琥珀の罠 ~冷徹社長は夜だけ淫らに求める~
【琥珀の罠 ~冷徹社長は夜だけ淫らに求める~】
失恋の痛みを忘れようと、バーで出会った謎めいた男と衝動的に一夜を共にした28歳の広告代理店勤務・加賀美栞里。翌朝、緊急招集された会社の会議で現れた新社長は、昨夜の相手その人だった。
公私混同は一切許さないと公言し、冷徹な若き実業家として名高い西園寺怜真は、栞里を完全に無視する。だが、安堵も束の間、仕事終わりに「今夜9時、来い」とだけ告げられ、高級ホテルへと呼び出される。そこでは、昼間の氷のような態度が嘘だったかのように、怜真は彼女を灼熱の抱擁で包み込む。
「お前を誰にも触れさせない」——強烈な独占欲を叩きつけられ、二人だけの危険な秘密の関係が始まる。昼は他人、夜は恋人。ほろ苦い情事に心を溶かす栞里。だが、怜真の残酷さは留まるところを知らず、皆の前で叱責するためだけにオフィスへ呼び出したかと思えば、その夜には優しく抱きしめる。
混乱のさなか、怜真の元婚約者で大株主の妖艶な美麗が現れ、衝撃の事実を暴露する。「彼は復讐のためにあなたを利用しているの」。栞里の亡き父が怜真の父を裏切った過去があり、会社を乗っ取った上で栞里を心身ともに支配する
琥珀の罠 ~冷徹社長は夜だけ淫らに求める~ - 私の物になれ——甘い罠と、見知らぬ番号からの警告
夜の十時を過ぎると、いつの間にかスマホの画面を見つめている自分がいた。
「[sad]……まただわ」
恵比寿のマンション、一人きりの部屋。観葉植物の葉が、エアコンの風に小さく揺れている。栞里はソファに座ったまま、画面が暗くなるのを待った。
あの夜から、もう二週間になる。
ヴァンベールでの二度目の夜——怜真に体を重ねてから、栞里の日常は音を立てて崩れ始めていた。別に毎晩呼び出されるわけじゃない。怜真からの非通知のメッセージは、いつも突然だった。今夜来い。たったその一言。それだけで、栞里は何も考えられなくなる。
画面が暗くなる。
今日は来なかった。
胸の奥が、じわりと冷たくなった。
(なに期待してるんだろう、あたし)
自分の顔を、両手で覆った。呼ばれるのを待ってるなんて——あの冷たい男に。仕事中も、怜真がフロアを歩く気配だけで指が震える。すれ違うたびに視線を探してしまう。目が合わない日は、午後いっぱい胸の奥が重かった。
三年前、父が死んだ時もこんなだった。
何かがなくなって、でも誰にも言えなくて、一人で抱え込んで——あの頃と同じ感覚が、じわじわと戻ってきている。
その時だった。
ブブブ。
スマホが震えた。画面に表示されたのは、短い二文字。
——来い。
栞里は立ち上がった。コートを手に取って、玄関へ向かう。
(今日こそ行かない)
心の中で、そう繰り返しながら。
エレベーターに乗って、マンションを出た。タクシーを拾って、西麻布の住所を告げる。車窓の外に流れる恵比寿の街灯りが、滲んで見える。
(今日こそ——行かない)
呟いた自分の声が、あまりにもか細くて、自分で悲しくなった。
──
ホテル・ヴァンベール東京。プレジデンシャルスイート「月華」。
五十五平米の静かな部屋に、東京タワーの赤い光が差し込んでいる。ベッドの上で、栞里は乱れたシーツを胸に抱えていた。息がまだ整わない。太腿の内側に、自分の愛液が冷たく残っている。
怜真は仰向けのまま、無言で栞里の髪を梳いていた。
その指の動きだけは、昼間のオフィスで見せる冷徹な社長とは別人だった。ゆっくりと、絡まった髪をほぐすように。時折、指の背が耳の後ろをかすめる。その仕草が優しくて、でも優しいからこそ、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
(やめてほしい)
そんなふうに触れられたら、期待してしまう。
静寂を破ったのは、怜真の低い声だった。
「[whispers]私の物になれ」
囁くような、それでいて芯のある声音。
栞里の息が止まった。
胸の真ん中で、何かが大きく跳ねる。この人は今、なんて言ったのか。目を開いて、怜真の顔を見上げようとした——その瞬間。
怜真の氷のような青い瞳が、すでに冷たく戻っていた。
「[cold]冗談だ」
短く吐き捨てるように言って、怜真はシーツを払いながら起き上がった。
冗談。
さっきまで自分の中にいたペニスの感触も、髪を撫でた指の温もりも、その一言で全部が裏切られた気がした。胸の中央が、鋭利な刃物で抉られるように痛い。
「[cold]明日の午前中までに、企画書のやり直しを会議室に提出しろ」
怜真はバスルームへ向かいながら、それだけを告げた。その声音にはもう、さっきの熱のかけらも残っていない。
栞里はベッドの上で固まったまま、暗い天井を見つめていた。
泣きたかった。
なのに、涙は一滴も出なかった。代わりに、喉の奥がカラカラに乾いていく。シーツを掴んだ指が、細かく震えている。
(私の物になれ)
(冗談だ)
二つの声が頭の中で交互に響いて、吐き気がこみ上げてきた。
──
翌朝。
六本木ヒルズ森タワー三十九階、制作局のフロア。
栞里はほとんど眠れないまま出社していた。目の奥が熱い。パソコンのモニターに映る文字が、じんわりと滲んで見える。企画書の数字を打ち込もうとして、手が震えてミスを繰り返した。
「[gentle]栞里?最近なんか痩せた?」
背後から明るい声がして、栞里はびくっと肩を揺らした。振り返ると、赤い髪を揺らした辻村愛が、心配そうに顔を覗き込んでいる。同期で、制作局の小さなクリエイター。いつも明るくて、この重い社内で唯一息ができる相手だった。
「[gentle]大丈夫です。ちょっと仕事が立て込んでて」
栞里は無理に笑顔を作った。愛はそれ以上追及しなかったけど、ヘーゼル色の瞳が「納得してない」と言っていた。
午前十一時。
制作局長の三枝が、フロアをいかめしく歩いてきた。五十代のこの男は、旧経営陣派で、怜真のことをよく思っていない。でも直接逆らえないから、代わりに栞里に当たる。
「[cold]加賀美、社長への提出書類は今日の正午締めだぞ。遅れるなよ」
三枝の声が耳に刺さった瞬間——栞里の視界が、ふわっと白くなった。
(あれ)
呼吸が、浅い。吸っても吸っても、空気が肺に入っていかない。指がしびれて、パソコンのキーボードがぐにゃりと歪んで見えた。椅子から立とうとして、床に膝をついた。
周囲がざわついた。
「[scared]栞里!?」
愛の声が遠くから聞こえる。誰かが救急車を、という声。やめて、救急車はいらない——そう言いたいのに、口が動かなかった。
──
気づいた時には、三十九階の隅にある医務室のベッドに寝かされていた。
点滴の針が左腕に刺さっている。消毒液の匂いが鼻を刺した。養護担当の女性スタッフが「少し休んでくださいね」と言い残して退室し、部屋には栞里一人だけが残された。
静かだった。
エアコンの低い駆動音だけが、規則正しく聞こえている。
栞里はぼんやりと天井を見ながら、枕元のスマホを手探りした。不在着信が二件——愛からだ。それと——未登録の番号から、ショートメッセージが一件。
画面を開いた瞬間、指が凍りついた。
『彼を信じてはいけない。あなたは復讐の道具。——真実を知りたければ、お父様の解任記録を調べなさい』
差出人は空白。送信時刻は、栞里が倒れた直後の午前十一時十四分。
頭の中で、三年前の記憶が断片的に蘇った。
——加賀美さん、本日付で役員を解任します。
父の青ざめた顔。背任疑惑という言葉。その二ヶ月後の、突然の訃報。
そして——西園寺怜真がエムズ・クリエイティブを買収した目的。
復讐。
「復讐の道具」という文字が、目の裏に焼きついて離れない。
(あの人は——あたしの父を)
そこまで考えた瞬間、スマホが再び振動した。
画面に表示されたのは、怜真の番号だった。
『今夜二十時、ヴァンベールに来い。食事を用意させる』
短いメッセージ。
昨夜の「冗談だ」という冷たい声。そして今読んだばかりの「復讐の道具」という警告。この二つが頭の中で重なって、吐き気に似た何かが喉の奥を這い上がってくる。
それでも——。
怜真への引力は、まだ消えていなかった。
自分でも信じられないほど、まだ彼に会いたいと思っている。怜真の目を真っ直ぐ見て、真実を確かめたい。でも確かめた先に何があるのか、怖くて想像できない。
(あたしは、どうしたいんだろう)
その時、医務室の扉が開いた。
「[worried]栞里、顔色悪いよ。今日早退しなよ」
愛が入ってきて、ベッドの横に立った。いつもの明るい笑顔の代わりに、今は本当に心配そうな顔をしている。
栞里は布団から上体を起こした。
「[gentle]愛ちゃん……ちょっと聞いていい?」
そこまで言って、言葉が止まった。
愛に話せることは、何もない。誰にも話せない。社長と関係を持っていることも、父の背任疑惑のことも、今届いた謎のメッセージのことも。
「[gentle]……ごめん、なんでもない」
笑ってごまかした。でも、その笑顔がちゃんとできているかどうか、自分でもわからなかった。
──
夜十九時半。
栞里は恵比寿の自宅で、鏡の前に立っていた。
スカーフで首筋を隠して、コートを羽織る。バッグの中には、謎のメッセージを保存したスマホが入っている。
(真実を知りたければ——)
あの言葉が、ずっと耳の奥でこだましている。
でも今夜は、それを確かめるためのディナーじゃない。怜真に呼ばれたから、行く。ただそれだけだ——と、栞里は自分に言い聞かせた。
マンションを出て、タクシーを拾う。
「[gentle]西麻布まで」
車が動き出す。窓の外に、恵比寿の街灯りが流れていった。
バッグの中でスマホを握りしめる。手のひらに、冷たい画面の感触が染みた。
怜真への愛情と不信感が、同時に胸の中に存在している。真実を確かめたい。でも確かめるのが怖い。この矛盾した感情が、ぐるぐると頭の中を回り続けていた。
──
ホテル・ヴァンベール東京に着いた。
バトラーが無言で最上階へと案内する。プレジデンシャルスイート「月華」の扉の前で、栞里は一度だけ立ち止まった。
深呼吸をして、扉を押す。
部屋の中央には、二人分のディナーが用意されていた。グラスに注がれた赤ワインが、東京タワーの光を受けて、血のように揺れている。
怜真は窓辺に立って、夜景を見下ろしていた。
「[serious]来たか」
振り返った怜真の顔には、昨夜の冷たさも、行為の最中の熱も——何も浮かんでいない。ただ、底の見えない青い瞳だけが、栞里を射抜いていた。
栞里はバッグの中で、もう一度だけスマホを握りしめた。
あのメッセージの送り主は誰なのか。父の解任と怜真の復讐計画は、どう繋がっているのか。
答えはまだ、どこにもなかった。