ヴァルガムナ
異世界に迷い込んだ高校生・沢木誠と端沙ひかりは、銀髪のエルフ戦士ジルフレイに導かれ、辺境の村オストヴェルンへと辿り着く。温かい歓迎、湯気立つ羊肉の煮込み、焚き火を囲む村人たちの歌——だがその笑顔は、声は、あまりにも揃いすぎていた。二重に施錠された納屋、消えた旅人の痕跡、夜通し続く規則的な足音。何もするな、と告げるジルフレイの静かな警告の裏で、誠の胸に小さな警鐘が鳴り響く。善意の仮面の下に潜む違和感が、穏やかな夜をじわりと蝕んでいく。これは、まだ何も起きていない物語。だからこそ、目を逸らせない。
ヴァルガムナ - 湯けむりのぬくもりと森の長
街道の土が、少しずつ湿り気を帯びてきた。
沢木誠は、足の裏から伝わる感触の変化に気づいた。モーリスの町を出てから半日ほど。大森林ヴェルディアの麓に近づくにつれて、空気が変わっていく。乾いた土と麦の匂いが薄れて、代わりに、どこか青く湿った木々の香りが漂い始めていた。
「ねえ、あれ、湯気じゃない?」
ひかりが、肩までの栗色の髪を揺らして、街道の先を指さした。彼女の明るい茶色の瞳が、好奇心でくるくると輝いている。
誠も、目を凝らした。
遠くの木々の合間から、白い靄のようなものが、ゆらゆらと立ち上っている。あれは、湯気だ。
「本当だ。……すごい、山の麓から湯気が上がってる」
「ルーメン湯泉郷だよ」
先頭を歩くジルフレイ・アミュライト・マウリーが、振り返らずに言った。腰まで届く銀の髪が、湿った風に流れて、白くきらめいている。
「大森林ヴェルディアの麓にある温泉地だ。マナ濃度が低くて、魔法の疲れを癒すのに向いている。旅人や湯治客がよく立ち寄る場所だよ」
「温泉……!」
誠の声が、思わず弾んだ。
この世界に来てから、まともな風呂に入った記憶がない。川の水で体を拭いたり、宿の桶で簡単に済ませたり。オストヴェルンの村では、それどころではなかった。モーリスの宿でさえ、風呂は小さな桶だけだった。
「やった、温泉だ! ねえ、ジルフレイさん、あそこって、ちゃんと湯に浸かれるやつですか?」
誠が、ジルフレイの背中に駆け寄って聞いた。
「ああ。共同浴場が三つある。源泉は二つで、湯温は四十二度と三十八度。宿も五軒あるから、今日はゆっくりできるよ」
ジルフレイの声は、いつも通り淡々としていた。だが、その口調には、ほんの少しだけ、誠たちを気遣うような柔らかさがあった。
「やったぁ!」
ひかりが、小さく飛び跳ねた。毛先が跳ねて、栗色の髪がふわりと揺れる。
「あたし、もうずっとお風呂入りたかったんだよね。髪も体も、なんだかベタベタしてて気持ち悪くて」
「分かる。僕も、もう限界だった」
誠は、自分の腕の匂いをかいで、少し顔をしかめた。七日間の野宿と、その後の宿での桶風呂だけでは、体の奥に染みついた疲れと汚れは落ちきらない。
「お前さんたち、そんなにはしゃぐと、湯に浸かる前に疲れるよ」
ジルフレイが、ちらりと二人を振り返った。青みがかった澄んだ瞳が、午後の光の中で、静かに光っている。その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
「だって、温泉ですよ! ジルフレイさんは嬉しくないんですか?」
誠が聞くと、ジルフレイは、少しだけ考えるように首を傾げた。
「……嬉しくない、とは言わないよ。私も、久しぶりに湯に浸かれるのは、悪くないと思っている」
「じゃあ、嬉しいってことで!」
ひかりが、にこっと笑った。笑うと、左の頬に小さなえくぼが浮かぶ。
「そういうことになるのかな」
ジルフレイは、そう言って、また前を向いた。
誠は、彼女の背中を見ながら、思った。
(ジルフレイさん、最近、少しだけ表情が柔らかくなった気がする)
オストヴェルンの夜から、十日以上が経っていた。あの村が王国軍に鎮圧されたという噂を聞いてからも、数日。誠の心には、まだ、あの夜の血の匂いと、カザルの最期の言葉が残っている。
「村が生きるためだ。悪く思うなよ」
あの言葉を思い出すたびに、胸の奥が、ずしりと重くなる。
でも、今は。
(今は、少しだけ、休める)
温泉の湯気が、誠の心の重さを、ほんの少しだけ軽くしてくれている気がした。
―――――
ルーメン湯泉郷は、想像していたより、ずっと小さな集落だった。
木造の宿が五軒、石造りの共同浴場が三つ。あとは、小さな雑貨屋と、湯治客向けの薬草売りの店が数軒並んでいるだけ。人口八百人というのも、なるほど、とうなずける規模だった。
だが、空気が、とても良い。
大森林ヴェルディアから流れてくる、清冽な木々の香り。湯けむりに含まれる、ほのかな硫黄の匂い。そして、どこからか聞こえてくる、湯の流れる音。
「ここ、なんだか、時間がゆっくり流れてるみたい」
ひかりが、集落の中をきょろきょろと見回しながら言った。
「ああ。マナ濃度が低いから、体も心も、自然と弛むんだよ。ここに来る魔法使いは、みんな、そう言う」
「マナ濃度が低いと、なんで弛むんですか?」
誠が聞いた。
「マナっていうのは、大気中のエネルギーのことだ。魔法を使う者は、無意識のうちに、そのエネルギーと常に触れ合っている。だが、ここは、そのマナが少ない。だから、魔法使いの体は、久しぶりに『何も感じない』状態になれる。それが、弛みにつながるのさ」
「へえ……じゃあ、ジルフレイさんも、今、弛んでるんですか?」
誠の質問に、ジルフレイは、少しだけ間を置いた。
「……さあ、どうかな」
その声は、どこか、はぐらかすような響きだった。
三人は、集落の中でも一番古いという宿「山猫の宿」に荷物を置いた。一泊六ゴールドの、こぢんまりとした宿だ。木の香りがする廊下と、少し傾いた階段。部屋は二階に三つ。窓からは、湯けむりに煙る山の景色が見えた。
「じゃあ、私は先に湯に行くよ。お前さんたちは、好きな時間に来なさい」
ジルフレイが、着替えを手に部屋を出ていった。
誠とひかりは、しばらく部屋で荷物を整理してから、二人で共同浴場へ向かった。
―――――
共同浴場は、石造りの古い建物だった。
入り口の暖簾をくぐると、脱衣所には、湯治客らしき老人が二人ほど。あとは、誰もいない。夕方前の、ちょうど空いている時間帯なのだろう。
誠は、手早く服を脱いで、浴場の扉を開けた。
ぶわっと、熱い湯気が、顔全体を包み込む。
視界が、一瞬、真っ白になった。
(うわ……)
目を細めると、湯気の向こうに、大きな岩風呂が見えた。湯は、わずかに白濁していて、湯面からは、とろりとした湯けむりが、絶え間なく立ち上っている。
「すごい……」
誠は、思わず声を漏らした。
「誠、早く入ろうよ。あたし、もう限界」
ひかりが、後ろから、ぽんっと誠の背中を押した。
「わっ、ちょっと、押すなよ」
「だって、あんたが突っ立ってるからでしょ。ほら、行くよ」
ひかりは、そう言って、湯船の縁まで歩いていくと、ゆっくりと湯に足を入れた。
「あ……気持ちいい……」
ひかりの声が、とろけるように柔らかくなる。
誠も、彼女に続いて、湯に足を踏み入れた。
熱い。
でも、その熱さが、足の先から、じわじわと体の芯に染み込んでいく。固くなっていた筋肉が、ほどけていく。オストヴェルンの夜からずっと、張り詰めていた何かが、音を立てて崩れていく。
「……あー……」
誠は、湯船に肩まで浸かって、天井を見上げた。
木の梁が、湯気に濡れて、しっとりと光っている。
「これ、やばい。体が溶けそう」
「でしょ? あたし、もう一生ここにいたいかも」
ひかりが、湯の中で、うっとりと目を細めた。
―――――
しばらくして、誠とひかりが、湯船の端に並んで浸かっていると、脱衣所の方から、足音が聞こえた。
「お、誰か来た」
誠が、そちらを見ると、湯気の向こうから、銀色の髪が、ふわりと揺れた。
「……ジルフレイさん?」
誠は、どきりとした。
湯けむりの中から現れたのは、ジルフレイだった。腰まで届く銀の髪を、高い位置で一つに束ねている。普段は深緑の外套に隠れている体は、薄い湯帷子をまとっているだけで、白い肌が、湯気の向こうに透けて見えた。
(え、ちょっと、待って)
誠は、慌てて視線を逸らした。
心臓が、ばくばくと音を立てている。
ジルフレイは、誠とひかりに気づくと、軽く片手を上げた。
「先に入ってたのか。湯加減はどうだい?」
「あ、はい、最高です……!」
誠の声が、裏返った。
「なによ、誠、声おかしいわよ」
ひかりが、隣から、じろりと誠を見た。
「お、おかしくないだろ。普通だよ」
「普通じゃないわよ。あんた、顔も赤いし。のぼせたんじゃない?」
「の、のぼせてない! これは、その、湯が熱いだけで……」
誠は、湯の中に、口元まで沈めた。
ジルフレイは、そんな誠の様子を、ちらりと見て、小さく息を吐いた。
「無理するなよ。のぼせると、後で動けなくなる」
ジルフレイは、そう言って、湯船の端、誠たちから少し離れた場所に、ゆっくりと体を沈めた。
「はぁ……」
ジルフレイの口から、小さな吐息が漏れた。
その声が、いつもの淡々とした彼女のものとは、少しだけ違って聞こえた。
(ジルフレイさん、今、すごく気持ちよさそうな顔してる)
誠は、湯気の向こうのジルフレイを、そっと盗み見た。
彼女は、岩に背を預けて、目を閉じていた。長い銀の髪が、湯面に浮かんで、白く広がっている。湯けむりに濡れた肌が、しっとりと光っていた。
(……やばい。見ちゃいけない気がする)
誠は、再び、視線を湯面に落とした。
心臓の音が、うるさい。
―――――
「ねえ、ジルフレイさん」
ひかりが、湯の中で、ジルフレイの方に体を向けた。
「なんだい?」
ジルフレイが、目を開けずに答える。
「ジルフレイさんって、普段、どんな依頼を受けてるの? あたしたち、この世界のこと、まだ全然分かってなくて。ジルフレイさんが、どんなことをしてるのか、知りたいなって」
ひかりの声は、素直で、明るかった。
ジルフレイは、少しだけ間を置いてから、口を開いた。
「そうだな……モンスターの討伐が、一番多い。あとは、護衛、薬草の採取、遺跡の調査。この辺りは、大森林ヴェルディアが近いから、モンスター関連の依頼が、特に多いよ」
「モンスター討伐って、やっぱり、危ないんですか?」
誠が、湯の中で、おずおずと聞いた。
「危ない。命のやり取りだ。だが、それが仕事だ。この世界で、冒険者として生きるということは、そういうことだよ」
ジルフレイの声は、淡々としていた。
だが、その言葉には、長い時間をかけて、この世界で生き抜いてきた者の重みがあった。
「ジルフレイさんは、どうして冒険者になったんですか?」
誠が、聞いた。
ジルフレイは、少しだけ、黙った。
「……生きるためだよ。それ以外に、理由はない」
「生きるため……」
誠は、その言葉を、ゆっくりと噛みしめた。
オストヴェルンの村で、ジルフレイが言っていた言葉が、重なる。
『この世界では、正しさも悪意も、ただの飾りだ。生きるために、人は、人を食う』
(ジルフレイさんも、この世界で、生きるために、戦ってきたんだ)
誠は、湯の中で、自分の手を見た。
まだ、何も握っていない、少年の手。
「……あのさ、ジルフレイさん」
ひかりが、少しだけ、声を潜めた。
「あたしたち、この世界のことを、もっと知りたい。ジルフレイさんが、これまで、どんな風に生きてきたのかも。……あたしたち、ジルフレイさんのこと、まだ、名前と、すごく強いってことしか知らないから」
ひかりの言葉に、ジルフレイは、ゆっくりと目を開けた。
青みがかった瞳が、湯けむりの向こうで、ひかりを見つめる。
「……私のことは、大した話じゃないよ。退屈するだけだ」
「退屈でもいい。あたし、知りたいの」
ひかりが、真っ直ぐに、ジルフレイを見返した。
その目は、いつものからかうような光ではなく、真剣なものだった。
ジルフレイは、少しだけ、ひかりの目を見つめてから、ふっと息を吐いた。
「……そうだな。いつか、話すこともあるかもしれない。だが、今は、まだ、いい」
「……うん。分かった。あたし、待ってる」
ひかりが、にこっと笑った。
誠は、二人のやり取りを、静かに見ていた。
(ひかりは、すごいな)
誠には、あんな風に、真っ直ぐにジルフレイに気持ちを伝えることは、まだ、できなかった。
―――――
「ねえ、ジルフレイさん、あたしたちの世界の話、聞いてみる?」
ひかりが、少しだけ、いたずらっぽい笑顔で言った。
「……お前さんたちの世界の話?」
ジルフレイが、わずかに、眉を動かした。
「そう。あたしたち、こことは全然違う世界から来たんだよ。学校があって、電車があって、コンビニがあって。魔法なんて、物語の中にしかなかった」
「電車? コンビニ?」
ジルフレイが、首を傾げた。
「電車は、鉄の箱が、線路の上を、すごい速さで走る乗り物。コンビニは、食べ物とか、日用品とか、何でも売ってる、小さなお店。二十四時間、ずっと開いてるの」
「二十四時間、ずっと?」
ジルフレイの青みがかった瞳が、わずかに、大きく開いた。
「そう。夜中でも、明け方でも、いつでも行けるの。お腹が空いたら、いつでも食べ物が買えるんだよ」
「……それは、便利なのか、不便なのか、よく分からないな」
ジルフレイが、少しだけ、困ったような顔をした。
「便利なんだよ。あと、スマホっていう、小さな機械があってね。それで、遠くの人と、すぐに話ができるの。文字を送ったり、写真を見せたり」
「遠くの人と、すぐに……?」
ジルフレイの目が、さらに、大きく開いた。
「うん。この世界でいうと、伝令とか、手紙とか、そういうのが、一瞬でできちゃうの」
「一瞬で……」
ジルフレイが、呟いた。
その声には、普段の淡々とした響きではなく、明らかな興味が、滲んでいた。
「……それは、すごいな」
ジルフレイが、そう言って、少しだけ、口元を緩めた。
誠は、その瞬間を、はっきりと見た。
ジルフレイが、湯の中で、少年のように、目を輝かせていた。
(ジルフレイさんが、こんな顔をするなんて)
誠の胸の奥が、じわりと温かくなった。
「ねえ、誠、あんたも、何か話してあげなよ。ジルフレイさん、すごく興味持ってくれてるじゃん」
ひかりが、誠の腕を、つんっと突いた。
「え、僕? そうだな……あ、そうだ、自転車って、知ってますか?」
「自転車?」
「二つの車輪がついた、人が乗る乗り物です。ペダルを漕ぐと、前に進むんです。馬がいなくても、自分の力で、速く走れる」
「馬がいなくても……自分の力で……」
ジルフレイが、また、目を輝かせた。
「へえ……お前さんたちの世界には、面白いものが、たくさんあるんだな」
ジルフレイの声が、少しだけ、弾んでいた。
「そうなんです。あ、あと、飛行機っていって、空を飛ぶ乗り物もあるんですよ。何百人も乗せて、雲の上を飛ぶんです」
「空を飛ぶ……」
ジルフレイが、天井を見上げた。
「この世界では、空を飛ぶには、相当な魔法の使い手でないと、できない。……それが、何百人も乗せて、飛ぶのか」
「はい。僕たちの世界では、魔法がなくても、そういうことができるんです」
「……面白いな。お前さんたちの世界は」
ジルフレイが、ふっと微笑んだ。
その微笑みは、本当に、珍しいものだった。
(ああ、この人、こんな風に笑うんだ)
誠は、胸の奥で、何かが、とくん、と跳ねるのを感じた。
―――――
「ちょっと、誠」
ひかりが、突然、誠の耳元で、低い声を出した。
「え、なに?」
誠が、振り返ると、ひかりの顔が、すぐそこにあった。
「あんた、さっきから、ジルフレイさんばっかり見てるでしょ」
ひかりの声は、わざと、冷たいものだった。
「み、見てないよ。別に、普通に話してただけだろ」
「見てたわよ。あんた、ジルフレイさんが笑った瞬間、すっごい顔してた」
「すっごい顔って、どんな顔だよ」
「間抜けな顔」
ひかりが、ぴしゃりと言った。
「なっ……間抜けって、ひどくない?」
「事実でしょ。ほら、今も、ちょっと赤くなってるし」
ひかりが、誠の頬を、指でつついた。
「やめろよ。湯のせいだって」
誠が、ひかりの手を、慌てて払いのけた。
「ふーん。まあ、いいけど。あんたが、誰を見ようと、あたしには関係ないし」
ひかりは、そう言って、ぷいっと横を向いた。
だが、その頬は、ほんの少しだけ、膨らんでいた。
誠は、そんなひかりの横顔を見て、思わず、小さく笑った。
(なんだよ、それ)
ひかりの、分かりやすい反応が、おかしかった。
―――――
その時だった。
「あらあら」
湯けむりの向こうから、鈴のような声が、響いた。
誠は、びくりと肩を震わせた。
(今の声、誰?)
三人の他に、浴場には、誰もいなかったはずだ。
いや、違う。
湯気の奥から、ゆっくりと、人影が近づいてくる。
「三人で、仲良く湯に浸かって、何を話してるのかしら。お姉ちゃんも、混ぜてほしいわ」
湯けむりを割って、現れたのは、一人のエルフの女性だった。
金色の髪。
ボリュームのあるウェーブのかかった、腰まである金髪が、湯気に濡れて、しっとりと輝いている。碧い瞳は、好奇心に満ちて、くるくると動いていた。程よく肉付きのある、グラマラスなプロポーション。
(え、誰、この人……)
誠は、思わず、息を止めた。
「あら、ごめんなさいね。急に声をかけて、驚かせてしまったかしら」
その女性は、誠たちに、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、不思議な温かさに満ちていた。
「私はミレーネス。ミレーネス・アミュライト・ノゥラ。ここから少し離れた、大森林ヴェルディアのエルフ集落『ノゥラの環』の長をしているの。今日は、たまたま、湯治に来ていてね」
「エルフ集落の……長……」
誠が、呆然と呟いた。
「そうよ。それで、あなたたち、とっても楽しそうだったから、つい、声をかけちゃった。ねえ、よかったら、私も、お話に混ぜてくれない?」
ミレーネスは、そう言って、湯船の縁に、ゆっくりと腰を下ろした。
「あ、はい、もちろん……」
誠は、わけも分からず、頷いていた。
「ありがとう。嬉しいわ」
ミレーネスが、また、にこりと笑った。
その笑顔には、圧倒的な慈愛と、母性があった。
(なんだろう、この人……すごく、安心する)
誠は、肩の力が、自然と抜けていくのを感じた。
―――――
「それで、あなたたちは、どこから来たの? 見たところ、旅人さんみたいだけど」
ミレーネスが、誠とひかりを、交互に見ながら聞いた。
「あたしたち、モーリスの町から来ました。それで、ここで、少し休もうって」
ひかりが、答えた。
「モーリスから? それは、遠かったでしょう。街道は、安全だった?」
「はい。おかげさまで、特に何もなく」
「よかったわ。この辺りは、大森林が近いから、モンスターが出ることもあるの。気をつけてね」
ミレーネスの声は、どこまでも柔らかく、優しかった。
「あの、ミレーネスさんは、エルフの集落の長をしてるって、どういうことなんですか? エルフの人って、森の外には、あんまり出てこないって聞いたんですけど」
誠が、おずおずと聞いた。
「あら、よく知ってるわね。そう、エルフは、基本的には、森の外に出ないの。でも、私は、昔、森守っていう、森の外から来る者を監視する役職をやってたから、外の世界にも、慣れてるのよ。それに、この湯泉郷は、マナが低くて、体が休まるから、時々、こうして来てるの」
「森守……」
誠は、その言葉を、心の中で繰り返した。
(ジルフレイさんも、昔、森守だったって、どこかで……)
いや、ジルフレイの過去については、まだ、ほとんど何も知らない。
「それで、あなたたちの、お連れの方は?」
ミレーネスが、湯船の端にいるジルフレイに、視線を向けた。
「あ、彼女は、ジルフレイさんって言って……」
誠が、言いかけた時だった。
「ジルフレイ」
ジルフレイが、静かに、自分の名を言った。
「ジルフレイ・アミュライト・マウリーだ」
ジルフレイの声は、いつも通り、淡々としていた。
ミレーネスは、その名前を聞くと、ふわりと微笑んだ。
「アミュライト? 奇遇ねえ」
その一言。
湯けむりの中で、空気が、すっと張り詰めた。
誠は、背筋に、何か冷たいものが走るのを感じた。
(今の間は、何?)
ミレーネスの笑顔は、さっきと変わらない。
でも、その碧い瞳の奥に、一瞬だけ、何かが光った。
「私の家名も、アミュライトなの。もしかしたら、遠い親戚かしらね」
ミレーネスが、軽やかに言った。
「……さあ、どうかな」
ジルフレイは、それだけ言って、また、目を閉じた。
―――――
「ねえ、ジルフレイさんと、ミレーネスさんって、知り合いなんですか?」
誠が、小声で、ジルフレイに聞いた。
「……いや。初対面だよ」
ジルフレイが、目を閉じたまま答えた。
「でも、家名が同じって……」
「アミュライトは、エルフの中では、それほど珍しい名ではない。……それだけだ」
ジルフレイの声は、あくまでも、淡々としていた。
「ふーん……」
誠は、納得したような、しないような、曖昧な気持ちで、頷いた。
「誠君、ひかりちゃん、それで、あなたたちは、どこから来たの? モーリスからって言ったけど、その前は?」
ミレーネスが、誠とひかりに、笑顔で聞いた。
「その前は……えっと、オストヴェルンっていう村に、いました」
誠が、少しだけ、声を潜めて言った。
「オストヴェルン……」
ミレーネスの碧い瞳が、わずかに、細くなった。
「ああ、あの村ね。……大変だったでしょう」
ミレーネスの声が、急に、しっとりとしたものに変わった。
「え……」
「知ってるのよ。あの村が、王国軍に鎮圧されたって話。この辺りでも、噂になってるわ。……あなたたち、あの村にいたのなら、辛い思いをしたんじゃない?」
ミレーネスが、誠の目を、真っ直ぐに見つめた。
その碧い瞳には、先ほどまでの、好奇心に満ちた光ではなく、深い慈しみがあった。
「……はい。まあ、いろいろ、ありました」
誠は、それだけ言って、唇を噛んだ。
「そう。……よく、生きて、ここまで来たわね。えらいわ」
ミレーネスが、誠の頭に、そっと手を伸ばした。
「え……」
誠が、身をすくめると、ミレーネスは、誠の濡れた髪を、優しく撫でた。
「大丈夫。もう、ここは安全だから。ゆっくり、体を休めなさい」
ミレーネスの手は、温かくて、柔らかかった。
誠は、その温かさに、胸の奥が、じわりと緩むのを感じた。
(なんだろう、この感じ。お母さんに、頭を撫でられてるみたいだ)
誠は、目を閉じて、ミレーネスの手の温もりを、受け止めた。
―――――
「ひかりちゃんも、こっちにいらっしゃい」
ミレーネスが、ひかりにも、手を差し伸べた。
「え、あたしは、別に……」
ひかりが、少しだけ、照れたように、湯の中で、もじもじした。
「いいから、いいから。ほら、おいで」
ミレーネスが、ひかりの手を取って、自分の隣に座らせた。
「あら、ひかりちゃん、肌がきれいね。髪も、さらさらで、いい匂いがする」
「え、そ、そうですか? あたし、もう何日も、まともに髪洗えてなかったから……」
ひかりの頬が、ほんのりと赤くなった。
「そうなの? 全然、そうは見えないわ。それに、そのブレスレット、素敵ね。銀の細工が、とても繊細だわ」
ミレーネスが、ひかりの左手首にある、銀のブレスレットを、褒めた。
「これ、あたしのおばあちゃんにもらったものなんです。あたしの世界で、一番、大切なもの」
ひかりが、ブレスレットを、そっと撫でた。
「そう。大切なものなのね。……大事にしなさいね」
ミレーネスが、優しく微笑んだ。
ひかりは、こくんと頷いた。
(ひかりも、この人に、心を許してる)
誠は、二人の様子を見ながら、そう思った。
―――――
「ねえ、ジルフレイさん」
ミレーネスが、湯船の端で、目を閉じているジルフレイに、声をかけた。
「……なんだい」
ジルフレイが、ゆっくりと、目を開けた。
「あなたも、こっちに来て、一緒にお話しましょう? せっかく、同じ家名の者同士、出会えたんだもの」
ミレーネスが、にこにこと笑いながら、手招きした。
「……私は、ここでいい」
ジルフレイが、静かに、そう言った。
「あら、つれないわね。まあ、無理にとは言わないけど。でも、あなた、誠君とひかりちゃんの話、聞いてたでしょ。あの二人の世界の話、とっても面白いわね。電車に、コンビニに、飛行機。想像もつかないわ」
ミレーネスが、楽しそうに言った。
「……ああ。面白い話だよ」
ジルフレイが、短く、答えた。
その声は、少しだけ、柔らかかった。
―――――
「ねえ、誠君、ひかりちゃん、よかったら、あなたたちの世界の話、もっと聞かせてくれない? 私は、外の世界の話を聞くのが、大好きなの。特に、想像もできないような、遠い世界の話は、心が躍るわ」
ミレーネスが、誠とひかりに、身を乗り出した。
「あ、はい。えっと、何から話しましょうか……」
「そうね、まず、あなたたちの世界には、どんな食べ物があるの?」
「食べ物ですか? うーん、ハンバーグとか、カレーとか、ラーメンとか……」
「ハンバーグ? カレー? ラーメン?」
ミレーネスが、碧い瞳を、ぱちぱちと瞬かせた。
「ハンバーグは、お肉を、こねて、丸めて、焼いたものです。カレーは、香辛料をたくさん使った、とろりとした料理。ラーメンは、小麦粉で作った麺を、スープに入れて食べるんです」
「まあ……どれも、美味しそうね。特に、その、ラーメンっていうのが、気になるわ。麺を、スープに入れて……どんな味がするの?」
「えっと、お店によって、いろいろあるんですけど、僕が好きなのは、醤油味のラーメンで、鶏ガラと魚介の出汁が効いてて、麺が、つるつるしてて……」
誠が、身振り手振りを交えて、説明した。
「あらあら、誠君、とっても美味しそうに話すのね。お姉ちゃん、お腹が空いてきちゃったわ」
ミレーネスが、お腹を、さすった。
「あ、すみません、変な時間に、食べ物の話なんて……」
「ううん、いいのよ。楽しいわ。……それで、ひかりちゃんは、どんな食べ物が好きなの?」
ミレーネスが、今度は、ひかりに聞いた。
「あたしは、甘いものが好きです。ケーキとか、クレープとか、アイスクリームとか」
「ケーキ! クレープ! アイスクリーム! どれも、聞いたことがないわ。どんなものなの?」
ミレーネスの目が、さらに、輝いた。
「ケーキは、ふわふわのスポンジに、甘いクリームと、果物をのせたお菓子です。クレープは、薄く焼いた生地で、クリームや果物を包んだもの。アイスクリームは、冷たくて、甘くて、口の中で溶けるんです」
ひかりが、嬉しそうに説明した。
「まあ……! なんて、素敵な世界なの。私も、一度でいいから、その、アイスクリームっていうのを、食べてみたいわ」
ミレーネスが、うっとりとした表情で言った。
「ミレーネスさんも、甘いもの、好きなんですか?」
「大好きよ。エルフの集落では、森の果実を、蜂蜜に漬けたものとか、花の蜜を煮詰めたお菓子とか、そういうのを食べるの。でも、あなたたちの世界の甘いものは、もっと、こう、心が浮き立つような、華やかなものなんでしょうね」
「そうですね。見た目も、すごく、きれいなんです。特に、ショートケーキは、白いクリームに、赤い苺がのってて、見てるだけで、幸せな気持ちになります」
「ああ、素敵。……ねえ、ひかりちゃん、今度、私にも、その、ショートケーキの絵を描いて見せてくれない? 想像するだけでも、楽しいから」
「え、絵、ですか? あたし、絵は、あんまり上手くないですけど……」
「いいのよ、上手くなくて。あなたが見たものを、そのまま描いてくれれば、それでいいの」
ミレーネスが、にこにこと笑った。
「……分かりました。今度、描いてみます」
ひかりが、少し照れながら、頷いた。
―――――
誠は、二人の会話を聞きながら、思った。
(ミレーネスさんは、本当に、話を聞くのが上手い人だ)
彼女は、誠とひかりの話を、ただ聞くだけではない。相槌を打ち、質問をし、驚き、笑い、共感する。そのすべてが、自然で、温かい。
おかげで、誠もひかりも、すっかり、肩の力が抜けていた。
オストヴェルンのこと。カザルのこと。村が消えたこと。
その重さが、湯の中で、少しだけ、軽くなったような気がした。
(この人に話してると、なんだか、全部、大丈夫だったんだって、思えてくる)
誠は、湯の中で、深く息を吐いた。
―――――
「ねえ、ジルフレイさん」
ミレーネスが、再び、ジルフレイに声をかけた。
「……なんだい」
ジルフレイが、目を閉じたまま、答えた。
「あなたも、誠君やひかりちゃんの世界の話、もっと聞きたいでしょ? さっき、少しだけ、目を輝かせてたわよ」
ミレーネスが、Noveliaとは?
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