二重月の街で
二つの月が浮かぶ街、ノクス=ヴェイル。
九曜には、誰にも見えないものが見える。
風もないのに揺れる街灯。うっすらと赤く染まる水路の水。その底に潜む、自分にしか見えない鉄の魚たち――。
七歳の頃から絶えることのない渇きを、正体不明の紙パック飲料で誤魔化しながら生きてきた九曜。左手首に巻かれた色褪せたバンドは、外そうとすると心臓が軋むほどの何かを封じている。
クラスメイトに異変を訴えても、「変なやつ」と笑われるだけ。誰にも理解されない違和感を抱えたまま、九曜は今日も二重の月の下で、ひとりこの街の「普通」をやり過ごす。
けれど、ある日、水路の底から響いた鈍い脈動が、彼の渇きに呼応した。
これは、ただの体調不良ではない。
街に刻まれた異変と、九曜自身に宿る何かが、静かに繋がり始める――。
見えないものを見てしまう少年が、二つの月の真実に触れる、幻想都市ファンタジー、開幕。
二重月の街で - 沈める祭壇への階——手放した渇きと、離さない手
水の底から、何かが呼んでいる。
九曜は目を覚ました。
背中に硬い感触。冷たい空気。鼻の奥に、鉄と泥の匂いがこびりついている。
(ここは……)
体を起こす。全身が悲鳴を上げた。服は泥と血で固まり、皮膚のあちこちに滲出液の焼け跡が残っている。ひりつく痛み。だが、それよりも。
喉が、焼けるように渇いていた。
「……ぐ」
九曜は喉を押さえた。指が震える。喉の奥から、胃の底から、何かがせり上がってくるような感覚。紙パック飲料は、もうどこにもない。あの時、アパートの机の上に置いたまま、走り出した。
(飲まない。もう、飲まない)
九曜は、そう自分に言い聞かせた。
視線を落とす。左手首。
色褪せた布のバンドは、引き裂かれて、はらりと地面に落ちていた。十七年間、一度も外したことのない布。その下から、剥き出しの紋様が覗いている。錆びた鉄のような色の、複雑な模様。それが、脈打つように、赤黒く光っていた。
「……そういうこともある」
九曜は、誰にともなく呟いた。
声は、かすれていた。
周囲を見る。ここは、廃墟の中央水路の底だ。崩れかけたコンクリートの壁。錆びた配管。二つの月の光が、高い位置から、うっすらと差し込んでいる。
(三日か)
意識を失ってから、どれくらい経ったのか。正確には分からない。だが、体の感覚が、それくらいの時間を告げていた。
九曜は、ゆっくりと立ち上がった。
足が、もつれる。
視界が、時折、灰色に濁る。
(右目が……)
九曜は、右目を押さえた。共鳴レベル3の余波。感情の平板化。視界の異常。薄暮が言っていた「人間性の欠落」が、現実のものとして、九曜の体を蝕んでいた。
(笑えない)
九曜は、口元を引きつらせた。
さっきまで、あれほど感情が溢れていたのに。今は、心の奥が、薄い膜で覆われたように鈍い。怒りも、悲しみも、恐怖も、すべてが遠い。
(このまま、人間じゃなくなっていくのか)
恐怖が、心の奥底で、静かに、しかし確実に燻っている。
それでも。
九曜は、一歩、踏み出した。
水路の壁に手をつき、這うようにして、斜面を上がっていく。泥が指の間に食い込む。鉄魚の鱗が、服の裾にこびりついて、銀色に光っていた。
(誰かに、会わないと)
九曜は、そう思った。
誰に、何を、どう話せばいいのかは分からない。だが、一人でいることが、今は、耐え難く恐ろしかった。
---
水路から這い上がったところで、九曜は足を止めた。
「……あら」
声がした。
顔を上げる。
そこに立っていたのは、白髪混じりの灰色の髪を後ろで丸くまとめた、小柄な老女だった。琥珀色の温かい目。右手の甲に、古い火傷の跡。ヨツヤ東三丁目店の店長、オウミ。
「あんた、こんなところで何してるんだい」
オウミは、九曜の姿を、上から下まで、ゆっくりと見た。
泥だらけの服。焼け跡。剥き出しの左手首。鉄魚の鱗。
九曜は、何か言わなければと思った。だが、言葉が出てこない。
オウミは、何も聞かなかった。
ただ、持っていた買い物袋から、ペットボトルの水と、包帯と、まだ温かいおにぎりを取り出した。
「ほら、これ」
九曜は、それを受け取れずにいた。
「いいから、取りな」
オウミは、九曜の手に、無理やり握らせた。
水のボトル。包帯。おにぎり。
「……なんで」
「なんでって、あんた、死にそうな顔してるじゃないか」
オウミは、そう言って、小さく笑った。
「あたしゃね、この街で長く店をやってるけど、時々、変なことが起きるんだよ。水路の水が変な色になったり、街灯が揺れたり。でもね、あんたみたいな子は、それを見てしまう側なんだろうね」
九曜は、黙って聞いていた。
「詮索はしないよ。あたしに分かることじゃない。でも、あんたが生きてるなら、それでいい。あんたがちゃんと食べてるか、あたしはそれが心配なだけだよ」
オウミの声は、温かかった。
九曜の喉が、水とは違う理由で、震えた。
(ああ、そうか)
九曜は、初めて、自分が泣きそうになっていることに気づいた。
異物として扱われない。気味悪がられない。ただ、そこにいることを、認めてもらえる。
十七年間、ずっと感じていた孤独。街の異変を共有できない寂しさ。それが、たった一人の老女の言葉で、ほんの少しだけ、溶けていった。
「……あんたは、強いね」
オウミは、九曜の左手首を見た。
剥き出しの紋様。脈打つ赤黒い光。
だが、オウミは、それを見なかったことにした。
「さあ、水を飲みな。それから、おにぎりを食べるんだよ。あんた、ちゃんと食べてるかい?」
九曜は、ペットボトルのキャップを開けた。
水を飲む。
喉が、悲鳴を上げる。
(違う。これじゃない)
九曜の体が、鉄分を欲している。水では、この渇きは癒やせない。
だが、九曜は、水を飲んだ。
一口、また一口。
「……うまい」
九曜は、そう言った。
それは、本心だった。
紙パック飲料の味とは違う。鉄の味がしない。だが、この水は、確かに、九曜の体に染み渡っていった。
(これでいい)
九曜は、おにぎりを手に取った。
温かい。
「……ありがとう」
九曜は、オウミに、小さく頭を下げた。
「いいんだよ。あんたが元気なら、それで」
オウミは、そう言って、買い物袋を抱え直した。
「また、店においで。あんたの好きな飲み物、置いてあるから」
九曜は、答えなかった。
紙パック飲料。
(もう、飲まない)
九曜は、心の中で、そう繰り返した。
---
記録庫トガリ。
市西区ヨミジ通り3-14。古書店兼私設資料館。
九曜は、あの日から三日後、その店の前に立っていた。
左手首には、新しい包帯が巻かれている。オウミにもらったものだ。紋様は隠している。だが、包帯の下で、それは今も脈打ち続けていた。
ドアを押す。
カラン、と鈴の音。
「……来たか」
店の奥から、黒髪を後ろで束ねた長髪の男が現れた。薄暮。右手に革の手袋をはめた、三十五歳の観測者。
「あんたには、分かってたのか」
「何がだね」
「俺が、あの場所に行くことも。紙パックを手放すことも」
「記録では、そうなっている。……君が決めることだ」
薄暮は、いつものように、断定を避けた。
「……で、今日は、何を見せられるんだ」
九曜は、薄暮の灰色の瞳を見た。
「地下へ」
薄暮は、店の奥の書棚に手をかけた。
書棚が、ゆっくりと動く。
その奥に、地下へ続く階段が現れた。
---
地下観測室。
壁一面に、十七年分の記録が貼られている。中央水路の水質記録、揺灯の移動軌跡、共鳴者の写真。紙の端が黄ばみ、インクが滲んだものもある。
薄暮は、机の上に、手書きの水路断面図を広げた。
「沈眠枢の心臓部は、中央水路の直下、地下八百メートルにある。沈める祭壇。燐火衆が、そこへの階を封鎖している」
九曜は、断面図を見た。
「覚醒まで、残り四十二日」
「……四十二日」
「突破には、共鳴レベル4への引き上げが必要だ」
薄暮は、九曜の左手首を見た。
包帯の下の紋様を、見透かすように。
「代償として、君の左目は、完全に光を失う」
九曜は、黙っていた。
「それでも、行くのかね」
「……行く」
九曜の声は、短かった。
「そうか」
薄暮は、机の引き出しから、一枚の古い写真を取り出した。
「君の祖先が、沈められた場所だ」
九曜は、写真を見た。
モノクロの写真。そこには、古い祭壇のようなものが写っていた。
「沈める祭壇は、君の出生と直結した場所だ。十七年前、君が水路で発見された。その場所の、真下にある」
九曜は、写真を握りしめた。
(俺の、生まれた場所)
恐怖と、苛立ちが、同時に込み上げてくる。
「……あんたは、どこまで知ってるんだ」
「すべてではない。だが、記録にあることは、話した」
「話してないこともあるんだろ」
「ある。だが、それは、君が自分の目で確かめるべきことだ」
薄暮の声は、静かだった。
「……君が決めることだ」
九曜は、薄暮を睨んだ。
だが、それ以上、何も言わなかった。
---
アパート。
夜。
九曜は、部屋の中央に座っていた。
左手首の包帯を、ゆっくりと外す。
剥き出しの紋様が、暗い部屋の中で、赤黒く光っている。
(これを、もっと開くのか)
共鳴レベル4。
左目を失う。
(それで、何が残る)
九曜は、自分の手を見た。
人間の手。だが、その内側で、人間ではない何かが脈打っている。
その時だった。
「……九曜」
声がした。
九曜が顔を上げると、そこに霧刃が立っていた。
銀灰色の長い髪。血のような赤い瞳。左の首筋に浮かぶ、錆びた模様の紋。
彼女は、重傷の右腕を庇っていた。
「霧刃……」
九曜は、立ち上がろうとした。
だが、霧刃は、九曜の腕を掴んだ。
冷たい指。
「……いっしょ」
小さな声だった。
「おまえ、いなくなるの、いや」
霧刃は、九曜の腕を、離さなかった。
人間離れした金色の瞳が、九曜だけを見つめている。
「……いやだよ。おまえが、いなくなるの、いや」
霧刃の声が、震えていた。
九曜は、初めて、霧刃のこんな姿を見た。
冷酷で無慈悲な戦士。人間社会のルールを知らない人外の少女。
その彼女が、今、九曜の腕を掴んで、泣きそうな顔をしている。
(こいつも、怖いのか)
九曜は、そう思った。
「……俺は、いなくならない」
九曜は、霧刃の冷たい指を、握り返した。
「お前が、そんな顔をするなら、なおさらな」
「……ほんとう?」
霧刃の声が、甘えたように、崩れた。
「ああ、本当だ」
九曜は、霧刃の手を、強く握った。
紙パック飲料の代わりに、その手を。
「……やくそく」
霧刃が、小さく呟いた。
「ああ、約束だ」
九曜は、霧刃の手を、離さなかった。
二人の間で、最初の明確な約束が、静かに交わされた。
---
翌朝。
中央水路。取水塔地下。
九曜と霧刃は、地下への階段を降りていた。
空気が、重い。
「……におい」
霧刃が、鼻をひくつかせた。
「あの穴と、同じ」
九曜も、感じていた。
喉が、焼ける。
(滲出液だ)
地下への入口には、既に滲出液が溢れ返っていた。黒く、どろりとした液体。鉄の匂いと、腐敗の匂い。
そして、その奥に。
「……来たか」
灰色の防水コート。青白い顔。
燐火衆の実質指導者、灰汀が、待ち受けていた。
「九曜。共鳴レベル4に上げれば、お前の左目は闇に沈む」
灰汀は、ゆっくりと近づいてくる。
「だがその前に、お前が本当に人間かどうか、証明してもらおう」
灰汀が、右手を上げた。
その瞬間、水路の水が、逆流した。
「水路そのものを操作して、お前の暴走共鳴を誘発させる。お前は、自分の意思で、レベル4に踏み込む。そうなるように、仕向けてやる」
水が、九曜の足元に押し寄せる。
「……くそっ!」
九曜は、左手首の紋様が、熱を帯びるのを感じた。
(自分で、やるしかない)
九曜は、共鳴レベル4への引き上げを、意図的に開始した。
紋様が、光る。
「そうだ。それでいい。もっと、沈眠枢に近づけ」
灰汀の声が、頭の中に響く。
九曜の体が、水と同調し始める。
その時。
ビリッ。
音がした。
左手首の包帯が、完全に千切れた。
紋様が、全身へ拡散していく。
「……が、ああああ!」
九曜の体が、水と同化しかける。
手足の輪郭が、溶けていく。
(だめだ。このままじゃ)
九曜の意識が、遠のく。
「……いいぞ。そのまま、沈め」
灰汀が、笑った。
その瞬間。
「——消えよ!!」
霧刃が、動いた。
重傷の右腕を庇いながら、地面を蹴る。
そして、怪力で、水路を断ち切った。
ドゴォォォン!!
コンクリートが砕ける。水が、飛散する。
「九曜!!」
霧刃が、九曜の体を引き戻す。
「……っ、は、はあっ」
九曜は、咳き込みながら、地面に倒れ込んだ。
左目が、熱い。
視界が、半分、消えている。
(左目が……)
九曜の左目は、既に光を失い始めていた。
「……ほう」
灰汀が、ゆっくりと拍手をした。
「見事だ。祭壇への階は、開いた。お前の代償は、きっちりと支払われた」
灰汀の足元で、水が渦を巻く。
「だが、これで終わりではない。お前の共鳴は、逆流を始めている。私の罠だ。お前がレベル4に踏み込んだ瞬間、お前の共鳴は、お前自身を喰らう」
九曜は、片目で、灰汀を見た。
「……ざまあみろ」
九曜は、口の端を上げた。
「何?」
「あんたの罠なんか、知ったことか。俺は、行く」
九曜は、霧刃の手を握った。
「……お前は、もう、戻れないぞ」
「知らんけど」
九曜は、祭壇への階へ、一歩踏み出した。
霧刃が、その隣に立つ。
「……いっしょ」
「ああ、一緒だ」
二人は、並んで、階を降りていった。
背後で、灰汀の笑い声が響く。
「行け。そして知るがいい。お前が、何者であるかを」
九曜は、振り返らなかった。
左目は、もう、何も映していない。
だが、右目だけは、確かに、前を見ていた。
---
階は、暗かった。
九曜の右目が、慣れるにつれて、壁に浮かぶ赤黒い光が見えてくる。
沈眠枢の滲出液。
「……なあ、霧刃」
「なんだ」
「俺は、人間じゃないかもしれない」
「我も、人間ではない」
霧刃は、九曜の手を、強く握った。
「だが、お主と、いっしょに、いたい」
「……そうか」
九曜は、小さく笑った。
「なら、行くか」
二人は、沈める祭壇への階を、降り続けた。
暗闇の奥から、何かが、呼んでいる。
九曜の喉は、もう、焼けるように渇いていた。
だが、その渇きは、もう、敵ではなかった。
それは、九曜を前へ進ませる、たった一つの道標だった。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。