原初の魔女は王都を散歩する
剣と魔法が支配する大陸。人間の王都アルテミスは、魔女との守護契約によって外敵から守られている。魔女は人間や他種族には殺せない――同族の魔女にしか。だが、原初の魔女テレシアだけは例外だった。彼女が生み出した魔女は、誰一人として彼女を傷つけられない。
白の魔女シエラは二十歳。人間側についた、頑固で折れない守護者だ。ある夜、王都に近づく底知れない気配を感じ、シエラは単身で対峙する。相手は原初の魔女テレシア。シエラは知る限りの呪文をすべて解放し、全力で殺しにかかる。
しかしテレシアは、自分が生み出した魔女には傷つけられない。シエラの攻撃は届かない。絶望が胸を貫く。それでも彼女は、テレシアに刃を向け続けると宣言する。
ここまで読者は、シエラが主人公だと思う。だが第二話で視点はテレシアへ移る。本当の主軸は、王都に散歩に来ただけの原初の魔女なのだ。
無邪気な少女の姿で、テレシアは王都に降り立つ。使い魔のロードが丁寧な言葉で仕える。市場で人間の子供たちにお菓子を分け、パンの値段を交渉し、大道芸人に拍手を送る。彼女の種族にとって人間はおもちゃか駒程度に過ぎないが、その散歩は驚くほど穏やかだ。
原初の魔女は王都を散歩する - 割れた湯呑み
朝の光が、窓の隙間から細く差し込んでいた。
土壁の家の中は、夜の冷えがまだ残っていて、布団から出た素足が冷たい。シエラは身を起こし、しばらく動けずにいた。
(ここで、眠ったのか)
昨夜のことが、ゆっくりと頭の中に戻ってくる。剣を向けた相手の家で、茶を飲み、言葉を交わし、そして結局、泊まっていくことになった。王都を離れてから、まともに屋根の下で眠ったのは、これが初めてだった。
身体は重い。王都での戦いの傷は塞がりかけているが、長い旅の疲れが骨の奥に溜まっている。白い外套は泥と埃で汚れたままだ。白銀の長髪も、寝癖がついて乱れている。
シエラは、無意識に左手の薬指に触れた。銀の指輪。歴代の白の魔女が受け継いできた証。その冷たい感触が、彼女を現実に引き戻す。
(私は、白の魔女だ)
(王都を守る、守護者だ)
(それなのに、今、私は——)
考えを振り切るように、シエラは立ち上がった。
家の中に、かすかな音が聞こえる。パチパチと、何かが弾けるような、乾いた音。それから、ふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。
茶の匂いだ。
土間の方に目をやると、アルケーが竈の前に座っていた。
彼女は、こちらに背を向けている。薄い肩。くすんだ亜麻色の髪は、後ろで一つに結ばれていた。昨夜と同じ、色褪せた生成りの服。袖をまくり、小さな鉄鍋の中で、茶葉をじっくりと煎っている。
その手つきは、驚くほど静かで、無駄がなかった。
鍋の中の茶葉が、わずかに色を変える。香りが、一段と強くなる。アルケーは、鍋を火から下ろすと、茶葉を木の器に移した。それから、ようやく、振り返った。
「おはよう。よく眠れたかい」
アルケーの声は、昨夜と同じように、穏やかだった。
シエラは、すぐには答えられなかった。
(この女は、私が剣を向けた相手だ)
(それなのに、まるで妹にでも話しかけるように、自然に接してくる)
「……ああ。問題ない」
シエラは、短く答えた。
アルケーは、小さく笑った。
「そう。顔色は、昨日よりいいみたいだね。お腹は空いてるかい。芋を蒸してあるんだ。食べるといい」
「……もらう」
シエラは、土間の隅に置かれた水桶で顔を洗った。水は冷たく、指先がしびれる。眠気が、一気に吹き飛んだ。
それから、アルケーの隣に、少しだけ距離を置いて座った。
土間の竈では、まだ火がくすぶっている。鉄瓶から湯気が上がり、朝の光の中で、白く揺れていた。
アルケーが、蒸し芋の乗った皿を差し出す。シエラは、黙って受け取った。
芋は、ほくほくとしていて、素朴な味がした。塩の粒が、ほんの少しだけ振られている。
「この村の芋は、甘くておいしいんだよ。土が合ってるのかねえ」
アルケーが、自分も芋をかじりながら言った。
シエラは、黙って芋を食べ続けた。
(落ち着け)
(私は、確かめに来たんだ)
(この女が、本当にテレシアを殺せるのかを)
芋を食べ終えると、アルケーは、煎った茶葉を急須に移し、湯を注いだ。
しゅう、と音がして、茶の香りが立ち上る。
アルケーは、湯呑みを二つ、木の盆の上に並べた。
その湯呑みを見た瞬間、シエラの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
昨夜、アルケーが差し出したのと同じ湯呑み。白い陶器に、藍色の細い線が一本、縁に沿って描かれている。素朴だが、手触りの良さが伝わってくる、丁寧に作られた器だった。
(この湯呑みを、私は受け取った)
(剣を向けた相手の手から)
アルケーは、湯呑みに茶を注いだ。
琥珀色の液体が、白い器の中で、静かに揺れる。
「はい。熱いから、気をつけて」
シエラは、湯呑みを両手で包み込んだ。
掌に、熱がじわりと広がる。
湯気の向こうで、アルケーが、自分の湯呑みを手に取る。
「……それで、君は、今日はどうするんだい」
アルケーが、茶を一口含んでから、静かに言った。
シエラは、湯呑みに視線を落としたまま、口を開いた。
「聞きたいことがある」
「うん。なんだい」
「お前は、テレシアを殺せるのか」
シエラの声は、硬質で、率直だった。
アルケーは、湯呑みを口元に運ぶ手を、ほんの一瞬だけ止めた。
だが、すぐに、何事もなかったかのように、茶を飲んだ。
「……その話は、昨日もしたね。僕には、分からないって言っただろう」
「分からない、では済まない。お前は、テレシアの娘だ。始祖の加護を受けているはずだ。だが、お前の魔力の匂いは、他の魔女と違う。私のものとも、テレシアの血に近い他の魔女のものとも、決定的に違う」
シエラは、湯呑みを握る指に、無意識に力を込めた。
「なぜだ。なぜ、お前だけが違う。なぜ、お前はこの村にいる。なぜ、人間のふりをして暮らしている。テレシアを殺せるのかどうか、本当は知っているんじゃないのか」
問いは、次々と口をついて出た。
王都を離れてから、ずっと胸の奥で燻っていた問い。
殺す手段を求めて、辺境まで歩き続けた、その執念の正体。
アルケーは、シエラの問いを、すべて静かに受け止めた。
そして、ゆっくりと、湯呑みを木の盆の上に置いた。
「……この茶葉はね、村の南側の斜面で採れるんだ。秋の初めに摘んで、こうやって煎ると、香りが一番良くなる。今年は雨が少なかったから、葉が小さくて、その分、味が濃いんだよ」
シエラは、眉をひそめた。
「何を言っている。私の問いに答えろ」
「うん。だから、今、話してるだろう。茶葉の話を」
「茶葉の話など、どうでもいい」
「どうでもよくないよ。君が今、飲んでいる茶は、その茶葉で淹れたものだ。君の口の中に、この村の秋の味が広がってる。それは、どうでもいいことなのかい」
アルケーは、穏やかな微笑みを浮かべたまま、首を傾げた。
シエラは、唇を噛んだ。
(この女は、話をそらす)
(茶葉の話。村の話。そうやって、核心から逃げ続ける)
「……お前は、私を愚弄しているのか」
シエラの声が、低くなる。
「愚弄なんて、してないよ。ただ、君が知りたいことの答えは、僕の口からは言えないんだ。言ったところで、君の役には立たない。だから、代わりに、今ここにある話をしてる」
「私の役に立つかどうかは、私が決める。お前が決めることじゃない」
「そうだね。君の言う通りだ」
アルケーは、素直に頷いた。
その素直さが、かえって、シエラの苛立ちを煽った。
「なら、答えろ。なぜ、お前の魔力の匂いは、私と違う。同じテレシアの娘でありながら、なぜ、そこまで異質なんだ」
シエラは、アルケーの目を、真っ直ぐに見据えた。
灰色の瞳が、朝の光を反射して、鋭く光る。
アルケーは、シエラの視線を受け止めながら、しばらく沈黙した。
竈の火が、パチリと鳴る。
鉄瓶の湯が、しゅんしゅんと音を立てる。
「……そうだね。君の言う通り、僕の魔力は、君とは少し違うかもしれない。でも、それが何だっていうんだい。魔女の魔力の匂いなんて、育った場所や、使う魔法の系統で、いくらでも変わるものだよ」
「違う。そんな表面的な違いじゃない。お前の魔力の匂いは、根本から違う。まるで、別の生き物の匂いだ。私が今まで会ってきた、どの魔女の匂いとも違う」
「ふうん。君は、たくさんの魔女に会ったことがあるのかい」
「……白の魔女として、王都を守ってきた。同族と会う機会は、少なくはない」
「そう。じゃあ、君の知ってる魔女の匂いと、僕の匂いが違うのは、きっと、僕がこの村で、人間の真似事をして暮らしてるからだよ。畑を耕して、芋を蒸して、茶を煎って。そんな暮らしを何十年も続けてたら、魔力の匂いも変わるさ」
アルケーは、笑った。
「ほら、君の外套だって、王都にいた頃より、ずいぶん土の匂いがするだろう。それと同じだよ」
シエラは、自分の外套に視線を落とした。
確かに、白い布地は、泥と埃で、くすんでいた。
だが、そんな問題ではない。
「誤魔化すな。私が聞いているのは、そんなことじゃない」
「誤魔化してないよ。僕は、僕の知ってることを、君に話してる。君が聞きたい答えが、僕の中にないだけだ」
「なら、なぜ、この村にいる。テレシアの娘が、なぜ、こんな辺境で、人間のふりをして暮らしている」
シエラの声が、鋭くなる。
アルケーは、茶を一口飲んだ。
「……この村の子供たちは、いい子たちだよ。昨日、木の実を摘んで、家の前に置いていってくれたんだ。秋の木の実は、煎って食べると、ほんのり甘いんだよ。今度、君にも分けてあげるね」
「アルケー!」
シエラは、思わず、声を張り上げた。
湯呑みを握る手に、力が入る。
指先が、白くなる。
アルケーは、驚いた様子もなく、シエラを見つめた。
「なんだい、そんなに大きな声を出して。村の子が、びっくりしてるよ」
「……私は、遊びに来たんじゃない。答えを、聞きに来たんだ。お前は、テレシアを殺せるのか。殺す気はあるのか。それだけを、知りたい」
シエラは、声を抑えて、しかし、はっきりと言った。
アルケーは、しばらく、シエラの顔を眺めていた。
その瞳は、相変わらず、穏やかだった。
「……君は、疲れてるんだね」
アルケーが、ぽつりと言った。
「なに」
「目の下に、隈ができてる。王都を出てから、ずっと、ろくに眠れてないんだろう。それに、その手。震えてるよ。湯呑みを持ってる手が、小さく震えてる。君は、自分で思ってる以上に、疲れてる。だから、そんなに、いらだつんだ」
シエラは、自分の手を見た。
確かに、湯呑みを持つ指先が、かすかに震えていた。
(私が、震えてる?)
(こんなことで?)
「……私のことは、どうでもいい」
「どうでもよくないよ。君は、僕の妹だ。だから、心配してる」
「私は、お前の妹じゃない」
シエラは、反射的に言い返した。
「血の繋がりは、あるだろう。同じ母から生まれたんだから」
「テレシアは、私の母ではない。私を生んだ、というだけの存在だ。私を育てたことも、私に何かを与えたこともない。あれは、ただ、私を、生んだだけだ」
シエラの声が、冷たく響く。
「……そうかもしれないね。でも、僕にとっては、お母様は、お母様だ。あの人は、僕に、色々なものをくれた。この家も、この茶器も、この村での暮らしも。全部、あの人がくれたものだ」
アルケーは、手元の湯呑みを、愛おしむように、指でなぞった。
「だから、君がお母様を殺したいと言っても、僕には、その気持ちが、よく分からないんだ」
「分からなくていい。私は、ただ、お前が、あれを殺せるのかどうかを知りたい」
「……君は、どうして、そこまで、お母様を殺したいんだい。王都で、何があったんだい」
アルケーの問いは、静かで、真っ直ぐだった。
シエラは、答えようとして、言葉を飲み込んだ。
(王都で、何があった)
(テレシアは、何もしなかった)
(ただ、来て、眺めて、去った)
(それなのに、王都は、灰冠の使徒の陰謀で、燃えた)
(人々が、死んだ)
(私が、守れなかった)
「……お前には、関係ない」
シエラは、吐き捨てるように言った。
アルケーは、少しだけ、悲しそうな顔をした。
「そうか。……でも、君が、そんなに辛そうな顔をするなら、きっと、何かあったんだね」
「辛そうな顔など、していない」
「してるよ。君は、今、とても辛そうな顔をしてる。自分では、気づいてないかもしれないけど」
アルケーの言葉に、シエラは、何も言い返せなかった。
沈黙が、土間を満たす。
竈の火が、また、パチリと鳴った。
湯呑みの中の茶は、もう、ぬるくなっていた。
シエラは、湯呑みを握りしめた。
(違う)
(私は、辛いんじゃない)
(私は、怒ってるんだ)
(テレシアに、届かない自分に)
(剣を向けても、傷一つつけられない自分に)
(何も、守れなかった自分に)
指先に、力が入る。
陶器の表面が、掌に食い込む。
「……お前は、テレシアを、母と呼ぶ。その口で、あれを殺せると言え。殺すと言え。そうすれば、私は、お前に剣を向ける必要がなくなる。私は、お前と共に、あれを——」
「君は、僕に、お母様を殺せと言ってるのかい」
アルケーが、シエラの言葉を遮った。
その声は、相変わらず穏やかだった。
だが、その瞳の奥に、初めて、何かが揺れた。
「……それは、できない相談だよ。僕は、お母様を殺したくない。殺せるかどうかも、分からない。そして、君の手伝いをする気も、ない」
「なぜだ。お前は、テレシアが、人間を何だと思ってるか、知ってるはずだ。あれは、人間を、玩具か駒としか見ていない。あれが、どれだけの人間を、無関心のうちに、壊してきたか。お前は、それを見てきたはずだ」
「……お母様は、確かに、人間のことを、そういう風に見てるかもしれない。でも、お母様は、僕に、優しかった。僕が、この村で暮らしたいと言った時も、何も言わずに、許してくれた。僕が、人間の真似事をして、畑を耕して、茶を煎って、そうやって生きてることを、面白いねって、笑ってくれた。お母様は、僕の願いを、全部、聞いてくれたんだ」
アルケーは、湯呑みを、両手で包み込んだ。
「だから、僕は、お母様を、殺せない。殺したいとも、思わない。それが、僕の答えだよ」
シエラは、アルケーの言葉を、じっと聞いていた。
(この女は、テレシアの、娘だ)
(私と同じ、テレシアから生まれた魔女だ)
(なのに、なぜ、こんなにも、違う)
(なぜ、この女は、テレシアを、母として、愛してる)
(なぜ、私は、テレシアを、殺したいとしか思えない)
胸の奥で、何かが、ぐるぐると渦を巻く。
怒り。悲しみ。嫉妬。憎悪。
それらが、混ざり合って、言葉にならない塊となって、喉の奥に、せり上がってくる。
「……ふざけるな」
シエラの声が、震えた。
「お前は、テレシアの娘だ。魔女だ。人間のふりをして、こんな辺境で、茶を煎って、芋を蒸して、そうやって、平和に暮らしてる。それが、どれだけ、滑稽で、残酷なことか、分かってるのか。お前の母は、人間を、玩具としか見ていない。お前が愛してるその母は、王都で、人間の子供が燃え死ぬのを、無邪気に眺めてたんだぞ」
アルケーは、黙って、シエラの言葉を聞いていた。
「お前が、ここで、人間の真似事をして、村人に囲まれて、平和に暮らしてる。その裏で、お前の母は、人間を、壊してる。お前のその、穏やかな暮らしは、お前の母の、無関心の上に、成り立ってるんだ。それなのに、お前は、母を殺せないと、笑ってる」
シエラの声が、大きくなる。
「私は、王都を守れなかった。テレシアに、剣を向けた。何度も、何度も、全力で、剣を振った。魔法を放った。でも、傷一つ、つけられなかった。あの女の前では、私の剣も、魔法も、全部、無意味だった。私は、ただ、立って、見てることしか、できなかった。人々が、死んでいくのを。燃えていくのを。テレシアは、それを、面白いねって、笑ってた」
シエラの視界が、わずかに歪む。
(だめだ)
(感情を、抑えろ)
(私は、白の魔女だ)
(守るべき者のために、剣を振るう者だ)
(こんな所で、感情を、爆発させるな)
だが、もう、止まらなかった。
「私は、あれを、殺したい。殺して、終わらせたい。あの無関心を、あの無邪気さを、あの底なしの静けさを、この手で、終わらせたい。そのために、私は、ここに来た。お前なら、テレシアを殺せるかもしれないと、そう思って、ここに来た。なのに、お前は、茶葉の話をして、木の実の話をして、私の問いに、何も、答えない」
シエラは、立ち上がっていた。
気づかないうちに、膝が、伸びていた。
湯呑みを握ったまま、アルケーを、見下ろしていた。
「お前は、私を、妹と呼ぶ。なら、姉として、私に、何かを、示してみせろ。お前の、その、静けさで、私を、退けるんじゃない。私の、問いに、向き合え」
シエラの声は、もはや、叫びに近かった。
アルケーは、それでも、座ったまま、シエラを見上げていた。
その表情は、変わらなかった。
穏やかで、静かで、そして、どこか、悲しげだった。
「……君は、そうやって、いつも、一人で、戦ってきたんだね」
アルケーが、静かに言った。
「……なに」
「君は、王都で、一人で、テレシアに、剣を向けてきた。誰にも、頼らずに。誰にも、弱音を吐かずに。白の魔女として、守るべきもののために、一人で、戦ってきた。そうだろう。君の、その、震える手が、君の、その、叫びが、君の、その、孤独を、全部、教えてくれてる」
アルケーの声は、どこまでも、穏やかだった。
その穏やかさが、シエラの、逆鱗に、触れた。
(孤独?)
(私が、孤独だって?)
(ふざけるな)
(私は、守るべきもののために、戦ってる)
(孤独なんかじゃ、ない)
「黙れ……黙れっ!」
シエラは、叫んでいた。
そして、次の瞬間——
ガシャン!!
乾いた、鋭い音が、土間に響き渡った。
シエラが、湯呑みを、床に、叩きつけていた。
白い陶器が、無数の破片となって、土間の土の上に、飛び散った。
破片の一つが、シエラの頬を、かすめた。
薄い皮膚が、切れ、血が、一筋、流れた。
だが、シエラは、気づかなかった。
「……私は、孤独なんかじゃ、ない。私は、白の魔女だ。王都を守る、守護者だ。私は、私の、使命のために、戦ってる。誰にも、頼らない。誰にも、弱音を、吐かない。それが、私の、戦い方だ」
シエラは、荒い息を吐きながら、立っていた。
肩が、上下する。
頬の傷から、血が、滴り落ちる。
土間の床に、白い破片が、散らばっていた。
藍色の線が描かれた、湯呑みの破片。
昨夜、アルケーが、シエラに差し出した、あの湯呑み。
アルケーは、ゆっくりと、立ち上がった。
そして、何も言わずに、その場に、跪いた。
土間の土の上に、正座ではなく、片膝をつく。
それから、散らばった破片を、一つ、また一つと、拾い始めた。
その動きは、静かで、丁寧だった。
まるで、壊れた器を、悼むように。
「……何を、してる」
シエラの声は、掠れていた。
アルケーは、答えなかった。
ただ、黙々と、破片を、拾い続ける。
その手が、震えていた。
シエラは、それを見た。
アルケーの、細い指が、小さく、震えている。
破片を拾うたびに、指先が、わずかに、震える。
(この女が、震えてる)
(さっきまで、あんなに、静かだったのに)
(私が、器を、割ったから)
アルケーは、破片を、自分の服の裾に、集めていった。
鋭い破片で、指先が、切れている。
赤い血が、白い破片に、滲んでいく。
それでも、アルケーは、拾う手を、止めなかった。
「……もう、いい。私が、割った。私が、片付ける」
シエラは、そう言って、アルケーの手を、止めようとした。
だが、アルケーは、首を振った。
「……いいんだ。君は、そこに、座ってて」
アルケーの声は、かすかに、震えていた。
それでも、その口調は、穏やかだった。
シエラは、何も言えずに、立ち尽くした。
アルケーは、最後の破片を拾い終えると、服の裾に集めた破片を、ゆっくりと、床の上に置いた。
それから、顔を上げた。
シエラは、アルケーの目を、見た。
その目には、怒りも、悲しみも、なかった。
ただ、深い、深い、諦めだけがあった。
「……これはね、お母様から、貰ったものなんだ」
アルケーが、静かに言った。
「一対しかない、湯呑みだった。二つで、一つの。僕が、この村に来た時に、お母様が、持たせてくれた。一人でお茶を飲むより、誰かと、二人で飲みなさいって。……君に、昨日、差し出したのは、その、片方だ。もう片方は、僕が、ずっと、使ってる。……これで、一対が、揃わなくなった」
アルケーは、破片の山を、じっと見つめた。
「……君は、どうして、物に、当たるんだい。君が、怒ってるのは、僕にだ。お母様にだ。この、湯呑みにじゃ、ないだろう」
その言葉は、責めるような響きでは、なかった。
ただ、静かに、事実を、確かめるような、言い方だった。
シエラは、答えられなかった。
(そうだ)
(私が、怒ってるのは、この、湯呑みにじゃ、ない)
(なのに、私は、この、湯呑みを、割った)
(アルケーが、大事にしてる、テレシアから貰った、一対の、湯呑みを)
(私は、自分の、感情を、制御できずに、壊した)
シエラの、頬の傷から、血が、流れ続けている。
それは、涙のようでも、あった。
だが、シエラは、泣いてはいなかった。
ただ、立ち尽くして、アルケーを見下ろしていた。
アルケーは、破片を、自分の服の裾から、一枚の布に、移し替えた。
どこから出したのか、白い、柔らかな布。
それで、破片を、一つ一つ、丁寧に、包んでいく。
「……君は、剣を、持ってるね。その、白い剣。君は、その剣で、何を、守ってきたんだい。王都を、人々を、君の、守るべきものを。……君の剣は、人を、守るための剣だ。物を、壊すための剣じゃ、ない。君の、その手は、人を、守るための手だ。物を、壊すための手じゃ、ない。……なのに、君は、今、自分の手で、物を、壊した」
アルケーは、布に包んだ破片を、両手で、そっと、胸に抱いた。
「……君の剣は、お母様に、届かない。君の言葉は、僕に、届かない。君の怒りは、湯呑みに、ぶつかった。……それは、悲しいことだよ。君が、そんな風にしか、怒れないのは。君が、そんな風にしか、悲しめないのは。……僕は、君の、その、不器用さが、悲しい」
アルケーの声は、静かだった。
だが、その言葉は、シエラの、胸の奥に、深く、突き刺さった。
(不器用)
(私が、不器用だと?)
(この女は、私を、妹と呼び、私の、怒りを、不器用さだと、言う)
(まるで、子供を、諭すように)
(私は、白の魔女だ。王都を守る、守護者だ。なのに、この女の前では、ただ、感情を、爆発させて、物を、壊すだけの、子供だ)
シエラは、自分の手を、見た。
湯呑みを、握っていた手。
その手は、まだ、震えていた。
(私は、剣を、持っている)
(聖剣ルミナス。白の魔女に代々受け継がれる、光の剣)
(その剣は、今、私の、背中にある)
(なのに、私は、剣を、抜かなかった)
(剣の代わりに、湯呑みを、壊した)
(私の剣は、テレシアに、届かない)
(私の言葉は、アルケーに、届かない)
(私の怒りは、ただ、物を、壊すだけだ)
(私は、何も、守れない。何にも、届かない)
シエラは、ゆっくりと、床に、座り込んだ。
土間の、冷たい土の上に。
「……すまない」
シエラは、掠れた声で、そう言った。
それは、謝罪だった。
アルケーは、布に包んだ破片を、抱いたまま、シエラを見た。
「……いいんだよ。物は、壊れることもある。……でも、君の、その、怒りは、物に、ぶつけるんじゃない。君が、本当に、怒ってる相手に、ぶつけるんだ。君の剣は、君の、怒りのために、あるんじゃない。君の、守るべきもののために、あるんだ。……君は、そのことを、忘れてる」
アルケーの言葉は、静かで、優しかった。
だが、その優しさが、シエラには、痛かった。
(この女は、私を、責めない)
(怒りもしない)
(悲しみも、見せない)
(ただ、静かに、諦めて、私を、諭す)
(それが、この女の、強さだ)
(激情ではなく、静けさで、人を、退ける強さ)
(私には、ない、強さだ)
シエラは、自分の、剣を、背中に感じた。
聖剣ルミナスの、冷たい重み。
(私の剣は、この女にすら、届かない)
(テレシアに、届かないのは、分かってた)
(だが、アルケーにすら、届かない)
(私の剣は、何のために、ある)
(私は、何のために、戦ってる)
答えは、出なかった。
ただ、土間の土の冷たさと、頬の傷の痛みだけが、現実だった。
アルケーは、立ち上がった。
布に包んだ破片を、戸棚の上に、そっと置いた。
それから、竈に、火をくべ直した。
鉄瓶に、水を足す。
何事もなかったかのように、茶の支度を、始めた。
その背中は、相変わらず、静かだった。
シエラは、アルケーの背中を、じっと見つめた。
(この女は、私の、怒りを、受け止めて、流した)
(そして、今、また、茶を、淹れようとしてる)
(私に、茶を、飲ませるために)
(なぜだ)
(なぜ、この女は、私に、そこまで、優しくできる)
(私は、この女の、大事な、湯呑みを、壊したのに)
アルケーは、煎った茶葉を、急須に入れた。
湯を、注ぐ。
しゅう、と音がして、香りが、立ち上る。
「……はい。もう一杯、飲みな。気持ちが、落ち着くから」
アルケーは、新しい湯呑みに、茶を注いで、シエラに差し出した。
それは、昨夜、アルケーが、自分で使っていた方の湯呑みだった。
シエラは、しばらく、その湯呑みを見つめた。
(受け取れない)
(私には、この茶を、飲む資格が、ない)
(私は、一対の、片方を、壊した)
(もう、一対は、揃わない)
(なのに、この女は、残った片方で、私に、茶を、淹れた)
「……私は、いい」
シエラは、首を振った。
「遠慮しないで。君は、疲れてる。温かいものを、飲むといい」
アルケーは、湯呑みを、シエラの前に、置いた。
シエラは、それでも、手を、伸ばせなかった。
「……お前は、私を、恨まないのか」
シエラは、絞り出すように、聞いた。
アルケーは、首を傾げた。
「恨む? どうして」
「私が、お前の、大事な、湯呑みを、壊したからだ。テレシアから、貰った、一対の、片方を。お前は、それを、ずっと、大事にしてた。なのに、私は、感情に、任せて、壊した」
「……うん。確かに、それは、悲しいよ。でも、君を、恨んだりは、しない。君は、悪意があって、壊したんじゃない。君は、ただ、苦しくて、どうしようもなくて、壊したんだ。そうだろう」
シエラは、答えられなかった。
(そうだ)
(私は、苦しくて、どうしようもなくて、壊した)
(この女は、それを見抜いてる)
「……僕は、君の、その、苦しさを、知ってる。君は、一人で、戦ってきた。誰にも、頼れずに。誰にも、弱音を、吐けずに。それは、とても、辛いことだ。……僕には、分かる。僕も、一人で、ここで、暮らしてきたから」
アルケーは、自分の湯呑みに、茶を注いだ。
「でも、君は、僕とは、違う。君は、戦うことを、選んだ。守ることを、選んだ。それは、とても、強いことだ。……君は、自分で、思ってるより、ずっと、強い。ただ、今は、少し、疲れてるだけだ」
アルケーは、茶を、一口飲んだ。
「……だから、今日は、ゆっくり、休むといい。外は、いい天気だよ。村の子供たちが、木の実を、持ってきてくれるかもしれない。君も、一緒に、食べるといい」
シエラは、黙って、アルケーの言葉を、聞いていた。
(この女は、私を、責めない)
(私を、許してる)
(私の、苦しさを、理解してる)
(それが、私には、苦しい)
(私は、この女に、剣を向けるために、来た)
(なのに、この女は、私に、茶を、飲ませる)
(私は、この女の、優しさに、触れるたびに、自分の、醜さを、思い知る)
シエラは、ゆっくりと、湯呑みを、手に取った。
温かい。
茶の香りが、鼻を、くすぐる。
一口、飲んだ。
苦味と、渋みと、そして、かすかな甘みが、口の中に、広がる。
それは、この村の、秋の味だった。
「……美味い」
シエラは、小さく、そう言った。
アルケーは、微笑んだ。
「よかった。君に、そう言ってもらえて、嬉しいよ」
その微笑みは、穏やかで、温かかった。
シエラは、その微笑みを、直視できずに、視線を、湯呑みに落とした。
湯呑みの中の茶が、わずかに、揺れている。
(私は、この女の、優しさに、触れてしまった)
(触れてしまったら、もう、この女に、剣を向けることは、できない)
(私は、この女を、殺す手段として、見ていた)
(なのに、今は、この女の、優しさに、縋りそうになってる)
(私は、弱い)
(私は、白の魔女のくせに、弱い)
シエラは、茶を、飲み干した。
体の奥が、じわりと、温かくなる。
「……ごちそうさま」
シエラは、湯呑みを、木の盆の上に、置いた。
アルケーは、頷いた。
「うん。……君は、今日は、どうするんだい。村を、散歩してみるかい。僕が、案内するよ」
「……いや。しばらく、ここに、いさせてくれ」
「もちろんだよ。君は、僕の、妹だ。いつまででも、いればいい」
アルケーは、また、微笑んだ。
シエラは、何も言わずに、立ち上がった。
土間から、外に出る。
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