頭文字D -Shift Up- ハチロクの先へ
高校生のケンタはストリートレースに夢中で、気がつくと『頭文字D -Shift Up- ハチロクの先へ』の世界に飛び込んでいた。
見慣れた秋名の峠が目の前に広がる。胸を高鳴らせながら歩いていると、伝説のハチロクが走り去る。そのドライバーは、まさに藤原たくみその人だった。ケンタは思わず声をかけ、助手席に乗せてもらうことに成功する。
実際のたくみの走りは、漫画で見るよりはるかに凄まじかった。その走りに触発され、スピードへの渇望に火がついたケンタは、自分も走りたいと決意する。しかし、不穏な影が迫っていた。峠に現れた新たなチーム「ブラッディムーン」。その冷酷なリーダー、黒崎りょうが、秋名最速のたくみに勝負を挑んできたのだ。
これはただのレースではない。りょうの真の狙いは、たくみのハチロクを完全に破壊することだった。この企みを知ったケンタは阻止しようとするが、りょうの仲間に袋叩きにされてしまう。
たくみは勝負を受ける。仲間たちはケンタを助けるために集結し、共にりょうの一味に立ち向かう。卓越したテクニックでたくみはりょうを追い詰めるが、最終コーナーでりょうが無謀で狂気じみた動きを見せ、大クラ
頭文字D -Shift Up- ハチロクの先へ - 夜明けのハチロク——走り出す覚悟
あの日から、一週間が過ぎていた。
藤原とうふ店の裏手には、まだ夜明け前の濃い闇が残っている。空気はひんやりと冷たく、豆腐を作る水の音だけが静かに響いていた。
ケンタは眠れなかった。
古タイヤの上に腰を下ろしたまま、ただじっと、何もない空間を見つめている。学ランの袖口はほつれたままだ。顔の痣はもう黄色く変色して、かさぶたも剥がれかけていた。指先でそれをなぞる。ぱり、と剥がれた端が、皮膚をくすぐった。
頭の中にあるのは、病室でのたくみの言葉だけだ。
『おまえが走れ。俺のハチロクで』
あの時、いい返事をした。でも、それからずっと考えている。
(本当に、俺にできるのか)
胃のあたりが、ぎゅっと縮む。口の中が乾いて、唾を飲み込むたびに喉が張りついた。何度も何度も同じことを考えては、答えが出ないまま朝を迎える。そんな夜が続いていた。
遠くから、トラックのエンジン音が近づいてくる。
ケンタは顔を上げた。
――来た。
マルセ自動車の軽トラが、砂利を踏みしめながら裏手に回り込んでくる。ヘッドライトが闇を切り裂いて、積み荷を浮かび上がらせた。
ハチロクだ。
ケンタは立ち上がった。足が少し震えている。膝の裏にじわりと汗が滲むのを感じた。
トラックが停まり、運転席から丸瀬浩一が降りてくる。五十八歳の整備士。薄くなった白髪をオールバックにして、いつも油の染みついたツナギを着ている男だ。
「届けたぞ」
声はかすれていた。夜通し走ってきたのだろう。目の下に深い隈がある。
ケンタはトラックの荷台に目をやった。
そこに、ハチロクが乗っている。
フロントの骨格は確かに修復されていた。でも――ボンネットにはまだ歪みが残っている。フェンダーの塗装は剥げたままだ。内装のひび割れも、そのままだった。前のハチロクとは、まるで別の車みたいだった。
たくみが毎朝磨いていた、あの白黒のパンダカラーじゃない。
「……エンジンは生きてる」
丸瀬さんが、短く言った。それだけ言うと、もう何も話さない。油まみれの手で、トラックの荷台からハチロクを降ろす段取りを始める。その背中は小さく、無駄な動きがひとつもなかった。
ケンタはハチロクのそばに歩み寄った。
手を伸ばして、歪んだボンネットに触れる。つめたい鉄の感触。修復された部分と、まだ壊れたままの部分の境界を、指先がなぞっていく。塗装の剥げた縁が、指の腹に引っかかった。
頭文字Dの単行本で、何度も何度も見たハチロク。たくみが運転する姿に憧れて、この世界に来た。
でも、今は違う。
もう観客じゃない。
ケンタはボンネットに両手をついた。鉄の冷たさが、手のひらから腕へ、腕から胸へと染み込んでくる。両手をぐっと押しつけると、ボンネットがかすかに軋んだ。
(守るために、走る)
重い。怖い。鉄の冷たさが、そのまま現実の重さだった。両脚のふくらはぎが張りつめて、逃げ出したいと叫んでいる。でも――足の裏は地面に吸いついたように動かない。
丸瀬さんがハチロクを地面に降ろし、また無言でトラックに乗り込む。エンジンがかかり、砂利を蹴って去っていく。テールランプが闇に消えるまで、ケンタは動けなかった。排気ガスの匂いが、かすかに鼻に残った。
空が、かすかに白み始めていた。
東の端が、濃紺からうすい水色に変わる。冷えた空気が、ケンタの耳たぶを刺した。
――
それからどれくらい経っただろう。
ザッ、ザッ、と砂利を踏む足音が聞こえた。
誰かが歩いてくる。その足音は不規則で、ひとつひとつの間隔が少し長い。
ケンタが振り向くと、そこに立っていたのは――たくみだった。
包帯を巻いた右腕を吊っている。左手には杖をついていた。寝間着の上に、薄いジャンパーを羽織っただけの姿。顔にはまだ擦り傷が残っている。黒く変色したかさぶたが、頬からこめかみにかけて広がっていた。
「たくみ、さん……?」
声が震えた。自分の声なのに、遠くから聞こえるようだった。
たくみは何も言わない。ただ、ハチロクの助手席に歩み寄ると、杖を地面に置いた。杖が砂利の上でかたんと倒れる。包帯の右手で器用にドアを開けた。指先の動きはゆっくりで、でも迷いがなかった。
ギィ。
錆びた蝶番の音が、静かな朝に響く。
たくみは助手席に乗り込むと、左手でドアを閉めた。そして運転席を顎でしゃくる。
乗れ。
その目は、いつもと同じ切れ長で、眠そうで――でも、まっすぐにケンタを見ていた。黒い瞳の奥が、朝の薄明かりを受けて静かに光っている。
「ちょ、ちょっと待ってください……! 俺、まだ免許も……」
声が裏返る。両手を胸の前で振った。指先がかじかんだようにぎこちない。
たくみは答えない。ただ、待っている。
責めてもいない。強制もしていない。でも、当然のこととして、そこに座っている。その横顔は、いつも助手席から秋名の峠を見つめていた顔と同じだった。
ケンタの足が、勝手に動いた。
気がついたら、運転席のドアを開けていた。シートに腰を下ろす。ハンドルを握る。手が震える。指の関節が白くなるまで握りしめた。
(これが、ハチロクの運転席)
たくみが毎日握っていたハンドル。秋名の峠を、何百回も走った場所。シートからは、かすかにガソリンと埃の匂いがした。
「……いくぞ」
短い声。その言葉だけが、静かな車内に落ちた。
――
秋名ダム管理道路。
山の北側に伸びる、一般車両は入れない舗装路だ。入り口には鎖が張ってあったが、ケンタが外した。鎖はひんやりと重く、手に持つとじゃらりと音を立てた。たくみは助手席から、何も言わずにそれを見ている。
ハチロクが、ゆっくりと動き出す。
ケンタはクラッチを踏み、シフトレバーを握った。手が汗で滑る。握り直すたびに、レバーの革がきゅっと鳴った。
「クラッチはゆっくり」
たくみの声は、緊張するなと言っているみたいに、静かだった。風がやんだ湖面のように、波ひとつない声。
ケンタは息を止めて、クラッチを戻す。
ガクン。
エンスト。
「……っ、すいません!」
喉の奥が熱くなった。顔から血の気が引いていくのがわかる。
「もう一度」
怒らない。ただ、短く言うだけ。
もう一度クラッチを踏む。今度は、もっとゆっくり。左足のつま先に全神経を集中させる。
エンジンがかかり、ハチロクが、少しだけ前に進んだ。
――動いた。
ケンタの胸の奥で、何かがかすかに震える。息を止めていたことに気づいて、ゆっくりと吐き出した。
「シフト」
ケンタは慌ててシフトレバーを操作した。2速に入れようとして、ガリッ、と嫌な音がする。4速に入れてしまった。金属が噛み合わない悲鳴が、つま先から這い上がってくる。
「……まあ、そんなもんだ」
また、エンスト。
ケンタは額に汗をかいた。手のひらがべたべたする。息が浅い。心臓が耳の裏でどくどくと脈打っている。
もう一度。
今度は、なんとか2速に入った。ハチロクが、少しだけ速度を上げる。管理道路の両側の木々が、ゆっくりと後ろに流れていく。朝の光がフロントガラスをかすめて、ケンタの膝の上で揺れた。
(動いてる)
(俺が、ハチロクを動かしてる)
その瞬間、急にブレーキを踏みすぎた。
キキッ。
タイヤが鳴り、たくみの体が前につんのめる。
「……っ」
たくみが顔をしかめた。右腕の包帯を左手で押さえる。指の節が白く浮き上がった。
「す、すんません……!」
頭の中が真っ白になった。ブレーキを踏む足が震える。シフトレバーから手を離す。全部がバラバラだ。クラッチとギアとブレーキとハンドルが、頭の中でぐちゃぐちゃに絡まって、何をどうすればいいのか分からない。
3度目のエンスト。
エンジンが死んだあとの静けさが、耳を塞いだ。
ケンタはうつむいた。ハンドルを握る手に、力が入らない。指がはらりと解けて、膝の上に落ちた。
「……俺、やっぱりダメかもしれない」
声が震えた。最後の方は、消え入るようなかすれ声になった。
たくみは、しばらく黙っていた。助手席から、何かがきしむ小さな音がした。
それから、ゆっくりとケンタの方を向く。切れ長の目が、まっすぐにケンタを見つめていた。
「ハチロクが動いたのは、わかったか」
ケンタは顔を上げた。視界がにじんでいる。目をこすった。
動いた。確かに、動いた。エンストして、ガクガクして、それでも――動いた。
「……うん」
声が、少しだけ晴れた。
たくみはもう何も言わずに、フロントガラスの先を見た。
管理道路の先には、木々の間から、秋名山の稜線が少しだけ見える。朝日が、稜線を金色に染め始めていた。山の端が、ゆっくりと燃えている。
たくみの沈黙は、怒っていないという意味だ。
動いた。それで十分だと、そう言っているみたいだった。肩に力の入っていない、柔らかな沈黙。
ケンタは、もう一度クラッチを踏んだ。
左足の裏が、ペダルの形を覚え始めている。
今度は、失敗してもいいと思えた。
―
何度もエンストした。シフトも間違えた。ブレーキも踏みすぎた。そのたびにたくみの体が揺れて、ケンタは唇を噛んだ。
でも、ハチロクは走り続けた。少しずつ、少しずつ、ケンタの体がハチロクの動きを覚えていく。
クラッチを戻す左足の感覚。ペダルから伝わる微かな振動が、膝の裏から腰へと抜けていく。シフトレバーを手のひらで包み込むように握ること。革の冷たさと、金属の芯の硬さ。ブレーキは、踏むというより、そっと押すこと。足の指先で体重をかける加減。
頭で考えるより、体が先に動く瞬間が、何度かあった。
(これが、走るってことか)
言葉にならない感覚が、背筋をゆっくりと登っていく。
たくみはほとんど何も言わなかった。ただ助手席に座って、時々、短い言葉をくれるだけ。
でも、その無言が、むしろ心地よかった。
理屈じゃない。言葉じゃない。
ただ、走ることだけが、今はすべてだった。エンジンの回転数と、タイヤの振動と、風の抵抗と。それだけが、世界の全部だった。
管理道路の末端に着いた時、ケンタはハチロクを停めた。エンジンを切る。ぷしゅう、と小さな音がして、あとは静かになった。エンジンの余熱が、ボンネットの向こうからかすかに届く。
二人は車を降りた。
たくみは杖をついて、黙って秋名山の方向を見ている。包帯の位置を左手で直して、それからまた、じっと山を見上げた。その横顔は、何かを思い出すように、少しだけ目を細めている。
「……もっと、早く走れるようになるかな」
ケンタの声は掠れていた。喉がからからに乾いている。
たくみは少し間を置いてから、短く答えた。風が二人の間を通り抜ける。
「お前が諦めなければ」
それだけだった。
ケンタはうなずいた。何も言わずに、ただ、うん、とうなずいた。首を縦に振るたびに、目の奥が熱くなった。
山の稜線から、朝日が差し込む。
ハチロクの傷だらけのボディが、金色の光の中に浮かび上がった。歪んだボンネットも、剥げた塗装も、全部が光に包まれている。傷さえも、金色の一部だった。
ケンタはハチロクのボンネットに手を置いた。
朝日に温められた鉄の感触。さっきまでの冷たさが、今は生き物のように温かい。
(諦めなければ)
その言葉だけが、胸の中に残った。小さくて、でも確かな重みを持って。
――
同じ夜。
神奈川県・横浜。みなとみらいの高層ビル。その上層階の会議室。
ブラインドが閉められた部屋の中は、煙草の煙が薄く漂っていた。壁一面の窓からは、夜景がきらびやかに見えている。観覧車の光。ベイブリッジのアーチ。
黒崎りょうは、会議テーブルの前に立っていた。
いつもの黒い革ジャンではない。皺の少ないシャツに、黒いスラックス。首から下げた銀のチェーンだけは変わらない。ぶら下がったエンブレムが、蛍光灯の下で鈍く光る。
「秋名の藤原たくみは、まだ入院中です。ハチロクも大破したまま。秋名スピードスターズには、有効な対抗手段はありません」
声は、抑えられていた。感情を殺した、報告のための声。机の縁に置いた指先が、無意識にチェーンをなぞっている。
テーブルの向こう側。窓を背にして、スーツ姿の男が座っている。年齢は四十代半ば。髪には白いものが混じり、細い金縁の眼鏡をかけていた。男は夜景のほうを向いたまま、りょうの話を聞いている。
「それだけか」
声は静かだった。温度というものがない。空調の風より、ずっと冷たい声。
りょうは一瞬、言葉を切った。手がチェーンを離れる。それから、付け加える。
「……ハチロクを引き継ごうとしている高校生がいます。ただの素人です。問題にはなりません」
「素人だから問題にならない、か」
男は、ようやくりょうの方に顔を向けた。
眼鏡の奥の目が、冷たく光る。細いレンズの向こうで、瞳孔がすっと細まった。
男は机の上に置かれた書類を、細い指でなぞった。秋名ダウンヒルの道路封鎖申請書。群馬県の道路管理課に提出するための正式な書類だ。指先が紙の上を滑る音だけが、部屋に響く。
「藤原たくみも、最初は豆腐屋の配達員だった。素人だったんだ」
りょうの眉が、かすかに動く。口元が引き締まった。
男は立ち上がると、窓の外の夜景に目を戻した。横浜の街が、眼下に広がっている。何十万もの光の粒が、闇の中で瞬いていた。ひとつひとつの光が、誰かの人生で。
「封鎖申請を、翌月に前倒ししろ」
「……了解です」
りょうの声に、感情は乗っていなかった。背筋を伸ばし、ただ正面を見据えている。
峠道をレースで潰せないなら、法的手段で消す。走り屋の不文律も、誇りも、意地も、すべて行政の力で踏み潰す。
秋名を、消す。
「お前の個人的な復讐はどうでもいい。計画を遅らせるな」
「……わかっています」
男はもう、りょうを見ていなかった。
ただ夜景を見つめながら、静かに言う。
「峠道そのものがなくなれば、走り屋など自然に消える」
走り屋文化の根絶。
その計画が、今、具体的に動き出した。
りょうは一礼して、会議室を出ていった。
廊下の足音が遠ざかる。規則正しい、迷いのない靴音。
男は一人、窓の外を見つめ続けている。夜景の中に、秋名山は見えない。でも、その存在を、確実に消そうとしていた。煙草の煙が、男の指先から天井へと昇っていく。
――
群馬県秋名山のふもと。藤原とうふ店の裏手。
ケンタは、まだハチロクのそばにいた。
朝日はとっくに昇って、あたりはすっかり明るくなっている。空は青くて、雲一つなかった。どこかで鳥が鳴いている。
ハチロクのボンネットに手を置いたまま、ケンタは山を見上げている。
(諦めなければ)
たくみの言葉が、まだ頭の中で響いていた。
諦めなければ、いつか走れるようになる。
でも――時間は、どれだけ残されているんだろう。
そのことを、ケンタはまだ知らない。
横浜の高層ビルで交わされた会話も、前倒しされた封鎖申請のことも、何も知らない。
ただ、秋名山の稜線だけが、いつもと変わらず青空に浮かび上がっていた。何百年も前からずっとそうだったように。
風が吹いて、ハチロクの傷ついたボディを撫でていく。
ケンタは拳を握った。
指先に、ハチロクの鉄の冷たさがまだ残っている。ハンドルの感触。シフトレバーの重み。クラッチペダルの硬さ。
でも、それ以上に、熱いものが胸の奥で静かに燃えていた。朝日に温められた鉄のように、じんわりと、でも確かに。
走る。守る。絶対に。
握った拳を、そっとボンネットの上に置いた。鉄が、かすかに応えた気がした。