原初の魔女は王都を散歩する
剣と魔法が支配する大陸。人間の王都アルテミスは、魔女との守護契約によって外敵から守られている。魔女は人間や他種族には殺せない――同族の魔女にしか。だが、原初の魔女テレシアだけは例外だった。彼女が生み出した魔女は、誰一人として彼女を傷つけられない。
白の魔女シエラは二十歳。人間側についた、頑固で折れない守護者だ。ある夜、王都に近づく底知れない気配を感じ、シエラは単身で対峙する。相手は原初の魔女テレシア。シエラは知る限りの呪文をすべて解放し、全力で殺しにかかる。
しかしテレシアは、自分が生み出した魔女には傷つけられない。シエラの攻撃は届かない。絶望が胸を貫く。それでも彼女は、テレシアに刃を向け続けると宣言する。
ここまで読者は、シエラが主人公だと思う。だが第二話で視点はテレシアへ移る。本当の主軸は、王都に散歩に来ただけの原初の魔女なのだ。
無邪気な少女の姿で、テレシアは王都に降り立つ。使い魔のロードが丁寧な言葉で仕える。市場で人間の子供たちにお菓子を分け、パンの値段を交渉し、大道芸人に拍手を送る。彼女の種族にとって人間はおもちゃか駒程度に過ぎないが、その散歩は驚くほど穏やかだ。
原初の魔女は王都を散歩する - 母の顔、姉の顔
昼下がりの村は、静かだった。
風が、乾いた土の匂いを運んでくる。畑の畔に立つ枯れ木が、カサカサと音を立てた。秋の日差しは白く、影をくっきりと地面に落とす。
アルケーの家の軒先で、シエラは立ち尽くしていた。
白い外套の裾が、風に揺れる。白銀の長髪は、後ろで一本に束ねたまま。昨夜は一睡もできなかった。瞼の裏に焼きついて離れないのは、暗闇の中で聞いた、あの使い魔の声。
(テレシアが、来る)
(この村に。アルケーに会いに)
胸の奥で、冷たいものが静かに渦を巻いている。
昨夜、シエラは布団の中で、何度もルミナスに手を伸ばした。鞘に収まった聖剣の冷たい感触を確かめるたびに、指先が震えた。殺せない相手に剣を向ける愚かさを、誰よりも自分が知っている。それでも、剣を手放すことはできなかった。
(私は、白の魔女だ)
(王都を守る、守護者だ)
(テレシアは、敵だ)
その言葉を、頭の中で繰り返す。繰り返せば繰り返すほど、言葉は空っぽになっていく。
アルケーは、朝からずっと、家の中を掃除していた。
床を箒で掃き、棚の埃を払い、窓を開けて空気を入れ替える。昨夜の使い魔の知らせを受けてから、彼女の動きには一切の無駄がなかった。迎え入れる準備を、淡々と、しかし丁寧に進めている。
シエラは、その背中を見ていた。
(あの女は、知っていた)
(テレシアが来ることを、前から知っていた)
(私だけが、何も知らされていなかった)
その事実が、シエラの内側を、静かに、しかし確実に削っていく。
アルケーは、竈に火を入れ、湯を沸かし始めた。茶を淹れる準備だ。昨夜の使い魔に「お茶の準備をして待っている」と伝えてくれと頼んでいた。その言葉を、シエラは暗闇の中で聞いていた。
(あの女は、母を、歓迎する)
(剣を向ける相手を、心から)
シエラは、唇を噛んだ。
――――
村の入口に、影が二つ、現れた。
遠目にも分かる。一人は小さな影。肩までの茶色い髪が、風に揺れている。隣には、黒い髪の男。黒い服を着て、小さな影の半歩後ろを歩いている。
シエラの指先から、血の気が引いていく。
(来た)
心臓が、ゆっくりと、しかし重く脈打つ。
その時だった。
家の中から、乾いた音が響いた。
カチン。
陶器が、木の台に置かれる音。
振り返るより早く、アルケーが家の中から飛び出してきた。くすんだ亜麻色の髪を後ろで一つに結んだ、色褪せた生成りの服を着た女。その顔が、シエラの前を通り過ぎる瞬間、彼女は笑っていた。
シエラが見たことのない、笑顔だった。
「お母様……お母様!」
アルケーは、裸足のまま、土の道を駆け出した。
裾が乱れ、髪がほどけ、そんなことは一切構わずに、彼女は走った。子供のように、無防備に、全力で。
村の入口に立つ小さな影に向かって。
「お母様!」
アルケーは、テレシアに飛びついた。
勢いのまま、両腕を回して、小さな体を抱きしめる。テレシアの肩に顔を埋めて、何度も何度も「お母様」と繰り返した。
テレシアは、その衝撃に一歩もよろけなかった。
八百歳の始祖は、飛びついてきた娘の背中に、そっと手を回した。
「ただいま、アルケー」
テレシアの声は、柔らかかった。
シエラは、アルケーの家の軒先で、立ち尽くしていた。
足が、動かない。
指先が、冷たい。
(あれが、テレシアの、声)
王都で聞いた声と同じはずなのに、まるで違うものに聞こえた。
テレシアは、アルケーの髪を梳いた。
小さな手が、くすんだ亜麻色の髪を、ゆっくりと、何度も撫でる。その仕草は、驚くほど自然で、慣れていて、そして、温かかった。
「ちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。この村の芋は、甘くておいしいんだから」
「そう。それならいいけど」
テレシアは、アルケーの頬をつまんだ。
むに、と。
「いたたた。お母様、痛いってば」
「だって、ほっぺたがちょっとだけ柔らかくなってる気がするんだもの。面白いね」
アルケーは、困ったように笑った。
その笑顔は、シエラが昨日、茶を淹れてもらった時に見た微笑みとは、全く違う種類のものだった。
――――
ロードが、動いた。
黒い服を着た男は、テレシアとアルケーの再会を一瞥すると、そのまま、ゆっくりと歩き出した。
方向は、シエラのいる家の軒先。
シエラの背筋に、冷たいものが走る。
ロードは、シエラとテレシアの間に立つ位置で、足を止めた。
半歩前。
その距離が、何を意味するかは、明白だった。
ロードの手は、袖の下に隠れている。だが、シエラには分かった。魔力が、すでに練られている。黒い影のような力が、ロードの周囲で、ゆらりと揺れているように見えた。
(一歩でも動けば、排除される)
シエラは、ルミナスに手を伸ばしかけた。
指先が、鞘の冷たい金具に触れる。
――そこで、手が止まった。
(動けば、殺される)
(……いや、違う)
(動く意味が、ない)
シエラの足を縫い止めているのは、恐怖ではなかった。
動く理由を見出せないという、深い停滞。
剣を抜いたところで、テレシアには届かない。ロードを相手にしても、勝てる保証はない。それ以上に、今この瞬間、剣を抜くこと自体が、ひどく無意味な行為に思えた。
(私は、何をしに、ここに来た)
(テレシアを殺す手段を、探しに)
(だが、あの光景を見て、まだ剣を抜けるのか)
ロードは、シエラを一瞥した。
漆黒の瞳。光を吸い込むように深い、人ならざる目。
「……動かれないようで、何よりです」
ロードの声は、完全な丁寧語だった。
だが、その言葉の温度は、氷のように冷たい。
シエラは、ロードを睨み返した。
「……私を、警戒しているのか」
「当然です。あなたは、テレシア様に剣を向けた。それだけで、排除の理由としては十分です」
ロードの口調は、淡々としていた。
「ですが、テレシア様がお許しになっている。だから、私も手を出しません。今のところは」
「今のところは」
シエラは、ロードの言葉を繰り返した。
「ええ。今のところは」
ロードは、それ以上何も言わなかった。
ただ、半歩前に立ったまま、シエラとテレシアの間に、黒い壁のように存在し続けた。
その間も、ロードの視線は、一度もアルケーに向かわなかった。
警戒の対象は、シエラだけ。
アルケーは、ロードにとって「排除すべき相手」ではない。テレシアの娘であり、テレシアが心を許す存在。その対比が、シエラの孤立を、いやというほど際立たせた。
――――
テレシアが、シエラに気づいた。
アルケーの髪を梳いていた手を止めて、小さな体を、くるりとシエラの方に向ける。
大きな褐色の瞳が、シエラを捉えた。
「あ、シエラだ。久しぶりね」
テレシアは、笑った。
無邪気で、屈託のない、あの笑顔。
王都の城壁の上で、剣を構えるシエラに向かって、手を振った時の、あの笑顔。
「元気だった? また剣を向けに来たの?」
シエラは、答えられなかった。
喉が、張り付いたように動かない。
(久しぶりね、だと)
(元気だった、だと)
(また剣を向けに来たの、だと)
この女は、自分が何をしたのか、何を言ったのか、何も分かっていない。いや、分かっていて、それでも、こういう風にしか接することができないのだ。
「ねえ、シエラ。この村、面白いね。乾いてて、静かで、空が広い。王都よりずっと落ち着くよ」
テレシアは、シエラの返事を待たずに、話し続けた。
「アルケーがね、お茶を淹れてくれるんだって。楽しみだなあ。アルケーのお茶、久しぶり」
「お母様、茶葉はちゃんと煎ってあるよ。昨日のうちに準備したんだ」
「さすがアルケー。気が利くね」
テレシアは、アルケーの方を向いて、嬉しそうに笑った。
その笑顔の温度が、シエラに向けられた笑顔と、決定的に違う。
言葉にすれば、ほんのわずかな差。
だが、シエラには、はっきりと分かった。
テレシアがアルケーを見る目には、何かがある。
(あれは、親の目だ)
(娘を見る、母の目だ)
(私には、あんな目を、向けたことがない)
シエラの胸の奥で、何かが、ひび割れていく音がした。
――――
村人たちが、集まってきた。
井戸のそばにいた中年の女。薪を背負った老人。家の戸口から顔を出していた子供たち。彼らは、物珍しそうに、テレシアとロードの姿を遠巻きに眺めていた。
「おや、アルケー。お客さんかい?」
最初に声をかけたのは、井戸のそばにいた中年の女だった。
アルケーは、テレシアの手を握ったまま、村人たちの方に向き直った。
「うん。親戚の子が、遊びに来てくれたんだ。しばらく、この村に滞在すると思うから、みんな、仲良くしてあげて」
アルケーの声は、いつも通り穏やかだった。
「へえ、親戚の子か。可愛らしい子だねえ。お名前は?」
薪を背負った老人が、しわがれた声で尋ねた。
「テレシアだよ。よろしくね、おじいさん」
テレシアは、老人に向かって、にこりと笑った。
「ほう、テレシアちゃんか。元気な子だ。アルケーに似て、可愛いねえ」
老人は、目を細めて笑った。
「おじいさん、この村には何があるの? 面白いものはある?」
「面白いもの? 何にもないよ。芋と、井戸と、あと……そうだな、秋になると、裏山に栗が落ちてるくらいかな」
「栗! 面白いね。アルケー、栗って食べられるの?」
「食べられるよ。渋皮を剥いて、茹でると、ほくほくして甘いんだ」
「じゃあ、今度、拾いに行こう。ね、アルケー」
「ふふ、いいよ。お母様が行きたいなら」
アルケーは、テレシアの手を握ったまま、優しく笑った。
村人たちは、そんな二人を、微笑ましそうに見ていた。
「いいねえ。アルケーも、たまには誰かと一緒の方がいい」
「ほんとほんと。いつも一人で、あの家にこもってるからなあ」
村人たちの輪が、自然にできあがっていく。
テレシアを中心に、アルケーを中心に、温かな空気が流れていた。
シエラは、その輪の外にいた。
――――
「……あの白い服の人は、誰だい?」
若い男の村人が、隣の女に、小声で尋ねた。
「さあ……昨日から、アルケーの家にいるみたいだけど」
「親戚の子の、さらに連れか? でも、なんだか、雰囲気が違うというか……」
「分からないよ。アルケーに聞いても、はっきり言わないし」
村人たちの視線が、ちらちらとシエラに向けられる。
好奇の目。困惑の目。そして、ほんの少しの、警戒。
シエラは、彼らが自分をどう扱えばいいのか分からずにいることを、肌で感じた。
テレシアは「親戚の子」として、自然に受け入れられた。
ロードは「その連れ」として、黙って立っているだけで、村人たちは特に気にしていない。
だが、シエラは。
白い外套を着た、よそ者の魔女は。
どこにも、分類されなかった。
「……私は」
シエラは、口を開いた。
何か言わなければ。そう思った。
だが、言葉が続かない。
(私は、何だ)
(アルケーの、何だ)
(テレシアの、何だ)
答えは、どこにもなかった。
シエラは、唇を閉じた。
村人たちの視線が、痛い。
――――
「さあ、お母様。家に入って。お茶を淹れるから」
アルケーが、テレシアの手を引いて、家の方へ歩き出した。
「うん。楽しみだなあ」
テレシアは、アルケーに手を引かれながら、無邪気に笑った。
ロードが、その後ろに続く。
シエラの横を通り過ぎる時、ロードは、ほんの一瞬だけ、シエラを見た。
「……あなたも、どうぞ。テレシア様が、お許しですから」
ロードは、それだけ言って、テレシアの後を追った。
シエラは、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
風が、白い外套の裾を、乱暴に揺らす。
(私は、入っていいのか)
(あの家に。あの二人の、空間に)
シエラは、ゆっくりと、足を踏み出した。
――――
家の中は、茶の香りで満ちていた。
アルケーが、手際よく茶を淹れていく。煎った茶葉を急須に入れ、沸かした湯を注ぐ。しゅう、という音とともに、立ち上る湯気。
テレシアは、土間の竈の前にちょこんと座って、アルケーの手元を眺めていた。
「アルケー、その急須、まだ使ってるんだね」
「うん。お母様がくれたものだから、大事に使ってるよ」
「もう何年になるかなあ。まだ割れてないんだ。すごいね」
「割らないよ。お母様からのものだもの」
アルケーの声は、優しかった。
シエラは、土間の隅に立って、その光景を見ていた。
(あの急須も、テレシアからの贈り物か)
(湯呑みも、テレシアからの贈り物だった)
(あの家には、テレシアの痕跡が、あちこちにある)
昨日、シエラが割った湯呑み。
白い陶器に、藍色の細い線が一本。
あれも、テレシアから貰ったものだと言っていた。
(私は、あの湯呑みを、割った)
(母から貰ったものを、姉の前で)
シエラは、無意識に、自分の右手を見た。
あの時、湯呑みを床に叩きつけた手。
指先が、まだ、わずかに震えている。
――――
「はい、お母様。熱いから、気をつけて」
アルケーは、テレシアに湯呑みを差し出した。
「ありがとう。……ああ、この香り。懐かしいなあ」
テレシアは、湯呑みを両手で包み込むように持って、香りを楽しんだ。
「お母様が好きな、山の茶葉だよ。秋の終わりに、裏山で摘んだんだ」
「そう。アルケーは、いつも私の好きなものを覚えててくれるね。面白いね」
「当たり前だよ。お母様のことだもの」
アルケーは、テレシアの隣に座った。
二人の距離は、とても近い。
肩が触れ合いそうなほど。
シエラは、その距離を、遠くから見ていた。
(あの二人の間には、私の入る隙間がない)
(私が、あの輪に入ることは、できない)
アルケーは、もう一つの湯呑みに茶を注いだ。
それを持って、シエラの方に近づいてくる。
「シエラ。君も、どうぞ」
アルケーは、シエラに湯呑みを差し出した。
シエラは、黙って、それを受け取った。
湯呑みの温かさが、冷え切った指先に、じわりと染みる。
「そこに座るといい。床は冷えるから、敷物の上に」
アルケーは、土間の隅に敷かれた古い敷物を指さした。
シエラは、言われた通り、敷物の上に腰を下ろした。
テレシアとアルケーのいる場所からは、少し離れた位置。
その距離が、今のシエラの立ち位置を、そのまま表していた。
――――
「ねえ、シエラ。君は、どうしてこの村に来たの?」
テレシアが、湯呑みを口元に運びながら、何気ない口調で尋ねた。
シエラの手が、ぴくりと止まる。
「王都は、もう飽きちゃった? それとも、アルケーに会いに来たの?」
「……お前を、殺す手段を探しに来た」
シエラは、低い声で答えた。
隠すことでもない。
テレシアは、きょとんとした顔をした。
「ふうん。まだ、私を殺したいんだ。面白いね」
「当たり前だ。お前は、私の敵だ」
「敵。そっか。シエラにとっては、そうなんだね」
テレシアは、特に気にした様子もなく、茶を一口すすった。
「でも、今はお茶の時間だから、殺すのは後にしてね。アルケーのお茶、冷めちゃうから」
シエラは、言葉を失った。
(この女は、私が剣を向けると宣言しても、茶をすすって、冷めちゃうから、だと)
(どこまで、私を、取るに足らない存在として扱えば気が済む)
シエラは、湯呑みを握る手に、力を込めた。
白い陶器が、みしりと音を立てる。
「シエラ、湯呑み、割れちゃうよ」
アルケーの静かな声が、シエラの手を止めた。
「……それは、君にあげたものだから、君が割っても構わないけど。でも、お茶がこぼれたら、床が濡れるから」
シエラは、手の力を抜いた。
(この姉は、本当に、何もかも見透かしている)
(私の苛立ちも、焦りも、全部)
シエラは、茶を一口含んだ。
苦い。
いや、苦いのは、茶のせいだけではない。
――――
夕暮れが近づいていた。
西の空が、橙色に染まり始める。村の家々の影が、長く伸びていく。
テレシアは、アルケーと一緒に、井戸端に立っていた。
「アルケー、水汲みって、どうやるの?」
「この桶を、井戸に落として、引き上げるんだよ。やってみる?」
「うん、やってみたい!」
テレシアは、アルケーから桶を受け取ると、井戸の中に落とした。
ざぶん、と水音。
「あ、重い。これ、水が入ると重いんだね」
「ふふ、そうだよ。腰を入れて、ゆっくり引き上げるんだ」
アルケーが、テレシアの後ろから、桶を引き上げるロープに手を添える。
二人の手が、重なる。
「できた! アルケー、見て、水が汲めたよ!」
「上手だね、お母様。飲んでみる? この井戸の水は、冷たくておいしいよ」
「うん!」
テレシアは、桶の水を、両手ですくって飲んだ。
「冷たい! おいしい! この村の水は、甘いね」
「でしょ。この村の自慢は、この井戸水と、秋の栗だけなんだ」
「十分だよ。面白い村だ」
テレシアは、嬉しそうに笑った。
アルケーも、笑った。
シエラは、アルケーの家の軒先から、その光景を、遠くから見つめていた。
夕暮れの光が、二人の影を、長く、長く、地面に伸ばしている。
井戸端で、水を汲む二人。
母と、娘。
笑い合う、二人。
(あの二人の間に流れている時間は)
(どんなに手を伸ばしても、決して、立ち入れない)
シエラは、そう理解し始めていた。
(私が、この村に来た理由)
(同族の魔女に会えば、何かが変わる)
(テレシアを殺す、手がかりが、見つかる)
(そう、期待していた)
(だが)
シエラは、夕暮れの空を見上げた。
橙色の光が、灰色の瞳に映る。
(あの二人の間には、私の入る隙間が、ない)
(剣を向ける相手が、ただの母と娘として、笑っている)
(あんな顔をされると、私は、何もできなくなる)
(剣を、抜けなくなる)
シエラの胸の奥で、何かが、ゆっくりと、崩れていく。
音もなく、静かに。
――――
夜が来た。
村は、深い闇に包まれた。
アルケーの家では、テレシアが、アルケーの隣で眠っていた。
ロードは、家の外の木の下で、立ったまま目を閉じている。
シエラは、家の隅の、自分の布団に横たわっていた。
右手には、聖剣ルミナス。
鞘に収まったままの、白い剣を、胸に抱きしめるようにして、握っている。
(眠れない)
(眠れるわけがない)
(テレシアが、隣の部屋で、眠っている)
(あの女が、この家で、眠っている)
シエラは、目を閉じた。
だが、瞼の裏に浮かぶのは、夕暮れの井戸端の光景。
笑い合う、母と娘の、後ろ姿。
(私は、あの二人の、何だ)
(テレシアの娘でありながら、あの輪に入れない、何だ)
(アルケーは、私を妹のように見ると言った)
(だが、テレシアは、私を、どう見ている)
(敵? 玩具? それとも、ただの、退屈しのぎ?)
答えは、どこにもなかった。
シエラは、ルミナスを握る手に、力を込めた。
鞘の冷たい感触が、掌に食い込む。
(それでも、私は、剣を握る)
(握らずには、いられない)
(これが、私の、戦い方だから)
胸の内側で、何かが崩れていく音が、聞こえる。
それは、自分がこの村に来た理由が、音を立てて崩れていく音だった。
(同族の魔女に会えば、何かが変わる)
(その期待が、間違いだったと、今、分かった)
(何も、変わらない)
(私は、どこに行っても、何をしても、あの輪には、入れない)
シエラは、唇を噛んだ。
血の味が、口の中に広がる。
夜が、更けていく。
眠れないまま、時間だけが、過ぎていく。
――――
朝が来た。
窓から差し込む光が、シエラの顔を照らす。
一睡もできなかった。
目は、乾いて、痛い。
体は、鉛のように重い。
シエラは、ゆっくりと身を起こした。
ルミナスを、握ったまま。
家の中から、かすかな音が聞こえる。
竈の火の音。湯が沸く音。茶の香り。
アルケーが、朝の準備をしている。
テレシアの声も、聞こえた。
「おはよう、アルケー。今日もいい天気だね」
「おはよう、お母様。よく眠れた?」
「うん、ぐっすり。アルケーの布団、あったかくて気持ちよかったよ」
「よかった。朝ごはん、芋を蒸してあるから、食べよう」
二人の会話が、壁越しに、聞こえてくる。
シエラは、布団の上で、しばらく動けなかった。
(ここにいても、何も変わらない)
(それは、もう、分かっている)
(だが、ここを離れても、行く場所がない)
(王都に帰るのか? 守護契約の元に?)
(テレシアを殺す手段も見つからず、何も得られず?)
シエラは、立ち上がった。
ルミナスを、背中に背負う。
白い外套を、羽織る。
――――
家の外に出ると、村人たちが、井戸端で話をしていた。
「アルケーの親戚の子、可愛い子だったねえ」
「ああ、あの子、しばらくこの村にいるんだってよ。アルケーが言ってた」
「そりゃあ、アルケーも嬉しいだろう。ずっと一人だったからなあ」
村人たちは、テレシアの話題で持ちきりだった。
シエラは、その会話を、聞くともなく聞いていた。
「あ、そういえば、あの白い服の人は、どうするんだろうね」
「さあ。アルケーに聞いたけど、何も言わなかったよ」
「親戚の子の連れってわけでもなさそうだし、なんだか、微妙な立場だよなあ」
村人たちの声が、シエラの耳に届く。
聞こえよがしではなく、本当に、何気ない会話。
だが、その何気なさが、シエラの心を、深く刺した。
(私は、この村で、何者でもない)
(よそ者で、部外者で、微妙な立場の、白い服の女)
シエラは、村の入口の方へ、足を向けた。
――――
その時だった。
「あ、シエラさん、おはよう。聞いた? テレシアちゃん、この村に、しばらく滞在するんだって」
若い男の村人が、シエラに声をかけてきた。
シエラは、足を止めた。
「……滞在する」
「そうそう。アルケーが言ってたよ。親戚の子が、しばらく、ここで暮らすって。良かったよなあ、アルケーも、寂しくなくて」
村人は、無邪気に笑った。
シエラは、その笑顔を、じっと見た。
(テレシアが、この村に、滞在する)
(あの女が、ここに、留まる)
(アルケーの、そばに)
シエラの中で、何かが、確信に変わった。
(ここにいても、何も変わらない)
(テレシアは、アルケーと、母娘の時間を、続ける)
(私は、その外側で、剣を握り続けるだけ)
(それで、いいのか)
(それで、本当に、いいのか)
答えは、まだ、出ない。
だが、一つのことだけは、はっきりと分かった。
(私は、この村に、いてはいけない)
(あの二人の、母と娘の、時間の、邪魔をしてはいけない)
(それは、剣を向けることよりも、もっと、許されないことのように思えた)
シエラは、村の入口に向かって、歩き出した。
風が、白銀の髪を、乱暴に揺らす。
秋の空は、高く、青く、どこまでも澄んでいた。
王都の空も、今日は、静かに晴れているだろう。
だが、テレシアの散歩は、まだ終わらない。
彼女が本当に見たいものは、まだ、どこにも現れていない。
シエラは、それでも、歩き出した。
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