悪役令嬢カフェ新装開店
エレナ・ヴァイオレットはある朝、前世の記憶とともに、自分が人気乙女ゲーム『クラウン・オブ・ローゼズ』の悪役令嬢であることに気づく。ゲームの中では、傲慢で自己中心的な貴族令嬢が庶民のヒロインに王子を奪われ、破滅の結末を迎える。
「はあ、面倒くさいわ。恋愛なんて興味ないのに。」
前世ではブラック企業で身を粉にして働いていたエレナの夢はただ一つ――居心地の良いカフェを開くこと。
「よし!この貴族の財力とゲームで手に入る中級魔法を使って、カフェを開くわ!」
彼女はひっそりと王都の片隅に『ムーンシャドウ亭』をオープンする。メニューは前世のお気に入り、プリン、コーヒー、そしてなぜか激辛ラーメン。魔法で完璧に冷やされたプリンは絶品だ。
しかし開店三日目、最初の客は完璧な金髪碧眼の王太子アルフォンス――ゲームでの彼女の攻略対象だった。
「…陛下、ごゆっくりどうぞ。」
無関心な表情でコーヒーを出すエレナ。アルフォンスは一口飲み、目を見開く。
「こ、これは…!苦味と酸味のバランスが…!」
それ以来、アルフォンスは毎日通い、宮廷の会議をすっぽかしてまでプリンを食べに来るようになる。
次に
悪役令嬢カフェ新装開店 - 悪役令嬢、カフェ開店!……看板が哲学書になった件
目が覚めた瞬間、まず考えたのは有給休暇のことだった。
おかしい。私の脳は死んでいる場合でも、きっちり労働者目線で動く。
エレナ・ヴァイオレットは——前世では小田切奈緒という名の、某インフラ系企業で七年間、残業月120時間をコンスタントに叩き出した事務職OLは——天蓋つきのベッドの上で、天井に向かって問いかけた。
「……有給、何日分あるかな」
フリルのついた枕に頭を預けたまま、目だけ動かして周囲を確認する。高い天井。シャンデリア。レースのカーテンに差し込む朝の光。
前世の記憶はある。全部ある。過労で倒れた日の記憶も、病院のリノリウムの天井も、「もうちょっと休んだら戻ってこい」という上司の言葉も、くっきりと残っている。
そして、この世界の記憶も全部ある。
エレナは身を起こし、卓上の鏡の前に移動した。
鏡の中に、自分がいる。金色の長い髪。澄んだ青い目。完璧に整った顔立ち。十七歳の、どこから見ても絵に描いたような令嬢。
「……うわ」
エレナの感想は「かわいい」でも「やった」でもなかった。
「乙女ゲームじゃん」
静かな、しかし確実な諦念が、朝の澄んだ空気の中で漂った。
思い出す。前世で——小田切奈緒として生きていた頃——重度の徹夜明けに布団の中でスマホをいじっていた記憶がある。タイトルは『薔薇の王冠』。フルーレシア王国を舞台にした乙女ゲーム。累計80万本を突破した大ヒット作で、会社の同期が勧めてきたやつだ。
そして鏡の中の顔は、そのゲームに登場する悪役令嬢——エレナ・ヴァイオレットだった。
エレナは床に足をつけながら、脳内でゲームの記憶を高速検索する。
ヒロインは平民出身の少女リリア。王立学園ルミエール学院——フルーレシア王国で貴族の子弟が通う全寮制の学園——に入学し、様々な攻略対象と恋愛するゲームだ。そして、エレナ・ヴァイオレットはそのゲームで、全ルートに登場して主人公の邪魔をする、徹底した悪役令嬢として描かれていた。
全5ルート。
全ルートで破滅エンド。
エレナは頭の中でリストを並べた。社交界追放、婚約破棄、魔法力剥奪、国外追放、入牢。バリエーションはあるが、最終的に全員同じ顔をしている攻略対象の誰かに「君はもう終わりだ」的なことを言われて詰まれる。
「……量産型イケメンじゃん」
朝から毒のある感想が口をついて出た。
いや、ゲームで見た限りではそれぞれ個性はあったはずだ。金髪の第一王子アルフォンス、銀髪の騎士団長セバスチャン、黒髪の宮廷魔導師レオン。でも今の感覚ではどうも「三人ともイケメン」という情報以外が薄い。
エレナは机の引き出しから羊皮紙と羽ペンを取り出し、几帳面に書き始めた。
「アルフォンス・フルーレシア(近づかない)、セバスチャン・グレイフォード(近づかない)、レオン・アッシュベリー(近づかない)」
カフェ開業計画書を書こうとしていたはずが、いつの間にか「接近禁止リスト」が羊皮紙の上に誕生していた。
エレナはそのまま計画書の記入を続ける。物件候補、初期費用、仕入れ先、魔法陣の設計。書いているうちに集中してきて、羊皮紙二枚目に突入し、気づいたら「アルフォンス・フルーレシア(近づかない)→常連候補?」という意味不明のメモが計画書の欄外に書かれていた。
エレナは自分のメモを見た。
「……常連候補?」
自分で書いたはずなのに読解不能だった。
まあいい。とにかく方針は決まった。
恋愛? いらない。
破滅エンド? 回避する。
悪役令嬢ムーブ? する気ゼロ。
やりたいこと? カフェ経営。
前世でブラック企業の事務処理を七年こなした人間が最終的に夢見ていたのは、落ち着いた小さなカフェだった。誰にも急かされず、自分のペースで、美味しいものを作って、来てくれた人に喜んでもらう。それだけでよかった。
ここにはヴァイオレット侯爵家という便利な財力がある。王都ブランシェ——フルーレシア王国の首都で、エーデル河の中流域に位置する人口約18万人の都市——には当然、空き物件もある。そして中級魔法の適性もある。特に温度操作系は得意で、0.5度単位で制御できると魔導院の検査で言われた記憶があった。
カフェくらい、開ける。
──────
王都ブランシェの中央市場通りは、朝から人でごった返していた。常設店舗が300軒以上、露店を入れればさらに多い大商業区で、南方港湾都市パルメーラから運ばれてきたコーヒー豆の袋や、北東のペトリカ村から届いた牛乳の樽が、威勢のいい掛け声と共に取引されている。
エレナはその喧騒を抜け、路地を一本入った場所に立った。
「……ここですか」
不動産屋の老婆——ハンナという名前で、額の皺が地図みたいに刻まれた陽気そうな人だった——が、申し訳なさそうに言う。「お嬢様、本当によろしいので?ここ、日当たりが……」
「問題ありません」
「ですが、日当たりが……」
「問題ありません」
「……日当たりが」
「採光は魔法でなんとかします」
五回目で老婆が諦めた。エレナは金貨50枚を懐から出し、迷わず契約書にサインした。
物件は木造二階建ての古い建物で、一階がそのままカフェになる広さだった。壁には蔦が絡まり、石畳と馴染んでいる。席数12。テーブル4卓。前世で言えばこじんまりした個人経営の喫茶店くらいの規模だ。
完璧だった。
エレナはその日のうちに荷物を運び込み、厨房の整備を始めた。
冷却魔法陣の設置が最大の仕事だ。床に直接刻み込む必要があり、手を動かしながら詠唱を繰り返す。魔法はこの世界では発動に短い詠唱と手のジェスチャーが必要で、使いすぎると体内の魔力が枯渇して眩暈が来る。それは前世で言えば残業後の立ちくらみに似ていて、エレナは嫌というほど知っていた。
だから、計画的に休憩を入れながら作業を進めた。
のはずだった。
プリンの試作品を作り始めて、問題が起きた。
カラメルは127度で焼く。これは小田切奈緒として生きていた前世の記憶から来ている。プリン本体の冷却は4度。温度制御に異常な精密さが求められるこの工程が、エレナには逆説的に「楽しい」という感情を呼び起こす。0.1度のズレも許さない、完璧な仕上がりを求めて魔力を注ぎ込んでいると、没頭してしまう。
気づいたら、使いすぎていた。
意識がスーッと遠くなる感覚。前世で終電後に会社の椅子で気を失った感覚と酷似していると思ったのが最後の記憶だった。
次に気づいた時、エレナは顔面からプリンに突っ込んでいた。
ぷふっ、という音がした。顔を上げると、プリンの中央に顔型の穴が残った。前髪にカラメルが絡みついていて、鼻の頭に卵の感触がある。
エレナは少し間を置いてから、傍にあった羊皮紙を手に取り、几帳面に書いた。
「魔力配分、次は7:3で調整」
前世OL魂は、顔面プリンダイブの衝撃でも消えなかった。
それから、頬に張り付いたカラメルが甘い香りを漂わせていて、なんとなく舌で舐めた。
「……美味しい」
誰もいない厨房で、エレナは小さく赤くなった。誰も見ていないのに。
──────
看板を作るのは翌日の仕事にした。
木板を用意して、羽ペンに墨を含ませ、自信満々で書き始める。店の名前は決めていた。月影亭。しっくりくる。好きな名前だ。
問題は、前世の日本語の記憶とこの世界の文字体系が、脳の中で少々こんがらがっていることだった。
完成した看板を掲げて、エレナは満足した。
通行人Aが立ち止まった。
「……ここ何?」
「え、月が……止まる場所?」通行人Bが囁く。「怖くない? お化け屋敷?」
通行人Cが凝視したまま無言で小走りに去っていった。
エレナは看板を見た。
「月陰停」と書いてあった。
「……」
月影亭を書こうとしたら、文字が三つとも別の字になっていた。「月が陰り、停止する場所」という意味に読めなくもない、不吉な建物の宣言だった。
即座に下ろして書き直す。
今度こそ、と掲げる。
通行人Dが立ち止まった。「……修道院?」
通行人Eが立ち止まり、真剣な顔で読み込んだ。「深い……」と呟いて去っていった。
エレナは看板を確認した。「月影享」と書いてあった。「月の影を享受せよ」という哲学的な標語だった。
「なんで」
三度目の書き直しに入った。今度は慎重に、一画一画を確認しながら書く。石畳の向こうから足音がして、誰かが通り過ぎる気配がした。
エレナが顔を上げた時、その人物はすでに半分通り過ぎていた。
黒いローブ。黒髪。すっとした背中。足を止めて、横目で看板——まだ書きかけの、三度目の「月影亭」——を一瞥した。
鼻で、笑った。
静かに、しかし確実に。一言も言わずに。
そのまま石畳の向こうへ消えていく後ろ姿を見送って、エレナは呟いた。
「……なにあの人、感じ悪い」
でも横顔が不本意にも脳裏に焼き付いた。整った目鼻立ちと、鋭い横顔のラインが。
(……誰だろう)
その正体には思い至らなかった。ゲームのキャラクターの外見情報がぼんやりとしか残っていないのと、そもそも今は看板問題の方が重要だったからだ。
四度目の書き直しで、ようやく「月影亭」と書けた。
エレナはそのまま床に座り込み、看板を抱えたまま寝落ちした。
──────
開店初日。
エレナはプリンを12個、完璧な仕上がりで並べた。コーヒー豆はパルメーラ経由で仕入れた上物だ。激辛ラーメンのスープは昨夜から仕込んだ。ふんわりとしたブラウスに白いエプロン、動きやすいロングスカートという格好で、カウンターの内側に立つ。
栗色のショートヘアが少し内巻きになって、頬のあたりにかかっている。深緑色の目がカウンターと扉を交互に見る。右手の人差し指には小さな絆創膏——魔法陣を刻む作業で擦り剥いた跡だ。
10時。開店。
誰も来ない。
11時。
誰も来ない。
12時。昼。
誰も来ない。
通行人二人組が看板の前で立ち止まり、エレナが内心で「来た!」と身を乗り出した瞬間、「ねえ、ここ何の店?」「さあ……裏路地すぎてわからない」という声が聞こえて、足音が遠ざかった。
エレナはカウンターに肘をついた。
「……」
夕方になっても、誰も来なかった。
──────
二日目も同じだった。
ただ一つ違ったのは、昼過ぎに子どもが扉を開けて顔を覗かせたことだ。
「お菓子屋さん?」
エレナは満面の笑みで答えた。接客練習の成果を発揮した。
「プリンがありますよ」
子どもが無言で扉を閉めた。
走り去っていった。
理由が不明だった。(後に、その子どもが母親に「お姉さんの笑顔が怖かった」と報告したことをエレナは永久に知らない。)
夜、エレナは壁にもたれて一人で座っていた。プリンが12個、きれいに並んだまま誰にも食べられていない。コーヒーは冷めた。ラーメンのスープは鍋の中で静かに香りを漂わせている。
「……立地調査、してなかった」
前世の七年間で培ったはずのビジネス感覚は、どこへ行ったのか。中央市場通りから路地を一本入っただけで、完全に人通りが変わる。当たり前だ。だから家賃が安かったんだ。
エレナは一個だけプリンを手に取って、スプーンで口に運んだ。
カラメルの苦みが来て、その後からプリンの柔らかい甘さが広がる。冷却魔法で4度ぴったりに保たれた滑らかな舌触り。
「……美味しいのは確かだから」
静かな声が、誰もいない店に落ちた。
誰かに食べてほしい、という感情が胸の奥でじわりと広がる。恋愛でも社交でもなく、もっと単純な気持ちだ。自分が作ったものを、誰かが美味しいと言ってくれる。それだけのことが、なぜかとても大切に思える。
エレナは自分がなぜ前世でカフェを夢見ていたのかを、今更のように理解した気がした。ブラック企業の中で「ただ誰かに喜んでもらえる仕事がしたかった」という、それだけのことだったのかもしれない。
プリンを半分食べて、エレナは明日の仕込みのメモを書き始めた。
──────
三日目の夕方、エレナは計算をしていた。
損切りのラインはどこか。
物件取得に金貨50枚。食材仕入れに金貨3枚弱。三日間で売上ゼロ。食許証——飲食店を営業するための許可証で、金貨5枚で取得し年一回更新が必要な公的な書類だ——の費用を含めると、開業コストはすでに一定の額になっている。ヴァイオレット侯爵家の年間収入は金貨約1万2000枚だから、財力的には余裕だが、収益性の問題として。
もう三日待つか、あるいは告知の方法を変えるか。
プリンを廃棄する決断を下しかけた、その瞬間だった。
チリン。
ドアベルが鳴った。
やけに大きく聞こえた。静かな店内に、金属の細い音がよく響いた。
エレナは顔を上げた。
扉が開いていた。フード付きマントを目深に被った人物が、ゆっくりと入ってくる。店内を見回す。プリンの並んだカウンター、磨き上げたテーブル、窓から差し込む夕陽の橙。
フードの隙間から、金色の前髪がわずかに見えた。
低く、落ち着いた声が店内に響く。
「……ここは、何の店だ?」
エレナの脳内で、一秒で照合が完了した。
金色の前髪。声の質。背格好。ゲームの記憶。
(攻略対象第一号。アルフォンス・フルーレシア。第一王子。
来た。
破滅フラグが来た。)
胸の奥で、何かが激しく脈打つ。恋愛的な意味ではなく、完全に「やばい」という警報だ。あの「近づかない」リストを書いた相手が、三日間誰も来なかった月影亭に、自ら足を踏み入れてきた。なぜ。理由は不明。でも状況として最悪だ。
エレナは深く息を吸った。
表面上は、完璧に無愛想な店主の顔だった。カウンターをふきんで一拭きして、静かに答える。
「カフェです。お座りになりますか」
夕陽が傾いて、月影亭の窓から橙色の光が差し込んでいた。プリンが12個、きれいに並んでいる。コーヒーの香りが静かに漂っている。
三日間誰も来なかった小さなカフェに、最初の客が腰を下ろした。
エレナは心の中で「接近禁止リストの一号が来た」と思いながら、コーヒーカップを棚から取り出した。とりあえず、仕事をするしかない。
こうして始まった。何かが、確実に動き出す予感がした。