時をかける猫 全10話 ―時間の隙間を、猫だけが知っている― - 路地:風鈴が鳴るたび、過去が近づく
商店街の裏に、細い路地がある。三回曲がらないと通り抜けられない、地元の人間しか使わない道だ。
涼太はその日、自転車部の誰とも顔を合わせたくなくて、いつもと違う道を選んだ。表通りを避けて、路地に入った。
風鈴の音がした。
季節にはまだ早い。誰かの家の軒先に吊るしてあるのだろうと思ったが、音の方を見ても、何も見当たらなかった。
二回目の角を曲がったところで、また風鈴の音がした。今度は近い。すぐそこにあるはずなのに、見えない。
涼太は足を止めた。空気が変わっていた。
***
路地の壁が違う。塗り直されたばかりのような、新しい白壁だった。今はもう剥げて灰色になっている壁が、真っ白に戻っている。
三回目の角を曲がると、軒先に風鈴が吊るされた家があった。縁側に、女の子が座っている。涼太と同じくらいの年に見える。膝に、ノートを広げていた。
猫が、その子の隣に座っていた。ハルだ。今日は、最初から探していなかったのに、向こうから現れた。
「あなた、誰?」
女の子が顔を上げた。涼太は答えに迷った。
「……道に迷って」
「この辺の子じゃないね。それにしても変な格好」
涼太は自分の制服を見た。確かに、見比べれば妙だろう。
「何、書いてるの」
「日記。明日、引っ越すから。最後だから書いとこうと思って」
「引っ越し、嫌なの?」
女の子はノートを閉じて、猫の頭を撫でた。
「嫌っていうか……ここでの自分が、消えるみたいで。新しい場所では、新しい自分になるんでしょ。前の自分のこと、誰も知らないところで」
涼太は何も言わなかった。言葉が見つからなかった。
「でも、まあ、いいか。誰も知らない場所で、また一からやればいいんだし」
女の子はそう言って、笑った。あまり笑っていない笑い方だった。
「それ、本当に思ってる?」
口に出してから、自分でも驚いた。女の子がこちらを見た。
「……何?」
「前の自分のこと、知ってる人がいなくなるの、本当はそんなに平気じゃないんじゃないかって」
女の子は黙って、ノートの表紙を撫でた。
「平気じゃないよ。でも、言ったら、もっと辛くなるから」
風鈴が鳴った。猫が立ち上がって、塀の方へ歩いていった。
「ねえ、その猫」
「ハルって呼ばれてる、らしいです」
「ふうん。うちじゃ、来た子って呼んでる。名前、付けてないの。すぐいなくなるから」
猫は塀の上に乗って、こちらを見ていた。
「日記、捨てないで持っていったほうがいいと思います」
涼太はそれだけ言った。それ以上は、自分でも何が正しいのか分からなかった。
女の子は少し驚いた顔をして、それからノートを抱え直した。
風鈴の音が、遠くなる。白壁が、灰色に戻っていく。
***
涼太は路地の真ん中に立っていた。剥げた壁、誰もいない縁側、風鈴の音はもうしない。猫もいなかった。
家に帰って自転車を玄関の脇に停めたとき、壁のゼッケンが目に入った。いつもは見ないようにしている場所だった。
その日の夜、涼太のスマホに、自転車部のグループチャットの通知が来た。誰かが、来週の練習について聞いている。
いつもなら、見るだけで終わらせていた。涼太はその夜、初めて返信を打った。「行けたら行く」とだけ。送るのに、思ったより時間がかかった。
送ったあと、しばらく画面を見ていた。誰かが「お、久しぶり」と返してきた。それだけだった。それだけで、十分だった。Noveliaとは?
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