原初の魔女は王都を散歩する
剣と魔法が支配する大陸。人間の王都アルテミスは、魔女との守護契約によって外敵から守られている。魔女は人間や他種族には殺せない――同族の魔女にしか。だが、原初の魔女テレシアだけは例外だった。彼女が生み出した魔女は、誰一人として彼女を傷つけられない。
白の魔女シエラは二十歳。人間側についた、頑固で折れない守護者だ。ある夜、王都に近づく底知れない気配を感じ、シエラは単身で対峙する。相手は原初の魔女テレシア。シエラは知る限りの呪文をすべて解放し、全力で殺しにかかる。
しかしテレシアは、自分が生み出した魔女には傷つけられない。シエラの攻撃は届かない。絶望が胸を貫く。それでも彼女は、テレシアに刃を向け続けると宣言する。
ここまで読者は、シエラが主人公だと思う。だが第二話で視点はテレシアへ移る。本当の主軸は、王都に散歩に来ただけの原初の魔女なのだ。
無邪気な少女の姿で、テレシアは王都に降り立つ。使い魔のロードが丁寧な言葉で仕える。市場で人間の子供たちにお菓子を分け、パンの値段を交渉し、大道芸人に拍手を送る。彼女の種族にとって人間はおもちゃか駒程度に過ぎないが、その散歩は驚くほど穏やかだ。
原初の魔女は王都を散歩する - 姉の村
秋風が、乾いた土の匂いを運んでくる。
王都アルテミスの北の門を出てから、シエラはひたすら北へ向かって歩き続けていた。白い外套の裾は泥に汚れ、白銀の長髪は風に乱れている。背には聖剣ルミナスを収めた鞘。右手には、旅の途中で拾った木の枝を杖代わりに握っていた。
王都を離れてから、どれほどの日が経ったのか。正確な日数は、もう数えていなかった。
(早く、見つけなければ)
胸の奥で、焦りが燻っている。
灰冠の使徒は壊滅した。テレシアは王都を去った。だが、何も解決していない。テレシアは、あの日、王都の門を出て、朝の光の中を歩いていった。あの小さな背中を、城壁の上から剣を構えたまま見送った時の無力感は、今も指先に残っている。
(私は、あれを、殺せない)
始祖の加護。テレシアが生み出した魔女は、誰一人として創造主を害することができない。それは、この大陸の魔女たちに刻み込まれた絶対の呪縛だ。シエラが何度剣を振るっても、魔法を放っても、テレシアの前ではすべてが無意味に消える。
それでも。
(それでも、私は)
シエラは、木の枝を握る手に力を込めた。
魔女は、人間や他種族には殺せない。殺せるのは、同族の魔女だけ。そして、始祖テレシアだけは例外で、彼女が生み出した魔女は誰一人として彼女を害せない。
ならば、その例外の外側にいる者を探すしかない。
テレシアを殺せる唯一の可能性。それは、テレシアが生み出していない魔女。始祖の加護を持たない魔女。
その存在の噂を、シエラは古い文献で見つけていた。
王都の書庫に残されていた、ぼろぼろの手記。白の魔女の先代たちが、代々ひっそりと言い伝えてきた情報の断片。そこに記されていたのは、辺境の村で、人間のふりをして暮らす一人の魔女のこと。
名を、アルケー。
テレシアの娘でありながら、シエラとは魔力の種類が違う、異質な魔女。
(その者なら、あるいは)
だが、確信はない。
アルケーもまたテレシアの娘である以上、始祖の加護を受けている可能性は高い。もしそうなら、彼女もまたテレシアを殺せない。シエラの旅は、最初から無意味だったことになる。
(それでも、確かめなければ)
シエラは、唇を噛んだ。
守護契約。白の魔女として王都を守るという、王国との古代の協定。その枠組みの中では、テレシアは王都を去った。脅威は去った。シエラが剣を振るう理由は、もうないはずだった。
だが、これは私的な戦いだ。
守るべき王都を離れてまで、殺す手段を求める。それは、白の魔女の責務を超えた、個人的な執念。
(私は、何のために戦っている)
その問いが、頭の片隅で、何度も何度も繰り返される。
使命感。焦燥。そして、自分は何のために戦っているのかという疑念。それらが、シエラの内側でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。
空は、灰色だった。
厚い雲が低く垂れ込め、太陽の位置も分からない。風が吹くたびに、道端の枯れ草がカサカサと音を立てる。
街道は、王都を離れるほどに細くなり、やがて獣道のような小道に変わった。石畳は消え、踏み固められた土の道が続く。周囲の木々は葉を落とし、裸の枝を空に向かって伸ばしている。
秋が、深かった。
シエラは、立ち止まった。
息を整える。白い息が、灰色の空に溶けていく。
(あれが、そうか)
視線の先に、小さな村が見えた。
谷あいの窪地に、ぽつりぽつりと家が並んでいる。人家は、数えてみれば十軒にも満たない。畑らしき区画はあるが、収穫の終わった後の荒れた土がむき出しになっている。煙を上げている家は、二、三軒だけ。
寂れた村だった。
王都の喧騒を知るシエラには、ここが同じ大陸の集落とは思えないほど、静かで、小さく、そして、乾いていた。
風が、また吹く。
土埃が舞い上がり、シエラの外套を叩く。白い布地が、灰色に汚れていく。
(アルケーは、ここにいる)
シエラは、村へと続く下り坂を、ゆっくりと歩き始めた。
――――
村に入ると、すぐに視線を感じた。
井戸のそばで水を汲んでいた中年の女が、手を止めてシエラを見つめている。薪を背負った老人が、足を止めて振り返る。家の戸口から、子供が顔を出して、物珍しそうにこちらを覗いている。
(当然だ。こんな辺境に、白い外套のよそ者が来るなど)
シエラは、村の中央らしき広場まで歩くと、足を止めた。
井戸と、小さな祠と、そして、村で一番大きな木。それが、この村の中心らしい。木の根元には、干からびた花が供えられている。
「……あんた、旅の人かい?」
声をかけてきたのは、井戸のそばにいた中年の女だった。手には、汲んだばかりの水桶。灰色の髪を後ろで束ね、日焼けした顔に深い皺が刻まれている。
「ああ。王都から来た」
シエラは、短く答えた。
「王都から? こんなところに、何の用だい?」
女の声には、警戒と好奇心が混ざっている。
「人を探している」
「人?」
「アルケーという名の女だ。この村に、一人で暮らしていると聞いた」
その名を口にした瞬間、女の表情が、わずかに和らいだ。
「ああ、アルケーさんかい。……あんた、アルケーさんの知り合いなのかい?」
「……いや。会ったことはない。話があるだけだ」
「そうかい。アルケーさんは、村の外れの、丘の上の家に住んでるよ。ほら、あそこに見えるだろ」
女は、村の北側を指さした。
シエラは、その指の先を見た。
村の外れ、小高い丘の上に、ぽつんと一軒の家があった。小さな、粗末な造りの家。煙突から、細い煙が一本、灰色の空に向かって昇っている。
「あの家か」
「そうだよ。アルケーさんは、もう何年もあそこに一人で住んでる。村の者とは、まあ、ほどほどに付き合ってるよ。変わり者だけど、悪い人じゃない」
女の口調には、アルケーを気遣うような、それでいて一歩引いたような、微妙な距離感があった。
(村人たちは、彼女を普通の女として扱っている)
(魔女だと、知らないのか)
シエラは、丘の上の家を、灰色の瞳でじっと見つめた。
「あんた、疲れてるだろ。水、飲んでくかい?」
「……いや、大丈夫だ。礼を言う」
シエラは、軽く頭を下げて、村の外れへと歩き出した。
背中に、村人たちの視線を感じる。物珍しげな、そしてどこか不安げな視線。
(この村は、私を受け入れない。当然だ)
シエラは、そう思いながら、丘へと続く細い道を歩いた。
――――
丘への道は、思ったよりも急だった。
踏み固められた土の道には、乾いた草が生え、靴底の下でパリパリと音を立てる。風が吹くと、道の両側のススキが一斉に揺れて、ざわざわと鳴った。
シエラは、息を整えながら、一歩一歩、丘を登っていく。
王都での戦いの傷は、もう塞がっていた。魔女の治癒力は人間よりも高い。だが、長旅の疲労は、体の芯に溜まっている。
(それでも、足を止めるわけにはいかない)
家が、近づいてくる。
粗末な木造の家。壁はくすんだ茶色で、屋根には枯れ草が積もっている。窓は小さく、戸口は一枚の木の板でできている。庭らしき区画には、何か植物が植えられているが、秋の終わりで、ほとんど枯れかけていた。
(ここに、いる)
シエラの背筋が、自然と伸びる。
魔女の気配は、感じない。いや、正確には、感じさせない。アルケーは、自分の魔力を完全に隠している。
(人間のふりをして、暮らしている。何年も。何のために)
シエラは、家の前で立ち止まった。
戸口の前に、小さな木の椅子が一脚置かれている。椅子の上には、干した薬草らしきものが束ねて置かれていた。
生活の匂いがする。
一人の女が、ここで、静かに暮らしている。その痕跡が、あちこちに見える。
シエラは、右手を背中の剣に伸ばした。
ルミナスの柄に、指をかける。
(相手は、テレシアの娘だ)
(油断するな)
心の中で、自分に言い聞かせる。
そして、左手で、木の戸を叩いた。
コツ、コツ。
乾いた音が、秋の空気に響く。
返事は、なかった。
もう一度、今度は強く叩く。
コツ、コツ、コツ。
「……誰かいるのか。アルケーという者に、話があって来た」
シエラの声は、風に乗って、家の中へと消えていった。
しばらく、沈黙。
風が、ススキを揺らす音だけが聞こえる。
――その時。
ギィ、と、木の戸が、内側からゆっくりと開いた。
シエラは、無意識に、剣の柄を握る手に力を込めた。
戸口に、一人の女が立っていた。
長い黒髪。肩を過ぎ、背中の半ばまで届くほどに伸びた、艶のない、しかし不思議な落ち着きのある黒髪。肌は白く、血色が薄い。目は、深い茶色。穏やかな、しかし底の見えない光をたたえている。
年齢は、二十代半ばに見える。だが、魔女の外見年齢は当てにならない。
服装は、地味な木綿の長袖に、くたびれた紺色の長いスカート。首には、使い込まれた灰色の布を巻いている。どこの村にもいる、普通の女の姿だった。
「……いらっしゃい」
アルケーは、シエラを見て、ほんの少しだけ首を傾げた。
その声は、低くも高くもない、静かな声だった。
「旅の人かな。ずいぶん、お疲れのようだね」
シエラは、答えなかった。
灰色の瞳で、アルケーをじっと見つめる。
(この女が、アルケー)
(テレシアの、娘)
外見からは、何も読み取れない。魔女の気配は、やはり感じない。完全に、人間のふりをしている。
「……あんたが、アルケーか」
シエラは、低く問いかけた。
「そうだよ。僕がアルケーだ」
僕。
その一人称が、シエラの耳に、奇妙に引っかかった。
(僕、だと)
女の姿をしていて、一人称が僕。だが、シエラの知る魔女たちにも、変わった口調の者はいる。問題は、そこではない。
「寒いだろう。上がるといい。お茶くらいなら、淹けられるよ」
アルケーは、そう言って、戸口から身を引いた。
そして、シエラの背中の剣に、ちらりと視線をやった。
「……剣、重そうだね。立てかけてから入るといいよ。狭い家だから、剣を背負ったままだと、戸に引っかけるかもしれない」
その言葉に、シエラは、かすかに眉をひそめた。
(剣を見ても、動じない)
(武器を持ったよそ者が来たのに、背を向けて、茶を淹けようとしている)
シエラの警戒心が、さらに強くなる。
「……茶は、いらない。話を聞いてもらえれば、すぐに立ち去る」
「そう言わずに。ここまで来るのは、大変だっただろう。僕の家に来た客人を、お茶も出さずに帰すわけにはいかないよ」
アルケーは、静かに、しかし有無を言わせない口調で言った。
そして、シエラに背を向けて、家の中の土間へと戻っていく。
(背を、向けた)
(剣を向ける相手に、背を向ける)
シエラは、一瞬、ルミナスを抜こうとして、思いとどまった。
(ここで斬りかかっても、意味がない)
(私は、この女に、話を聞きに来た)
シエラは、ゆっくりと息を吐くと、戸口をくぐった。
――――
家の中は、薄暗く、そして、驚くほど整っていた。
土間の奥に、板張りの居間。小さな囲炉裏があり、火が弱く燃えている。壁には、干した野菜や薬草が吊るされ、木の棚には、素焼きの器がきちんと並んでいる。
質素だが、清潔で、丁寧に暮らしていることが分かる空間だった。
「座って。今、お湯を沸かすから」
アルケーは、囲炉裏のそばに置かれた鉄瓶に、水差しから水を注いだ。
シエラは、居間の隅に、立ったままだった。
背中の剣を下ろす気にはなれない。
「立ったままかい。……まあ、いいか。好きにするといい」
アルケーは、シエラを振り返らずに、小さく笑った。
囲炉裏の火が、彼女の横顔を、橙に照らす。
シエラは、その横顔を見ながら、思った。
(この女の魔力の匂いが、しない)
魔女同士なら、近づけば自然と感じ取れる、魔力の匂い。それが、アルケーからは、まったくしない。
(完全に、隠している)
(ここまで徹底して魔力を隠す魔女を、私は知らない)
鉄瓶が、シュウシュウと音を立て始める。
アルケーは、木の棚から、小さな茶器を取り出した。急須と、湯呑みが二つ。素朴な、しかし手入れの行き届いた陶器だった。
「このあたりで採れる野草の茶だよ。味は、まあ、保証しないけど」
アルケーは、急須に茶葉を入れ、沸いた湯を注いだ。
ふわりと、草の匂いが立ち上る。苦くて、少し甘い、懐かしいような匂い。
「はい。どうぞ」
アルケーは、湯呑みをシエラの前に差し出した。
シエラは、動かなかった。
「毒なんか入ってないよ。……ああ、でも、魔女に毒は効かないか」
その言葉に、シエラの全身が、硬直した。
「……あんた、やはり」
シエラは、低く言った。
「うん。僕は魔女だよ。君も、そうだろ」
アルケーは、囲炉裏の前に座り、自分の湯呑みを手に取った。
「白の魔女、シエラ。王都の守護者。……君のことは、知ってる。君の剣も、その指輪も」
シエラの左手の薬指には、銀の指輪がはめられている。歴代の白の魔女が受け継いできた証。
「……あんた、何者だ」
シエラの声が、鋭くなる。
「さっきも言ったよ。僕はアルケー。この村で、一人で暮らしてる、ただの魔女だ」
「ただの魔女が、白の魔女の名を知っているのか」
「知ってるよ。僕は、君が思ってるより、ずっと長く生きてるから」
アルケーは、湯呑みに口をつけた。
シエラは、アルケーの手元を見た。
(この女は、私が誰かを知っている。私が何をしに来たかも、おそらく)
(なのに、剣を抜かない。逃げない。茶を飲んでいる)
シエラの指先が、ルミナスの柄を、強く握った。
「……アルケー。単刀直入に聞く」
シエラは、一歩、前に踏み出した。
「あんたは、始祖テレシアを、殺せるか」
囲炉裏の火が、パチリと弾けた。
アルケーは、ゆっくりと、シエラの方を向いた。
深い茶色の瞳が、シエラの灰色の瞳を、じっと見つめる。
「……母を、殺しに来たのかい」
その言葉は、静かだった。
そして、その問いかけに、シエラは、答えられなかった。
(母、と)
(この女は、テレシアを、母と呼んだ)
当たり前だ。アルケーはテレシアの娘だ。だが、その言葉が、シエラの胸に、奇妙な重さで沈んでいく。
「まあ、座りなよ。話は、座ってからでもできる」
アルケーは、シエラに、湯呑みを差し出した。
「君、疲れてる。顔色が悪い。ここに来るまで、ちゃんと食べてないだろ。お茶だけでも飲むといい」
シエラは、差し出された湯呑みを、無言で見つめた。
素焼きの湯呑み。中には、薄い琥珀色の茶が、湯気を立てている。
(この女は、私を、どうするつもりだ)
(殺すか。捕らえるか。それとも)
シエラの頭の中で、いくつもの可能性が回る。
だが、アルケーの態度には、敵意も、害意も、何も感じられなかった。
ただ、静かに、そこにいるだけ。
(……分からない)
シエラは、ゆっくりと、湯呑みを受け取った。
手に、陶器の温かさが伝わる。
「……ありがとう」
シエラは、小さく、そう言った。
アルケーは、微笑んだ。
「どういたしまして。……君、剣を握ったままお茶を飲むのは、大変じゃないかい? まあ、好きにするといいけど」
その言葉に、シエラは、かすかに眉を動かした。
(この女は、私が剣を手放さないことを、当然のように受け入れている)
(そして、それを、責めない)
シエラは、右手で剣の柄を握ったまま、左手で湯呑みを持ち上げた。
茶の匂いが、鼻をくすぐる。
「それで、さっきの話だけど」
アルケーは、自分の湯呑みを両手で包み込みながら、静かに言った。
「君は、僕に、母を殺せるかと聞いた。……正直に答えると、僕にも、分からない」
「分からない、だと」
「僕は、母に、剣を向けたことがない。だから、母を殺せるかどうか、試したことがないんだ」
アルケーの声は、穏やかだった。
「君は、何度も試したんだろ。王都で。それで、全部、届かなかった。……君の剣は、母には、一度も触れることすらできなかった」
シエラは、黙っていた。
その通りだった。
「でも、君は、それでも諦めない。……面白いね。君は、他の魔女と、全然違う」
アルケーは、シエラを見つめながら、ほんの少しだけ、首を傾げた。
「どうして、そこまでして、母を殺したいんだい?」
その問いに、シエラは、湯呑みを握る手に、力を込めた。
(どうして、だと)
(そんなことは、決まっている)
「……あいつは、危険だ。あいつは、人間を、玩具としか見ていない。あいつがいる限り、この大陸に、本当の平和は来ない」
シエラの声は、低く、硬質だった。
「私は、白の魔女だ。王都を守る。その王都を、あいつは、いつでも壊せる。実際に、壊しかけた。灰冠の使徒を、指先ひとつで消した。あの無関心さで、次は、王都全体を消すかもしれない」
「……母は、王都を消したりしないよ」
アルケーは、静かに言った。
「母は、破壊に興味がない。母は、ただ、見ているだけだ。面白いものを探して、散歩して、眺めてる。それだけだよ」
「それだけ、だと? その「それだけ」で、どれだけの人間が死んだと思ってる」
シエラの声が、鋭くなる。
「あいつが王都に来たせいで、灰冠の使徒が動いた。市場が燃えた。人々が死んだ。あいつは、それを、ただ面白そうに見てた。それの何が「それだけ」だ」
囲炉裏の火が、揺れる。
アルケーは、シエラの怒りを、静かに受け止めていた。
「……君は、真面目だね」
アルケーは、ぽつりと言った。
「君は、本気で、人間を守ろうとしてる。本気で、母を止めようとしてる。……でも、君の剣は、母に届かない。君の正義も、母には、ただの「面白いもの」でしかない」
その言葉は、事実だった。
シエラの胸に、冷たいものが広がる。
(分かってる。そんなことは、とっくに)
「……だから、あんたに会いに来た」
シエラは、顔を上げた。
「あんたは、テレシアの娘だ。だが、他の魔女とは、違う。私は、それを、あんたの魔力の匂いで感じた。あんたの魔力は、私のものとも、他の魔女のものとも、種類が違う」
アルケーは、黙って、シエラの言葉を聞いていた。
「あんたは、何者だ。なぜ、こんな村で、人間のふりをして暮らしてる。なぜ、テレシアの娘でありながら、テレシアの側にいない」
シエラの問いは、鋭く、重かった。
アルケーは、しばらく、湯呑みの中の茶を眺めていた。
「……君の質問に、全部答えることはできない」
アルケーは、静かに言った。
「でも、一つだけ、言えることがある」
アルケーは、顔を上げて、シエラをまっすぐに見た。
「僕は、君の敵じゃない。母の敵でもない。僕は、ただ、ここで、静かに暮らしてるだけだ」
「……それだけか」
「それだけだよ」
アルケーは、微笑んだ。
「君が信じなくても、事実だ。僕は、何も企んでない。君を害するつもりもない。……だから、お茶でも飲んで、少し休んでいくといい。君、本当に、疲れてる」
シエラは、アルケーの微笑みを、灰色の瞳でじっと見つめた。
(この女は、何かを隠してる)
(だが、敵意は、ない)
(少なくとも、今は)
シエラは、ゆっくりと、湯呑みを口元に運んだ。
茶は、苦くて、ほんの少し甘かった。
体の芯が、じんわりと温かくなる。
「……不味いだろ」
アルケーが、くすくすと笑った。
「……いや。悪くない」
シエラは、正直に答えた。
「それは良かった。僕のお茶を「悪くない」と言ったのは、君が初めてだよ。村の人たちは、みんな、飲むと変な顔をするんだ」
アルケーは、嬉しそうに笑った。
その笑顔は、年相応の、いや、もっと幼い、無邪気なものだった。
(この女は、本当に、何者なんだ)
シエラは、湯呑みを握る手に、再び力を込めた。
「……アルケー。あんたは、私のことを、どう思う」
シエラは、唐突に、そう問いかけた。
「どう思う?」
「私は、あんたの母を殺そうとしてる。あんたの母を殺す手段を求めて、ここに来た。あんたは、私を、どう思う」
アルケーは、首を傾げた。
「……君は、僕の妹みたいだなって、思ったよ」
その言葉に、シエラは、言葉を失った。
(妹、だと)
(この女は、私を、妹のように見てる)
剣を向ける相手を。母を殺そうとする相手を。
「君は、僕と同じ、母から生まれた魔女だ。だから、君は僕の妹だ。……そうだろ?」
アルケーの声は、穏やかで、そして、どこか、温かかった。
「……私は、あんたの妹なんかじゃない。私は、テレシアを殺すために、ここに来た。それだけだ」
シエラの声は、震えていた。
「うん。それでも、君は僕の妹だよ」
アルケーは、静かに、そう言った。
「君がどんなに否定しても、君の血は、母の血だ。君の魔力は、母から生まれた。それは、変えられない。……僕も、君も、同じだ」
シエラは、湯呑みを握る手に、さらに力を込めた。
指が、白くなる。
(違う。私は、違う)
(私は、人間側に立つ。人間を守る。あいつらとは、違う)
心の中で、何度も何度も、そう繰り返す。
だが、アルケーの言葉は、シエラの内側の、深い場所に、静かに沈んでいく。
「……君、湯呑み、割っちゃうよ」
アルケーが、静かに言った。
シエラは、はっとして、湯呑みを見た。
握りしめた手の中で、素焼きの湯呑みが、かすかに、きしむ音を立てていた。
「……すまない」
シエラは、ゆっくりと、手の力を抜いた。
「いいよ。……君は、真面目で、真っ直ぐで、そして、とても、苦しそうだ」
アルケーは、囲炉裏の火を見つめながら、ぽつりと言った。
「母を殺すことだけが、君の生きる理由みたいに、見える。……でも、君は、本当は、もっと違う生き方もできたんじゃないかな」
「……あんたに、私の何が分かる」
シエラの声が、低くなる。
「分からないよ。僕は、君の人生を知らない。君が何を見て、何を背負ってきたか、僕には分からない」
アルケーは、シエラの方を向いた。
「でも、君の目は、疲れてる。ずっと、何かと戦ってる目だ。……休んだらいいのに」
「休めるわけがない」
シエラは、即座に言い返した。
「テレシアがいる限り、私は休めない。あいつが、いつ、どこで、何をしでかすか分からない。あいつは、気まぐれで、無邪気で、そして、何も考えてない。だからこそ、危険なんだ」
「……君は、母のことを、よく分かってるね」
アルケーは、少し驚いたように言った。
「そうだよ。母は、気まぐれで、無邪気で、何も考えてない。君の言う通りだ。……でも、母は、君が思ってるほど、悪意のある存在じゃないよ」
「悪意がないから、何だ」
シエラの声が、鋭くなる。
「悪意がないから、許されるのか。悪意がないから、見逃していいのか。あいつは、悪意なく、人を壊す。悪意なく、街を燃やす。悪意なく、私のすべてを無意味にする。……それが、一番、許せない」
シエラの言葉には、怒りと、そして、どうしようもない無力感が、混ざっていた。
アルケーは、黙って、シエラの言葉を聞いていた。
囲炉裏の火が、静かに燃える。
「……君の気持ちは、分かるよ」
アルケーは、静かに言った。
「母は、そういう存在だ。悪意がないから、止められない。悪意がないから、誰も責められない。……君が母を殺したいと思うのは、当然のことだと思う」
アルケーの言葉に、シエラは、わずかに目を見開いた。
(この女は、私の、味方なのか)
(それとも、敵なのか)
「でも、僕には、母を殺すことはできない。……いや、できるかどうかも、分からない。僕は、母に、剣を向けたことがないから」
アルケーは、自分の手を見つめた。
白い、細い指。
「もし、君が望むなら、僕は、君に協力してもいい。……でも、その前に、君に知っておいてほしいことがある」
アルケーは、顔を上げて、シエラをまっすぐに見た。
「母は、君が思ってるより、ずっと、寂しがり屋だ」
「……何だ、それは」
「母は、ずっと、一人で散歩してる。面白いものを探して、見つけて、飽きて、また探して。……その繰り返し。母は、何も、持ってないんだ」
アルケーの声は、静かで、そして、少しだけ、哀しげだった。
「母は、君に、剣を向けられて、嬉しかったと思うよ。だって、君は、母に、本気で向かってきた。母のことを、真っ直ぐに見て、本気で殺そうとした。……あれは、母にとって、きっと、初めての経験だった」
シエラは、何も言えなかった。
(テレシアが、私に、剣を向けられて、嬉しかった)
(そんなことが、あるのか)
「……ごめん。変なことを言ったね。忘れていいよ」
アルケーは、小さく笑って、湯呑みを口元に運んだ。
シエラは、しばらく、アルケーの横顔を見つめていた。
(この女は、私を、妹のように見てる)
(テレシアを、母として、愛してる)
(そして、私のことを、気遣ってる)
(……何もかもが、ずれてる)
シエラは、湯呑みを、ゆっくりと、床に置いた。
「……私は、あんたの妹じゃない」
シエラは、低く、しかしはっきりと言った。
「私は、あんたの家族じゃない。私は、テレシアを殺すために、ここに来た。それだけだ。……あんたが、私をどう見ようと、関係ない」
アルケーは、シエラの言葉を、静かに受け止めた。
「……そうだね。君は、君の目的のために、ここに来た。僕は、僕の暮らしを、ここで続ける。……それでいい」
アルケーは、穏やかに微笑んだ。
「でも、一つだけ、覚えておいて。君が、いつか、疲れて、休みたくなったら、この家に来るといい。お茶くらいなら、いつでも淹けてあげる」
シエラは、答えなかった。
ただ、アルケーの微笑みを、灰色の瞳で、じっと見つめていた。
(この女は、私を、妹のように見る)
(剣を向ける相手を、家族のように扱う)
(その、ずれが、私の心を、内側から、崩していく)
シエラは、ゆっくりと、立ち上がった。
「……世話になった。茶は、美味かった」
シエラは、それだけ言って、戸口へと向かった。
「もう行くのかい。……外は、もう暗いよ。今夜は、泊まっていくといい」
「いや。立ち寄る場所がある」
シエラは、振り返らずに答えた。
「そう。……気をつけて。このあたりは、夜になると、冷えるから」
アルケーの声が、背中に届く。
シエラは、木の戸を開けて、外に出た。
――――
外は、すっかり暗くなっていた。
雲の切れ間から、月が、ぼんやりと顔を出している。風は冷たく、ススキが、ざわざわと鳴っていた。
シエラは、丘の上から、村を見下ろした。
村の家々に、ぽつぽつと、灯りが点っている。暖かな、橙色の光。
(あの中に、家族がいる)
(親と子がいて、兄弟がいて、当たり前の暮らしがある)
シエラには、それが、遠い世界の光景のように感じられた。
(私は、家族というものを、知らない)
(テレシアは、私を生んだ。だが、母ではなかった)
(アルケーは、テレシアを、母と呼ぶ)
(そして、私を、妹と呼ぶ)
(……何もかもが、ずれてる)
シエラは、空を見上げた。
灰色の雲が、ゆっくりと、月を隠していく。
(私は、白の魔女だ)
(王都を守る。守るべきもののために、剣を振るう)
(それ以外の、何者でもない)
シエラは、背中のルミナスに、そっと手を触れた。
剣は、冷たかった。
(アルケーは、テレシアを殺せるかどうか、分からないと言った)
(だが、あの女は、何かを隠してる)
(あの女の魔力の匂いは、確かに、他の魔女と違う)
(もしかしたら、あの女なら)
シエラは、ゆっくりと、丘を下り始めた。
風が、白銀の長髪を、乱暴に揺らす。
――その時だった。
シエラの足が、止まった。
(……この、匂い)
風に乗って、かすかに、魔力の匂いが流れてきた。
それは、アルケーの家の方角からではなく、村の外れ、森の奥の方角からだった。
(この魔力の匂いは、私のものと、同じ系統だ)
(テレシアの、血に近い)
(まさか)
シエラは、暗い森の奥を、灰色の瞳でじっと見つめた。
風が、また、吹く。
魔力の匂いは、一瞬で消えた。
(……気のせいか)
シエラは、しばらく、森の奥を見つめていた。
だが、何も、感じられない。
(いや。確かに、感じた)
(あれは、テレシアの血に近い、魔女の魔力の匂いだ)
(だが、アルケーのものではない)
(ならば、誰だ)
シエラの背筋に、冷たいものが走る。
(この村には、まだ、何かがいる)
シエラは、ルミナスの柄を、強く握りしめた。
Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。