ミナの届く箱
古アパート「小牧田荘」に越してきた若い女・ミナ。彼女のもとには毎日のように宅配便が届く。差出人の名前は毎回違い、住所はどれも存在しないはずの「一丁目一番地」。大家のトメは、その異常な光景に胸の引っかかりを覚えながらも、ミナの無邪気な笑顔に押されて疑問を飲み込んでしまう。だがある朝、届いた荷物の送り状には——差出人「佐久間トメ」、つまり自分自身の名前が記されていた。誰の名前も覚えない女と、名前だけが届く部屋。梅雨の湿気とともに、じわじわと侵食していく日常の違和感。これは、静かに、しかし確実に育っていく恐怖の物語。
ミナの届く箱 - 勤務表のコピー
八月下旬。蝉の声が、署の窓ガラスを震わせていた。
地域課のデスクで、警察官はパソコンの画面を見つめていた。三十四歳。独身。交番勤務から異動して三年目。窓際の席から見えるのは、駐車場と、その向こうの古いアパートの屋根だけだ。
「相談者、入りました」
受付の若い職員が、書類を差し出した。インクのにおいが、わずかに鼻をつく。
「生活保護受給者の方です。ストーカー被害の相談と」
「分かった」
書類を受け取り、腰を上げる。廊下の空気は冷えていた。エアコンの風が、首筋の産毛を撫でていく。
相談室のドアを開けると、男がいた。
白髪混じりの刈り上げ。落ちくぼんだ暗い瞳。痩せた体。常に汗の匂いがする——そういう男だった。右足を少し引きずるようにして、椅子から立ち上がった。椅子の脚が、リノリウムの床をこすり、短い悲鳴をあげる。
「……どうも」
声は、ぼそぼそとしていた。語尾が、口腔内で溶けて消える。
「おかけください」
向かいの椅子に座り、ボールペンを手に取った。プラスチックの軸が、指の腹に冷たい。
「お名前を」
「梶谷です。梶谷、正一」
「梶谷さん。今日はどういったご相談ですか」
梶谷は、床を見た。灰色のリノリウムの、黒ずんだ継ぎ目を。
「……あの、俺、ストーカー被害に遭ってるっていうか」
「誰からですか」
「隣の、ミナって女です」
梶谷は、スマートフォンを差し出した。画面には、若い女の配信動画が映っている。
警察官は、画面を覗き込んだ。
女が笑っていた。黒髪を後ろで緩く結び、白いシャツにベージュのカーディガン。華奢で小柄。左の耳たぶに、小さな穴。
「今日も見てくれて、ありがとうございます」
画面の中の女は、そう言って微笑んでいた。スピーカー越しの声が、相談室の空気に、薄く膜を張る。
「この人が、隣人のミナさんですか」
「そうです。この人が、俺のことを監視してるんです」
「監視、とは」
梶谷は、早口で話し始めた。前のめりになり、椅子がきしむ。
「俺、この人の配信をずっと見てて。そしたら、この人が、俺に荷物を送れって言うから」
「荷物を送ったんですか? あなたが?」
「はい。タオルセットです。生活保護費で買った、中古のやつ」
ペンを走らせた。紙の上を、インクが滑る。
「それで、送り状には、あなたの本名を書いたんですか」
「そうです。本名で。住所は、適当に。存在しない番地を書きました」
「存在しない住所に送った」
「はい。でも、届いたんです」
「届いた?」
「この人の配信で、俺の名前が読み上げられたんです。『梶谷さんから届きました』って」
梶谷の目が、少しだけ輝いた。虹彩の、乾いた表面に、蛍光灯の光が点る。
警察官は、その目の変化を見逃さなかった。
「……それで、ストーカー被害というのは」
「その後です。この人が、俺のことを、ずっと見てるんです。配信で、俺の名前を出したり。俺が送った荷物を、いつまでも持ってたり」
「具体的に、何かされましたか。つきまといとか、待ち伏せとか」
「……いや、それは、ないですけど」
「無言電話とか、脅迫めいたメッセージとか」
「……ないです」
「では、被害の内容は」
梶谷は、しばらく黙った。唇が、何かを噛んでいる。
「……名前を、読み上げられたことです」
「配信で?」
「はい」
ボールペンを、机の上に置いた。カチリ、と小さな音がした。
「梶谷さん。整理しますね」
ゆっくりと言った。
「あなたは、ミナさんに、ご自分から荷物を送った。送り状には、ご自分の本名を書いた。住所は、存在しない番地だった。そして、ミナさんの配信で、あなたの名前が読み上げられた。……そういうことですね」
「そうです」
「では、送り主は、あなた自身です」
梶谷は、顔を上げた。顎が、わずかに開く。
「え」
「送ったのも、あなた。名前を書いたのも、あなた。配信で読み上げられたのも、あなたが送った荷物の送り状に書かれた、あなたの名前です」
「……でも、あの人は、俺のことを」
「梶谷さん。ストーカー規制法の適用要件は、『つきまとい、待ち伏せ、押し掛け、監視していると告げる行為』などです。今回のお話では、ミナさんがあなたに対して、そうした行為をしたという事実が確認できません」
「でも、配信で名前を」
「配信で名前を読み上げたのは、あなたが送った荷物の送り主としてです。それは、あなた自身が送った結果です」
梶谷は、口を開け、何か言おうとした。喉の奥が、ひくつく。でも、言葉が出てこない。
「……だって、あの人は、俺のことを、必要としてくれてて」
警察官は、梶谷の目を見た。
(この男は、被害者じゃない)
(加害者でもない)
(自分で自分を、追い込んでいる)
「梶谷さん。ミナさんがあなたを必要としているという根拠は、配信で名前を読み上げられたことだけですか」
「……それだけで、十分です」
「十分、ですか」
「俺、あの人に、初めて名前を呼ばれたんです。あの配信で。それまで、誰にも、名前なんて呼ばれたことなかった」
梶谷の声が、震えた。喉の粘膜が、震えているのが見える。
「あの人は、俺のことを、見てくれてる。俺が送ったタオルを、ちゃんと受け取って、名前まで読んでくれた。……あの人は、俺を、必要としてくれてるんです」
警察官は、何も言えなかった。
しばらく、相談室に沈黙が落ちた。
壁の時計が、秒を刻む。
カチ、カチ、カチ。
「……分かりました」
ゆっくりと立ち上がった。椅子が、床をこする。
「今回のご相談は、ストーカー規制法の適用要件を満たしません。事件性なしと判断します」
「待ってください」
梶谷は、椅子から身を乗り出した。机の縁に、指が食い込む。
「俺、本当に、あの人に、監視されてて」
「梶谷さん」
低い声で言った。
「あなたが送り主です。送ったのも、あなた。晒されたのも、あなた自身が書いた名前です。これは、民事の問題です。お気持ちは分かりますが、警察では対応できません」
「……民事」
「弁護士に相談するか、お住まいの自治体の相談窓口を利用してください」
梶谷は、しばらく、床を見ていた。まばたきの音が、聞こえそうなほどだった。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「……分かりました」
右足を引きずりながら、相談室を出て行った。足の裏が、床を擦る音が、遠ざかっていく。
ドアが閉まる。
警察官は、一人、相談室に残った。
机の上には、書きかけの書類が残っている。ボールペンのインクが、途中でかすれていた。
(送り主は、自分)
(送ったのも、自分)
(晒されたのも、自分)
その奇妙な逆転構造を、頭の中で反芻した。
(この男は、誰かに必要とされたいだけだ)
(そして、その相手が、たまたま、配信者の女だった)
書類をまとめ、相談室を出た。
廊下には、誰もいなかった。
夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいる。床に、長い影が伸びていた。
自分のデスクに戻り、書類を引き出しにしまった。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
同僚は、帰り支度を始めていた。キーボードを打つ音が、まだどこかでしていた。
パソコンの電源を落とし、上着を手に取った。生地が、指に馴染む。
(今日は、もう帰ろう)
そう思って、廊下を歩き始めた。
署の玄関に向かう途中、郵便受けの前を通りかかった。
何気なく、自分の名前が書かれたボックスを覗き込む。
(……ん?)
段ボール箱が、入っていた。
小ぶりな箱。切手も、消印もない。段ボールの繊維が、指先にざらつく。
表面に、手書きの文字。
「地域課 御中」
箱を取り出した。
ずしり、と重い。手首の関節に、重みが伝わる。
(何だ、これ)
周囲を見回す。誰もいない。蛍光灯の光だけが、等間隔に並んでいる。
箱を抱えて、デスクに戻った。
「どうしたんですか、それ」
「郵便受けに入ってた。差出人不明だ」
「爆発物とか?」
「やめろ」
カッターで箱の封を切った。刃が、ガムテープを裂く音。中身は、一枚の紙だった。
コピー用紙。A4サイズ。指先が、紙の感触を確かめる。
紙を取り出した。
そして、自分の目を疑った。
「……なんだ、これ」
勤務表だった。
今日の日付。
地域課の勤務表。
相談受付時間。
担当者名——自分の名前。
受理番号。
全て、正確に記載されていた。インクの粒が、紙の繊維に沈んでいる。
紙を持つ手が、かすかに震えた。指先が、細かく揺れる。
「どうかしましたか」
同僚が、覗き込んでくる。影が、紙の上を横切った。
反射的に紙を裏返した。
「……いや、何でもない」
「そうですか? 顔色、悪いですよ」
「大丈夫だ」
紙を胸に抱え、周囲を見回した。
誰が。
いつ。
何のために。
廊下には、誰もいない。
エアコンの風が、天井から吹き降りている。冷気が、うなじを撫でる。
壁の時計が、秒を刻む。
カチ、カチ、カチ。
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。鼓膜の内側で、血液が脈打つ。
(これは、何かの間違いだ)
(そうに違いない)
自分に言い聞かせた。
でも、手の震えは、止まらなかった。
——
「勤務表のコピー? 心当たりないよ」
「俺もない。そもそも、勤務表をコピーする必要なんてないだろ」
署内の同僚に、一人ずつ確認して回った。誰も、心当たりがない。
「防犯カメラ、確認しよう」
防犯カメラの映像を確認した。郵便受け周辺。カメラの死角だった。グレーのモニターに、映らない空間だけが、暗く広がっている。
「ここ、映ってないんだよ。前から言ってるだろ、カメラの位置、変えろって」
拳を握りしめた。爪が、掌に食い込む。
(誰が、いつ、これを)
(なぜ、俺の勤務表を)
(なぜ、今日の)
デスクに戻り、コピー用紙をもう一度見た。
自分の名前。相談受付時間。梶谷の名前は、どこにもない。
でも、あの時間帯に、警察官が対応した相談は、梶谷の一件だけだった。
(これは、梶谷の相談に関係している)
(間違いない)
上に報告すべきか、迷った。でも、物的証拠は、コピー用紙一枚だけ。脅迫文言もない。事件性を認定するのは、難しい。
(報告しても、相手にされない)
(『気のせいだ』で片付けられる)
コピー用紙を、机の上に置いた。蛍光灯の光が、紙の上で反射する。自分の名前が、白く浮かび上がる。
その名前を、じっと見つめた。
——
その夜。
自宅のアパートに帰り着いた。駅から十分ほどの、築浅のワンルーム。家賃は七万円。ドアの鍵を回す音が、廊下に響く。
部屋に入り、スーツのまま、ベッドに座り込んだ。スプリングが、軋む。
スマートフォンを取り出す。
(ミナ)
(あの女の配信)
検索した。すぐに見つかった。配信者名は「ミナ」。フォロワー数は、数千人。
最新の配信を再生した。画面の中で、ミナが笑っていた。
「こんばんは。今日も見てくれて、ありがとうございます」
画面をじっと見つめた。
「みなさんに、お知らせがあります」
少し間を置いて、言った。
「私、明日、引っ越します」
眉をひそめた。
「新しいお部屋は、まだ内緒です。でも、配信は続けますので、よかったら、これからも見てくださいね」
段ボール箱を梱包する様子が映った。ガムテープを剥がす音。箱を閉じる音。スピーカーから、ざらついた音が流れる。
コメント欄が、流れていく。
『寂しい』
『引っ越し先でも配信してね』
『待ってる』
『絶対見る』
コメント欄をスクロールした。指先で、画面を何度も払う。
(この女は、何者だ)
(梶谷は、この女に、名前を読み上げられただけで、自分が必要とされていると思い込んだ)
過去の配信をさかのぼった。梶谷が言っていた回。
『梶谷さんから届きました』
その回を見つけた。ミナが、タオルセットを開封している。ビニール袋を破く音がした。
「わあ、タオルセットです。梶谷さんから届きました。ありがとうございます。うれしいな」
その場面を、何度も再生した。
(梶谷さん)
(確かに、そう言っている)
(でも)
コメント欄を見た。
『梶谷さんって誰?』
『俺も梶谷だけど』
『梶谷です。送りました』
『私も梶谷です』
コメント欄には、「梶谷」を名乗る視聴者が、何人もいた。文字の列が、画面を流れ落ちていく。
スマートフォンを握る手に、力を込めた。指の関節が、白くなる。
(あの男は、自分が読み上げられたと思い込んでいる)
(でも、ミナが読み上げた「梶谷さん」は、あの男とは限らない)
(「梶谷」という名前の視聴者は、他にもいる)
(あの男は、その可能性に、気づいていない)
机の上に置いた勤務表のコピーを、手に取った。
自分の名前。今日の日付。相談受付時間。
(これは、俺への警告か)
(それとも、単なる嫌がらせか)
コピー用紙を、ぎゅっと握りしめた。紙が、くしゃりと音を立てる。繊維が、断裂する手応え。
(俺は、あの女のリストに、載せられた)
その考えに、たどり着いた。
(梶谷の相談を、事件性なしと判断した)
(その結果が、これだ)
(あの女は、俺が相談を受理しなかったことを、知っている)
(どうやって?)
スマートフォンの画面を見た。ミナが、笑っている。
「それでは、みなさん、また明日。おやすみなさい」
配信が、切れた。画面が、暗くなる。
暗い画面を、じっと見つめ続けた。自分の顔が、薄く映り込んでいる。
——
机の上に置いた勤務表のコピーを、改めて見つめた。
自分の名前。梶谷の相談を受理しなかった時刻。
(このコピーは、署の郵便受けに入っていた)
(署の郵便受けに、差出人不明の荷物が届いた)
(そんな事実は、警察内部の人間でなければ知り得ない)
同僚の顔を、一人一人思い浮かべた。先輩。後輩。受付の職員。
誰も、疑うことができない。
(いや、違う)
(疑いたくないんだ)
コピー用紙を、引き出しにしまった。引き出しのレールが、滑らかに滑る。
そして、しばらく、動けなかった。背もたれに、体重が沈み込む。
——
翌朝。
出勤途中に、小牧田荘の前を通りかかった。
築四十年の二階建てアパート。家賃二万円、風呂は共同、表札は手書き。外壁の塗装が、ところどころ剥がれている。
そのアパートの前に、引っ越し業者のトラックが停まっていた。ディーゼルエンジンの低い音が、路面を伝ってくる。
ミナが、段ボール箱を運び出している。黒髪を後ろで緩く結び、白いシャツにベージュのカーディガン。華奢で小柄。左の耳たぶに、小さな穴。
足を止めた。
(声をかけるべきか)
(いや、何を言えばいい)
(お前が送ったのか、と聞くのか)
(証拠は、ない)
ミナは、段ボール箱を、トラックの荷台に積み込んでいた。汗をかいている。額の産毛が、汗で張り付く。
でも、笑顔だった。
「ありがとうございます。助かります」
引っ越し業者の作業員に、そう言っている。
その笑顔を見た。
(あの笑顔の裏で、何を考えている)
(あの笑顔で、何人を、壊してきた)
何も言えずに、通り過ぎた。
振り返らなかった。
振り返るのが、怖かった。
署に着くと、郵便受けには、何も入っていなかった。空洞の箱が、口を開けているだけだった。
自分のデスクに戻り、昨日の勤務表のコピーを確認した。そこには、何の変化もない。
自分の名前。昨日の日付。相談受付時間。
日常業務をこなしながらも、あのコピーが意味するものを考え続けた。書類の文字が、頭に入ってこない。
(あの女は、もう、この街にはいない)
(でも、あの女のリストは、まだ、続いている)
ミナの配信を、ブックマークに追加した。指先で、画面の端を押す。
そして、時折、確認するようになった。
——
夕方。
デスクの引き出しを開けた。勤務表のコピーが、まだそこにある。
その紙を取り出し、じっと見つめた。
(俺は、あの女に、選ばれた)
(あの女のリストに、俺の名前が、ある)
(でも、事件性は、ない)
(正式な捜査も、できない)
(上に報告することも、できない)
コピー用紙を、引き出しに戻した。紙が、他の書類の上に、静かに着地する。
パソコンの画面を、ぼんやりと見つめた。画面には、ミナの配信ページが表示されている。
「今日も見てくれて、ありがとうございます」
ミナの声が、小さく、スピーカーから流れていた。
その声を、聞き続けた。消えるまで、何も言わずに。Noveliaとは?
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