ヴァルガムナ
異世界に迷い込んだ高校生・沢木誠と端沙ひかりは、銀髪のエルフ戦士ジルフレイに導かれ、辺境の村オストヴェルンへと辿り着く。温かい歓迎、湯気立つ羊肉の煮込み、焚き火を囲む村人たちの歌——だがその笑顔は、声は、あまりにも揃いすぎていた。二重に施錠された納屋、消えた旅人の痕跡、夜通し続く規則的な足音。何もするな、と告げるジルフレイの静かな警告の裏で、誠の胸に小さな警鐘が鳴り響く。善意の仮面の下に潜む違和感が、穏やかな夜をじわりと蝕んでいく。これは、まだ何も起きていない物語。だからこそ、目を逸らせない。
ヴァルガムナ - 独りの依頼
風が、モーリスの石畳を渡っていく。
市場が開く前の、わずかな静けさ。露店の店主たちが木箱を並べ、幌を張り、銅貨のやり取りに備えて品物を磨いている。その間を、一人の女が歩いていた。
ジルフレイ・アミュライト・マウリー。
腰まで届く銀の髪が、歩くたびに揺れる。尖った長い耳。青みがかった瞳は、まっすぐ前だけを見ていた。深緑の外套の下、腰の左右に細身の双剣が二本。左耳に、小さな銀の耳飾り。
果物を並べていた女の手が止まる。荷馬車を引いていた男が、手綱を握ったまま横顔を目で追う。酒場の前で昨夜の酔いを醒ましていた若い冒険者たちの会話が、ぴたりと途切れた。
だが、その美貌以上に人々の視線を引きつけたのは、彼女の周りに漂う空気だった。冷たく、静かで、近寄りがたい。
ジルフレイは、それらの視線を一切気に留めず、石畳の道を北へ向かって歩いていく。
目指すのは、モーリス冒険者登録所。
―――
冒険者登録所「セレスティアル・ゲート」モーリス支部は、町の中央広場に面した石造りの二階建てだった。入口の上には、剣と月桂樹をかたどった古い看板。大陸五大都市に支部を持つ冒険者統括組織の地方拠点だ。
重い木の扉を押し開けると、中には朝から十数人の冒険者たちがたむろしていた。壁一面の依頼書を眺める者。カウンターで報酬を受け取る者。隅の長椅子で、まだ眠そうに目をこする者。
ジルフレイが一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。
入り口近くで談笑していた三人組の男たちが、言葉を途切れさせる。全員の視線が、彼女に吸い寄せられた。
「……おい、あれ」
誰かが小声で言った。
「エルフだ」「銀髪の……」「腰の剣、見ろよ。あの造り、ただもんじゃねえぞ」
ざわめきが、波のように広がっていく。
ジルフレイは、まっすぐカウンターへ歩いた。
受付に座っていたのは、二十代半ばの若い女性職員だった。茶色い髪を後ろで一つに束ね、モーリス支部の制服である薄緑のチュニックを着ている。名前は、エルマ。この支部で働き始めて三年になる。
彼女もまた、近づいてくるジルフレイに目を奪われていた。書類を整える手を止めたまま、一瞬、呼吸を忘れた。
ジルフレイが、カウンターの前に立つ。
「依頼を受けに来た」
声は、低く、淡々としていた。温度というものが感じられない。だが、不思議と不快ではない。ただ、静かなだけ。
「は、はい! おはようございます! ご依頼ですね!」
エルマは、慌てて背筋を伸ばした。声が裏返りそうになるのを、必死で抑える。
「フォレストウルフの討伐依頼を。大森林ヴェルディアの外れで、群れが目撃されたと聞いた」
「フォレストウルフですね。少々お待ちください。……ええと、ありました。危険度Cランク、大森林ヴェルディア南東部、群れの目撃情報。頭数は五から八。報酬は、毛皮一枚につき十五ゴールド、群れの頭と思われる大型個体は別途三十ゴールドです」
エルマは、依頼書の束から一枚の羊皮紙を抜き出した。
「受注条件は、鉄ランク以上。……あの、確認ですが、冒険者証をお持ちですか?」
ジルフレイは、外套の内側から一枚の金属板を取り出した。銀色に光る、掌ほどの大きさの板。表面には、彼女の名前と、ランクを示す刻印が彫られている。
「銀ランク、ジルフレイ・アミュライト・マウリー。……あ」
エルマは、その銀色の冒険者証を見て、小さく声を上げた。
銀ランク。冒険者ランクは、下から銅、鉄、銀、金、白金の五段階。銀ランクともなれば、支部に所属する冒険者の中でも上位の実力者だ。モーリス支部で銀ランクを持つ者は、数えるほどしかいない。
「し、失礼しました! 銀ランクのジルフレイ・アミュライト・マウリー様ですね。確認いたしました。……あの、お一人での受注ですか?」
「ああ」
「フォレストウルフの群れは、五頭以上です。お一人では危険なのでは……」
エルマは、思わず口にした。受付として、依頼人に注意を促すのは仕事のうちだった。だが、それ以上に、この美しいエルフが一人で森に入ることを、純粋に心配してしまったのだ。
ジルフレイは、青みがかった瞳で、エルマをまっすぐ見た。
「問題ない」
たった一言。だが、その声には、有無を言わせない確信があった。
「……かしこまりました。では、こちらの依頼書に署名をお願いします」
エルマは、それ以上何も言えなかった。
ジルフレイは、羽根ペンを取り、羊皮紙に流れるような文字で名前を書いた。その所作は、あまりにも自然で、美しかった。
「完了です。お気をつけて。……あの、ご無事で」
エルマは、思わず付け加えた。
ジルフレイは、一瞬だけ、エルマを見た。何かを言おうとしたように見えたが、結局、何も言わずに、小さく頷いた。
そして、背を向けて、登録所を出ていった。重い扉が閉まる音が、静かに響いた。
「……すごい人だった」
エルマは、誰に言うともなく呟いた。
隣のカウンターにいた先輩職員が、苦笑いしながら言った。
「ああ、あのエルフか。有名だぜ。ここ半年で、銀ランクまで一気に上がった化け物だ。一人でAランクのグランドベアを仕留めたって話もある」
「Aランクを、一人で……」
エルマは、ジルフレイが出ていった扉を、しばらく見つめていた。
―――
モーリスの北門を抜けると、道はすぐに大森林ヴェルディアへと続いていた。
面積約一万二千平方キロ。樹齢五百年を超える古木が生い茂る、リュミエール王国東部最大の森林地帯。危険度Aランク。フォレストウルフ、グランドベア、マナスライム。様々なモンスターが生息する、人間の領域ではない場所。
ジルフレイは、迷いなく森へ足を踏み入れた。
途端に、空気が変わった。町の喧騒が消え、代わりに、木々の葉擦れの音と、どこかで鳴く鳥の声が耳に届く。足元の土は湿り、苔の匂いが濃い。木漏れ日が、彼女の銀の髪に斑の光を落としていた。
彼女は、速度を落とさない。倒木を越え、小川を飛び越え、獣道を迷いなく進んでいく。その動きには、一切の無駄がない。まるで、森そのものが彼女の一部であるかのように、自然に、静かに。
やがて、森の外れ、南東部の開けた場所に出た。
―――
そこで、彼女は足を止めた。
風向きが、変わった。木々の奥から、獣の匂いが流れてくる。湿った毛皮と、生臭い唾液と、血の混じった匂い。
(七頭か)
ジルフレイは、目を細めた。茂みの向こうで、複数の気配が動いている。低い唸り声。爪が地面を引っ掻く音。
フォレストウルフ。体長一・五メートルほどの狼型モンスター。群れで行動し、数で獲物を追い詰める。知能は低いが、その分、獰猛さは本物だ。
ジルフレイは、両腰の双剣に手を伸ばした。鞘から、静かに刃を抜く。片方の刃には、エルフ文字で「風」と刻まれている。もう片方には、「静」。双剣シルヴァ。エルフの鍛冶師が打った、細身の業物。
茂みが、揺れた。
―――
一頭目が、飛びかかってきた。灰色の毛皮。開いた口。鋭い牙。フォレストウルフの突進は、人間の目には一瞬の出来事だ。
だが、ジルフレイには、遅すぎた。
彼女は、半歩、横にずれた。それだけ。狼の牙が、彼女の銀の髪をかすめる。しかし、その髪の一本すら、触れられない。
そして、彼女の右手が、流れるように動いた。
斬。
音がした。風を切る音ではなく、肉を断つ音でもなく、ただ、空気が分かたれる、静かな音。
一頭目のフォレストウルフは、彼女の背後に着地した。そして、動かなくなった。首から胸にかけて、一文字の斬撃。血が、土に染みていく。
―――
二頭目、三頭目が、同時に左右から襲いかかる。
ジルフレイは、振り返らなかった。左手の剣が、左から来た狼の喉を裂く。右手の剣が、右から来た狼の頭蓋を砕く。
その動きは、舞踏のようだった。いや、舞踏ではない。もっと冷たく、もっと正確な、作業。彼女は、感情を乗せていなかった。怒りも、恐怖も、高揚もない。ただ、目の前の対象を、最小限の動きで、確実に処理していく。
四頭目が、背後から跳んだ。ジルフレイは、振り返らずに、右手の剣を逆手に突き出した。刃が、狼の開いた口に吸い込まれ、後頭部を貫く。彼女は、そのまま腕を振り抜いた。狼の体が、弧を描いて地面に叩きつけられる。
―――
五頭目、六頭目。残る二頭は、仲間の死を目の当たりにして、一瞬、動きを止めた。
だが、フォレストウルフは、退くことを知らない。低い唸り声を上げ、二頭同時に、最後の突進を仕掛けてきた。
ジルフレイは、双剣を、左右に開いた。
―――
一閃。二閃。二頭の体が、同時に、地面に落ちた。
―――
森に、静寂が戻った。七頭のフォレストウルフの死骸が、開けた場所に散らばっている。血の匂いが、濃く漂っていた。
ジルフレイは、双剣の血を、一度に払った。ブン、と空気を打つ音。刃に付いた血が、飛沫となって草の上に散る。
彼女は、無言で、死骸の一頭に近づいた。しゃがみ込み、剣の先で、毛皮を丁寧に剥ぎ始める。手際は、完璧だった。無駄な傷をつけず、肉から皮を分離し、綺麗に丸めていく。一枚、また一枚。彼女の顔に、感情はなかった。ただ、淡々と、作業をこなす。
―――
七枚の毛皮を束ね、背負い袋に詰め込んだ。ジルフレイは、立ち上がり、来た道を戻り始めた。彼女の後ろで、フォレストウルフの死骸が、静かに森へ還っていく。
―――
モーリスへ戻る街道。森を抜け、開けた畑の続く道を歩いていると、前方に一台の荷車が停まっているのが見えた。
木製の車輪が片方、外れている。幌を被せた荷台には、布や鍋などの日用品が積まれていた。その傍らで、一人の男が、しゃがみ込んで車輪を調べていた。年の頃は四十代半ば。旅商人らしい、くたびれた革の外套を着て、頭には埃除けの布を巻いている。顔は日焼けで赤黒く、手は分厚く節くれだっていた。
男は、ジルフレイの足音に気づき、顔を上げた。
「おお、あんた、すまないね。……って、エルフの方か。こりゃ驚いた」
ジルフレイは、足を止めた。
「車輪が外れたのか」
「ああ、そうなんだ。石にでも乗り上げたんだろう。軸の留め具が折れちまってな。参ったよ、次の町までまだ半日もあるのに」
商人は、困ったように頭を掻いた。
ジルフレイは、何も言わずに、荷車の脇にしゃがみ込んだ。外れた車輪を手に取り、軸の状態を確認する。
「あ、あんた、いいのか? いや、助かるが……」
ジルフレイは、答えなかった。腰の革袋から、小さな工具と、予備の留め具を取り出した。
「……商人が、予備の留め具を持っていないのか」
「いや、あるにはあるんだが、生憎、力の入れ方が分からなくてな。いや、情けない話だが」
ジルフレイは、黙って作業を始めた。車輪を軸に合わせ、折れた留め具を外し、新しい留め具を嵌め込む。彼女の細い指が、驚くほどの力で、金属を締め上げていく。
商人は、その手際を、ぽかんと見ていた。
「……すげえな。あんた、鍛冶屋か何かか?」
「違う」
「そうか。いや、しかし、こんなに綺麗な手で、よくそんな力が出るもんだ」
ジルフレイは、答えなかった。留め具を締め終え、車輪がしっかりと固定されたことを確認する。彼女は、立ち上がり、服に付いた土を払った。
「……よし、これで大丈夫だ。あんた、本当にありがとう。いくら払えばいい?」
商人は、財布を取り出そうと、懐に手を入れた。
「礼はいらない」
ジルフレイは、そう言って、背を向けた。
「え? いや、でも、これじゃあ気が済まない。せめて何か……」
「必要ない。気にするな」
彼女は、振り返らずに、街道を歩き出した。商人は、その後ろ姿を、しばらく見送っていた。
「……あのエルフ、何者なんだろうな」
商人の呟きは、風に溶けて消えた。
―――
モーリスに戻ったジルフレイは、冒険者登録所で毛皮を納品し、報酬を受け取った。七枚の毛皮で、百五ゴールド。大型個体はいなかったため、別途報酬はなし。
「確かに。ありがとうございました。またのご利用をお待ちしています」
エルマは、朝よりも落ち着いた声で言った。だが、彼女の目は、ジルフレイの顔をまっすぐ見られずにいた。
ジルフレイは、金貨の入った革袋を受け取り、軽く頷いた。そして、出口へ向かおうとして、足を止めた。
―――
壁一面の依頼掲示板。その隅に、一枚の古びた羊皮紙が貼られていた。他の依頼書は、比較的新しい紙に、はっきりとした文字で書かれている。だが、その一枚だけは、紙が黄ばみ、端が捲れ上がり、文字も薄れかけていた。
ジルフレイは、それを見た。
『東部辺境 旅人失踪調査依頼』
リュミエール王国東部の辺境地域、特にオストヴェルン村周辺において、旅人の失踪が相次いでいる。実態調査、および可能であれば保護を求む。報酬は応相談。情報提供のみでも可。
依頼主の名は、かすれていて読めない。
ジルフレイは、その羊皮紙の前で、動きを止めた。彼女の青みがかった瞳が、薄れた文字の上を、ゆっくりと滑っていく。眉が、ほんの少しだけ、寄せられた。ほんの一瞬。誰にも気づかれないほどの、本当に小さな変化。
―――
だが、彼女は、すぐに背を向けた。その依頼には、手を出さなかった。彼女は、登録所の扉を押し開け、外へ出た。
夕暮れの光が、彼女の銀の髪を、橙色に染めていた。
―――
夜。
宿屋「銀狼の寝床」の一室。モーリスで冒険者たちが多く利用する、一泊八ゴールドの宿。名物は羊肉の煮込み。店主はエレン・フォスター、四十八歳の気のいい女将だ。
ジルフレイは、窓辺の小さな机の前に座っていた。机の上には、一つの燭台。橙色の灯りが、部屋の中を、ぼんやりと照らしている。
彼女の前には、双剣シルヴァ。鞘から抜かれた二本の刃が、布の上に並べられていた。
ジルフレイは、砥石を手に取り、刃に水を含ませる。そして、研ぎ始めた。
シャッ。シャッ。シャッ。
規則正しい音が、静かな部屋に響く。彼女は、無言で、刃を研いでいた。その横顔は、燭台の灯りに照らされて、白く浮かび上がっている。長い銀の髪が、肩から背中へと流れ落ち、時折、窓から入る夜風に、ふわりと揺れた。
シャッ。シャッ。シャッ。
音だけが、続く。
―――
どれほどの時間が経っただろうか。ジルフレイの手が、止まった。彼女は、研ぎ終えた刃を、燭台の灯りにかざした。光が、刃の上を、一筋の線のように走る。曇りはない。完璧な切れ味。彼女は、刃を鞘に戻した。カチン、と小さな音。
―――
ジルフレイは、燭台の火を見つめていた。青みがかった瞳に、橙色の炎が映っている。彼女は、誰もいない部屋で、ぽつりと呟いた。
「……まだ、早い」
その声は、あまりにも小さく、風の音に紛れて消えそうだった。何に対しての言葉なのか。誰に聞かせるでもない、ただの独り言。
彼女は、目を閉じた。燭台の火が、風に揺れて、彼女の睫毛の影を、頬の上で踊らせた。
―――
翌朝。
ジルフレイは、朝食を済ませ、宿を出た。
「おはようさん。もう行くのかい?」
宿の女将エレンが、カウンターから声をかけた。
「ああ。世話になった」
「なに、あんたはいい客だよ。静かだし、部屋も綺麗に使ってくれるし。またおいで」
ジルフレイは、短く会釈して、宿を後にした。
―――
冒険者登録所の前。朝の広場には、今日も冒険者たちが集まっていた。ジルフレイは、掲示板の前に立った。新しい依頼が、いくつか貼られている。
彼女の目が、無意識に、昨日のあの羊皮紙を探していた。
『東部辺境 旅人失踪調査依頼』
それは、まだあった。黄ばんだ紙は、今日も、掲示板の隅で、誰にも手を付けられずにいた。
ジルフレイは、それを、一瞬だけ見た。
―――
そして、視線を外した。彼女が手に取ったのは、別の依頼書だった。
『グランドベア討伐依頼 大森林ヴェルディア北西部』
危険度Aランク。報酬は、爪一本につき八十ゴールド。
彼女は、その紙を、掲示板から外した。オストヴェルン方面への護衛依頼も、掲示板には貼られていた。だが、彼女は、それには目もくれなかった。
ジルフレイは、依頼書を手に、登録所の中へ入っていく。彼女の背中を、朝の光が追いかけた。銀の髪が、風に流れて、きらめく。
彼女は、今日も、一人で、依頼をこなす。ただ、それだけ。
―――
だが、彼女の胸の奥に、昨日の羊皮紙が、小さな棘のように残っていた。抜けない棘。無視しようとしても、存在を主張する、かすかな痛み。
彼女は、それに気づかないふりをして、歩き続けた。
風が、モーリスの街を、静かに吹き抜けていった。Noveliaとは?
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