頭文字D -Shift Up- ハチロクの先へ
高校生のケンタはストリートレースに夢中で、気がつくと『頭文字D -Shift Up- ハチロクの先へ』の世界に飛び込んでいた。
見慣れた秋名の峠が目の前に広がる。胸を高鳴らせながら歩いていると、伝説のハチロクが走り去る。そのドライバーは、まさに藤原たくみその人だった。ケンタは思わず声をかけ、助手席に乗せてもらうことに成功する。
実際のたくみの走りは、漫画で見るよりはるかに凄まじかった。その走りに触発され、スピードへの渇望に火がついたケンタは、自分も走りたいと決意する。しかし、不穏な影が迫っていた。峠に現れた新たなチーム「ブラッディムーン」。その冷酷なリーダー、黒崎りょうが、秋名最速のたくみに勝負を挑んできたのだ。
これはただのレースではない。りょうの真の狙いは、たくみのハチロクを完全に破壊することだった。この企みを知ったケンタは阻止しようとするが、りょうの仲間に袋叩きにされてしまう。
たくみは勝負を受ける。仲間たちはケンタを助けるために集結し、共にりょうの一味に立ち向かう。卓越したテクニックでたくみはりょうを追い詰めるが、最終コーナーでりょうが無謀で狂気じみた動きを見せ、大クラ
頭文字D -Shift Up- ハチロクの先へ - 秋名へ——憧れが現実に変わる夜
冷たいアスファルトの感触で、ケンタは目を覚ました。
頬に当たる路面はひんやりとしていて、かすかにタイヤの焦げたような匂いがする。
「……は?」
上半身を起こす。目の前に広がっていたのは、見覚えのあるヘアピンカーブだった。急な勾配と、外側に掘られた浅い溝。画面の中で何百回も見た、あの場所だ。
(秋名だ……)
ケンタは立ち上がった。少し長めの前髪が目にかかって、うっとうしい。後ろで小さく束ねながら、あたりを見回す。深夜の峠道。街灯はまばらで、虫の声だけがやけに大きく聞こえる。
(なんで俺、こんなとこに?)
さっきまで部屋で頭文字Dの単行本を読み返してたはずだ。なのに今は、その単行本に出てくる峠に立っている。背中のリュックを下ろして中を見ると、愛読している全巻セットがちゃんと入っていた。それと、財布と、なぜか渋川北高校の生徒手帳。
生徒手帳を開く。そこには確かに「トヨタ ケンタ」と書いてある。写真も貼ってある。でも、こんな学校、元の世界にはなかった。
(マジかよ……)
ケンタは茶色い垂れ目をパチパチさせた。やんちゃそうな目つきが、今は困惑でいっぱいだ。
道路の向こう側にはガードレールのない崖が続いている。下をのぞき込むと、深さ3メートルほどの雑木林。ここでクラッシュしたらただじゃすまない。
「[surprised]ここが、あの秋名なのか……!」
声に出したら、じわじわと実感が湧いてきた。心臓がドキドキと早鐘を打つ。憧れの場所だ。ずっと本で見てきた、走り屋たちの聖地。まさか本当に来られるなんて。
(歩いてみよう)
ケンタは峠を下り始めた。学ランのポケットに手を突っ込んで、ゆっくりと。夜の空気はひんやりしていて、少し湿っている。もうすぐ夏だってのに、山の上は涼しい。
(秋名の五連ヘアピンって、この先だよな)
単行本で暗記した峠の構造が、頭の中で勝手に再生される。全長12キロ、標高差600メートル。下りコースの後半にあるのが、五つの連続ヘアピン。道幅は5メートルちょっとしかなくて、ガードレールもない。たくみが溝落としで相手をぶっちぎった、あの場所だ。
歩きながら、ケンタは自分の服装を見下ろした。県立渋川北高校の紺の学ラン。身長は172センチで、中学生の頃よりだいぶ背が伸びた。まだ細身だけど、前よりはマシになった気がする。膝にはよく転んで作った擦り傷の跡がいくつもある。笑うと八重歯が見えるのが、自分でもちょっとコンプレックスだ。
(本当にここが頭文字Dの世界なら……たくみに会えるかも)
そう思った瞬間、後ろから光が近づいてきた。
ヘッドライトの白い光。エンジン音は小さい。でも、その音には聞き覚えがあった。4A-GEU。画面の中で何度も聞いた、ハチロクの心臓部だ。
ケンタは反射的に手を振った。
「[excited]ちょっと、ストップ! 止まって!」
白黒のパンダカラー。角目のヘッドライト。AE86スプリンタートレノ。
ハチロクが、ゆっくりとケンタの横に止まった。
窓が開く。運転席にいたのは、くせっ毛の入った茶髪の若い男だった。切れ長の目は眠そうで、でもどこか鋭い。身長は176センチくらいか。少し寝ぐせがついた髪が、風に揺れている。
「……何」
短い一言。無表情。
(本物だ……藤原たくみだ)
ケンタは心の中で叫んだ。画面で見てきた憧れの走り屋が、今まさに目の前にいる。興奮で声がうわずりそうになるのを、なんとか抑えた。
「[excited]あの、俺、ケンタっていいます! 頭文字D、全部読んでて! 秋名のこともたくみさんのことも知ってて!」
たくみは眉をひそめた。
「……頭文字D?」
「[serious]説明すると長くなるんですけど、とにかく俺、あなたの運転がすごいって知ってるんです! 溝落としとか、慣性ドリフトとか!」
たくみは少し黙った。ケンタの熱意をじっと観察している。
(やばい、変なやつだと思われたかも)
でも、引くわけにはいかない。ここで引き下がったら、一生後悔する。
「[serious]助手席、乗せてもらえませんか。一回だけでいいんで!」
たくみはため息をついた。
「……豆腐の配達の途中なんだけど」
「[excited]配達でもなんでも! お願いします!」
沈黙。虫の声だけが響く。
たくみは窓を閉めた。
(あ、ダメか……)
でも、次の瞬間、助手席のドアが開いた。
「……乗れば」
たくみの声は相変わらず無愛想で、でも拒絶ではなかった。
ケンタは急いで助手席に滑り込んだ。車内はほのかに油の匂いがする。古い車特有の、でも嫌な匂いじゃない。シートは少し固くて、体を包み込むような感触がある。
「[excited]ありがとうございます!」
たくみは何も言わずに、クラッチを踏んだ。
走り出す。最初はゆっくりだった。でも、コーナーが近づくと、たくみの動きが変わる。
シフトダウン。ヒールアンドトゥ。エンジン回転数が上がる。
次の瞬間、ケンタの体がシートに押し付けられた。
「うわっ!」
横Gがすごい。ハチロクがコーナーに飛び込んでいく。たくみの手元は正確だった。ステアリングを切る角度、アクセルの踏み込み具合、すべてが無駄がない。
(これが……溝落とし!)
ガクン、と車が一瞬沈み込む。リアタイヤが路面の溝に落ちて、車体が安定する。コーナーの出口で、たくみはアクセルを全開にした。
エンジンが叫ぶ。4A-GEUの高音が、夜の峠に響き渡る。
「[whispers]すげえ……」
ケンタは息を呑んだ。
車はまるで生き物みたいだ。たくみの操作に対して、ハチロクが忠実に、でも時々はみ出すぎるくらいに反応する。そのギリギリのバランスが、すごいスピードを生んでいた。
次のヘアピン。たくみはブレーキを遅らせる。普通なら曲がりきれない速度で、コーナーに突っ込む。
(慣性ドリフトだ……!)
車が横向きになる。タイヤが悲鳴を上げる。でも、たくみは落ち着いていた。カウンターステアを当てて、アクセルをコントロールする。車はまるでレールの上を走るみたいに、正確にコーナーを抜けていく。
「[excited]これが、本物の走りなんだ……!」
ケンタの胸の中で、何かがはじけた。
(俺も、走りたい)
今まで画面越しに見てきた憧れが、リアルな感触に変わった。お尻に伝わる路面の振動。鼻をつくタイヤの焦げる匂い。体にかかるG。これが本物だ。
画面の中のヒーローは、現実にいた。そして、その隣に自分が座っている。
(俺も、ハンドルを握りたい……)
ケンタの垂れ目が、キラキラと輝いた。
やがて車は湖畔の駐車場に到着した。榛名湖畔駐車場だ。40台くらい停められるスペースに、数台の車が見える。自販機が2台あって、その周りに何人か人影があった。
「着いた」
たくみは短く言って、エンジンを切った。
ケンタが車から降りると、人影の一人が近づいてきた。
濃い茶色の短髪で、サイドを少し刈り上げたスポーツ刈り。丸みのある黒い瞳が、面倒見のよさを感じさせる。身長は175センチくらい。整髪料でかるく固めた髪が、街灯の光を反射している。
「お、たくみ。そっちの子は?」
「……知らん。拾った」
「拾ったって、犬か猫みたいに言うなよ」
男は笑いながら、ケンタに手を差し出した。
「[gentle]俺は池谷浩一郎。秋名スピードスターズってチームのリーダーやってる。君は?」
「ケンタです。トヨタ ケンタ」
「[laughing]ケンタか。よろしくな」
池谷は気さくに笑った。ウインクしながら、ケンタの肩をポンと叩く。その仕草だけで、この人がいいやつだってわかる。
駐車場には他にも数人の男たちがいた。みんな走り屋のようだ。改造車のボンネットを開けてエンジンをチェックしているやつ、缶コーヒーを飲みながらだべっているやつ。
池谷が自販機で缶コーヒーを買って、ケンタに手渡した。120円。この世界でも同じ値段なんだな。
「[gentle]ここは毎週金曜と土曜の深夜に、走り屋が集まるんだ。情報交換したり、腕試ししたりな」
ケンタは缶コーヒーを開けながら聞いた。
「[serious]秋名スピードスターズって、たくみさんもメンバーなんですか?」
「いや、たくみは正式メンバーじゃない。でも実質的なエースだな。あいつの運転は誰にも真似できねえ」
池谷はたくみの方を見た。たくみはハチロクにもたれて、缶コーヒーを黙って飲んでいる。
「[gentle]秋名の走り屋には、不文律ってのがあるんだ。先行と後追いは事前に決める。故意の接触は禁止。負けたら結果を認める。一般車は巻き込まない。そういうルールを守って、みんな峠を楽しんでる」
「[excited]知ってます! 頭文字Dで読みました!」
「あたまじ……? まあいいや」
池谷は笑って、缶コーヒーを飲んだ。
ケンタはあたりを見回した。秋名山の標高は約1,100メートル。ここ榛名湖畔駐車場は山頂付近にある。湖の周囲は約5キロで、周回道路は走り屋の練習にも使われるらしい。
(元の世界で感じてた疎外感が、ここにはない)
学校ではいつも浮いてた。車の話ができる友達もいなかった。でも今、ここには同じように車を愛する仲間がいる。それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
でも、その空気は突然破られた。
低いエンジン音が、闇の中から近づいてくる。一台じゃない。複数台だ。
駐車場にいた全員が、音の方を振り返った。
現れたのは黒いシルビアの集団だった。全車が黒く塗られていて、ボディには赤い三日月と血の滴を模したステッカーが貼ってある。
「ブラッディムーン……」
池谷の声が硬くなる。
シルビアが止まり、運転席から一人の男が降りてきた。
肩まで伸びた黒髪を無造作にオールバック。痩せ型で、身長は178センチくらい。黄色みがかった茶色の鋭い目が、獲物を探すように駐車場を見回す。瞳孔が小さく、猛禽類みたいな目つきだ。
「黒崎りょう……」
池谷がつぶやく。
りょうはゆっくりと歩いてきた。その後ろから、さらに4人の男たちが降りてくる。全員が同じステッカーのついた黒い車に乗っている。
「[cold]秋名スピードスターズか。まだこんなところで遊んでたんだな」
りょうの声は冷たかった。感情が感じられない。でも、目の奥には憎悪が渦巻いている。
「[serious]黒崎、お前らこそ何しに来た。ここは俺たちのホームだ」
「[sarcastic]ホーム? そんなもの、すぐになくなるさ」
りょうは池谷の前で立ち止まった。そして、駐車場全体に聞こえるように言い放つ。
「[cold]秋名の走り屋は全員潰す。不文律なんてクソくらえだ。お前らが大事にしてる峠も、文化も、全部ぶっ壊してやる」
駐車場全体が凍りついた。
誰も言葉を発しない。缶コーヒーを落としたやつがいた。金属音がやけに大きく響く。
ケンタはりょうの目を見た。そこには本物の憎悪があった。ただの威嚇じゃない。この男は本当に、走り屋を根絶やしにするつもりだ。
(こいつ、本気だ……)
りょうの視線が、ハチロクにもたれるたくみに向けられる。
「[cold]そっちのハチロクが、藤原たくみか」
たくみは答えない。缶コーヒーを一口飲んで、ゆっくりとりょうを見た。
「[cold]噂は聞いてるぜ。秋名最速のハチロク。溝落としで相手をぶっちぎる伝説の走り屋。でもな、伝説ってのは壊すためにあるんだよ」
たくみは黙っている。
「[cold]お前のハチロク、ぶっ壊してやる。スクラップにして、その部品を戦利品として飾ってやるよ」
ケンタは足が震えた。
(こいつら、本当に車を壊す気だ……)
画面の中の世界には、こんな連中はいなかった。頭文字Dのバトルは、あくまでスポーツだった。でも今、目の前にいる男は違う。明確な悪意を持って、走り屋を狙っている。
たくみはようやく口を開いた。
「……やりたきゃ、やれば」
短い言葉。でも、そこには強い意志があった。
りょうは口元を歪めた。
「[cold]その言葉、忘れんなよ」
そして、りょうはくるりと背を向けて、自分のシルビアに戻っていった。
5台の黒いシルビアが、唸りを上げて去っていく。タイヤのスキール音が、夜の峠にいつまでも響いていた。
駐車場に重たい沈黙が残る。
「……悪いな、ケンタ。怖がらせた」
池谷がケンタの肩に手を置いた。
「[whispers]あの人たち、何なんですか」
「ブラッディムーン。関東南部で結成された新興チームだ。もう神奈川や埼玉の峠で、5つ以上のチームが壊滅させられた」
池谷の声は苦かった。
「[serious]あいつらは勝負に勝つだけじゃなくて、相手の車を物理的に壊す。不文律なんて完全無視だ。クラッシュさせた車の部品を剥ぎ取って、戦利品にしてるって噂もある」
「[whispers]なんで、そんなことを……」
「[serious]黒崎りょうは、昔仲間を事故で亡くしてる。それからおかしくなった。峠レースそのものを憎んでるんだ。走り屋文化を根絶やしにすることが、自分の使命だと思い込んでる」
ケンタはりょうの去っていった方向を見た。
画面の中で見てきた頭文字Dの世界は、もっと純粋で、熱くて、楽しいものだった。でも今、目の前には暗い影がある。
(憧れだけじゃ、済まないんだ)
ケンタは拳を握りしめた。
軽い不安だった。でも今は違う。これは現実の脅威だ。自分が飛び込んだ世界には、本当の危険もある。
「[serious]ケンタ、今夜は俺たちが送ってくよ。どこに住んでる?」
「……たぶん、藤原とうふ店の近くです」
生徒手帳に書いてあった住所だ。
「[surprised]たくみんちの近所かよ。偶然だな」
池谷は笑った。でも、その笑顔の奥には心配があった。
たくみは黙って車に乗り込んだ。ケンタも助手席に座る。
「……行くぞ」
ハチロクは静かに走り出した。
下りの峠道。窓の外には湖の水面がキラキラと月明かりを反射している。風が心地いい。
ケンタはたくみの横顔を見た。
(この人を、守りたい)
まだ免許もない。車の運転もできない。でも、この世界で初めてできた仲間を、闇雲にでも守りたいと思った。
「[gentle]なあ」
突然、たくみが口を開いた。
「はい」
「……お前、走りたいんだろ」
ケンタの心臓が跳ねた。
「[excited]はい! 走りたいです!」
「……なら、教えてやる」
たくみの声は相変わらず無愛想だった。でも、ケンタにはそれが、すごく温かい言葉に聞こえた。
「[crying]ありがとうございます……!」
涙が出そうになった。憧れの走り屋が、自分に運転を教えてくれるという。
(俺、絶対に走れるようになる)
秋名の峠道を、ハチロクが静かに下っていく。
藤原とうふ店までは、あと少し。
ケンタの新しい人生が、ゆっくりと動き出していた。
でも、遠くでは黒いシルビアのエンジン音が、まだ峠に残っていた。
これは始まりにすぎない。
峠を守る戦いが、今始まろうとしている。