琥珀の罠 ~冷徹社長は夜だけ淫らに求める~
【琥珀の罠 ~冷徹社長は夜だけ淫らに求める~】
失恋の痛みを忘れようと、バーで出会った謎めいた男と衝動的に一夜を共にした28歳の広告代理店勤務・加賀美栞里。翌朝、緊急招集された会社の会議で現れた新社長は、昨夜の相手その人だった。
公私混同は一切許さないと公言し、冷徹な若き実業家として名高い西園寺怜真は、栞里を完全に無視する。だが、安堵も束の間、仕事終わりに「今夜9時、来い」とだけ告げられ、高級ホテルへと呼び出される。そこでは、昼間の氷のような態度が嘘だったかのように、怜真は彼女を灼熱の抱擁で包み込む。
「お前を誰にも触れさせない」——強烈な独占欲を叩きつけられ、二人だけの危険な秘密の関係が始まる。昼は他人、夜は恋人。ほろ苦い情事に心を溶かす栞里。だが、怜真の残酷さは留まるところを知らず、皆の前で叱責するためだけにオフィスへ呼び出したかと思えば、その夜には優しく抱きしめる。
混乱のさなか、怜真の元婚約者で大株主の妖艶な美麗が現れ、衝撃の事実を暴露する。「彼は復讐のためにあなたを利用しているの」。栞里の亡き父が怜真の父を裏切った過去があり、会社を乗っ取った上で栞里を心身ともに支配する
琥珀の罠 ~冷徹社長は夜だけ淫らに求める~ - どん底の朝、封筒の真実——そして屋上の崖っぷち
廊下の冷たい空気が、肌に刺さる。
加賀美栞里は三十九階のエレベーターホールに立ったまま、動けなかった。昨日の夜——ヴァンベールでの行為の後、乱暴に引き裂かれたブラウスの感触がまだ指先に残っている。
(もう、どうしていいか分からない)
フロアの向こうから、制作局長の三枝が近づいてくる。五十代のその男は、旧経営陣派の古参だ。
「[cold]加賀美、社長がお呼びだ。四十一階の役員会議室へ行け」
心臓が、ぎゅっと縮まった。
四十二階の社長室ではない。役員会議室——取締役たちが集まる公式の場。
「[scared]……はい」
声が震えた。三枝の口元が、わずかに歪む。
エレベーターのボタンを押す。扉が閉まるまでの数秒間、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
──
四十一階。
役員会議室「六本木ルーム」の重厚な扉の前で、秘書の藤堂が無表情で待っていた。彼女は栞里を一瞥し、何も言わずに扉を開ける。
部屋の中には、取締役が五名。長テーブルの向こうに、西園寺怜真が立っていた。
その青い瞳が、栞里を射抜く。
昨夜のベッドの上で、髪を梳いた指。耳元で囁かれた「私の物になれ」という声。そして——その直後の、冷たい拒絶。
全部が嘘だったのか。
「[cold]加賀美係長」
怜真の声が、静かな会議室に響いた。手には資料。感情の読めない、平坦な声。
「[cold]君の父親——加賀美誠一郎という男を、覚えているか」
息が、止まる。
「[cold]三年前、あの男はこの会社に十億の損害を与えた。機密情報を競合他社に漏洩し、個人的な利益を得ていた」
違う——違う——そう叫びたいのに、口が開かない。
「[cold]裏切りのDNAというものは、こうも確実に子へと受け継がれるものだな」
怜真の唇が、言葉を紡ぐ。
「[cold]クズと呼んでも過言ではない。その血を引く君が、この組織に居続けること自体——士気に関わると思わないか」
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
取締役たちの視線が、一斉に栞里へ向く。誰も何も言わない。誰も、否定しない。
ただ一人——怜真だけが、たった一秒だけ、栞里の顔をまっすぐに見た。
その青い瞳に、一瞬だけ。
憎しみでも冷酷さでもない、何か別の苦しみのような光が瞬いた——気がした。
(錯覚だ)
(そう思わなきゃ、やってられない)
「[gentle]……失礼します」
声が、出た。自分でも驚くほど、小さな声だった。
深々と頭を下げる。スカートの裾を両手で握りしめ、震える足で踵を返した。
廊下に出た瞬間——涙が溢れた。
止められなかった。エレベーターに乗り込み、三十九階のボタンを押す。扉が閉まるまでに、もう袖口は涙で濡れていた。
──
翌朝。
噂は、三十九階全体に広がっていた。
社長が加賀美の父親をクズと呼んだ——役員たちの前で、公に。
「[sarcastic]お父さんのこともあるしねぇ……居場所、ないよねぇ」
制作局のフロアで、三枝がわざとらしく大きな声で言った。数人がデスクから顔を上げて、栞里を見る。
喉の奥が焼けるように熱い。
その時だった。
「[angry]それ、ちょっとひどくないですか!」
赤い髪を揺らして、愛が立ち上がっていた。ヘーゼル色の瞳が、正面から三枝を睨みつけている。
「[cold]余計な口を出すな」
三枝が一蹴する。でも、愛は引かなかった。
「[angry]あんな公の場であんなこと言うなんて、おかしいです!栞里は何も悪くないのに!」
フロア中が、静まり返った。
栞里は、愛の袖をそっと引いた。
「[gentle]愛ちゃん、いいの……大丈夫だから」
「[worried]でも——」
「[gentle]ありがとう。本当に、大丈夫」
精一杯の笑顔を作った。愛が、泣きそうな顔で見つめてくる。
(愛ちゃんに心配かけたくない)
(これは——私と怜真の、間のことだから)
胸の奥が、熱い感謝と自己嫌悪で同時に締めつけられた。愛の優しさを受け取れない自分が、情けなかった。
──
その夜。
恵比寿のマンション。玄関の鍵を開けた瞬間、鞄が手から落ちた。
床にへたり込む。
泣こうとしても——最初は声が出なかった。
あまりにいろんなものが重なりすぎて、涙の出口が見つからない。父のこと、怜真のこと、美麗のこと、愛に嘘をついたこと——全部が崩れ落ちてくる。
三十分。
そのまま動けなかった。
ようやく立ち上がり、浴室へ。シャワーを全開にして、その湯音に紛れて初めて声を上げて泣いた。
泣いても泣いても、怜真の夜の顔——自分の髪を撫でた指の感触——が頭から消えない。
(嫌いになりたい)
(憎みたい——なのに)
シャワーを止めて、床にしゃがみ込んだ。
深夜一時を回ったスマホが鳴った。
怜真の番号。
震える手で通話ボタンを押す。耳に当てたスピーカーから——あの低い声がした。
「[cold]逃げるな」
たった一言。
「[cold]まだ終わっていない」
通話が切れた。
栞里はスマホを握りしめたまま、動けなかった。
(嫌いになりたい——なのに、その声に縋りたくなっている)
自分を、呪った。
──
翌朝。
出社前に郵便ポストを開けると、差出人の名前がない白い封筒が一通入っていた。
何気なく開けた——その瞬間、手が止まった。
一枚目は、手書きの便箋。
『加賀美くん、君を信頼している。共にこの会社を大きくしよう。西園寺恭一郎』
怜真の父が、栞里の父に宛てた直筆の手紙。
二枚目——複数枚のコピー書類。内部資料に、見覚えのある優雅な筆跡の書き込み。
美麗の、直筆。
日付、社名、金額——すべての数字が、修正されていた。
背任事件の証拠そのものが、美麗の手で捏造された偽物だった。
(父は——)
玄関先に立ったまま、栞里は書類を何度も読み直した。
(無実だった)
背任などしていなかった。
三年間。裏切り者の娘として肩身を狭くして生きてきた日々のすべてが、美麗一人の作り出した嘘だった。
手が震えて、紙がくしゃくしゃになりそうになる。
深呼吸。
書類を胸に押し当てた。
(怜真に——これを見せなければ)
その時、スマホが鳴った。
メッセージの送り主——神宮寺美麗。
『加賀美さん、あなたに最後に話すことがあるの。今すぐ屋上へ来て。一人で』
胸に、嫌な予感が走る。
でも——手の中の封筒を見た。
(これを、美麗本人に突きつけなければ)
(何も、終わらない)
──
四十二階、屋上。
六本木ヒルズの高さから見下ろす東京の街は、こんな朝でも何事もないように広がっている。風が強く、スカートの裾が激しくなびいた。
先に来ていた美麗が、柵のそばに立って振り返る。漆黒のロングストレートが風に舞い、赤い唇が弧を描いた。
「[gentle]いらっしゃい。来てくれたのね」
エレガントな微笑み。でも、その猫のような切れ長の瞳だけは、少しも笑っていない。
栞里は封筒を握りしめ、一歩前に出た。
「[cold]これ——あなたが送ったんですよね」
美麗の微笑が、消えた。
「[serious]父は無実だった。背任事件は全部、あなたが捏造した嘘だ。怜真さんにこれを見せて——」
「[whispers]あなたさえいなければ」
美麗の声は、ささやくようだった。なのに、背筋が凍るほど冷たい。
「[angry]あなたさえいなければ——怜真は、私のものになれたのに!」
その手が、栞里の肩を強く押した。
体が、傾く。
背中が手すりにぶつかり——視界に、東京の空が広がった。
封筒が手から離れ、白い紙が風にさらわれて舞う。
「[scared]や——」
手すりを掴んだ。指が、冷たい鉄の感触に滑る。
眼下に、街。
美麗の顔が、すぐ目の前にあった。赤い唇が笑っている。
「[whispers]さようなら、加賀美さん」
指が、一本ずつ——離れていく。
(助けて)
声が、出ない。
風の音だけが、耳の中で大きく響いていた。