔獣。クーデターの夜、王宮への侵入を可能にした、あの影。
それが、王宮の周りに集まり始めている。
(もう、時間がない)
彼は、封蝋の押された書簡を、革の鞄にしまった。
そして、壁際に立てかけてあった剣を手に取る。王太子が普段帯びる儀礼剣ではない。前世のクーデターの夜、彼が握っていたのと同じ重さの、実戦用の剣だった。
鞘を払う。刃が、星の光を一瞬だけ反射した。
彼は、剣を鞘に戻した。
(今度こそ、彼女を守る)
その決意だけが、彼の心を支えていた。
――――――――
王宮の回廊は、昼間の華やかさが嘘のように、冷たく静まり返っていた。
壁に並ぶ燭台の火が、アルヴィスの歩くたびに揺れる。彼の足音だけが、石の床に吸い込まれていく。
東翼へ向かう途中、彼は、窓の外の気配に気づいた。
垂水街の路地。星明かりさえ届かない闇の中に、二つの光が浮かんでいる。
黄色い、獣の目。
影狼だった。
それは、じっと王宮を見上げていた。まるで、獲物の動きを待つように。
アルヴィスは、足を止めなかった。
(追手は、もう近くにいる)
彼は、歩調を速めた。
東斜面街の剣技場から呼び戻したシエラ・ヴァルダンは、王宮の回廊で彼を待っていた。
栗色の髪を短く結わえ、王宮騎士の制服に身を包んだ彼女は、柱の陰に立っていた。動くときは常に足音が静かで、騎士団でも影のようと言われる彼女らしく、そこにいることに気づく者は少ない。
だが、アルヴィスには分かった。
彼女の琥珀の瞳が、こちらを見つめている。真っ直ぐな視線。何かを問いたげな、しかし、口には出さない、彼女のいつもの目。
「殿下」
彼女の声は、静かな回廊に、思ったよりはっきりと響いた。
「すまない、夜分に呼び出して」
アルヴィスは、彼女の前に立った。
彼女の顔を見る。前世の記憶が、いつものように彼の胸を締め付ける。この顔を、この声を、もう二度と失いたくない。その想いが、彼の喉を焼くように熱くした。
「いえ。ご命令とあらば」
彼女は、簡潔に答えた。
その声に、ほんの少しだけ、震えが混じっていることに、アルヴィスは気づいた。
(彼女も、何かを感じている)
王宮の空気が、いつもと違うことを。
「シエラ」
彼は、彼女の名を呼んだ。
「すぐに来てほしい。……いや、来てくれ」
彼の声は、自分でも驚くほど、静かだった。
シエラは、一瞬だけ、彼の目を見つめた。
そして、こくり、と頷いた。
「……はい」
彼女は、彼の後に続いた。
二人の足音が、回廊に重なって響く。
――――――――
王宮東翼へ向かう廊下は、長く、暗かった。
窓の外、垂水街の路地に、また影狼の目が光る。
二つ。いや、三つ。
黄色い目が、王宮の壁に沿って、ゆっくりと移動している。
「殿下、あれは……」
シエラが、足を止めかけた。
彼女も、気づいたのだ。
「構うな。来い」
アルヴィスは、彼女の手を取った。
彼女の手は、剣だこのある固い手だった。でも、その指先は、驚くほど冷たかった。
「殿下……!」
シエラの声が、わずかに上ずる。
彼は、彼女の手を強く握り、走り出した。
彼女の手を引いて、暗い廊下を、東翼へ、東翼へ。
後ろから、追手の足音が聞こえる。
複数。鉄の靴音。王宮騎士のものではない。もっと重く、乱雑な、訓練されていない足音。
「殿下、お一人で先に……!」
シエラが、走りながら叫ぶ。
彼女の自己犠牲の精神が、もう顔を出している。
「黙って走れ!」
アルヴィスは、振り返らずに言った。
彼の声は、自分でも驚くほど、鋭かった。
シエラが、息を呑む気配がした。
彼は、彼女の手を、さらに強く握った。
(離さない)
(今度こそ、絶対に、離さない)
――――――――
東翼書庫の前まで来た。
アルヴィスは、足を止めた。
息が、乱れている。心臓が、耳の奥で激しく脈打つ。
(ここだ)
前世で、シエラが彼を押し込んだ場所。
彼が、彼女の死を、鉄格子の向こうで見届けた場所。
彼は、シエラの手を引いたまま、書庫の重い扉を押し開けた。
古い紙と埃の匂い。昼でも薄暗い、高い書架の森。
彼は、迷わず、書庫の奥へ進んだ。
本棚の陰。そこに、隠し通路の入口がある。
床の一部が、偽装された蓋になっている。彼は、それを開けた。
冷たい空気が、地下から吹き上げてくる。
「殿下、これは……」
シエラが、戸惑いの声を上げた。
彼女は、この通路を知らない。前世では、彼女が彼をここに押し込んだ。だが、今は、彼が彼女を連れてきた。
「いいから、入れ」
彼は、彼女の背に手を当てた。
「待ってください。私は、殿下をお守りするのが務めです。それなのに、私だけが……」
彼女が、抵抗する。
彼女の声は、切迫していた。
「お守りするのは、私の役目です!」
彼女は、彼の手を振りほどこうとした。
だが、アルヴィスは、彼女の肩を強く掴んだ。
「シエラ」
彼は、彼女の目を、真っ直ぐに見た。
「頼む。入ってくれ」
彼の声は、震えていた。
王太子としての威厳も、何もかも、剥がれ落ちた、一人の男の声だった。
シエラは、彼の目を見つめた。
彼女の琥珀の瞳が、揺れる。
「……殿下、何を、お考えなのですか」
彼女の声も、震えていた。
「お前を、守りたい」
彼は、言った。
「それだけだ」
彼の手が、彼女の背を、通路へと押した。
――――――――
シエラは、暗い通路へと、一歩、踏み出した。
冷たい空気が、彼女の足首を這い上がる。
振り返ると、アルヴィスが、通路の入口に立っていた。
彼は、手を伸ばし、古い鉄格子に触れた。
前世で、シエラが降ろした、あの格子。
彼は、その格子を、ゆっくりと、降ろし始めた。
「待ってください! なぜ、格子を……!」
シエラが、叫んだ。
彼女は、格子に手をかけた。
「殿下、お願いです。私も、戦わせてください!」
彼女の声は、涙声だった。
アルヴィスは、格子を降ろす手を、止めなかった。
鉄の音が、暗い通路に、冷たく響く。
「シエラ」
彼は、格子越しに、彼女を見つめた。
彼女の顔。泣きそうな、でも、必死に何かを堪えている顔。
前世で、彼女が彼を見送った時と同じ顔。
(あの時、お前は、俺に何を告げた)
(お慕いしておりました)
(たった一言。それだけを残して、お前は死んだ)
アルヴィスの胸が、張り裂けそうだった。
「私は、お前を、慕っている」
彼は、言った。
静かな、しかし、はっきりとした声で。
シエラの動きが、止まった。
彼女の琥珀の瞳が、大きく見開かれる。
「前世で、お前は、俺を守って死んだ。この場所で。この格子の向こうで」
彼は、続けた。
「俺は、その記憶を持ったまま、二度目の人生を生きている。お前を失った記憶を、抱えたまま」
シエラが、息を呑んだ。
彼女の唇が、わななく。
「殿下……何を、おっしゃって……」
「信じなくていい。だが、これだけは聞いてくれ」
アルヴィスは、格子を握りしめた。
鉄の冷たさが、掌に食い込む。
「私は、お前を愛している。前世で、言えなかった言葉だ。今度こそ、お前に伝えたかった」
彼の声は、震えていた。
「お前を失いたくない。二度と、あんな思いはしたくない。だから、頼む。生きてくれ。私のために、生きてくれ」
それは、告白ではなかった。
王太子としての、未来の王としての、どんな立場も、どんな計算も、何もかもを捨てた、ただの男の、生涯を賭けた求めだった。
シエラの目から、涙が、こぼれ落ちた。
一粒、また一粒。
彼女の頬を伝って、暗い通路の床に、落ちていく。
「……どうして、そんなことを」
彼女の声は、涙で濡れていた。
「私は、ただの平民で、あなたは、王太子殿下で……」
「そんなことは、どうでもいい」
アルヴィスは、彼女の言葉を遮った。
「お前が、生きていてくれれば、それでいい。私にとっては、それだけが、すべてだ」
シエラは、格子越しに、彼を見つめた。
涙で滲んだ視界の向こうに、彼の顔がある。
彼の碧い瞳が、真っ直ぐに、自分を見つめている。
彼女は、何かを言おうとした。
唇が、動く。
「わ、たし、も……」
その時だった。
遠くから、追手の足音が聞こえた。
複数の、重い靴音。
そして、獣の唸り声。
影狼の、低い、腹の底に響くような唸り。
シエラの言葉が、途切れた。
彼女の顔から、血の気が引いていく。
「殿下、お逃げください!」
彼女が、叫んだ。
「いいや。お前が先だ」
アルヴィスは、静かに言った。
彼は、格子を、完全に降ろした。
ガチャン。
鉄の音が、二人の間に、冷たく響いた。
「殿下!」
シエラが、格子にしがみついた。
彼女の指が、鉄格子の間から伸びる。
「開けてください! お願いです! 私を、一人にしないでください!」
彼女の声は、泣き声だった。
「私も、戦います。あなたの隣で、最後まで……!」
アルヴィスは、彼女の指に、そっと自分の手を重ねた。
彼女の指は、冷たく、震えていた。
「シエラ」
彼は、彼女の名前を呼んだ。
「お前の気持ちは、嬉しい。だが、今回は、私が守る番だ」
彼は、彼女の指を、一本ずつ、優しく、しかし、確実に、格子から離した。
「殿下……!」
シエラの声が、暗い通路に響く。
アルヴィスは、彼女に背を向けた。
「生きて、待っていてくれ。必ず、迎えに行く」
彼は、そう言い残し、歩き出した。
「殿下!」
彼女の叫びが、背中に突き刺さる。
彼は、振り返らなかった。
振り返ったら、もう、動けなくなる。
彼女の涙を見たら、彼女を連れて、どこかへ逃げ出したくなる。
でも、それでは、彼女を守れない。
追手は、彼女を狙っている。彼女の名は、敵に知られている。彼女を守るには、彼が囮になるしかない。
彼は、剣を抜いた。
刃が、暗闇の中で、冷たく光る。
(今度は、俺が、お前を守る)
彼は、追手の足音が近づいてくる方へ、走り出した。
――――――――
書庫の外に出ると、廊下の向こうから、松明の光が近づいてくるのが見えた。
十人以上。いや、もっと。
骸環衆の構成員たち。黒い外套を纏い、手には剣や短槍を持っている。
その先頭に、一匹の影狼がいた。
体長一・五メートルほどの、黒い獣。黄色い目が、アルヴィスを捉えて、ぎらりと光る。
「王太子だ!」
誰かが叫んだ。
「殺せ! いや、捕らえろ! 生け捕りにすれば、王家との交渉に使える!」
別の声が、命令を下す。
アルヴィスは、剣を構えた。
(来い)
彼の心は、不思議なくらい静かだった。
(お前たちの相手は、私だ)
影狼が、飛びかかってきた。
黒い影が、松明の光を遮る。
アルヴィスは、それを、半身になってかわした。
獣の爪が、彼の頬をかすめる。
痛み。血が、一滴、床に落ちる。
(この程度で、倒れるわけにはいかない)
彼は、剣を横薙ぎに振るった。
刃が、影狼の脇腹を切り裂く。
ギャン、と獣が悲鳴を上げ、地面に転がる。
「やるな、王太子!」
骸環衆の一人が、剣を振りかぶって斬りかかってきた。
アルヴィスは、それを、自分の剣で受けた。
ガキン、と火花が散る。
腕に、重い衝撃。
(重い……!)
彼は、歯を食いしばり、敵の剣を押し返した。
「ぐっ……!」
敵が、体勢を崩す。
そこへ、もう一人が、横から斬りかかってくる。
アルヴィスは、後ろに跳んで、それをかわした。
だが、完全には避けきれず、左腕に、鋭い痛みが走る。
制服の袖が裂け、血が滲む。
(まだだ)
(まだ、倒れるわけにはいかない)
彼は、剣を握り直した。
彼女の顔が、脳裏に浮かぶ。
涙を流しながら、格子にしがみついていた、彼女の顔。
(彼女を、守る)
(そのためなら、私は、何度でも立ち上がる)
彼は、追手の群れの中へ、突っ込んでいった。
――――――――
王宮の東翼は、混乱に包まれていた。
骸環衆の侵入を告げる鐘が、城のあちこちで鳴り響く。
王宮騎士団が、武器を手に、廊下を駆け抜ける。
「東翼に侵入者! 王太子殿下はどちらだ!」
「まだ確認できていません!」
「くそっ、急げ!」
怒号と足音が、王宮中に満ちていた。
アルヴィスは、そんな混乱の中を、一人で戦っていた。
彼の周りには、骸環衆の死体が、幾つも転がっている。
彼の体も、無傷ではなかった。
左腕からは血が流れ、右の脇腹にも、深い傷があった。
呼吸が、荒い。
視界が、時々、ぼやける。
(まだだ)
(まだ、終われない)
彼は、壁に手をつき、立ち上がった。
その時、廊下の向こうから、別の一団が現れた。
王宮騎士団の制服を着た男たち。
先頭に立つのは、レオンハルト・ローゼンハイトだった。
黒髪を短く切り揃え、灰色の瞳。188センチの長身。王宮騎士団長の制服が、血と埃で汚れている。
「殿下!」
彼は、アルヴィスの姿を見て、叫んだ。
「ご無事でしたか!」
彼は、剣を手に、アルヴィスのもとへ駆け寄ってきた。
「レオンハルト……」
アルヴィスは、彼の顔を見た。
乳兄弟。軍務卿の息子。そして、彼の知る前世では、クーデターの首謀者。
(お前が、どこまで関わっているのかは、分からない)
(だが、今は、お前を信じるしかない)
「東翼に、骸環衆が侵入している。数は、およそ二十。影狼もいる」
彼は、短く状況を伝えた。
「了解しました。ここは、私が引き受けます」
レオンハルトは、剣を構えた。
「殿下は、安全な場所へ」
「いや、私も戦う」
アルヴィスは、言った。
「殿下、ご無理をされては……」
「無理ではない。私にしか、できないことがある」
アルヴィスは、レオンハルトの目を見た。
「私は、シエラを守らなければならない」
レオンハルトの灰色の瞳が、わずかに揺れた。
「……あの女を、ですか」
彼の声は、低く、冷たかった。
「ああ。彼女は、私にとって、何よりも大切な存在だ」
アルヴィスは、はっきりと言った。
「だから、私は、彼女を守る。この命に代えても」
レオンハルトは、何も言わなかった。
彼の顔から、表情が消えていた。
「……承知しました」
彼は、短く答えた。
「では、私が東翼の敵を掃討します。殿下は、どうか、ご自身のお命を大切に」
彼は、そう言うと、騎士たちを率いて、廊下の奥へ走り去っていった。
アルヴィスは、彼の後ろ姿を見送った。
(レオンハルト)
(お前は、何を考えている)
彼の胸に、疑念が、再び頭をもたげる。
だが、今は、それに構っている余裕はなかった。
彼は、隠し通路の方を振り返った。
シエラがいる、あの場所。
(彼女を、守り抜く)
彼は、剣を握り直し、歩き出した。
――――――――
隠し通路の入口。
アルヴィスは、格子の前に立った。
格子の向こうは、暗く、何も見えない。
だが、彼には分かった。
彼女が、そこにいる。
泣いている。
彼女の嗚咽が、かすかに、格子の向こうから聞こえてくる。
(シエラ)
彼は、格子に手を触れた。
冷たい鉄の感触。
前世で、彼女が降ろした格子。
今度は、彼が降ろした格子。
(私は、お前を守る)
(今度こそ、お前を死なせない)
彼は、格子から手を離した。
そして、ポケットから、小さな装置を取り出した。
それは、隠し通路に仕掛けた罠の起動装置だった。
彼が、二度目の人生で、密かに準備していたものの一つ。
通路の壁に埋め込まれた術式が、侵入者を感知すると、通路ごと崩落する。
シエラを守るための、最後の切り札。
彼は、装置のスイッチを押した。
カチリ、と小さな音がした。
通路の奥から、微かな振動が伝わってくる。
(これで、彼女への追手は、絶たれた)
(後は、私が、すべてを終わらせる)
彼は、装置を床に捨てた。
そして、剣を抜き、王宮の闇の中へ、歩き出した。
――――――――
王宮の混乱は、まだ続いていた。
あちこちで、剣戟の音と、怒号と、悲鳴が響く。
火の手が上がっている場所もあった。
王宮の空が、赤く染まっている。
アルヴィスは、その中を、一人で歩いていた。
彼の体は、傷だらけだった。
血が、彼の歩いた跡に、点々と落ちている。
呼吸が、浅い。
足が、重い。
(だが、まだ、終われない)
彼は、前を見た。
王宮の中央、七柱の間へと続く大階段。
そこに、黒い集団が、待ち構えていた。
骸環衆。
そして、その中央に、一人の男。
軍服を着た、初老の男。
軍務卿、バルドヴィン・ローゼンハイト。
彼は、アルヴィスを見て、薄く笑った。
「おや、王太子殿下。ご自身から、わざわざ死にに来られるとは」
彼の声は、穏やかだった。
まるで、茶会で歓談するかのような、優雅な口調。
「バルドヴィン卿」
アルヴィスは、彼の名を呼んだ。
「あなたが、黒幕でしたか」
「黒幕とは、人聞きの悪い」
バルドヴィンは、笑みを深めた。
「私は、この国を正すために、動いているだけです。王権に縛られ、民を顧みない王家を排除し、真に強い国を作る。そのために、必要なことをしているだけ」
「民を顧みない、ですって?」
アルヴィスは、彼の言葉を繰り返した。
「あなたが、どれだけの民を、その『正しさ』のために犠牲にしてきたか、私には分かっています」
彼の脳裏に、前世の記憶が蘇る。
クーデターの夜。
燃える王宮。
倒れるシエラ。
鉄格子の向こうで、彼女が、最後に微笑んだ顔。
「あなたの『正しさ』は、私の大切な人を殺した」
彼の声は、静かだった。
だが、その目は、かつてないほど、冷たく燃えていた。
「私は、あなたを、許さない」
彼は、剣を構えた。
「面白い」
バルドヴィンは、笑った。
「では、お相手しましょう。王太子殿下の、最後の舞を、私が見届けて差し上げます」
彼は、部下たちに、手で合図を送った。
骸環衆が、一斉に、アルヴィスに襲いかかってきた。
アルヴィスは、剣を振るった。
一閃。
先頭の男の肩口から、血が噴き出す。
男が、悲鳴を上げて倒れる。
二閃。
別の男の剣を、弾き飛ばす。
三閃。
三人目の男の足を、切り裂く。
「うおおおおお!」
彼は、叫びながら、敵の群れに突っ込んでいった。
(彼女を守る)
(そのためなら、私は、鬼にもなれる)
彼の剣が、次々と敵を切り伏せていく。
彼の体も、次々と傷ついていく。
だが、彼は、止まらなかった。
止まるわけには、いかなかった。
――――――――
戦いは、長く続いた。
アルヴィスは、一人で、骸環衆の大軍を相手に戦い続けた。
彼の周りには、数え切れないほどの敵の死体が積み重なっていた。
彼自身も、もはや、満身創痍だった。
左腕は、もう動かない。
右足も、深く切られて、まともに立てない。
血が、止まらない。
視界が、赤く染まっている。
(それでも)
(私は、まだ、倒れるわけにはいかない)
彼は、剣を杖代わりに、立ち上がった。
目の前に、バルドヴィンが立っていた。
彼は、無傷だった。
「素晴らしい。実に素晴らしい戦いぶりだ、王太子殿下」
彼は、拍手を送った。
「ですが、もう、終わりです。あなたの体は、限界を超えている。無駄な抵抗は、おやめなさい」
「……無駄では、ない」
アルヴィスは、血の混じった息を吐きながら、言った。
「私は、彼女を守る。そのためなら、この命など、惜しくはない」
「彼女?」
バルドヴィンは、首を傾げた。
「ああ、あの平民の騎士ですか。特例叙任者の、シエラ・ヴァルダン」
彼の口から、シエラの名が出た。
アルヴィスの心臓が、激しく脈打つ。
「あの女は、我々の計画にとって、邪魔な存在です。王太子殿下を、王宮に縛り付ける、枷のようなものですからね」
バルドヴィンは、冷たく言った。
「ですから、排除させていただきました」
アルヴィスの世界が、一瞬、真っ白になった。
「……何、だと?」
彼の声は、かすれていた。
「おや、ご存知なかった? 彼女は、あなたを逃がすために、東翼の隠し通路で、我々の追手と戦い、そして、死にましたよ」
バルドヴィンは、笑みを浮かべた。
「あなたを守って、立派な死に様でした。まあ、所詮は平民。王太子殿下のために死ねて、本望だったでしょう」
「黙れ」
アルヴィスの声は、低く、地の底から響くようだった。
「黙れぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
彼は、叫んだ。
全身の血が、沸騰する。
怒りが、悲しみが、絶望が、すべてを押し流していく。
(また、か)
(また、私は、彼女を失ったのか)
(二度目の人生でも、また、同じように)
彼の目から、涙が、こぼれ落ちた。
「あなたは、私のすべてを、奪った」
彼は、剣を握り直した。
「だから、私は、あなたを殺す」
彼の目は、もはや、正気のものではなかった。
「来い、バルドヴィン。お前の『正しさ』とやらを、その身で証明してみせろ」
彼は、最後の力を振り絞り、バルドヴィンに斬りかかった。
――――――――
その時、大階段の上から、別の声が響いた。
「そこまでだ、父上」
冷たい、鋭い声。
レオンハルトが、王宮騎士団を率いて、大階段の上に現れた。
彼の剣は、血に濡れていた。
「レオンハルト……お前、なぜここに」
バルドヴィンの顔から、初めて、笑みが消えた。
「軍務卿バルドヴィン・ローゼンハイト。あなたを、反逆罪の現行犯で、拘束します」
レオンハルトは、冷たく宣言した。
「なに……? お前、正気か? 私の息子だぞ!」
「ええ、あなたの息子です。だからこそ、あなたの罪を、私が正さなければならない」
レオンハルトの灰色の瞳は、氷のように冷たかった。
「王宮騎士団長として、王太子殿下をお守りする。それが、私の責務です」
彼は、剣を構えた。
「たとえ、相手が、実の父であっても」
バルドヴィンの顔が、怒りに歪んだ。
「この、親不孝者が……!」
彼は、レオンハルトに斬りかかった。
だが、レオンハルトの剣は、彼の剣を、あっさりと弾き飛ばした。
「父上。あなたの剣は、もう、鈍っています」
レオンハルトは、バルドヴィンの首筋に、剣の切っ先を突きつけた。
「おとなしく、お縄についてください」
バルドヴィンは、屈辱に顔を歪めた。
「く……っ、この、私が……!」
彼は、膝をついた。
王宮騎士団が、彼を取り押さえる。
――――――――
アルヴィスは、その光景を、ぼんやりと見ていた。
(終わった、のか)
彼の体から、力が抜けていく。
剣が、手から滑り落ちる。
彼は、その場に、崩れ落ちた。
「殿下!」
レオンハルトが、駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか! しっかりしてください!」
「……シエラ、は」
アルヴィスは、かすれた声で、尋ねた。
「シエラは、無事、か」
レオンハルトは、一瞬、言葉を詰まらせた。
「……彼女なら、無事です」
彼は、静かに言った。
「東翼の隠し通路で、保護しました。泣きながら、殿下の名を呼んでいましたよ」
アルヴィスの胸に、熱いものが込み上げてきた。
(生きている)
(彼女は、生きている)
彼の目から、涙が、溢れ出した。
「そうか……」
彼は、微笑んだ。
「良かった……」
そして、彼の意識は、ゆっくりと、暗闇に沈んでいった。
――――――――
王宮の混乱は、夜明けとともに、ようやく収束した。
骸環衆の侵入は、王宮騎士団によって鎮圧された。
首謀者であるバルドヴィン・ローゼンハイトは、逮捕された。
彼の息子、レオンハルト・ローゼンハイトが、自らの手で、父を捕らえた。
その事実は、王宮中に、衝撃をもって広まった。
アルヴィス・ヴェルディアーンは、王宮の医務室で、治療を受けていた。
彼の傷は深く、一歩間違えば命を落としていた。
だが、彼は、生きていた。
彼の枕元には、一振りの剣が置かれていた。
シエラ・ヴァルダンの愛剣、ミラルダ。
彼女は、彼の無事を祈りながら、ずっと、彼の傍にいた。
彼が目を覚ました時、最初に見たのは、彼女の顔だった。
涙で濡れた、彼女の顔。
「……殿下」
彼女の声は、震えていた。
「ご無事で、良かった……」
彼女は、彼の手を握った。
彼女の手は、温かかった。
アルヴィスは、彼女の手を、握り返した。
「……ああ」
彼は、微笑んだ。
「ただいま、シエラ」
シエラの目から、大粒の涙が、こぼれ落ちた。
「おかえりなさいませ、殿下」
彼女は、泣きながら、微笑んだ。
窓の外では、夜明けの光が、王都の空を、静かに染めていた。
長い夜が、終わろうとしていた。
だが、二人の戦いは、まだ、終わっていなかった。
格子越しに告げた想いの行方は、まだ、誰にも分からない。
ただ、確かなことが一つだけあった。
彼は、二度目の人生で、初めて、彼女に想いを告げた。
そして、彼女は、その想いを受け止めた。
それだけが、彼にとっての、何よりも大きな勝利だった。
王宮の窓から差し込む朝日が、二人の手を、優しく照らしていた。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。